※日々、世界と世界の狭間を歩く、つもりでいるだけの黴の胞子にも影はできるの?
3221:【2021/09/19*とりとめもなく】
ホントはいまは9/20の7:04だけど、きょうは天気がよい。きのうも天気がよかった。よろしいと思います。街まで行くのに毎日のように登っている階段があって、そこの左右には藪が茂っている。ここさいきんのことだけれど、その階段をのぼっていて、こわいな、となんとなく感じたのだけれど、なんでだろ、とふしぎに思った。幼いころは藪だろうが何だろうが、猫の尻尾を追いかけて突っこんでいたのに、いつの間にか草むらに入るのが怖くなっている。虫に触るのも怖いし、この変化はなんなのだろうね。子どものころのほうが怖いものがすくなかった気がする。現実に見て触れられるモノは怖くなかった。あべこべにオバケは怖かった。いまはどちらかというと逆で、物理的に見て触れられるモノのほうが怖いし、見えなくて触れられないモノはそんなに怖くない。とか言いつつ、致死率の高いウィルスは怖いし、食中毒も怖い。見て触れられるはずなのに他人も怖いし、生きるためにいろんなものを殺して、搾取して、奪っているこの肉体も怖いなぁ、とホントはそんなに怖くないのに、怖がりたいがために、怖いな、と思う。あ、急に、ホラーに関しての話題を思いだしたので、次項で並べたいと思います(帰宅途中に閃いたことを家に着くまでのあいだに忘れてしまうことがしょっちゅうある。思いだせたらラッキーなほうだ)(メモをとりなさいよ)(あい)。
3222:【2021/09/20*怖(不安)がっているのは読者】
きょうはきょうです。9/20の7:31です。さいきんは抹茶の粉をお湯で溶いて飲んでいます(だから何じゃ)。上の項で予告したように、ホラーについて思いついたことを並べます。基本的に小説においてホラーは、人間の恐怖や不安の感情を描いているのであって、恐怖や不安をもたらす事象そのものを描いているわけではない、との趣旨を以下ずらべらと並べます。ここ数年のあいだ、SNSを覗いていると、商業作家さんたちのあいだで、「本当に怖いのは人間」という言説への批判めいたつぶやきの投稿を目にする機会があるのですが(たとえばホラー作家や、ホラー大賞の選考委員などのつぶやきです)、いくひしさんは、「本当に怖いのは人間」というのは、まあその通りだな、と考えています。というのも、恐怖を感じるのはいつだって人間なわけですから、ホラーにおいても、怖がっている人間や追い詰められている人間を描くからこそ、読者は恐怖や不安を感じるものなのではないでしょうか。あたりまえの話をしているな、と段々こうしてわざわざ並べるほどのことではない気もしてきますが、ホラーの前提条件とも言えるので、並べておきましょう。ホラーは、恐怖を呼び起こす事象を描いているわけではないのですね。なぜならたとえば、幽霊しか登場しないホラーは怖いでしょうか。誰も追い詰められることのない事象は怖いでしょうか。映像や写真なら、ただただあり得ない存在を映しだすだけで、視聴者をびっくりさせたり、恐怖におののかせたりすることは可能だと思います(お化け屋敷の内部映像や心霊写真および心霊映像はいくひしさんも相応に恐怖を喚起されます)。ですが小説となると、かなりむつかしいように思うのです。仮に淡々と幽霊の存在を、生物の生態を描写するように並べた小説があったとして、おもしろそうではありますが、それが怖いかと問われると微妙なところではないでしょうか(臨場感あふれて描写されても、そこに幽霊しか登場しないのならば、あまり怖くないように思います)。誰もいない世界で、凶悪なウィルスが研究所から漏れてしまった、と緊迫感溢れて描写されても、そこに逃げ惑い、命の危機を感じる者たちの行動や心象が描かれていなかったら、読者は恐怖を感じようもないように思うのですが、いかがでしょう。極論、登場人物がヒヨコに恐怖を感じ逃げ惑う小説があったとして、たとえそれに幽霊が登場しなくとも、脅威の対象がヒヨコであったとしても、読者に恐怖を喚起する小説はつくれるように思います。読者はあくまで、登場人物たちの感情に共鳴して恐怖を感じます。或いは、登場人物たちの知ることのできない物語の裏側を垣間見ることで、登場人物たちの覚えることのない恐怖を読者だけが幻視することもあります。どちらにしろ、登場人物がいるからこそ喚起される恐怖と言えるでしょう。人間が奇々怪々な事象に巻き込まれ、翻弄される様子に読者は恐怖や不安を覚えるのです。ホラー小説に限って言うなれば、そこにでてくる脅威の対象はさして問題ではないといくひしさんは2021年現在考えています。それよりも、脅威の対象によって登場人物たちがどのような感情を覚え、或いは誤魔化し、それとも知らぬままでいるのか。登場人物の周囲を取り巻く、除去することのできない不穏因子――いつ危険に巻き込まれるか分からない環境を描くことで、小説はホラー小説になるのだと妄想しています。登場人物がまずいて、脅威があり、環境が変容することで登場人物たちの因果の筋道がズレていく。そのズレの方向が破滅につづいて感じられると、どうやらホラーにちかくなるようです。本当に怖いのは人間、というよりも、「本当に怖いのは、怖がっている人間」と言ったほうが正確なような気がします。もうすこし言い直せば、恐怖は人間が抱く感情である以上、「本当に怖いのは読者」が妥当なところかな、とあたりまえのことを再確認して、中身のない所感を終わろうと思います。ちなみに、人間以外の動物も死を避け、火に恐怖します。しかし人間は、直接の苦痛とは関係ない、生死に直結しないことでも恐怖を感じます。その点から述べれば、死から遠い環境変容を脅威としてホラー小説をつくれれば、それはなかなかホラーとして上質になるのではないかな、との予感がありますが、かといって死に直結する環境変容を脅威に抜擢しても、本能に直接訴えるという意味で、これまた上質なホラーになりそうな手前、要は読者が気持ちよく怖がれればよいので、怖すぎても、怖くなさすぎても好ましくなく、救いがなさすぎてもありすぎてもよろしくないのかな、と思いつつも、小説に正解はなく、全人類のうち一人でも、これはすばらしい、と感動させられたら小説としては上等と呼べてしまえるので、まあまあつくれるうちにつくりたいものをつくれるだけつくりたいようにつくっていきましょう、と言うほかに、いくひしさんに言えることは何もないと言いかけて、言うだけなら何でも自由なんやで、の気持ちも忘れないようにしつつ、できるだけ他人を傷つけないように配慮はしていきたいですよね、とじぶんではできていないことを他力本願に述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。(ある日の帰宅途中に思いついただけの妄言ですので上記、真に受けないように注意してください)
3223:【2021/09/21*だといいなぁ、という願望】
たぶん、あるひとつの分野を十年以上つづけていれば、極めるということが、針の先のように一点集中で研ぎ澄ますことではない、と気づくだろうし、三年くらい本気で突き詰めればどんな分野であれ、そのときどきの変化があるだけで、どの変化が最も極めているか、なんて定まることはない、と知ることとなる。ある時期を境に、過去を振り返れば、そのときどきの最善を行っているし、いまできないことを軽々こなしていたりする。反面、そのときには身に着けていなかった技術や深さ――新しさをいまのじぶんが身に着けていることもあるし、そのときには気づいていなかったが、いまになったからこそ分かるそのときどきの新しさ、素晴らしさ、というのもある。時間が経たなければ分からないこともあるし、じぶんではなかなか気づけない利点もある。これはもちろん欠点にも言えることであり、そのときどきでは鼻高々に、じぶんは優れている、この技術は素晴らしい、と思いあがっているだけで、じつは後から振り返るとそれほどでもなかった、なんて失態は有り触れていすぎて、ほとんど毎日のようにそのようなふがいなさと付き合っていくこととなる。それでも、そうしたふがいない日々の中であっても、未来のじぶんからすると素晴らしい何かしらを軽々こなしていることもあるし、それは今後失われていくからこそ、未来のじぶんにとっては素晴らしく見えているだけかもしれない点は、忘れないでいたい。とりとめがなくなってきたが、ここでの要点としては、極めるというのは必ずしも、刀を鍛え、研ぐような作業だけを言うのではなく、パズルのように、或いはちぎり絵のように、ぺたぺたとこれまでとは異なる色や素材を取り揃え、人生というトータルで大きな絵を描くような、そういった作業になるのだ、ということだ。もうすこし言えば、じぶんの人生を超えて、じぶんの人生すら何かしらの壮大な絵を描くための絵の具のひと筆でしかなく、そうあるためにはどうすべきか、何をしておくべきか、を考えながら、それでもじぶんだけの絵を描きだすために、そのときそのときに生みだせる、つむぎだせる、ひねくりだせる何かしらを、やはりそのときどきで、つくっていくしかないのだ。できるだけこれまでになかった色合いを手にするために、素材を編みだすために、技術を、工夫を、その余地そのものを広げるために、そのときどきの「いま」を、じぶんの内側に広がる世界を通して表現し、外側たるこの世界へと落とし込んでいく。否、そのためではない。そのときどきのじぶんには、そのときの「いま」しかなく、その表現と向き合う時間があるばかりだ。結果として、そうした「いま」の足跡が糧となる。自由自在に近づく。融通無碍に近づいている。いずれそのことに気づくことになる。そのつど、気づける余地が厚くなる。泥も堆積すれば層となる。化石を含む、地層となる。地層になったら、もういちど掘り返してみる作業が別途に必要になるが、まずは地層を蓄えてみることである。そのためにはまずはなんと言っても、つづけねばならぬのだ(ただ継続するだけではなく、何をどうつづけるのかが肝要なのは言うまでもない)(継続こそが最も手軽ゆえに手応えがなく、ゆえにむつかしいのだが)(継続のコツは、変化を率先して取り入れようと心掛けておくことだ。最も簡単な変化は、休んでしまうことだ。サボってしまうことなのだ。何度途切れても再開さえできれば、継続していることになる。疲れたら休めばいい。そしてしたくなったら、またはじめたらいい)。(上記、定かではありません。刀を鍛え研ぐような極め方もあるのかもしれません。じぶんに合った方法論をじぶんで試しながら探っていきましょう)
3224:【2021/09/22*再開と再起動】
誤解の余地が厚そうに思ったので注釈を挿しておきますね。いくひしさんはよく日誌で、疲れたら休めばいいとか、サボるのもときにはほどよい変化をもたらす契機になる、といった趣旨の言葉を並べていますが、もちろん休んでばかりいては記憶は薄れますし、筋力も衰えるのが道理です。ただし、人間には飽きるという性質がありますので、疲れてきたり、退屈に感じたり、好きだったはずのことですら苦痛に感じられるようになってきたら、それは飽きているのだと認めて、変化を帯びるように行動の幅を広げていくほうが好ましいように思うのです。これは休むや、サボるにもあてはあることです。ずっと休んでいたり、サボりつづけるというのは、なかなかできることではありません(再開の余地のない休養やサボりはもはや、引退や断念でしょう)。休むにしろ、サボるにしろ、やはりいずれは飽きてしまうのですね。休む頻度を増やしたり、サボる習慣をつくるのも、ときには有効になりますが、それを義務化してしまうと、やはりこれも飽きてしまうものです。もうすこし詳しく述べると、何かを再開するというのは、けっこうな負担がかかります。エンジンやコンピュータもそうですが、ずっと働きつづけていたほうが、何度も起動するよりも負担がすくないのです。肉体にしろ精神にしろ、これは共通する部分があると思います。何かしらを継続して行っているとき、たまに休むことは、長期間継続して物事に励むうえでは欠かせない工程です。機械を修理するにはいちど機能を停止しなければなりませんし、肉体は休養をとらねばなりません。ですが、何度もそういった停止や休養を置いてしまうと、かえって負担の増すことがあります。休むことや、サボること自体は負担ではないのですが、再起動することが負担となるのです。これは何度も休んだり、サボったりしていれば、否応なく体感することになります。だからこそ中々休めなかったり、中断する決断を行えなかったりするのですが、もちろん再開や再起動はわるいことばかりではありません。負担がかかるからこそ、再起動するたびに、さらに技術や能力が強化されることもあります。骨を強化するためには、破骨細胞によって骨をいちど溶かさなければならないのです。溶けた箇所を、骨芽細胞が補強するからこそ、骨は強度を維持し、また強化され得ます。免疫機構にしてもそうですね。いちど攻撃されないことには強化されないわけです。ある程度の負荷は、技術や能力を強化します。ゆえに、再起動する機会をつくるために敢えて休養をとったり、これまでつづけていた習慣をサボったりすることは長い目で見ればプラスになると考えています。いちど衰えることで、もういちど鍛え直す時間をつくる、と言い直してもよいでしょう。ただし、すっかり鈍ってしまったら、鍛え直すだけでも一苦労です。それを何度も行うのはたいへんです。ゆえに、休んだり、サボったりすることですら、何度も頻繁に行うのを回避したくなってきます。何かしらを何年にもわたって継続していれば、何度も休んだり、サボったりする機会がでてきます。そのたびに再開したり、再起動をするわけですが、否応なくそのつど、休んだりサボることはじつはたいへんなのだ、と学ぶことになるのです。世のすくなからずの人々は、休むことやサボることを、楽なことだ、と考えているようですが、継続を念頭においた場合、それは大きな勘違いです。休むことやサボることは、継続しつづけることよりもたいへんなのです。なぜなら、衰えた分を取り戻さなければなりませんし、経た変化の手綱を握り、じぶんの制御下に置き直さなくてはならないからです。人がなぜ転職や休職を嫌がるのかを考えればしぜんと導かれる理屈かと思います。単に、その選択をとるとたいへんだからです。苦労するからです。同じ企業で、慣れた職場で、同じ環境で働きつづけるほうが楽なのです。いちど職場を離れれば、時代の流れにもついていけなくなるでしょう。プログラマーともなれば、半年も現場から離れればまずついていけなくなるものではないでしょうか。ゆえに、だからこそ、休むことやサボることは、継続を念頭においた場合に限り、またとない修行となり得るのです。もちろん、場合によりけりなので、いつでもどこでも休めばいい、サボればいい、というわけではありません。ただ、継続しつづけることよりも、休んだりサボったりするほうがじつはたいへんなのだ、と知っているだけで、すこしは選択の幅が広がるのではないでしょうか(断るまでもなく、継続の仕方によります。継続するだけならひとは生きているかぎり延々と呼吸を行っているわけです。継続を優先するだけなら継続できることを選択すればいいだけのことですので、反対につづけるのがむつかしいことを継続するには、やはりたいへんですし、相応の負荷がかかります)。休むことやサボることは逃げではありません(もちろん逃げることはわるいことではありませんが)。継続を念頭においた場合は、深化を促す契機と言えるでしょう。心身の体調を整えつつ、さらに磨くべき余白を見繕う。休養やサボることには、このような作用がある点を認めたうえで、したいことをしたいようにつづけていけたらよいですね。いくひしまんさんはここのところが上手ではないようですので、老婆心ながらお伝えしておきました。長々と失礼いたしました。本日の日誌担当の、いくびしまんでした。
3225:【2021/09/23*本日のおまえが言うなの巻】
いくひしさんはさいわいにして、これまで生きてきた中で、根っからの悪人という者と出遭ったことがない。いくひしさんにとって好ましくない接し方や、困ったことを仕出かす人とは何度か関わり合いを持った経験はあるが、いくひしさんがそう思っている時点で、相手からすればいくひしさんもまた困った人であり好ましくない人であったと言える。相性や価値観の相違、或いはタイミングの問題とも言える。そうした問題を含めて評価するにしても、たいがいの相手は基本的に善人だ。誰かの役に立ちたいと望んでいるし、人から愛されたい、好かれたい、高く評価されたい、と望んでいる。そのためにとる行動が、いくひしさんにとって好ましく映らなかったり、損害や危害に映るだけで、当人にとっては必要に駆られて行っていたり、或いは無自覚でまったく悪意なく行っていたりする。その無自覚こそが問題なのだ、というのは一理あり、全くその通りなのだが、それはいくひしさん自身にも言えることである。無自覚を自覚するというのは並大抵の工夫ではなかなか成立させにくい。じぶん一人ではほとんど不可能と言えるだろう。極論、誰かが困らなければ、何が問題であるかも可視化され得ないのだ。他方、いくひしさんが困らなくては可視化されない問題というのもあり、それは言い換えれば、いくひしさんが困るからこそ可視化できた問題とも言える。問題はないほうがよいが、生きている限りすっかりなくすことはできない。環境は変遷していくのがつねであるのだから、やはり何かしらの問題は定期的に発生すると見立てていたほうが取り返しのつかない危険を避ける確率をあげられるだろう。もうすこし言えば、本来は困っていることや不利益を被っているはずのことを、これは仕方がないことだ、と呑み込み、見て見ぬふりをしてしまうのは、問題を可視化させる機会を失くす方向に流れを強化してしまう。じぶんが耐えれば済むことだから、と言って、損害や不利益をないものとして扱うのは、せっかくの改善点や発展の機会を損なう選択だと言える。これこれこのようなことに困っています、不利益を被っています、と意見を述べたところでそれが即座に受け入れられたり、改善に繋がることはない。往々にして意見は反映されないだろう(そもそもがすでにたいがいの問題は解決されてきたのだ。いま残っている問題は、過去の先人たちですら放置し、ときに解決できなかった難題だと呼べる)。だが、意見として改善点を挙げておくことは、畑に種を蒔いているか、いないか、くらいの大きな差異をのちのち生むことになる。種が芽吹くかどうかは分からないが、すくなくとも種を蒔かなければ芽がでることはないのだ。相手が善人か悪人かは関係がない。まずはあなたが困っているかどうかが重要なのである。困っているかどうか、をまずは考えてみましょう。困っていたら、では何に困っているのかを、箇条書きにしてみるとよいでしょう。そしてそれを、誰に、或いはどこに伝えたら、種として芽吹くかを考えてみるとよいかもしれません。あなたの困っている問題の根っこが他者からの危害であるならば、現代社会では法律違反や規則違反として裁いてもらうことが可能です。そうではなく、偶発的な損害や社会に漫然と漂う常識や偏見による不利益であるならば、改善までにはすこし時間がかかるかもしれません。しかし、あなたがそう感じている以上、ほかにも似た構図による問題で困っている人がいるはずです。社会の発展とは、そうした困っている人の負担を減らすように働きかけることで築かれていくものです。極論、仕事とはそういうものだ、と言ってもよいでしょう。お金にはならないかもしれませんが、本来の仕事とはそういうものなのです。じぶんの意見がうまく伝わらなかったり、組織や社会に反映されないことはなかなかにもどかしく、ときにはつらい思いをするかもしれませんが、どの道、つらい思いをしているのですから、種を蒔くつもりで、まずは意見を述べてみるのも一つの社会貢献と言えるでしょう。それもまたあなたにできるたいせつな仕事の一つです。もちろん、反対にじぶんがそうした意見を向けられる側であることもあるでしょう。じぶんの無自覚の行動が問題を起こしていることも往々にしてあるものです。そうしたときに、じぶんに向けられた意見を、社会をよりよくしていく種だと思い、それを芽吹かせるように行動できたならば、おそらくその方法論そのものが、あなたが表明したあなたの意見を社会に反映させるための手法にも応用できるでしょう。おそらく現状すでに種は、そこかしこに蒔かれています。すべてに目を通し吟味する余裕はあなたにも、誰にもありません。ですから、せめて意見を封殺したり、種の蒔かれる土壌を損なったりせず、目についた種に水をやり、ときに養分を与えて、どうすれば芽吹くだろうか、と考える時間をつくるだけでも、未来はいまより広く豊かに誰にとっても好ましいものに変わっていくものではないでしょうか。ときには、意見と意見が対立し、互いの解決策が互いの不利益になることもあるでしょう。現状、社会に顕現する問題の多くはそうしたにっちもさっちもいかない問題ばかりです。ですが、解決策はきっとあります。やはりこれも、いまはないだけで、探し、築き、生みだしていくしかないのです。そのためにもまずは、種を蒔くことが欠かせません。意見を述べたことで誰かのほかの意見と対立してしまうかもしれませんが、あくまでそれは意見の対立であり、人同士の対立ではありません。畑にたくさんの種を蒔いても、どれが芽吹くかは分からないのです。どの種が最適なのかを見極めるためにも、やはり種を一度蒔いておくことが欠かせません。意見が対立することでしか生みだされない新種の種もあるものです。対立はけしてわるいことばかりではないのです。すくなくとも意見の場合は、対立させたほうが、好ましい新たな意見が生まれやすいでしょう。問題がなければ改善することができないように、対立がなければ紐解けない難題もあるのです。まずは意見を述べてみましょう。意見を伝えた相手に聞く耳を持つ姿勢がなくとも、きっといつかほかの誰かの耳に、目に、入るかもしれません。せっかく蒔いた種が芽吹かないのは悲しいことですが、その種もまた土壌を豊かにする養分として、ほかの種の芽吹く余地を厚くするはずです。無駄ではないのです。意見を述べるためにはまず、じぶんがなぜ困っているのかを文章にしてみるとよさそうです。まずはこうして、SNSでもブログにでも構いませんので、載せてみてはいかがでしょう。絵や音楽や小説にしてもいいかもしれません。できれば、よりふさわしい畑がどこかを見極めて、種を蒔くように、誰とは言わず、誰しもに伝わる余地を築けたらよいですね。じぶんにはできないことを高望みして、本日の「いくひ誌。」とさせてください。
3226~3230:【2021/09/23*字数オーバー】
近況ノートは一万文字以上を載せられません。今回オーバーしたので、バックアップの意味合いも兼ねて掲載しているpixivFANBOXさんのリンクを貼っておきます。以下、記事「3226~3230」が載っています。
https://ikubisiman.fanbox.cc/posts/2761963______
参照:いくひ誌。【2211~2220】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054890836321