※日々、こうしなくてはならない、と思った途端にワクワクが失せる。
3201:【2021/09/08*外は雨模様】
最近はちょっとキャラをつくるのが疲れてきました。素にちかい状態になるほど言葉を並べることができなくなるので、光をプリズムに分離するように人格の一部を塞いで、任意の感情の際立つキャラに委ねているのですが、最近はなんだか自我のどこを塞いでも意図したようなキャラが意識の壇上にずっといてくれないので、なかなか以前のような日誌を並べられません。これといって以前のような日誌を並べなくてはいけない、なんてことはないのですが、せっかく調整して選んだキャラがすぐに意識の底に沈んで自我に同化してしまうので、じぶんの手足を上手に動かせないようなもどかしさを覚えます。かといって、以前の日誌とて、たいして記事ごとに差はないのかもしれませんし、思っているよりもキャラは変わっていないのかもしれません。じぶんでは文章形態を変えているつもりでも、読者からすれば、どれもいっしょだよね、と思わているかもしれません。その公算が高そうですが、まあその程度の腕ということです。けっきょく、自我なんてものは、じぶんで思うほどには分離できないものですし、塞いだつもりでも滲みでているものなのでしょう。できるだけ異なるキャラクターを増やそうと思い、つづけてきたこの日誌ですが、そろそろ別の工夫も試していく時期なのかもしれないな、と思いはじめてはいるのですが、思っているばかりで、時間ばかりが経ってしまいます。もうすこし正確には、以前から指針を立ててはいたのですが、なかなかどうしてどのような工夫をとればよいのか、と見繕えずに、工夫の余地を探す工夫ばかりに時間を費やしてしまいました。未だにどのように日誌をつづけていけばよいのか、果たしてつづける意味はあるのか、あるとすればどのような意味合いが生ずるのか、と考えれば考えるほどに悩ましく、答えがでずに、惰性での継続を選択してしまいます。続けることに意味を見出してしまったときほど、閉じた系として成立してしまい、風船のようにやがて萎んでいく定めに従ってしまう気がいたします。もちろん閉じた系であれ、エネルギィとしての刺激を外部供給されれば、回路として相応の成果や変化を帯びつづけることはできるのですが、いちど閉じてしまうと、なかなか外部からの干渉を得ようとは思わなくなり、結果、孤立系として変化を得なくなってしまうようです。その点、できるだけ開いていれば、否応なく万物流転の流れに触れるので、つぎつぎに意図しない変化を帯びやすいと言えそうです。閉じたり、開いたりを自在にできるとよいのですが、おそらくそうした自在を手に入れようとする流れを一時的にであれ成立させた構造が、より複雑な回路を形成し、そうした回路を形成する変質の過程そのものがより永続して機能する機構として結晶し、生命として顕現したのでしょう。生命の基本は、閉じたり開いたりの反復にあり、律動にあると言えそうですが、言えるだけであり、確かである保証はありません。言うだけならばことほどに容易であるのに、それの正当性を担保するには、言葉を並べる作業の何千、何万倍の時間を要するようです。時には一億倍でも足りないときもあるでしょう。じぶん一人だけでは証明できない妄言もあり、往々にして言葉とはそういう性質のものだ、と言っても過言ではないでしょう(たとい過言でも差し障りありません)。どの道、いかような工夫を割いたところで、ここに並ぶ言葉の連なりに、重大な意味合いが生じたり、構造が顕現する確率は極めて低いと予想されますので、言葉の持つ曖昧で広漠で希薄な性質に甘んじて、このまま好きなように、自我の赴くままに、登場させたくない人格には沈んでもらって、ときにはあべこべに浮上してもらって、真っ黒でも真っ白でもなく、ときには真っ黒や真っ白にもなり、できるだけ好ましい色合いで、それとも目を逸らしたくなる色彩で、濃淡すら自在に選び、操れるように、ひとまずの指針を定めて、すっかりは閉じずに、結んで開いて手を打てる余地を残しつつ、万物の流転にすっかり根こそぎ同化するまでの期間、こうして益体のない砂塵のような言の葉を並べて、連ねて、イトを通して、つむいでいけたらよいのにな、と他力本願に望んで、拝んで、結んでしまい、本日の「いくひ誌。」といたしましょう。雨色担当の、イクビシマンでした。
3202:【2021/09/08*紅が咲く】
(未推敲)
庭の木を伐採した。
木には何かしら鳥の巣らしきものがあり、卵がいくつか残っていた。地面に潰れたそれはどこか黄色い花のようだった。
申し訳ないな、と思いつつも、材木といっしょくたにして処分した。
後日、見晴らしのよくなった庭にて茶を啜っていると、一匹のカラスが塀のうえに止まった。
絹糸のように艶やかな羽だ。眼球は人懐こそうに丸みを帯び、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426939423236)
3203:【2021/09/09*自由は孤独】
社会の発展が進むにつれて、人間の行動選択の幅はどんどん常識や倫理や法律によって狭められていくのではないか、との予感がある。いまある種々の規範問題や倫理問題といったものは、複雑になりすぎた社会に顕現するバタフライエフェクトや創発現象を防ごうとするために生じる摩擦のようなものなのではないだろうか。個々人一人一人の行動を取りだして、問題を吟味したところで、個々の行動の是非は測れない。或いは、問題のあるなしを赤青くっきりつけられるはずだ(好きなときに好きな場所を好きなように散歩することはよいことか、わるいことか。これを論じるには、いつどこにどのような格好で散歩をするのかによって、その是非は変わっていくことになる)。そこにきて、複雑な回路のなかに取り込まれた群れとしてのふるまいにまで視点を拡張して考えた場合、個々の行動のよしあしに関係なく、群れ全体のふるまいが起こす予期せぬ事象が正常な回路の活動を阻害すれば、それは社会的に好ましくない事象として捉えられる(たとえば昼間に公園に散歩にでかけることは基本的には個々の自由であり、どちらかと言えば好ましい選択であるはずが、大勢が公園に押し掛けたことで公園内に生息する貴重な植物が踏み荒らされ、絶滅の危機に瀕したとすれば、公園に散歩にでるのを控えましょうといった禁止が国から発せられるかもしれない)。しかしそこで、好ましくない事象を解消しようとして、個々の行動を制限したところで根本的な問題解決にはならない。なぜなら問題は、個々の行動にはないからだ。個々には還元できないのだ(なぜなら、公園内の植物が絶滅の危機に瀕したのは、「大勢が」公園に押し掛けたことが問題なのであり、公園に行くことそのものではないからだ。単純に公園の数がすくないのが原因かもしれないし、貴重な植物を保護せずに野放しにしている管理体制に問題があるのかもしれない。すくなくとも公園は、人々が集まることを目的につくられている以上、散歩を禁止したのでは、公園の存在意義すら揺らぎかねない)。ゆえに、好ましくない事象を引き起こしただろう個々の行動を牽制し、制限したところで、べつの個々の行動が群れとなって創発すれば、似たような構図の問題が浮上すると妄想できる(散歩を禁止された人々がこんどはみな家から一歩もでなくなれば、それはそれで大きな問題が生じる)。つまり、川が氾濫するのは、そこを流れる水に問題があるわけではなく、川を形成する溝や土壌の形状に根本的な瑕疵がある。仮に川の氾濫を止めたければ、堤防を築くなり、ダムを築くなりして、川そのものの構造を変えていくほうが合理的だ。いまある社会問題もそこのところに通じており、複雑化した社会構造(回路)のなかに取り込まれた「群衆による好ましくない作用」を是正したければ、それは個々のふるまいを制限するのではなく、社会構造(回路)のほうこそを改善していくほうが、好ましくない事象の再発防止という側面ではより妥当だと言えるだろう。もちろん、一つの問題を解決するために施した修正により、回路が歪んで、却って好ましくない事象が多発する可能性はつねにある。そこは回路を修正する前に、議論を重ね、シミュレートし、慎重に見極めていきたいところだ。まとめよう。要点としては、社会構造(回路)を変更したことで、個々人の行動選択の幅が狭められないようにしなければ、回路を修正する意味合いが極端に薄れるのではないか、との懸念だ。つまり、なにゆえ回路を修正したほうが好ましいのかと言えば、できるだけそこを流れる群れ――個々の自由を侵害せずに済むようにするためであるはずだ。回路を修正したことで個々の自由が侵害されてしまえば、たとえ社会的に好ましくのない事象が解消されたとしても、社会はより深刻な宿痾を抱えることになる。優先すべきは個々の行動選択の幅をより拡張していくことにあり、それを狭めては本末転倒と言えよう。個々は自由にふるまってもいい。ただし、川を流れたときにどこに向かうのかは、川を形成する溝に委ねられることになる。溝のほうでは川の水を形成する水分子一つ一つにまで、これこれこのようにふるまってほしい、などとは命じない。しかし、川の溝が細分化し、複雑化していくにつれて、分子一つ一つにも命じたくなるような隘路が生じることもある。そのときに、個々の行動選択を狭める制限を増やすのではなく、選択肢を増やすことで、問題解決を目指すことが望ましい。個が群れとなったときに顕現する好ましくない事象を薄めるためには、必ずしも個々の活動を制限する必要はない。選択肢を増やすことで、群れのなかの個々人がみな同一の行動をとらずに済むようになればよい。個々の活動の種類を増やし、分散してやればよいのだ。だが現状、個々人の選択肢を減らすことで、社会に顕現した問題を解決しようとする勢力や風潮がいささか幅を利かせすぎているように感じなくもない。個々人に還元できない問題であるにも拘わらず、個々の行動様式に原因があると錯誤してしまえば、いったんは解決したように見えても、また似たような問題を繰り返すはめになるだろう(もちろん社会問題のすくなからずには、個々人の行動そのものが問題の要因となっているものも多々ある。それらは総じて現代では禁止事項として法律にまとめられている)。現代社会に浮上して見える問題の多くは、対処法からして根本的に誤っているものが含まれて感じられる。個々の生活を豊かにし、行動選択の幅を増やそうとする営みこそが、人が人とつながり社会をつくる原動力であり、目的であったはずだ。そこのところを度外視して、社会構造(回路)を維持することが目的になっては本末転倒であろう。社会を豊かにしたければまず、人を豊かにすることだ。個々の生活が豊かになれば、行動選択はおのずと離散していく。濁流にはならない(なぜなら個々人の嗜好は千差万別であるからだ。ただし社会が個々の豊かさを担保しきれない場合、そうした多様な嗜好の幅が限定されてしまう。また、個々の豊かさは技術の進歩と普及に相関して増すため、社会の発展と個々の豊かさもまた相関関係にある)。それでいて、個々人は選択肢が増えることを望むがゆえに回路のなかに組み込まれることを潔しとするので、より滑らかに回路は、その機能を全うする。川は溝に沿って流れてさえいれば、水を海へと運んでくれる。個々の水分子がどのようにふるまおうとも、海というより深淵で広大な場所へと誘ってくれる。群れと組織は違う。それは、集合と社会の違いと地続きだ。群れがバラバラになっても保たれる社会を、我々はこれからさき、より自覚的に目指していくほうが、集団を維持するために個々から自由を奪う案に従うよりも、じぶんのしあわせを追い求めやすくなるのではないだろうか(そのためには、溝の役割を果たす組織や政府や企業のほうにこそ、規範や倫理を厳しく当てはめることが求められるのではないでしょうか)。(定かではありませんので、真に受けないように注意してください)
3204:【2021/09/09*手れ隠し】
(未推敲)
端末を家に忘れてきたので、久方ぶりに小銭を使った。自動販売機に投入しようとしたところで、落としてしまう。小銭は転がり、自動販売機の真下に入り込んだ。
運がわるい。
やれやれだ。
しゃがみこみ、隙間に腕を差しこもうとしたところで、奥のほうからスススと腕が伸びてきた。
拳だ。
指の一本一本がおもむろに開き、手のひらのうえに小銭が現れる。
取ってくれたようだ。
ありがとう、と言って小銭をつまむが、はたと思う。
なぜ自動販売機の真下から腕が?
あっ、と思ったときには、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426980520716)
3205:【2021/09/10*あっかん、ぼう】
うわーん。見て、上記のまじめぶった文章たち。つっまらーん。なんてつまらんのだらう。ぜんぜんかわいくない。そんなんじゃダメ。幼稚園児からやり直して。赤ちゃんから這いあがって。おしゃぶり吸ってて。ハイハイして。ばぶー。でも、そう、赤ちゃんはかわゆいけれどそれはそれなのだよね。じぶんで子育てをしていない場合にかぎるわけで、シャチさんやらカバさんやらトラさんやら、見てるだけならかわゆいけれどもじっさいに飼うとなったら、人生ねじ曲がるくらいにチョーたいへん。赤ちゃんもきっと同じで、おしめを換えたり、食べられるものを用意したり、夜泣きに付きあったり、何をしてでも神経を張りつめて見張っていなきゃいけない人生で一位、二位を争うくらいに自由を縛られるものすごく疲れることを抜きにしたら、まあまあ子猫みたいでかわいいよねって、子猫も育てるとなったらやっぱりたいへんで、もうもう、かわいいってとっても無責任な感想なのである。でもでも、責任のある感想ってあるのかな、と考えてみると、けっこうあんまり思いつかなくて、そっかーってなる。感想だもの。思っちゃうものは仕方ないのだ。もし責任を持とう、と思って、なるべく角の立たない、誰からも非難の飛ばされない感想を並べようとしたら、もうもうその時点で、感想ではないのだよね。本心ではない。感じてないし、想ってない。打算と錯誤と自己保身に歪められたナニカシラで、やっぱり責任を持とうとするとたちどころにかわいくない。かといってじゃあ、無責任なのがまるっと全部かわいいかと言えばぜんぜんそんなことはないわけで、責任とかわいいにはじつはあんまり関係がなかったりするのかもしれない。それはそうだよね。子どもが初めておつかいを頼まれて、「よっしゃがんばるで! すごくこわいけど……」となってる姿は、責任があるし、かわいくもある。同時に満たし得ることもあり、もうもう、かわいいものはかわゆいのだよね。例外はないです。どんなものにもかわいくなる可能性はあって、でもまだかわいさを見つけてもらっていないたくさんのかわいくないと思われているものがあるにすぎないのだ。いくひしさんにだってかわいいところはあるし、じつは世界一かわいいのに、誰もそれに気づいていないだけなので、ときどきだけど、ちょっぴりすこし、しょげちゃうな。あ、見て見て。しょげたいくひしさんもかわゆい。あー、また真面目なことを並べちゃったな。でも真面目ないくひしさんもかわいいし、かわいくなくてもかわいいので、もうもうこれでOKです。子猫のかわいさには負けてもいい、謙虚でえらい、いくひしさんでした。
3206:【2021/09/10*備忘録は途切れる】
(未推敲)
先日解決した心霊現象と言ったら変なのですが、事案がありまして、言ってしまうと幽霊ではなかったようですし、単なる錯覚なのだと思うのですが、すこしだけ意外な発見があったので備忘録として記しておきます。
電車を待つあいだの暇つぶしですし、音声入力なので、あっ途中で途切れてしまうかもしれませんが、どうかご心配なく。
ネクタイを緩めます。きょうも暑いです。
半年前のことでした。
祖父が亡くなったので、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427008060686)
3207:【2021/09/11*スカスカタン】
あびゃあびゃ。もうネタが、ネタが、コツンコツンのカツンカツンでごじゃるよ。みゃんも思い浮かばんでごわす。ホラーや怪談だけで百話つくろうと思ったけども、もうもうムリでごじゃるよ。うそでごじゃる。ほんとはべつに百話つくろうとは思っていなかったでござるし、ホラーや怪談にこだわってはいなかったでござる。なんでかいつの間にか、世の趨勢に流されてしまったでごじゃる。すーせーってなんですかぁ、でござる。きょうはなんもしてないでござる。きのうもなんもしてないし、寝て起きたらきょうが終わっていたでござる。そんなのって、そんなのってないでござるよ。いくひしさんの貴重な人生の一幕が、トイレットペーパーさんよりも呆気なく溶けて消えるでござる。うそでごじゃる。トイレットペーパーさんは水に溶けているわけではなく、ただ細かくチリジリになっているだけでござる。細かく砕ければ、粘土さんだって泥さんになるでござる。溶けたときは透明になるでござるから、濁っている分は、溶けてないんでござるよ。小学生でも知っていることを得意げに話すでござるけれども、いくひしさんがそれを知ったのはついさいきんの助でござる。あんぽんたんさーん、なんでござるよ。うへ。もうもうだいぶ前から息切れを起こしているでござる。ネタ切れでござる。なんでホラーさんばっかりつくってるでござるか、ばかじゃないでござるか、うへぇばかでござったでござる。それはネタ切れでなく、逆切れでござるよ。こんなくっだらなーい言葉を並べちゃうけれども、ゆるしてくださいでござる。きらわないでくださいでござる。ほめそやして、ちやーのほやーの、崇めたてまつるでござる。うそでござる。なんもしないでくれてよいでござる。たまーに、くだらないってどんなだっけ、とド忘れしてしまったときに、思いだしたくなったら読みにきてほしいでござる。別に読まなくてもよいでござるけれども、読んだあとで、こんなところにおともだちがおる、と思ってくれたらうれしいでござる。くだらないふれんずでござる。やったーでござる。うそでござる。おともだちではなく、おんなじでござる。あなたもいくひしさんも、おんなじなんでござるよ。ちがっていることもふくめて、おんなじでござる。なんかいいこと言ったふうにまとめてしまうでござるけれども、本当はただの中身のないスカスカタンでござる。ぷぷー。スカスカタンだって。耳に心地よいでござる。スカタン、スカタン、スカスカタン。タンバリンにカスタネットを叩いてお上手にお遊戯をしながら、きょうの分の「いくひ誌。」を一日遅れで更新しちゃうでござる。更新しなきゃだめなんでござるか? そんなことはないでござるよ。なんもしなくてもよいでござる。好きな時間をおすごしあそばせ、でござるー。おちまい。
3208:【2021/09/11*短いの五つ】
(未推敲)
「祖母の家の鏡は歪んでいる。鏡面に映る私の顔はいつもぐねんと曲がって、まるでおかめさんがにんまり笑っているみたいに変形するのだ。久方ぶりに祖母の家に遊びに行くと、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427038031904)(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427068067863)(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427093621804)(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427123620381)(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427138898016)
3209:【2021/09/12*物語は第三の言語】
しゃべりはどうあっても二次元までしか表現できないと何事につけ思うのだ。たとえば慣用句や諺には本来の意味があるが、言葉というのは時代によって意味が変容していくものであるから、何が正しいとは言えず、いくら本来の意味がこうこうこういうものである、と唱えたところで、全人口の九割が別の意味で使ってしまえば、多くの者に定着したほうの意味がまかり通る。言葉の役割の多くを占めるのがコミュニケーションであるから、これは仕方がないことだ。とはいえ、これが言葉そのものの意味ではなく、言葉に仕舞われた概念や回路や体系となると、いくら多くの者が、これはこういうものだ、と言い張っても、それが本来の概念や回路や体系を言い表せていないのならば、やはりそれは間違っていることになるし、間違いである、と指摘していかねばならない。これは歴史にしろ科学にしろ同様だ。そこにきて、しゃべる、という行為はあまりにコミュニケーションの道具として膾炙しすぎており、言葉の中身に仕舞われた概念や回路や体系を表現し理解する、という行為を想定されていない場合が多すぎるように感じている。それがわるい、と言いたいのではない。ただ、しゃべるという行為は基本的には、一次元でありせいぜいが二次元だ。三次元に展開された仕組みや、背景を、語るには、相応に時間がかかるし、短い言葉の応酬だけでは表現しきれない。ゆえに講談や演説というものが、対話や会話とは別個に発展してきたのだろう。言葉と物語はイコールではない。言葉で表現しきれない奥行きや網の目を、蜘蛛の巣を持ちあげるように、或いは蟻の巣を引っこ抜くようにして、点ではなく網の目で、或いは立体的な構造を伴なって表現するための手法そのものだ。言葉を用いて表現されるが、そこに表現される「それそのもの」は、ふだん人々のあいだで交わされる対話や会話よりも根が深い。むろん、対話や会話があってこそ積みあげられた概念や回路や体系であることは言を俟たない。物語は、第三の目よろしく、人類の編みだした第三の言語と言えよう。ちなみに第一の言語はボディランゲージ(一次元)であり、第二の言語が言葉(二次元ゆえに、文字と会話)である。第三の言語たる物語には、ボディランゲージ(体感要素)と第二言語たる言葉(文字と会話)が組み合わされている。(上記、妄想ですので、真に受けないでください)
3210:【2021/09/12*10文字ホラー×60】
「人肉の味がすると苦情」「臭いだけが落ちなくて」
「山に埋めたはずの首が」「天井から落ちるウジ虫」
「腐臭の中で犬だけ元気」「死体に肖像権ないから」
「饅頭より死体のが怖い」「脳みそどうすっかなぁ」
「火葬後に頭蓋骨が二つ」「暗渠からぶぶぶと羽音」
「埋めた場所に謎の献花」「今月十本目のノコギリ」
「保温箱を買い漁る客人」「真っ黒なゴミ袋から血」
「切断面の各々に瘡蓋が」「死因焼死だがバラバラ」
(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427166189627)
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参照:いくひ誌。【2441~2450】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054893176126