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いくひ誌。【3181~3190】

※日々、毎年のごとく繰り返される夏秋の虫の音色を思うが、過去そのときどきの音色のなかに、一匹たりとも同じ虫のいない現実には何か、事象を構成する要素たちの代替の効く儚さに、虚しさを、累乗して、蒸留して、濾しとるような、凝縮した畏怖を感じなくもない。


3181:【2021/08/29*寝たネタ】
ときどき十二時間くらい寝る、というのはたびたび並べていることであるけれど、寝て起きたら体感、三年くらい経っている気持ちになることもすくなくない。いろいろなことがスッポ抜けて、忘却して、昨日までのことが遠いむかしのような懐かしむ感覚になる。なるほど、時間経過を感覚的に捉えるには、記憶の薄れ具合が関係しているのかもしれない。でもアルツハイマーや認知症患者は、きょうをきょうと認識しているし、タイムスリップしたいみたいだ、とは感じないようだ。これはなぜなんだろう、といま三秒くらい考えてみたところ、おそらく時間軸に比してどの記憶がどの程度薄れるのかが、時間経過を認識するのに大きく作用するからではないか、との仮説が浮上した。つまり、過去の記憶が盤石であるほど、現在を規定しやすいのだろうし、過去から現在までの記憶が徐々に光のスペクトルのごとく順序だって薄れていればいるほどに時系列を映画のフィルムのように知覚できるのだろう(飛行機雲のように過去ほど薄く、現在にちかいほど濃ゆいと、時間経過をよりハッキリ認識できるようになるのではないか、と妄想できる)。また、直近の記憶が失われれば失われるほど、時間経過を感じにくくなるはずだ。食事をとったことを忘れてしまえば、たとえ食べていたとしても、その分の時間が流れていないと錯覚してしまうので認知症患者は、ご飯はまだなの、となってしまう。時間経過を感じにくくなっている。あべこべにいくひしさんの場合は、直近の記憶もそこそこスッポリ抜け落ちてしまうが、それ以上に過去の記憶が紙やすりでかけたようにその都度ザラザラになってしまうので、むかし観た映画みたいなぼんやりとした印象でしか記憶できない。しかもたくさん寝た日には、数日前とかここ半年にあったことですら、幼少期のころの記憶と大差のない、同列に摩耗した記憶になってしまうので、時間経過を正確に認知しにくい性質なのかな、と妄想するしだいである。記憶をいちど圧縮してしまうと、どれくらい前か、という時系列を度外視して、一様に同じくらいにまで圧縮処理をしてしまうために、まるで何年も経過したみたいな感覚に陥りやすいのかもしれない。たくさん寝たときほどこの記憶の情報圧縮処理が行われるために、起きるたびに未来へとタイムスリップした感覚を味わうのかな、と妄想を逞しくするしだいである。(定かではありません)


3182:【2021/08/29*黄泉行き】
(未推敲)
 ベンチにおばぁさんが座っていた。バス停のベンチだ。
 いちどはよこを素通りしたものの、買い物を終えてから通ってもまだ同じ場所におばぁさんが腰掛けていたので、気になって声をかけた。
「あの、だいじょうぶですか」
「はい?」
「もうバスはこないと思いますけど」
「あら、そうなの?」
「時刻も時刻ですし」午前零時を回ろうとしている。「最終のバスはとっくに過ぎたと思いますよ」
 ほら、と時刻表をゆびで示すが、おばぁさんは困った顔で、でもまだくるでしょう、とほほ笑むばかりだ。
「始発まではまだ時間ありますよ。朝になるまでここにいるつもりなんですか」
「でも、ほら来たじゃない」おばぁさんは首を伸ばす。
 振り返ると、バスが一台、道のさきからやってくるところだった。あと十秒もあれば停留所を素通りするだろう。
「あれは車庫に戻るためのバスで、ここには停まらないと思いますよ」
「いいのよ、それで」
「でも」
「ご親切にありがとう。冥途の土産に心がうんと温かくなりました。ありがとう」
 おばぁさんは、よいしょ、と掛け声を発してベンチから腰をあげると、吸い寄せられるように道路に下りた。
 バスは速度を落とさない。
 ライトに照らされておばぁさんの姿が闇に浮かびあがる。
 おばぁさんはこちらを向いて、にっこりと微笑み、手を振った。
 バスはまだブレーキを踏まない。


3183:【2021/08/30*考えるを考える】
現状の仕組みや、現代社会の風潮に最適化した行動選択をとれるように学習することと、そういった仕組みや風潮をより好ましい理想に近づけるために何をすべきかを考え学んでいくことは、似て非なるものであり、ほとんど別物と言えるが、仕組みや風潮がどんな構造を有しているのかを分析しないことには、後者の学びは深まらないので、一時的には合致してしまう点で、いろいろと錯誤が生じてしまうのだろうなぁ、とぼんやりとさいきんは実感しつつある。合理的というとき、たいがいは前者の「現状への最適化」を示すが、本来的には、後者の「理想を描き具現化すること」にあるはずなのだが、なかなかそこのところの合意をとったうえでの議論を行えている場というのは思っていた以上にすくないのかもしれない。すでにある枠組みだけで思考を煮詰めるのならば、けっきょくは暴力が最善手になってしまう。他者を退け、利を奪うことが合理的の意味として最適化してしまう。だが理想はつねにそうした人の業に否を突きつけ、発展し、色合いを増やし、カタチを段階的に変えてきたはずだ。思考とはおおむね、枠組みのそとへと視点を拡張し、そのうえで枠組みを変質させていく営みと言えるのではないか。そういう意味では、同一人物であれ真の意味で思考している時間というのは存外にすくなく、思考しているつもりで、動物的な習性の範疇をでていないことは往々にして有り触れているものなのではないだろうか。人は、じぶんで思うほどには、人ではない。考えていない。思考できてはいないのだ。我思うゆえに我あり、とはいうものの、いったいどれだけの人間が、日々の時間で我を思っているだろう。人とは考える葦である、というが、いったいどれだけの人間が、日々のなかで考えを行えているだろう。合理や最善を、あたかも日々常々に求めているように振る舞う者たちが目立つ世の中だが、合理や最善とは何かを解からずにいて、いったい何を求めているのやら、とふさふさ尻尾を胸に抱いてふしぎがり、こてんと床によこになる、本日の居眠りタヌキのぽんぽこりんなのであった。


3184:【2021/08/30*同乗者】
(未推敲)
 新車を購入したかったが、虫歯の治療で思わぬ出費が嵩んでしまい、予算が大幅に減ったために、けっきょく中古車で我慢することにした。
 中古車販売店に足を運んだ折に、掘り出し物と巡り会えたのは運がよかった。
 テンポ敷地内の車両を一通り見て回った直後に、いままさにトラックから降ろされつつある車体が目に入った。
 凹凸のすくない流線形の輪郭に、雪原を思わせるシルバーの色合い。一目ぼれだった。
「あの車も売り物なんでしょうか」
「そう、ですね。いちおう今日から店頭に並ぶ予定ですが、あ、見てますか」
「お願いします」
 近くに寄り、拝見する。見れば見るほど、惚れ惚れする。だがひと目で高級車と判る以上、中古車といえども高値の花に違いない。
 そうと思い、値段を見ると、なんとほかの中古車よりも安かった。
 いくらなんでもそれはない。ちょっと性能のよいメディア端末だって昨今、もうすこし値が張る。
「あの、これゼロが一つ足りないんじゃないんですか」
「いえ、合ってるはずですね」店員は端末をいじり、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426798931628


3185:【2021/08/31*性根が腐って根気なし】
さいきんはすごく視野が狭くなっている感覚がある。好きなことばかりに注力している日々であるけれど、好きなことをもっと好きになるためには、それだけでは足りないのだということも知識として、或いは体感として知っている。たとえば興味のないことに目を向ける習慣は、好きを熟成させたり、深化させたり、豊かにしたりするのに役立つ。いまある種々の好きの事象とて、それ以前は好きではなかったものだ。どこかで偶然にしろ意識的にしろ、出会い、触れたことで、好きになったのだ。いま目のまえにある好きなことだけに注力していたのでは、そうした好きの感情ですら目減りし、先細りしていく。わかってはいるが、とりあえずいまある好きだけを愛でていたい、となってしまう。引きこもっていたい。すでに手に入れた宝物だけを腕に抱き、ちいさき自我の世界に引きこもっていたい。定期的にそういう時期に突入してしまうのだが、抜けだすまではじぶんがどれほどちいさな世界に閉じこもって、根を痩せ衰えさせていたのかを知ることはできないのだ。これはいつでもその危険をはらんでいる。自覚するのはいつだって、新たな好きに出会い、触れたときであり、それまではただただ目が曇り、腕が鈍り、そうした衰退を以って、進化とか進歩だとか、豊かさだと錯誤している。実際には、もっと長い目で見れば、そうした衰退にしろ鈍化にしろ、進化になり得るのだが、それもまた結果論であり、大きな成果を得てからでないと判断のつけようがない。自覚しようがない。確かめようがないのだ。ゆえに、確率の問題として、でき得るかぎり常に、新しい刺激を求め、視野を拡張すべく行動したほうがよいのだが、思うのは簡単なのに、いざ行動に移そうとすると億劫で仕方がない。たとえば興味の薄い陶磁器や骨董品について調べてみるのもよい。骨董市に出かけてみるのもよいだろうし、文学館に足を向けてみるのもいいかもしれない。宝石店を覗いてみてもいいし、ボランティアや現場仕事に精をだし、汗を流してみてもいい。とかく普段はできれば触れ合いたいとは思わない、どちらかと言えば、面倒に思うようなことに足を向け、手を伸ばし、嗅いで、味わい、撫でてみないことには、視野はいつでも、光を見詰めた虹彩のごとく収斂して、萎んでしまうものなのだ。ときには闇を見詰め、畏怖する暗がりに目を向けないことには、虹彩は開いてくれはしないのだ。光ばかりを求めていてはいつか、見えているつもりで、すっかり虹彩が閉じてしまいながらも明瞭に世界を見ている錯誤に囚われてしまい兼ねない。人はじぶんで思うよりも、世界を見れてはいない。視野を広げてはいない。触れてはいないのだ。わかっちゃいるが、ではいざ闇に目を向け、足を踏みだし、手探りで歩を進めれるかと言えば、往々にして否である。言うは易し行うは難しを地で描く。こうして偉そうなことを解ったふうに並べるだけならば簡単なのに、なにゆえ実行に移すのはこうまでも面倒で、腰が重く、先延ばしにしてしまいたくなるのだろう。これもやはり視野が狭まり、虹彩が閉じ、可能性の根っこを痩せ衰えさせ、知らず知らずに荒廃しているからなのだろう。ひとまず苦手な英語や数学や物理や歴史にも目を向けて、触れてみようと、思うだけ思って、実行に移すか否かはあすのいくひしさんにお任せして、本日の「いくひ誌。」にしてしまおうと企む、性根の腐りきって消滅してしまった根気の皆無な、本日のいくひしまんであった。おしまい。


3186:【2021/08/31*四つ辻の本】
(未推敲)
 道に迷ったのか、見知らぬ土地を彷徨い歩いている。
 顔をあげると、四つ辻の真ん中に本棚が立っていた。
 近寄ると、本が一冊、指一本分だけまえにはみ出している。
 何の気なしに手に取ると、腕にずしりときた。思っていたよりも分厚い。表紙は古く、革製だ。無地で、題も紋様も何もない。
 中を開くと、ずらりと名前が並んでいる。名前のまえには日付が記されている。一ページにつき三百人分の名前がありそうだ。だいたい十ページ間隔で日付は変わった。
 一日分でだいたい三千人の名前が並んでいることになる。
 本の最後を見遣ると、何百年先の日付が載っていた。項を見遣ると三十万の数字が刻印されているが、本の厚さからすれば誤字と見做すほうが正解だ。
 ふと気になり、きょうの分の日付を探してみる。
 前半部位にそれはあった。
 これといって考えがあったわけではないが、名前の一つずつに目を走らせていく。
 いったいじぶんはこんなところで何をしているのだろうと、重ねて思考しながら、いったいいつからここにいるのだろう、と遅まきながらの事項に思いを巡らす。
 午前零時を回るすこし前に寝床に入ったところまでは憶えていた。たしかそれから胸が痛くなって。
 本をめくる手が止まる。
 項の半分が余白を占める。
 名前の羅列の最後には、なぜかじぶんの名前が載っている。


3187:【2021/09/01*つれづれなる何似?】
何を目的に並べる文章かによる、と前置きしたうえで述べるが、なにも書くことがない、となったときの対処法には大別して二つあり、一つは無理して書かなければいい、という元も子もない結論で、もう一つは、なんでもいいから書けばいい、というこれもまた元も子もない結論だ。これだけだと、それはそうだけどと、相談した私がばかだった、みたいな顔をされそうなので、もうすこし補足しておくと、なんでもいいから書くといってもコツがあり、いちばん楽なのは、事実をただ箇条書きしていく手法だ。日記を書けばいい。朝から何をしたのかを時系列順に並べればひとまず何かを書くことはできる。だがそれ以外、となると、すこしコツがいる。まずは愚痴は比較的簡単に並べられる。何も並べることがないんじゃ、という愚痴ですら、こうして並べられるのだ。不満に思うこと、困っていること、こうなればいいなぁ、という願望でもいい。いま欲しいものを並べてしまえば、ひとまずここでも何かを書くことはできる。だがそれを読みたいひとがいるかはまた別の問題だ。すこしでも読者にとって得になることを並べたい、とサービス精神旺盛な心掛けを掲げる者もいるだろう。そうしたときに有効になってくるのが、疑問を軸に、考えを並べることだ。ふしぎだな、と思ったことを書き留め、それについて、どうしてだろう、とじぶんなりに考えついたことを文字に変換していけばいい。必ずしも結論がでなくともいいし、正しくなくてもいい。ひとまず、なぜ?に対するじぶんなりの仮説を、妄想でもいいので、並べてしまえば、単なる個人の日記よりかは、そこそこ読み応えのある文章になっていそうだ。しかし、単なる個人の日記が読みたいんじゃ、といういくひしさんみたいな人もいるかもしれないし、こうしてサービス精神旺盛に並べた文章が、まったく読者を楽しませず、そもそも読者がひとっこ一人いない現実を無駄に顕現させなくもない。けっきょく、なにゆえそうまでして文章を並べたいのか、が最も深く考えを煮詰めておいたほうがよいかもしれない事項であり、やはりというべきか、何も並べることがないのなら、無理をしてまで並べる必要は、まったくこれっぽっちもないのである。いくひしさんはどうしてこんな益体のない、並べることで以って役割を終えてしまうような、あってもなくてもどちらでもいい、どちらかといえばないほうがいい文章を並べているのかと言えば、並べているあいだはひとまずパズルを解いているみたいに、何かしらを行えている気分になれて、ひとまずの満足を得られるから、と言えるだろう。けっきょくは、したいからしているのであり、だしたいからだしているのだね。なぜ人は排せつ行為をしてしまうのか。だしたくなるからだし、ださないと生きていかれないからだ。きっといくひしさんのこれも、同じようなものなのかもしれません。ときには便秘みたいに、うんうん呻ってもでてこないこともあるけれども、だからといって、ださずにいてもいい、とはならんのだし、だせるものならだしたいのだよね。なぜならだしたらスッキリするので。爽快なので。きもちよいので。いくひしさんはきょうもきょうとて、なんもなーい、と思いながら、これを並べて、これにて本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。整理整頓とは縁のない、散らかり放題のごった煮の権化、つれづれなるママ似のいくひしまんでした(パパ似でもあるし、どちらかと言えば、どちら似でもない)。


3188:【2021/09/01*浮かぶお面】
(未推敲)
 家に帰ると、柱にお面が飾ってあった。
 木製の古いお面だ。
 おかめや般若と同系統のかんばせをしている。
 目元は綻び、口を一文字にきゅっと結んだ様は、はにかみ、と形容するのがぴったりだ。
 母は骨董好きで、ことあるごとにガラクタを買い漁ってくるため、またか、と思っただけだったが、お面に喚起されたのか、むかしの記憶が浮上した。
 幼いころにこれと似たお面を見た憶えがあった。引っ越したので、いまのとは違う家だった。古い家屋だ。父が亡くなってから、引っ越した。
 母が居間のソファでうつらうつらしていた。
 ただいま、と声をかけ、牛乳を飲む。
 着替えを済まそうと部屋をでるところで母が、おかえり、と起きたので、扉を足で支えながら、あのお面ってさ、と話題を振った。
「前にうちにあったよね」
「お面?」
「また買ってきたんでしょ。前のお家に飾ってあって、子ども心に怖かったよ。いまもすこし不気味だし、せめて廊下じゃない場所に飾ってよ」
「何の話?」
「だからお面だってば」
 言いながら廊下を見遣ると、お面がなかった。
 あれ、と思い、廊下を覗きこむも、見当たらない。
「さっきそこにお面が」
 居間に向き直ると、母の背後に、件のお面が浮いていた。
 はにかんだ顔が、如実に歪む。
 目は見開かれ、食いしばられた口からはいまにも歯が飛びだしそうだ。眉間には山脈のごとく隆起した皺が浮かび、あるはずのない目玉が、上下に激しく揺れている。


3189:【2021/09/02*ぼんやり】
いまにはじまったことではないけれど、ことしはもうサボり年にすることにしたので、根を詰めた物語はつくらないようにして、ネタというかアイディアを涵養する時間を置くことにしている。いつもそうだと言われればそうかもしれない。意識的に、ああでもない、こうでもない、と壁にぶつかって、引っかかりを見つけて、たくさんの試行錯誤の種をつくっている最中だ。いつもより気分つよめに、という意味です(とか言いながら、本当に実践できているのかは怪しいところだけど)。ここ数年はずっと、主語をどの程度残すのか、を迷いながらつくっていて、たとえばこの文章で言えば、ほとんど主語を省いている。誰の言葉なのかを書いていないし、何についての文章なのかにもはっきりとは言及していない。それでも伝わってしまうナニカシラを、幅広く、ぼんやりと掬い取ったり、描いたり、浮き彫りにするのが好みなのだが、かといってそれで他者に意図したぼんやりが伝わっているのかははなはだ疑わしく、やはり迷ってしまうのだよね。ただ個人的な感覚でしかないのだけれど、小説に限定して述べれば、小説の文章は文章というよりもどちらかと言えば絵画にちかく、版画にちかく、壁画や絵巻物にちかいと思っていて、読むというよりも、視るにちかいのではないか、とやはりここでもぼんやりと実感を覚えている。だからなのか、視るよりも読むにちかい類の小説は、どちらかと言えば好みではないのだが、これは単に、文章形態の慣れでしかないので、視て楽しめるくらいに、その小説の文字の羅列に慣れてしまえば、どんな小説もけっきょくは、絵画や版画や絵巻物にちかくなるのかな、といった予感がある。これは語りと履歴のちがいでもあって、履歴は事実の記録だが、語りは、記憶の継承なのだ。ゆえに伝わるものは、言葉による情報というよりも、情景なのだよね。その情景には、心象も含まれるし、思考の筋道も含まれる。ゆえに、寝床で親が子に語り聞かせるおとぎ話は、語りゆえに、子どもたちは単に親の話を聞いているだけでなく、目で、身体で、そこではないどこかべつの世界を視ているのだ。これは小説にも言えることだ。読んでいるわけではない。視ているのだ。体感しているのだ。単に情報を右から左に移しているわけではない。作者の世界に身を浸し、異なる世界同士を重ね合わせ、同調する作業こそが、小説を楽しみ、味わうということなのだろうと、いまはぼんやりと考えている(それはつまり、世界そのものと、自我なる私の内世界そのものが、つねに重ね合わされ、同調され、ときにすれ違っていることと地続きでもある。言い換えるならば、世界をこすり合せることで、第三の世界を編みだしている、と言える)。もちろん言葉の響きや、文章それそのものを味わう楽しみ方もあっていい。そういう人はきっと小説に限らず、言葉を、文章を、読むことそれ自体に楽しみを見出せる方なのだろう。一つの才能と言ってよいように思うしだいだ。まとまりがないけれども、要するに、ここしばらくはずっとへにゃへにゃになっております、との自己申告なのでした。おしまい。


3190:【2021/09/02*のぼれども】
(未推敲)
 歩道橋の階段をなんども上り下りしている中年の男がいた。スーツを着てはいるが、くたびれた格好をしており、真横を通り抜ける際には、ツンと鼻を突く饐えた皮脂の臭いがした。
 いちどはよこを通り過ぎたのだが、こちらには目もくれない。悲壮感の漂う表情をしていたため、歩道橋のうえから男の様子を窺った。
 やはり男は何度も階段を上り下りを反復する。疲れるからか、肩で息をするたびにその場にへたりこんだ。
 目的が不明だ。ダイエットだろうか。それにしては倦怠感に溢れている。いまにも階段から身を投げだしそうな苦悶の呻き声を発したりもしており、見るからに異常だった。
 放っておけばよかったものの、就職の内定が決まったばかりだったこともあり、ゲンを担いでおきたかった。営業職ゆえ、行動力が試される。一日一善ではないが、何かしら人としてとるべき行いを率先してとる習慣をつけようと考えていた矢先のことでもあり、ひとまず事情だけでも訊いておこうと男のもとへ踵を返した。
「あの」
 そう声をかけたところで、男が勢いよく面をあげた。汗が飛び散り、口元についた。袖で拭う。
「おまえ」男は血相を変えた。「どっから来た。いつからだ、いつからここにいる」
「ぼくですか。ぼくはいまさっきここを通っただけで」
 歩道橋の下をゆび差す。街路樹が、道に沿って点々と生えている。もうすぐ夕暮れだが、当たりはまだ明るい。
 男はいまさらのように周囲の景色に目をやり、なぜか数秒固まった。口を開け閉めする。金魚さながらだ。何事かを言おうとしたようだが、けっきょく言葉は呑み込んだようだ。
 やおらにこちらの腕を掴むと、
「すまん。本当にすまん」
 額から大粒の汗を垂らした。或いは、それは涙だったのかもしれない。
 呆気にとられているこちらを差し置き、男は転がり落ちるように、数段飛ばしで階段を駆け下りた。
 掴まれた腕をさする。「なんだったんだあれ」
 憤懣を息に載せて吐きだし、さて帰るか、と帰路を急ぐべく歩道橋を渡りきろうと階段のうえに目をやったところで、視界が暗転した。
 否、風景が消えた、と言ったほうが(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426870013403



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参照:いくひ誌。【2051~2060】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054889820942

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