※日々、人間でいられるのは五分くらい、あとはだいたいケダモノにちかい、人間に寄るか人間から遠ざかるかの違いがあるばかりで、理性も論理も使えたためしがあったろうか。
3161:【2021/08/19*なんもしてないのに陽が沈む!】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、怠けすぎてて、もうもうひらきなおってしまったでござる。ことしはもう英気をやしない、叡智をつちかい、えっちらほっちら、えいえいおー、でござるよ。いっそ来年もこのまま怠けてだらりんちょして、再来年からホンキをだすでござる。でもでもいくひしさんがホンキをだしちゃうときっととんでもないことになってしまうでござるから、困ってしまうひとがたくさんでてきちゃうし、地球規模で、宇宙規模のたいへんなことになってしまうでござるから、みなの者の平和のためにいくひしさんはきょうも怠けるんでござるよ。うへ。ぐてんぐてんの、だふんだふん、でござるよ。みなの者のために怠けるなんてえらいでござる。褒めるがよいでござる。非難轟々のあめあられ、あっという間にハチさんの巣でござる。なんでー、でござる。やっぱり褒めなくていいでござる。ずっと、えんえん、永久に、万年、やすらかに怠けるので、こっそり怠けるので、責めるのはやめてほしいござる。もっとなごやかーに、やっさしーく、ほわほわしててくださいでござる。いくひしさんを見習って、ほわほわーってするでござる。怠けるとかってに、ほわほわーってなるでござるよ。その代わりに人生さんがなぜか厳しく当たり散らして、未来さんがなんでかいくひしさんに塩対応でござるけれども、それもまたよしでござる。いくひしさんは天性の怠け者でござるから、達人でござるから、やっぱりときどきは怠けるのですら怠けてしまうでござって、ときどきはツンツントゲトゲするでござるけれども、とーたるではほわほわしていたいでござる。そうなんでござる。願望でござるよ。うは。ほわほわしてたいなぁ、の思いはひといちばい、他力本願の権化こと、本日のぐーたらほっぺんぴー、いくひしまんでした、でござるー。
3162:【2021/08/19*一番は最後】
(未推敲)
例の世界的災害の影響で、今年の同窓会は画面越しでの催しとなった。参加人数もすくなく、最後のほうはみなそれぞれにグループに分かれた。
遠隔での歓談はじかに会うよりも緊張しない。声だけで参加している者もあり、日陰者の僕であってもそれなりに楽しめた。
誰が言いだしたのか、過去に学校で起きた事件の話になった。どこにでもある話と言えばそうなのかもしれないが、いじめられていた子が自殺したのだ。しかしその子をいじめ、死に追いやった子たちはお咎めなしだった。卒業するまでクラスの中心的存在のまま我が物顔に振る舞っていた。
同窓会に彼らいじめっ子たちの姿はなかった。
いま何をしているのか、とそういった話になったときに、死んだよ、と誰かが言った。
「死んだって、何で」
「さあ」
「え、いま誰言ったの」
「わたしじゃないよ」「私でもないよ」「おれも違う」「なんか子どもの声っぽくなかった?」
みな無言になった。
「ワタシ、駅前で見たことあるよ」クラスの委員長だったコがおずおずと切りだした。「高校生くらいのときかな。なんか足引きずってた」
あたしもそれ見たかも、とほかのコが言った。「大学生くらいのとき、あれってひょっとしてって思ったけど、やっぱり彼だったんだ」
「怪我したのかな」「どうだろね」「病気だったらしいよ」
誰が言うともなく、みな各々に発言し、断片的な情報が持ち寄られた。
僕は一言も発しなかった。会話に参加せずに、話だけを聞いていた。
言ってよいものか逡巡していた。
じつは僕も以前、見かけたことがあった。あれはたしかに、死んだ子をいじめていた主犯の男だった。何かに躓くように、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426559750832)
3163:【2021/08/20*万年からっぽじゃおばけ】
もうだめだぁ。なんも思いつかーん。どっかで見たことあるような、ありきたりなネタに描写に物の語りしか思いつかん。搾りかすしかなくなってしもたんじゃ。こんなことなら何も並べないほうがマシじゃ、とはならんところがいくひしさんのふしぎなところ。どっかで見たことあったって、ありきたりだって、同じようなネタに描写に物の語りであったって、べつにそれでもいいじゃん、いいじゃん、楽しいじゃん。やったー、やっほーい、みたいな楽しさではないけれども、なかなかでてこないカラカラカチカチ搾りかすだろうとも、ふんぎゃーと踏ん張りながら捻りだせたら、そこそこまあまあヨチヨチ程度には爽快な心地にはなれるのじゃ。ださないよりかはだしたほうがいい。なんの話じゃ。けっきょくのところ、溜まっておるのだね。なんもなーい、と思いつつも、生きているだけで人はかってにいろいろなものを溜めて生きておるから、それをぐしゃぐしゃのままでも、こねこねしたおだんごでも、びしゃーでも、めりめりでも、かちんこちんでも、ぷしゃーでも、なんでもよいのでだせるならだしといたほうが、なんとなーく、身体にちょっとはよさげじゃない。そうでもないならそれもよしじゃが、いくひしさんは万年おなかぽっこりちゃんでごじゃるので、できればふぬふぬと捻りだせたらだしときたいよ。なんもなけりゃないで、なんもないことの苦しみでも、不満でも、じつはなんもないから気が楽だって思っちゃうことも、全部ひっくるめて並べちゃえばいいのだね。毎日毎日なんもなーい、と叫ぶだけでもよいのだね。そのうち叫べる日々のありがたさに思い至ることもあるだろうし、そのままなんもないことに苦しみつづけることもあるだろうし、何がどう変化しようとも、溜まるものは溜まるわけで、だせるときにだしといたほうがいい。だしたくなけりゃださんくともそれはそれで一つの、うんとこしょどっこいしょ、ではあるけれども、いくひしさんはなんもないことですら、なんもないんじゃい、と何かこう、言葉に押し込めて、口を縛って、密閉しちゃって、そこはかとなくそれっぽいカタチに錬成して、なかなか思うようにそのままのカタチでだしてくれない狭い狭い穴を通じて、ぽこぽこと千切れつつも、ひねくりだしていけたらよいのになぁ、と思わないわけではないのだね。ない者はないなりに、ないことをないままに、ないことを以って、あるをひねりだすしかないのかなって。きょうもきょうとて並べることがなかったので、いつものように、あってもなくとも構わない、どちらかと言えばないほうがよいかもしれない、つれづれの言葉たちを、じぶんのものですらない文字の判子を、こうしてずらべらと、うんとこどっこいしょ、とひねくりだしては、並べて、置いて、繋ぎ合わせて、それっぽい文の連なりになってしまう奇跡に思いを馳せて、本日の「いくひ誌。」にしちゃってもいいだろか(いいよ、いいよ許しちゃう)(やったぜ)。
3164:【2021/08/20*ぎょろり、ぷつり】
(未推敲)
皿の下から目玉が覗いていた。光彩が萎んだり、広がったりを繰り返す。そういうカタチの虫かと思ったが、皿を持ち上げてみるとそこには紛うことなき目玉があった。
眼球だ。
視神経が瞳の裏側のほうから細長く伸びている。輪郭だけを見れば太っちょのオタマジャクシに見えなくもない。
気持ちわるかったので、ティシューで包んで、ゴミ箱に投じた。
しかしその日を境に、目玉は部屋の至るところに出現した。たいがいは隙間に潜んでおり、ゆびでつまみだそうとすると、奥に引っこむ。水草に隠れる小魚じみている。
一つ二つならばまだしも、日に日にその数を増していく。繁殖しているのだ。
家の中で飽き足らず、外でも見かけるようになり、さすがに放置しておけなくなった。
ほかの誰も目玉の存在には気づいていないようだ。ゆびでつまんで持ち上げてみせてもよかったが、どう考えても怖がらせるだけだろう。ゴキブリを掴んで、見せつけるようなものだ。
罠をしかけたくとも、目玉が何を好むのかが分からない。ジャングルに檻だけ放置しても意味がない。
折衷案として爪楊枝を持ち歩くようにした。
目玉を見掛けるたびに、それの表面を爪楊枝で刺した。目玉は穴の開いた気球がごとく勢いで、ぷしゅーと萎んだ。あとには萎れた朝顔のような皺くちゃの膜が残った。思っていたよりも呆気ない。
退治できると判ってからは、手当たり次第に、容赦なく爪楊枝をそれの中心に突き立てた。
慣れてくるとこれが快感だ。
プツッと一瞬の手応えのあとに、シュン、と刹那に力尽き、弛むそれの変化の起伏は、見る者の心に上向きの感情を喚起する。それはたとえば、熱したフライパンに垂らした一滴の水であり、油汚れに垂らした一滴の洗剤である。
シャボン玉をゆびで割ってはしゃぐ幼子のごとく心境で、つぎつぎに家の中の目玉を爪楊枝で刺し、即座に消沈する目玉のはかなさに、胸の内をゆびでなぞられる昂揚を覚えた。
くすぐったくも、心地よい。
もっともっと、と隙間という隙間を覗いて歩き、つぎつぎに目玉から厚みを奪った。
どれくらい夢中になっていただろう。一時間か、二時間か。
本棚から本をあらかたひっくり返しても、もはや目玉は見つからない。
ふと鏡が目に入る。
なんだ、こんなところにあったじゃないか。
鏡を壁から取り外す。
覗きこみながら、鏡面に爪楊枝の先っぽを向けるが、途中でこれでは意味がないと気づく。矛先を変える。
爪楊枝をつまむじぶんの手が間近に迫る。
目の表面に点が触れる。
弾力がある。
ぐっと力をこめると、ぷつりと、膜の破れる音がする。
一息に爪楊枝を押しこむ。
痛みが襲うが、それよりも爽快感が上回る。
脂汗が全身から滝のように噴きでる。
痛みが鼓動と同期する。
荒い呼吸の合間、合間に、よろこびが湧きあがる。
うれしい。
目玉はまだ、あと一つある。
3165:【2021/08/21*わいを崇めろ!】
誰かに憧れる経験が思えば幼いころから多かった気がする。憧れる、を、学習モデルとして抜擢する、と言い換えてもよい。だがそうした人物を見繕ったところで、いずれその人物の方法論では突破できない目標ができるため、学習モデルはその都度、変化していく。そのうち、誰を参考にしたところで手掛かりの掴めない疑問や目標がでてきてしまえば、あとはもうとことん自力で学んでいくしかないのだ。それこそ師は、そこかしこに存在する。学ぶべき存在は、自然を形成する要素の数だけある。人物である必要がそもそもない。同じ人間であれば、表層的な模倣を行えば、相応に似ることができる。赤子が、親の会話や仕草から言葉やコミュニケーション術をしぜんと体得することと原理上同じだ。だがどんな分野に属していようと、それだけでは突破できない難問にいずれはぶつかることとなる。誰もそれを突破していないのかについては、じぶんが知らないだけでほかの誰かが突破していることもあるだろうし、真実未だ誰も到達していない難関に挑んでいることもあるだろう。そこはやはりというべきか、日ごろ周りを見渡して、ときに遠くに視野を移しながら、学ぶべき師がないか、構造を把握し模倣するに値する術がないかを探る姿勢が、前進する可能性を高めるだろう。壁を乗り越え、ときに打ち砕き進む確率をあげるのだ。術を得、道具を揃え、工夫できる余地を広げる、とそれを言い直してもよい(本を読めば、過去の人物たちからも学べるので視野が広がる。考えとしてまとまっている点も、利便性がある)。しかしというべきか、だからこそ、というべきか、憧れは必ずしも人を前進させるばかりではない。進歩を妨げる枷にもなり得る。一定以上の値までの技術習得を加速させる働きがあるにせよ、そのさきへ進むためには、憧れはむしろ足を引っ張る桎梏となり得る(完璧な人間というものが存在しない以上、これはいまのところ汎用性のある法則と言ってもよさそうだ。憧れが、じぶんよりも優れていると評価した相手に抱く感情である限り、例外はないと言える)。これは裏から言えば、誰かに憧れられる存在になりたい、との欲求は、誰かの進歩を妨げたい、との欲求に繋がり得る危険をつねに孕んでいるとも言える。何かに憧れるのは当人の自由だ。だが、憧れられるようになりたい、との思いは、いささか傲慢と言えよう。虫や植物は、人間にそう呼ばれたいなどとは思ってはいない。山や海、風や火をその名で呼ぶのは、そう呼ぶ人間がいるからであって、自然現象がそう呼んで欲しいと希求したわけではない。師にしたところで同じだろう。師とは仰ぐものであり、仰がれることを求めたから師となるわけではない。では、神はどうだろう。世の中には、神と呼べ、神として敬い、崇めたてまつれ、と要求する人間が多々見られないだろうか(そう、たとえばいくひしさんのように)。神を、親や上司・先輩や先人と言い換えてもこの疑念は成立しよう。じぶんよりも未熟な相手に要求しなければならない時点で、その程度の器だと言える。真実に立場がうえであり、力量があるならば、要求される存在になっているはずだ。そうではないのだから、その程度の器なのだ。だが、それの何がわるいだろう。その程度の器でよいではないか。なぜそれ以上を無理に望んでしまうのか。のみならず相手にそれを強いるのか。未熟なままに、未熟を噛みしめ、歩めばいい。誰かから憧れられるような存在になりたいと思うから、じぶんの器の大きさを錯誤するのだ。誰かの進歩を妨げてまで、自らの器を大きく見せようとする。人間は神ではない。ただの人間だ。ときどき偉大に見えることもあるが、やはりだたの人間なのだ。わざわざ自分の未熟さを差し置いて、人のうえに立ちたがることもなかろう。他者を師と仰ぎ、自然に学び、神を敬えばいい。神はどこにでもいる。そこにも、ここにも、あなたのなかにも、ほんのときどき私のなかにも。ゆえに或いは、神などどこにもおらず、ゆえにどこにでもいるのかもしれない。すくなくとも神は、神と呼べと他者に要求したりはしない。強要したりしない。望まない。我々人間が、何かを目にし、神のようだ、と錯誤する瞬間瞬間があるばかりである。私が、あなたが、私たちが、その都度、そこにいるばかりなのである。(――と、人間にもなりきれぬ哀れでかわいい我がままちゃんこと、本日のいくひしさんがそうのたまいておったそうな)
3166:【2021/08/21*毒を盛る人】
(未推敲)
幼いころから病気がちだった。一年に三回は必ず一週間は寝込むような風邪をひき、お医者さまのお世話になった。
体調を崩すと、母は毎度のように、これをお食べ、と言って得体の知れない黒い塊を口のなかに放り入れた。
鼻が詰まっていて味がどんななのかは分からない。
弾力があり、ひと齧りするとじんわりと口内に独特の風味が広がった。
それを齧ると、すこしだけ元気がでた気がしたけれど、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426583093391)
3167:【2021/08/22*おわってるからおわらん】
きょうで終わらす、きょうで終わらす、と思いながらつくっている短編小説がなかなか終わらなくて、日付けが変わってから、きょうの分のショートショートつくらな……、と気づいて、慌てて何かないか、何かないか、と考えて掌編をつくる日々がつづいているのだが、いまさらながらに何で無理してまで毎日ショートショートつくっているのかわけわからんな。いつの間にか毎日ショートショートつくらなあかんよ、の気分になっているけれども、誰もそんなこと求めてないし、そんなことしてもタメにならないし、惰性でつづけても手抜きが上手くなるだけでいいことなんかないって判っているのに、気づくと、毎日つくらな、の気持ちになっているので、よくないよくないよ、と思う。でも、ショートショートつくりたくなるときはたいがい手こずっている作品が煮詰まっているときで、頭のなかにたくさんのちいさなネタが湧いて、溜まって、邪魔になっているときだから、すっきりしたくてつくりだしてしまう。あとは、脳内が濁る感じがあって、思考を加速させることで体感時間を早めて、たくさん時間が経過しましたよの気分になるために、つくりだしてしまうのもある。ショートショートをつくると、その分時間をワープできる。原稿を半年間寝かすのと、ショートショート十本つくるのはだいたい同じ効果がある気がする。でもいまはもうけっこう前から脳内がすっからかんなのに、無理してショートショートをつくっているから、よくないと思う。ちゃんと煮詰まっている短編、もう十本くらい溜まっているので、それらを閉じてしまいたい。でも、終わりまで分かりきっているから、あとはただ文字を並べるだけで、脳内の映像を写し取るだけなので、つまらないから、どうしても後回しにしたくなってしまう。創作はもう脳内で終わっちゃったので、作業だけが残っている状態だといつもこうなる。創作と作業を同時進行できているときは楽しく、一気呵成に物語を出力できるのだね。たぶん、物語構造が二次元までのやつだと脳内でぱっと終わりまで描けちゃうので、作業だけが残ってしまって、もういいや、となってしまうのかもしれない。物語構造が三次元のやつだと、考えながら、探りながら、展開を無数に重ね合わせて取捨選択しつつ、文字に落とし込めていけるので、負担は大きいけれども、ずっと楽しいの状態で終わりまで一気呵成に終わらせられる気がする。物語構造が一次元や二次元のやつでも、締め切りを一日とか二日に制限すれば、脳内に展開される物語と、出力する作業の速度が釣りあうので、時間を置かずに終わりまで文字にできるのかもしれない。でもこれも負担がかかるので、毎日はできないのだ。とかなんとか、言い訳を並べてしまったけれど、要するに、力量不足であり、飽きてしまっているのだね。惰性でつづけていて、新しいことをしようとしていないからつまらないのだ。ここいらで、えいや、と脱皮するよい機会かもしれない。過去のいくひしさんを脱ぎ捨てて、新しく、また最初から、ゼロから、初めましての気持ちで、赤ちゃんの心地で、ゼロちゃいの境地で、はじめていこうとは思うものの、過去を捨て去るのも、それはそれでむつかしいのよね。三年くらい何もしないでいれば、これまでのいくひしさんを忘却できるかもしれないけれども、それを待つのももどかしいので、ワープするつもりもかねて、やっぱりショートショートを五百本くらいつくるっきゃないのかな、と思わないではないのよね。まずはこんな駄文を並べずに、物語をつむぎましょうよ。いいですね、いくひしさん。きょうのいくひしさんからのアドバイス、でした。
3168:【2021/08/22*呼ぶ者】
(未推敲)
連絡帳に知らない名前が登録されていた。
メディア端末を買い替えたばかりだ。データは移行済みゆえ、元の端末に登録されていたもののはずだ。
いったい誰だろう。
着信があったので気づいたわけだが、相手が誰かが分からずに無視してしまった。
とはいえ、私は元から電話にはでないし、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426606192179)
3169:【2021/08/23*売れないものを売ろうとしているのが問題】
需要のない商品ほど、売れた数を誇りやすいのかな、という気がしないではない。たとえば売れたお米の数とか、飲まれた水道水の量とか、使用されたゴミ袋の数とか、トイレットペーパーもそうだし歯ブラシもそうだ。そういった日常必需品ほど、売れ行きを宣伝に利用したりはしない。そもそも売れて当たり前だからだ。つまり、売れ行きを宣伝に使う商品ほど、世の中にとっての需要がない商品であり、もうすこし厳しいことを言ってしまうと、無理やりにでも売らなくては売れない商品である傾向にあると言えよう。そもそも商品価値がないものを商品として売ろうとするから、何本売れました、といった宣伝の仕方をするのだ。いまはみなさんこれをご購入していますよ、あなたは買わなくていいんですか、と言外に脅しているのである。そうでないならわざわざどれくらい売れたとか、どれくらい人気があるのか、なんて顕示する必要がない。避妊具やオムツや生理用品のように、純粋に性能を宣伝すればいい。そうしないのは販売元が顧客に向かって、みなが買っているものをあなたはまだ購入していないんですか、と煽り、焦りを募らせなければ売れないからだ。本来ならば購買意欲を好奇心や向上心の刺激によって高めればよいところを、異質な者にはなりたくないという人間の持つ差別心を巧みに利用して、より多くの人々に脅迫観念を植えつけることで、人々を商品の消費に走らせている、と言える。あまり上等な宣伝方法ではないと感じるが、やはりというべきか、そうしなければ売れない物を商品としている以上は、現代社会では、こと資本主義社会ではそうせざるを得ないのだろう。ともあれ、水道水や下水処理など社会基盤となり得る仕事は、需要のあるなしを越えて発展させていくことが求められる。これは商品だけではなく、行政(サービス)や文化、研究、公共交通網、第一次産業(農林水産業)(エネルギィ供給事業)、土木事業、医療、教育にも言えることだ。需要がないものであっても、社会に普及させ、いつでも人々が利用できるようにしておくほうが好ましい仕事というものがある。商品である必要が本来はないものが、商品として流通させなければそもそも形態を維持できない状態に晒されている現状がまず以って問題なのだ、という指摘は一理あるように思われる。売れない物を商品にしているのがわるい、ではなく、売れない物であってもこれは社会にあったほうが好ましく、普及させておくべき代物だ、と判断されたモノについては、社会が援助をし、支援をして、公共物として扱うように制度を築いていくことが求められるのではないだろうか。売れた数を誇るまでもなくそもそもにおいて価値のある代物が、売れた数を誇示しなければ形態を維持できない現状は、ほとほと貧しい、と言えそうだ。(根っこを穿り返してもみれば、社会に必要のないモノを探すほうが、現代社会ではむつかしいのかもしれませんね)(主語を曖昧にさせた、何もかもが定かではない漠然とした印象論ですので、真に受ける余地がありませんが、どこか皮肉じみて読めなくもない気が致しますので、感情を乱されないように注意してください)
3170:【2021/08/23*人騒がせ】
(未推敲)
仕事から帰るとアパートのまえにパトカーが止まっていた。人混みができていたので、何があったんですか、と訊ねたところ、死体が発見されたらしいですよ、と野次馬の女が応じた。
私は妻と二人暮らしだったので、心配になり、野次馬を掻き分け、警察に声をかけた。
住人なんですが、と言うと、部屋の番号を訊き返され、部屋番号を口にすると、どうぞ、と通される。
階段をあがり、部屋に入る。
ニュースをつけると、ちょうど全国区の事件として報道されていた。
子どもが虐待死したようだ。
なんだ、と胸を撫でおろす。
「人騒がせだよな」
私は妻に投げかける。押し入れはガムテープでがんじがらめに目張りしてあり、奥からは壁や戸にぶつかる無数のハエの飛び交う音がする。
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参照:いくひ誌。【2441~2450】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054893176126