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いくひ誌。【3151~3160】

※日々、最悪を想定するだけで予知になる、そんな世の中は嫌じゃが。


3151:【2021/08/14*色んな異論】
両論併記の効用の一つに、情報の非対称性の埋め合わせが挙げられる。たとえばなぜデマや陰謀論がこれほどまでに世に流通するのかと言えば、基本的にデマや陰謀論では、通説や妥当と評価された論旨を否定することで、自説の正当性を訴える傾向にあるからだ(飽くまで因子の一つです)。反して、通説や妥当と評価されている論旨におかれては、すでに数多の反論や指摘を退けているために、いまさら過去に俎上に載せられた仮説を持ちだしたりはしない。だが人間には、Aに対する反証をだされると無条件にそれにより強化されたBの論説のほうが正しいように錯覚する性質がある。いわゆる認知バイアスである。そうした人間の認知の歪みが作用して、デマや陰謀論が人口に膾炙しやすくなる。たとえば詭弁では、そうした人間の認知バイアスを利用する。代表的なのは過度な一般化やストローマン手法だろう。ごく一部の例外を取りざたして全体を否定する手法や、相手の論旨を曲解して自説の正当性を訴える手法である。そうした詭弁を回避するために、両論併記は有効なのだ。たとえば過去のある国で大量殺戮があったとする。あらゆる検証がなされた結果、疑いの余地なくそうした事実があったと認められたとしても、時間経過にしたがって、過去に何が起きたのかは史実として処理され、関係者がのきなみ亡くなったあとでは、真実の解明はそれこそ残った資料による傍証に頼るしかなくなる。そうしたときに、過去にあの国で大量殺戮などはなかった、と訴える声がでてこないとも限らない。この場合、すでに事実として認められた論旨ほど、過去に否定されてきたあらゆる反論を度外視して、そうだからそうなのだ、と言い張ることに終始する傾向にある。反面、異論を唱えるほうでは、通説を紹介したうえで、矛盾を突くような反論を展開する。つまり原理的に、異論を唱えるほうが両論併記を伴ないやすく、相関してデマや陰謀論にもその傾向は表れる。そうしたとき、基礎知識がなく、慎重な検討を行わない者たちにとっては(言い換えればいくひしさんのような者にとっては)、両論併記されたうえで反証の示されているほうが正しいように見えてしまう。この情報の非対称性による見せかけの説得力が、両論併記の効用の一つとして挙げられる。ゆえに、誰もが陥りがちな誤った異論や仮説に対しては、敢えて両論併記し、それはすでに否定された説であることを示していくほうが、時間経過による「過去の論争の風化」に対抗できると想像できる。これはなぜ異論を封殺しないほうがよいのかの理由の一つでもある。異論があるからこそ、妥当な説は妥当だと証明されてきたのだ。異論を否定できたからこそ、通説は通説としてまかり通る。異論や疑問がなくてはそも、通説とて、ただのデマや陰謀論と区別がつかない。両論併記は事象の解釈を検討するうえで有効だ。必ずしも、両論を等しく妥当と評価する必要はない。両論を載せたうえで、どちらが妥当なのかを評価すればよいのだ。両論併記は、両論を比べてこそ意味がある。単なる紹介では、両論を表記する意味合いは半減どころか霧散する。比較することこそ、両論併記の効用である。必ずしも赤青ハッキリするわけではない。ある点に関しては、Aが妥当だが、別の点に関してはBが妥当だ、という比較結果も表れるだろう。往々にしてそうなるはずだ。だが総合して、どちらが「任意の事象」を解釈するのに有効であるのかは、「任意の事象」が何を示すかによって、一つの結論に収斂していく。つまり、何を問題視し、何を明らかにしたいのかの条件が限定されていればいるほどに、AとBを両論併記したところで結論は赤青ハッキリとつくと言える。手間がかかるかもしれないが、できるだけ両論は併記しておいたほうが、デマや陰謀論などの詭弁に騙される者を減らせるのではないか、と漠然とした印象を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3152:【2021/08/14*初めての盛り塩】
(未推敲)
 旧友が急死した。猛暑がつづいたあとに訪れたぐっと冷えこんだ日のことだった。
 朋輩(ほうばい)たち三人で通夜に行ってきた。彼女らと顔を合わせるのは久方ぶりのことだ。大学を卒業してから三人揃うのは初めてかもしれない。
 翌日の葬式にも参列するつもりで集まったので、その日はみな同じホテルに宿泊した。一人で過ごすのも寂しいので、ひとつの部屋に集まり、夜通し語り明かすことにした。
 最初は思い出を話し合って明るい雰囲気だったのだが、通夜にて旧友の死因を聞かされなかったことから、おそらく自殺なのだろう、とみな薄々察してはいた。
 二十代での死だ。夭逝と言っていい。早すぎる死はただそれだけでみな落ちこむ。
「なんでなんだろ」
 わたしがそう口にしたとき、目のまえを、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426431678930


3153:【2021/08/15*再読】
いまは個人的な再読ブームです。むかし読んだことのある本を読み直しているところなのですが、おもしろーい。いくひしさんは記憶力がナッシングなので、再読でも初めて読んでいるみたいにドキドキわくわくして読めちゃいます。去年読んだ本ですらすでに、内容が曖昧モコモコとメェメェさんで、それでもどことなくすらすらスリランカにぱらりんちょと読めてしまう感じがして、初めて読んだときよりも噛み砕きながら読めているのかもしれず、ぱらもるぱらもる気分がよいです。ご本さんと初めましてのときは、文章の一文一文が、大きな岩めいていて、大雑把にでもよいから真っ二つに割りながら読み進めていたのが、再読するときにはもう岩は割れておりますから、断面を眺めながら歩を進めたり、ときに破片を手に取ってカナヅチで割って中身に化石が交じっていないかを調べたりしながら読み進められるのかもしれません。より詳細に、記憶と照合しながら、ほかの考え方に照らし合わせながら読み進められているから初めましてのときと同じかそれ以上にわくわくどきどきできるのかなぁ、なんて思います。ですから、読む時間自体はそんなに変わらないみたいです。何かに集中したときほど複数の思考を同時に展開するじゃないですか。そうしたときほど時間が速く過ぎ去って感じられるので、同じ現象が起きているのかもしれません。そういう面では、余計なことを考えながら読んでいるという意味で、初めて読んだときのほうがより読書として純粋であり、文章と誠実に向き合っていると言えるのかもしれません。再読するときは余所見をしながら、なんだったらじぶんの内側のほうに焦点を移し、風景を重ね見るようにして文章を辿るので、より自由な思考――妄想にちかいという点で、再読したときのほうが愉快に感じるのかもしれませんね。(余裕ができたということです)(そうなのか?)(また口からデタラメを並べてしまいました。定かではありませんので、真に受けないように注意してください)


3154:【2021/08/15*やまびこは参る】
(未推敲)
 声は四方八方から聞こえた。部屋を駆け回る子どもの気配がある。闇に紛れ、姿は見えない。
 閃光が走る。雷鳴が振動となって身体の芯ごと揺さぶる。
 屋根に打ちつける豪雨の合間を縫って、
 もーいーかーい。
 子どもの声が聞こえる。
 まただ。
 別の方向から、しかも同じ声が響くのだ。
 ソファのうえで縮こまり、ミヨコは、目を閉じたまま何度も謝罪の言葉を反復する。それしかできることがなかった。
 膝ごと、白い玉を抱きしめる。
 お返しします。お返しします。
 念じながらミヨコは、四日前を思いだしている。
 その日、ミヨコは兄に連れだされて、別荘地のコテージにやってきていた。兄の会社の後輩たちが同伴しており、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426448999246


3155:【2021/08/16*岩肌に水】
旅行でもそうだと思うのだが、何か新しい刺激に触れた際に、フックとなる疑問がなければ、刺激は立て板に流す水のように内側をただ流れて終わる。流れる過程で、身体の内部の精神の淀みのようなものを洗い流してくれる効能があるにせよ、刺激を情報として掬いあげるにはまず、フックとなる疑問があったほうが好ましい。疑問は、前提知識によって生みだされる。知識がただあるだけではなく、じぶんなりに地図を築こうとしたときに生じる、予期せぬ欠落の発見が、疑問となる。どれくらい緻密な地図を築こうとするのかによって、疑問の深度や規模が決まってくる。緻密だろうと大雑把だろうと、疑問にはそれぞれに見合ったピースがある。ピースを見つけて、そのうちのどれが地図上の欠落に合致するのかを試行錯誤する過程が一つの大きな収穫だ。それそのものが思考の土壌として、内側の世界を豊かにする。これは旅行に限らず、読書にも言えることだ。いかに多くの本を読むのかよりも、どんな疑問を編みだし、それを埋めようとしていくのかのほうが、読書から得られる体験の質に影響すると言えそうだ。繰り返しになるが、刺激を情報として扱うにはまずフックがいる。フックとは疑問だ。刺激を得たからこそ生じる疑問もあるだろうし、元から内側に芽生えていたオウトツのごとく隆起した疑問もあるだろう。地図を築こうとして目についた欠落こそが、そうしたオウトツを構築している。世界を内側から眺めるときには欠落であったはずの、その窪みが、世界の側から内側を覗くときには、起伏として――フックとして機能する。場合によっては、内側に育つ木々の根がそこに巡ることもあるはずだ。在るがままに刺激の流れに身を委ねることもときには有効だが、それだけでは刺激は情報として扱えない。情報は、組み合わせ、地図を築こうとすることで十全にその機能をまっとうする。刺激に触れることにばかり傾倒していると、内側がどんどん希薄になってしまう副作用も表れよう。激しい流れにも削り取られぬことのない種々雑多な疑問をそろえ、窪みを起伏とする。ときにそこに大樹の種を撒き、根を張らせ、刺激を養分として吸いあげ、葉を茂らせる。大樹をひとつ育てあげれば、そこにもまた種子が実り、数多の窪みに、新たな芽が根づくだろう。滂沱の刺激に身を浸すことも一つだが、並行して、疑問を取りそろえるべく、岩のうえに寝そべり、日向ぼっこをしながら夢想することも、地図を描くという意味では、有効なのではないだろうか。(定かではありません)


3156:【2021/08/16*サイレンの音はまだやまない】
(未推敲)
 友人の様子が妙だ、と気づいたのは、彼が部屋に引きこもってからしばらくしてからのことで、わたしが彼の部屋を訪れた三回目のことだった。
 友人とは大学で出会い、研究課題が似通っていたことから縁を繋いだ。以降、私が大学を卒業してからも彼との交流はつづいていたのだが、院へと進んだ彼はことしになってから急に休学をし、部屋から一歩もそとに出なくなった。
 思うところがあったのだろう、と思い、電波越しにテキストメッセージを飛ばして、しばらく様子を見ていた。そっとしておいたほうがよいように思ったのだ。
 食事はどうしているのだ、と訊いてみたところ、引きこもる前に缶詰を大量に購入しておいた、との返事があったので、食事はちゃんとしろ、と一度目の訪問を決めた。
 会ってみると比較的元気そうだった。部屋もきれいに片付いており、かといって身辺整理をしたといった様子もなく、すこしほっとしたのを覚えている。
「元気か。ほいこれお見舞い」
「病気じゃないんだが」
「病気になってからじゃ遅いだろ。前祝いみたいなもんだ」
「なんだそりゃ」
 引きこもっていても食料の配達はしてもらえる。やり方を教えるが、どうも気乗りしないようだった。
「貯蓄はあるのか」大事な事項に気づき、訊いた。
「まだだいじょうだが、かといっていつまでもこうしていられるほどではないよ」
「底を突いたらどうするつもりだ」
「どうするも、こうするも、どうにかお金を稼がなきゃならんだろう」
 正気を失ってはいないようだった。はたまた、正気を失っていないからこそ部屋に引きこもってしまったのかも分からない。
 私とて、ふと我に返る瞬間がある。現代社会にとっぷりと浸った自身の行動原理が、ひどく機械じみていて、動物の習性じみていて、自我なるものが失われている気分になるのだ。
 正気でいたらたしかにこんな生活は送っていないだろう。そう思うことがあるのも事実だった。
 友人との会話は、そうした自分の狂気を再認識する契機でもあった。むかしからそうだった。ゆえに彼とはこうして縁を繋ぎとめていられるのかもしれない。
 彼には、私の失った何かがいつも漲って感じられた。
 二度目に部屋を訪れたのはそれからひと月後のことだ。世間では通り魔殺人やら、他国の政権崩壊やら、物騒な話題がつづいている。
「その点、ここは変わらずで落ち着くよ」本心から言った。
「世間と切り離された異次元ってことかな。でもずっといるとさすがに僕でも気が滅入る」
「寂しくないのか」
「寂しい、のかな。寂しいと思うこともあるよ。でも、さいきん子猫を飼いはじめたから」
「子猫?」部屋を見渡すが、動く物体はない。餌置きもなければ、ゲージもなく、猫特有の匂いもない。
 からかわれたか、と思ったが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426464195281


3157:【2021/08/17*いまさらですけどすごくないですか?】
実験や検証という段取りを省いて、理屈と結果だけを学べるいわゆる教科書や専門書の類は、本来ならばかかるはずのコストを体感として知っている者ほど、その価値を高く見積もれる傾向にあると想像できる。あまりに安価に手に入るので、いくひしさん自身、本の真価を未だに正確に計れていないし、実際、十数年前までは、本なんかこの世になくとも構わない、じぶんにとっては些末も同然の代物であった。だが日に日に、本当に毎日のように、本の価値の底知れなさを実感する。本の、とは言ったが、その中身をつむぐために費やした著者の人生そのものから、著者に蓄積された思考形態に価値を見出した者たちの審美眼から、書物を編むための仕組み、それらを流通させるための構造や、それらを未だに求める者たちの飽くなき好奇心には、やはり想像しきれぬ底知れなさを感じずにはいられない。書物の歴史にしてもそうだ。いまはまだ想像することしかできないが、その歴史を辿るだけでも、極上の物語を味わえると予感できる。いまさらなんですけど、本、すごくないですか?(入り口を覗いた程度のいくひしさんですらこう感じるのだから、ずっぽり足を踏み入れて、身を浸している者たちの感慨ときたら、ただそれだけで人生が楽しいだろうなぁ、とうらやましく思ってしまうな。はやくいくひしさんもその境地に立ってみたいです)


3158:【2021/08/17*ハラスハウス】
(未推敲)
「さいきん、ようやくパワハラとかセクハラが問題視されてきたでしょう。本当にやっとうちの会社でもそういうのの社内啓蒙とか教育とか、本腰あげて対策とりはじめてくれてね」
「よかったですね」
「でもまだモラハラとかは全然だよ。子どもの嫌がらせみたいなことみんな普通にするし」
「それはつらいですね」
「その点、きみはいいね。じぶん一人だけで完結して仕事できて」
「そう、ですかねぇ」
 あはは、と愛想笑いする。もちろん僕だって取引先とのやり取りでは立場が下だし、相応に嫌な思いはしているのだが、原須さんにそう言われるということは、僕自身が周囲にそう感じさせない態度を保っていることの証とも言えるので、そうわるい気はしなかった。
「そう言えば、前に原須(ハラス)さんに言われて調べてみたいんですよね。モラハラって何だろうって思って。そしたらけっこう僕もじぶんの身内にしちゃいがちで、反省しました。早めに気づけてよかったです」
「おう、そうなのな。機嫌わるいときに話しかけられるとついつい無視しちゃったり、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426497400770


3159:【2021/08/18*偶然の出会いを】
出版社の役割にはいろいろとあり、一概にどうこう言えるものではなく、時代によってその内容は変化していくものだという前提のうえで所感を述べるが、出版社のいま最も達成すべき仕事は、出版した本を、それを本当に必要としている者の手に渡るように仕組みを築いていくことだと思っている。これまでの社会ではそのための最も効率のよい手法が、できるだけ多くの不特定多数に本を売ることだった。だが大量生産大量消費の時代は過去のものとなりつつある。否、その流れは舞台をインターネット上に移し、かつてないほどに奔騰を極めている。商品やサービスが情報となって大量にコピーされ、氾濫し、蓄積されつづけている。物理本でそうした手法を行うのは社会にとっても企業にとっても負担でしかない。となれば、これまでのような、より多くの人々に本を売りつける手法以外の方法論を考えていくほうが合理的と言える。たとえば、ピンポイントでその本を必要としている者の手に渡るように導線を繋ぐ仕組みが考えられる。大量に本を売ればいい、という考え方から脱しなければ、そうした工夫をとろうともしないだろう。考え方を根本的に変えていく必要がある。否、元来の目的を思いだし、考えなしの「ヒットを飛ばせ」「いっぱい売り上げを伸ばせ」の方針から脱却していくことこそがこれからはますます求められていくはずだ。仮に、任意の本を出版したとして、全世界に百人しかそれを必要としている読者がいなかったとしたら、その百人がずばりその本を手に取ることのできる環境を築いていくことが出版社の役割となる。だがここで浮上する無視できない問題の一つに、読者が必ずしもじぶんにとって本当に必要な本がどんな本かを想定できているわけではない、自覚できているわけではない点が挙げられる。本には、偶然の出会いによってその人の生き方そのものを変えてしまう魔力が備わっている。それを魅力と言い換えてもよいが、いずれにせよ、必ずしも本を必要としている者が、意識的に本を求めているとは限らない。往々にして、じぶんにとって必要な本がなんなのかを理解していない。それが本であることにすら気づいていない場合もすくなくないだろう。これは誰であってもそうなのだ。だからこそ、これからの情報社会では、ビッグデータ解析によって、個々人の潜在意識を分析し、こうした人にはこうした本が合うだろう、といったピンポイントでの紹介が有効になってくる。現在であっても、インターネット上の検索エンジンを通して、そうした潜在需要者に任意の広告を偏向して見せる手法が際立ってきてはいるが、それは飽くまで表層の情報でしかなく、エコーチェンバー現象や洗脳との区別をつけにくい。本の効能の一つには、欠落を埋めることが挙げられる。死角を自覚することにこそ読書の醍醐味があり、本人の無意識を拡張し、ときに無意識を意識の壇上にまで昇華することが注目すべき効能の一つに数えられる。とするならば、本人が内面に築いた人生の地図を拡張し、欠落を補完するような、「本人がいちど好悪の判子を捺した情報以外の情報」を扱い、感受させてくれる本こそが、読者にとって本当に必要な本と言えるはずだ(むろん、必要かどうかは、本人が決めることであり、結果論でしか確かめようがないが、漠然と売れている本を万人に薦めるのではなく、漫然と古典を紹介するのでもなく、こういった嗜好の変化を伴なった人物ならば、この本が合うのではないか、或いはこういった本とは相性がわるいのではないか、といった傾向は、ビッグデータによって抽出可能なはずだ。そしてそれは、偶然の出会いを、より好ましい出会いへと変える確率を高めるはずだ。インターネット上では書店よりも多くの書籍と出会える可能性に満ちているが、現状、その可能性は、未だ野ざらしの仕組みによって、妨げられている)。単に個人の地図を補強し、欠落を補完するだけではなく、その後に、どんな地図を築いていきたいのかの指針をより柔軟に、緻密に、精度高くつくりあげる触媒として、本は人間の可能性を飛躍的に高めるし、出会う本によっては、可能性を制限する桎梏ともなるだろう。当人に、いったいどんな水をそそげば、美しい花が咲くか。これはビッグデータからある程度抽出可能であり、曖昧さを残した選書には、無数の可能性を剪定し、読者の自由意思をより尊重した形で、より多種多様な本との出会いを促せるはずだ(ある種、その人のためだけの書店をインターネット上に自動で築きあげてくれる仕組みと言えるかもしれません。気になった人の書店を覗くことで、書店がその都度カスタマイズされ、拡張されていく機能が付与されてもいいでしょう)。司書や書評家の役割を担うようなシステムの構築が、いまこそ求められている(このシステムを築き、機能させ、維持するためには、いま以上に司書や書評家の存在が――協力が――欠かせない)。それは、大ヒットを飛ばせ目指せや、の視野の狭い考え方からの脱却なしには成し得ない。本は、たくさん売れなくともいい(もちろんたくさん売れてもいいが)。本当に必要としている者の手に渡れば、それでいいのだ。世界でたった一人しか読者がいないのならば、その読者に届くように出版社は戦略や仕組みを整える。本来の出版とは、そうした理想の元に築かれてきたのではないのだろうか。(妄想ゆえ、定かではありません)(異論はあるでしょうし、いくひしさん自身も、これが唯一解だとは思ってはいませんが、これからの社会の変容具合を想像してみるに、そうそう的を外した方向性ではないようにも思えます)(あなたはどう思われるでしょう)(或いは、どんな社会の到来を望んでいらっしゃるのでしょう。気になります)


3160:【2021/08/19*映りこむ者】
(未推敲)
 部屋に引きこもりながらでも仕事ができるようになったので、通勤の分の時間が浮いた。
 何か趣味でも嗜もうと思い、動画を投稿しはじめたのだが、半年経っても未だに登録者数は一桁台で、視聴回数も伸び悩んでいる。
 動画の内容がおもしろくないのだろう。それはそうだ。近所の公園やデパートの屋上など、身近な場所の景色を背景に、逆立ちをしているだけなのだ。パフォーマンスと呼ぶにも芸がない。
 だが継続は力なりだ。当初は一秒も保たなかったのが、いまでは三十秒ほど倒立を維持できる。
 最終的には片手倒立でもできるようになれたらうれしいが、あと何十年かかるだろう。どの道ほかにしたいこともない。気長につづけてみることにする。
 ところがある日、急に動画の視聴回数が跳ねた。それもすべての動画が一様に増えていた。
 だが評価は低い。
 否、半々といった具合で、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426528286831


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参照:いくひ誌。【2884~2900】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220755314648

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