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いくひ誌。【2884~2900】

また「いくひ誌。」をはじめていこう、と思います。
去年2020年の9月からお休みしておりました。そのあいだ、ちょこちょこと日誌はつむいでいたので、それらを載せてから、また以前のようなどうしようもない、くだらない「いくひ誌。」をつむいでいこうと思います。
(下にいくほど日付の新しい記事になります)(推敲をしておりませんので、ちょこちょことゆっくりしていこうと思います)

まずは2020/09~2021/03までのを並べていきます。


※日々、過去のじぶんの光を知り、いまのじぶんの影を知る。


2884:【信なくとも理はあり、理なくしての信は危うい】
信頼とか信用とかいうものに判断基準を置いているひとが多すぎはしないだろうか。信頼できずとも、信用できずとも、理屈として正しければ、それは否定せずに、それはそうですね、と認めることが議論を交わすための大前提だろう。そのうえで、理屈のなかにも限定的な場合や、例外を多分に含む場合、枠組みが広すぎて、もうすこし具体的に事例を当てはめて考えなければならない場合や、反対に具体的すぎて汎用性が足りない場合など、さまざまある。


2885:【剣を振るう者】
悪人が剣を持つことは断固として否定するのに、善人ならまあよいだろう、と考える。いまここでキミは、それの何が問題なの、と疑問に思う。悪人はだってひとを傷つけ、じぶんが得をすることだけを考えて剣を振るうけど、善人は他者を守るために剣を用いるから問題ないんじゃないの、とキミは無垢な顔でそう嘯く。間違ってはいないだろう。警察なんてその代表格だ。他者の自由を奪うこと、危害を加えることを、一定の条件下では許されている。裁判官は、他者の人生を揺るがす決定をやはりある一定の条件のもとで下すことができる。強制できる。社会システムのうえでは妥協しなければならない「正しさ」なのだろう。キミだけでなく、未来のキミ、つまりワタシもまたそう思う。でも、それは社会システムとしてみなで決めたことのみ許される例外だ。法律とは、社会における例外なのだ。本来、それは誰も他者へ強要できない束縛であり、自由の侵害だ。だが、じぶんができるだけ自由でいるためには、できるだけ多くのひとたちが自由を甘受できる環境を築いていくのが合理的だ。すなわち社会を築いていくために、例外をみなで許容し、妥協しようとしてつくられたのが法律なのだ。憲法はあべこべに、社会システムそのものへ、ある種の枷をはめ、これ以上の変革を得ないように、カタチが歪まないように、この枠組みのなかでなんとかよりよく変わっていってくれ、と定めている社会のDNAみたいなものだ。おいそれとゲノム編集のように変えてもらっては困る、変えるにしても慎重になってくれ、というのは一理と言わずして、百理ある。キミはまだファシズムがどういうものかを分かっていない。あいにくとワタシもまだよく理解してはいない。ある時代の、ある国民たちの運動が、よろしくない結果を生みだした。その流れを漠然とファシズムと呼んでいるのだろう、との認識でしかない。だが、いっぽうで、似たような動きを国民がして、それがよい結果を生みだしたら、それは好ましい動きとして評価されるのか。キミはどう思うだろう。いま、キミの時代にもインターネットが選挙を無視して、政府の動向を左右する力を持ちつつあるはずだ。あらゆる表現物には数字がぶらさがり、その数の多さによって、影響力が正比例して増していく。それはあたかも、資本の高さが、政治への影響力を持つのと似たような構図だ。だが、理屈は、それら影響力とは独立して、妥当性を保っている。数はある種の暴力だ。振りかざせば、剣となって、人を傷つけ、虐げ得る。同時に、ほかの暴力から、虐げられている人々を守ることもできるだろう。だからといって、剣を振るった事実は変わらない。剣を振るうことは正しいことなのか。キミはやはり、時と場合によるだろうと言うはずだ。だがそれは、善人と呼ばれた者ならば、悪を働いてもよい、という危うげな理屈を肯定しはしないだろうか。抵抗権というものがある。権力に対する抵抗を、国民はすることができる。だが同時に、それを揮った側の者たちが、権力そのものを保持し、誰かしらを虐げる側に回らない保障はどこにもない。剣を手にした者は、それを振るったときに、その後に剣を置き、ただの一介の人に戻ろうとする努力をそそがねばならない。いちど手にした権力を手放し、許容された罪をそそがなければならないのだ。許容されようと、罪は罪だ。じぶんが振るった剣により傷ついた者がいる。その事実からは目を逸らさないほうが好ましいのではないか。じぶんが人であるために。より人間らしくあるために。


2886:【天秤の支点はどこ?】
悪人は剣を振るってはダメだが、善人なら剣を振るってよい、との理屈は、破滅の道にまっしぐらに思えるが、いかがだろう(せめて、本当はダメだけど、一時的にはしょうがないよね、くらいの理屈は欲しいところだ。法律とは、国民がみなで許容した暴力だ、としても一つの解釈として妥当なのではないか。ある一定の条件下においては、他者の自由を損なえる、という意味で、暴力でないと否定するほうがむつかしく思える)。


2887:【多数であるだけで帯びるもの】
数の暴力は基本的には使わないほうが好ましい。選挙や特定の条件下のもとでは許容されるが、本来であれば、たくさん支持を集めたからどうこう、というのは乱暴だ。信頼や信用の有無よりも、まずは理屈としてどうかを判断基準にしたほうが揉め事を増やさずに済むはずだ。同時に、理屈として妥当だとしても、それはほんの限られた範囲でのみ有効な渦みたいなもので、その場を離れれば、数々の例外に呑み込まれ、歪んでしまう儚さがある点は憶えておいて損はないだろう。数の暴力は効果的だが、それゆえに暴力である点を忘れないほうがのちのち、数の暴力を使われたときに、抗議する建前を保てるはずだ。使うにしても、暴力を行使している、という自覚は忘れないようにしたほうがよいのではないか、と思うしだいだ(つまり、少数派の意見を排除しかねない懸念がつねにある点を考慮し、じぶんが排除する側に回っている点を忘れないでほしい、という願望です)。


2888:【非対称】
頭のよいはずのひとたちとしゃべっても、こちらは相手の言っていることがなんとなく解るのに、こちらの言うことはほとんど通じていない、ということがたびたびあって、よほどいくひしさんがアホなのだなぁ、と思うのだけれど、たぶんしゃべるのが苦手なだけだ。あとになってじぶんの言動を振り返っても、それじゃあ伝わらんだろう、と思うのだよね。


2889:【差別をするな、と嘯く差別主義者たち】
ホームレスに限らず、いわゆる社会的弱者とされている者たちに関して何かしら言及をすると、いまは割と批判の声が向けられやすいようだ。個人には誰にでも批判の自由があるので、批判をすることそのものに関してはどうこう思わないが、いっぽうで、社会的弱者を扱うのだから書き方に気をつけろ、手厚く配慮をしろ、そうでなければそうしたテキストを高く評価するな、というのは違うような気がする。むしろどちらかと言えば、そうした声が、差別感情や偏見をあべこべに強化しているように感じる。じっさい強化されるだろう。なぜなら、そうして気軽に社会的弱者とされる者たちに言及できないことで、触れてはならないものとして、社会的弱者と評価される者たちの属性が再定義されてしまうからだ。ホームレスのひとたちとじっさいに触れあいそれを文章に興した人と、とくに何もせずにそうした文章を批判だけしている人とでは、どちらがホームレスに対して差別感情を抱いている、と言えるだろう。差別の感情を露わにしているだろう。どうしてホームレスの生活をおもしろおかしく叙述した文章が批判の的に晒され、ホームレスの生活に目を向けずに、触れずにきた者たちが、まるでじぶんたちはホームレスへの差別感情などないかのように批判の言葉を投げつけられるのだろう(断るまでもなく、批判の言葉を投じる者たちの中にはホームレスとされる者たちと交流のある人物もあるだろう)。もちろんどんな人物であろうと批判の自由はある。専門家でなければ批判してはいけない、なんてことはない。だが、文章から差別感情を見出せるのは、そこに描かれた人物たちが差別対象だと認識している者だけだ、ということは知っておいて損はないはずだ。牛や豚の死肉を焼いて食べると美味しい、という文章を、情緒豊かに叙述したとしてもそれは差別とは見做されない。だが、そこには家畜と人間とのあいだに差別の構図が横たわっている。現代社会でその構図が差別と見做されていないだけのことである。本来であれば、ホームレスであろうと家持ちであろうと、個人の幸福を追求していられる生活の余裕を、社会が保障していけるのが理想であるはずだ。ホームレスだからわるいのではない。ホームレスだと長期間にわたって個人の幸福を追求しつづけられない環境が問題なのだ。ホームレスだから、問題なのではない。そこをはき違えないことである。そうでなければ、ホームレスへの差別を問題視している者たちが、ホームレスへの差別を煽る方向に働きかけない。これはホームレスに限らず、あらゆる社会的弱者とされている者たちへの差別に根差した問題である。社会的弱者だからいけないのではない。そして、社会的弱者を、弱者にしているのは、その他大勢であり、社会のシステムだということを度外視しては議論は空転し、ねじれ、差別の色合いを変えながら悲劇を繰り返していくこととなる。繰り返すが、社会的弱者とされる者たちを、弱者にしているのは、弱者とされる者たち自身ではない(奴隷を奴隷にしたのは奴隷自身ではないのと同じ理屈だ)。そこをはき違えないほうがよろしいように意見を述べて、久方ぶりの「いくひ誌。」とさせていただこう。(ちなみに、2020年11月17日現在、インターネット上で俎上に載せられている「ホームレスを扱ったテキスト」を読んだ所感を記しておく。主として二点だ。一つは、おそらく取材対象であるホームレスと評される人物たちは、件のテキストを読んでも不快に思うことはないだろう、という点が一つ――憶測なのでこれはじっさいに読んでもらわねば判断つかない旨は断っておく。それから、書き手に対しては、これはホームレスではなく、飽くまでホームレスという属性を持った個人との触れあいだという目線で書いたほうが読者には好ましく映っただろう、点だ。ホームレスという人間はいない。ホームレスという属性を持った個人がいるだけである。そこを度外視して、ホームレスと個人をイコールで結びつけ、人種化してしまった点に、批判の余地があるように感じた。が、目くじらを立てるほどのことではない、というのがいくひしさんの所感である。問題だと批判する物書きがいるならば、ぜひともホームレスの属性を持った人物が主人公の小説をつくってほしいと望むものだ。また、賞を与えたのが問題だ、とする意見も見られるが、賞にいったいどんな幻想を重ね視ているのだろう。メディアの責任、というが、そもそもメディアが責任を取ったためしがあったのか、と問いたい。家を持たぬ者はきょうも寒空の下で、寝ずに晩を明かしている。寝ると死ぬからだ。店が開くまで、地面に座ることもなく歩きつづける。批判をするにしても、ほかにもっと優先して投げかけるところがあるはずだ。この機にそちらのほうにもよくよく目を向けてほしい。いくひしさんは目を向けるようにします。しかしそこからさき、行動に移すためには考えなければならないことが多すぎる。一時の善意で、肉まんを施すことは果たしてよいことなのか。その場の思い付きで毛布を与えることは侮蔑になるのではないか。何をすれば助けになるのかが分からないし、当人が助けを求めているのかも、傍から見ているだけでは判らない。それは、ホームレスだから、ではない。誰もが他者と隔たっている。手を伸ばせば届きあう距離で、何もせずに、知ろうともせず、或いはその知ろうとする興味関心を、差別だとあげつらいながら)


2890:【2020/11/25】
現在における所感。感染症対策として有効なのは、人混みに行かないことと遠距離移動をしないことの二点が最も効果があり、そのつぎにマスクや手洗いの徹底だろう。だが現状、マスクや手洗いをしているからだいじょうぶだと言って、人混みや遠距離移動を行う者が後を絶たない。非常事態宣言のあった時期以前の行動に多くの者が戻ろうとしている。リスクは確率の問題だ。マスクをすることで得られる予防と、人混みに出向かないことで得られる予防とでは、リスク回避の確率が桁違いだと想像できる。マスクの生地の違いで生じる感染リスクの差よりも、人混みに出向かないこととマスクをすることのあいだの差のほうが遥かに大きいはずだ。原子と分子とでは、原子のほうがちいさいが、原子と石ころでは、大きさの桁や観念そのものが違ってくる。マスクをするしないよりも、人混みに出向くか出向かないかのほうが、感染リスクの増減に大きく作用する。優先順位があべこべゆえ、社会全体の行動様式そのものを現状に適応していくように変えていこうとしなければ、たとえワクチンが普及しようが同じことの繰り返しが起こるだろう。もはや人口過密型の都市設計と、遠距離移動型のグローバル化は、時代にそぐわないと言えそうだ。経済競争をしている場合ではない。その余裕はない。真の意味でのグローバル化に向けて舵を取ってほしいと望むものだ。


2891:【構造を知ることの利】
平和教育や反戦教育をする場合、多くは二つの枠組みを使う。一つは戦争の悲惨さを説く場合、もう一つは、命の尊さを説く場合である。しかしここにさらにもう一つの選択肢を加えてもよいと私は考える。それは戦争をしたがる者の心理を描くことだ。戦争は絶対悪ではない。絶対悪ではないからこそ人類は繰り返し戦争という失態を犯した。戦争をしようとしてする者はいない。多くは、戦争には反対だ、と言いながら戦争に発展してしまうのだ。気づくと、戦争と呼ばれるものに化けている。あとからみて、ああこれが戦争だったのか、と気づく場合が大半だ。戦争だと判っていながら止められないこともすくなくないだろう。戦争は、ときに肯定され得る。だからこそ、なぜ肯定されてしまうのか、その過程を、心理を描くことで、同じ状況に立たされたときにこのままではいけないとの自制を働かせられる人間を育める。暴力はいけない、と訴えるだけでは足りない。なぜ人は暴力をふるってしまうのか、その背景に思いを馳せ、現象を現象として読み解かねばならない。暴力はいけないと口で言う者が、その手で暴力をふるっているなんてことは珍しくはない。暴力はいけなくはない。ゆえに危ういのだ。戦争もまた然りである。


2892:【膨張にも時差がある?】
宇宙の初期に関しての疑問がある。何秒後に宇宙がどのくらい膨張し、何万年、何億年後にどうなった、といった記述を見かけることがある。宇宙は最初、素粒子レベルの大きさの中に全宇宙の質量(エネルギィ)が納まっていたと考えられている。だとすれば、膨張しはじめたときは必然、密度の揺らぎがあったはずだ。段々畑のように中心から遠のくほど薄くなっていったはずなのだ。ならば、一秒後ですら、見る場所によっては数億年の差異があってふしぎではない。一般相対性理論によれば、重力が高ければ時間は遅く流れ、低ければ速く流れる。宇宙がより小さかったころほど、膨張したあとの宇宙と比べて時間の流れは遅く流れていたと想像できる。つまり、一秒後にどうなっていた、と考えるときには、宇宙初期の場合であればあるほど、どの宇宙から見たときの時間かを定めなければ、空虚な、定量的でないあいまいな尺度と解釈しなければならない懸念が生じる。繰り返しになるが、宇宙初期において、たとえ一秒であろうとも、そこでは、一秒後と一秒前とのあいだに、必ずしも一秒の差があるとは限らず、観測地点によっては、数億年の遅延が生じてふしぎではない。


2893:【価値観の変容は目に見えない】
みなが洞穴のなかで暮らさざるを得ない時代にあって、これまでの日常にあった自由は制限され、否応なく、いまの日常を基準とした自由が再定義される。それは言い換えれば、制限されて当然の縛りが社会に蔓延することの裏返しでもある。いまの生活が基準となった世代は、これまでの傍若無人な自由を追い求める世代とは大きく異なった倫理観を備えるだろう。些細な個人の自由への欲求が社会を大きく揺るがすことを体感として、無意識のうちから、恐怖する世代だ。そしてそうした自由を追い求める個人を許容できないとする価値観を育みつつあるのではないか。同調圧力の時代は加速するのではないか、との懸念を覚えるが、かといってこれまでの(利己的な)自由への渇望の時代が正しかったとも思えない。ちょうどよい塩梅を探るよい機会として、なんとかよりより社会、よりよい倫理観、考える力を個々人が備えた未来を追い求めていきたいものである。それは社会のためではない。じぶんのためである。しかしこれもまた、何かしらの腫瘍を抱え込んでいるのだろう。自覚できないことが口惜しい。


2894:【埋もれる素子】
大きな流れのなかには逆行したり、静止していたりと、流れに従わない成分も存在する。しかし多くは、大きな流れに埋もれ、総合して存在しないように振舞う。これは時空や流行といった、あらゆる現象に共通の原理に思われる。存在しないように観測されるだけであり、真実存在しないわけではないのだろう。埋もれた現象を発掘するには、大きな流れをいったんどかしたり、打ち消したりする手法が有効だ。そのためには、大きな流れを制御できるくらいの技術やエネルギィがいる。工夫がいる。人間社会の問題にしろ、物理現象にしろこれは変わらない。大きな流ればかりに目を留めるのならば、そも、大きな流れを制御しようとする発想すら必要でない。埋もれた成分、流れ、存在に目を留めようとするからこそ、大き流れに流されないようにしようとする意思が芽生える。そうでなければただ大きな流れに流されていれば済む道理だ。そのほうが楽でもある。だが、それだけでは世界を、真理を、垣間見る真似はできないのだ。


2895:【余白の再利用】
他者の創作物を素材に使うには抵抗がある。物をつくるよろこびやたのしみを知る創作者であれば、他者の創作物を利用することには大なり小なり罪悪感がつきまとう。そうでなくとも、すべてがすべてじぶんの創作物でないことに懊悩するものだ。そうした葛藤は、創作活動を行ううえである種の抵抗となり得る。ブレーキを知らず知らずのうちにかけてしまう。そうした抵抗を払拭するには、じぶんの創作物の純度を高めていくしかない。これには二通りの手法がある。一つは、より細かく分解し、無数のブロックにして利用する手法だ。他者からは何を素材にしたかが分からないくらいに細かくすれば、完成品はほとんど別物となる。だが、じぶんに嘘はつけない。何に影響され、何を素材にしたのかをじぶんだけは知ることとなる。もう一つは、じぶんの創作物を素材にしてしまうことだ。たとえ最初の一品が、何らかの模倣であろうと、それを素材にべつの作品をつくってしまえば、割合として、元の素材からは遠ざかる。これを繰り返していけば、おのずとオリジナルの成分は濃くなっていく道理である。ゆえに、多作であることは、オリジナルを生みだすうえで優位に働くと言える。他者の作品を素材にするには抵抗があるが、じぶんの作品であればいくらでも利用できる。ひとつの作品をつくるなかで、ボツにした部品も溜まっていく。そうした部品を繋ぎに使えば、より純度の高い新しい創作物になる確率があがる。ゆえに、まずはつくることが優先される。オリジナルの純度を高めたくば、まずはつくることである。そのうえで、これまでつくらなかった構造や組み合わせを有した作品を手掛けることが、オリジナルを高める術として有効だと考えるしだいである。


2896:【底辺を歩く蟻】
世界で一番不幸になりたい。誤解のある言い方になってしまったかもしれないが、私が世界で一番不幸だと言えるくらいに社会には豊かになってほしいということだ。いまの私が世界で一番不幸だと言えるくらいに、みなにはしあわせになってほしい。だからこそ私は誰よりも幸せになるべく日々を生きるし、私がしあわせになればなるほど、世界の最底最悪の基準がどんどんあがっていく。おそらく現在の私は、過去の王様よりも豊かな環境に生きているし、幸せな日々を送っている。それなのに不幸だと嘆き、しあわせになりたいと悩んだりする。それでいいと思う。世界で一番しあわせに貪欲で、世界一不幸でありたい。そういう社会を築いてけたらよいのにな。


2897:【こぼれおちゆくもの】
いまできること、いま上達していること、いま持っているもの、いま手に入れようとしているもの、それらは総じてあと数十年もすれば手からこぼれおちていくものばかりだ。何一つとして残らない。しかし、残るものよりも、残らないが、いま手にしなければもう手に入らないもの、いま欲しなければ二度と手にできなくなるものほど、輝いて映る。命がそうであるのと同じように。それとも、命そのものを欲するがごとく。


2898:【感謝は得難い】
ひとの役に立ちたいという欲求と、感謝されたいとの欲求をごっちゃにしている人が多すぎやしないだろうか。ひとの役に立つのはそれほどむつかしくない。そこらの道端のゴミ掃除でもすればいい。通行人の邪魔にならないように人通りのすくない明け方にするのがよいだろう。ほかにもひとの役に立つことなどいくらでもある。ひとのやりたがらないことをすればいい。迷惑になることを、ではない。感謝されることを、でもないのだ。百年後の未来のためにいまできることをしておく、未来に備えておく、というのも十二分に人の役に立つことである。


2899:【点描よりも荒く】
色を置いてくるタイプの絵が好き。


2900:【支柱よりも、それによりできる空間のほうが本質であることもある】
過去に起きた事象と、なぜ起きたのか、の因果関係は、必ずしも正しく描写できるとは限らない。おそらくそうだろう、という観測は可能だろうが、おおよそ多くの細かな因果が取りこぼされており、それら細かな因果を度外視している以上は、正しい因果とは言えない。こうなったからこうなった、と事象の経緯を辿ることは無駄ではなく、ある一定の枠組みで概要としての因果関係と捉えることは間違ってはいないが、正しくもない。過去を正しく捉えることは原理的にできず、それは現実にしろ同様である。より正しい解釈を捻りだす以外に、人間にできることはないと言ってよい。むろんこの主張すら、より正しい解釈でしかなく、完璧に正しいということはあり得ないわけであるが。


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参照:いくひ誌。【741~750】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884057596

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