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いくひ誌。【2901~2910】

※日々、最弱ばかりを記録する。


2901:【意識の輪郭】
円を意識できるようになると球体を意識できるようになる。球体を意識できるようになると、じぶんの影を意識できるようになり、空気のうねりや、じぶんをとりまく流れを捉えらえようとする意思の芽生える余地が生じる。じぶんを俯瞰するための目はその球面上に生じるし、円周をどこまでも延ばすことも可能だ。


2902:【衰えを自覚できるだけマシ】
成長具合というか、知識や技術の物覚えがにぶくなっていくにつれて、衰える速度も、若いころに比べると遅くなっている気がするが、おそらくとっくに衰えきっているために、これ以上衰える余地がなくなっているだけの可能性もある。つまりが錯覚だ。総合して衰えている。じぶんを見詰める目まで衰えているので、すこしは成長しているのだ、前よりもマシなのだ、と思い込んでしまうのだろう。若いころは傲慢だったが、いまでは傲慢であることにも気づけない。歳をとるとは老いることなり。老いるとはしかし、劣ることなりや。


2903:【灯台下暗し】
全然上達しないなぁ、と思っていても、予想外の方向で新しい技術が身についていたり、道に踏み入れていたことを、全然上達しないなぁと思いながらしていたときから十年後くらいにやっと自覚できるというか、じぶんで認められるようになる。かといってやっぱり現状は、全然上達しないなぁ、上手くいかないなぁ、と理想を見据えて、ぼやいている。


2904:【ちいさな卵、それはうずら】
いろいろなことができるようになりたいし、いろいろなことを知りたいと思っているけれど、それと同じかそれ以上に、したくないことをしないでいられるようになりたいし、したいことだけしていたいと思っている。ずぼら。


2905:【継続することでしか分からないこともある】
もうこれ以上、上手くなることはないんだ、新しい技を覚えることはできないんだ、もうこれが限界なんだ、だめだー、と思いながらも、なんだかんだつづけていると、やっぱり新しい技はなかなか覚えないし、同じことの繰り返ししかしてなくて飽きてくるけれど、それはそれとして、まあいっか、こんなもんだな、と現状を受け入れられるようになっていく。自己肯定とは違う。肯定なんかできないし、じぶんはどうしてこんなに情けないのだろう、弱いのだろう、未熟なのだろう、と物足りなさを感じながらも、まあこれがじぶんだしな、といますぐにはどうしようもないことを認められるようになる。と思ったけどそうでもないかも。ないな。


2906:【ショートであろうとケーキは美味い】
ショートショートの作り方において。大きく分けるとショートショートは三つに分類できる。点の数によって、一、二、三とする。まずは一だ。これは最もシンプルな構成で、ただ物語をスタートすればよい。最初の一点のみ経由すればよく、コーヒーを飲むでも、旅にでるでも、何かをはじめ、叙述してしまえば、それがショートショートとなる。どこで終わるかは関係ない。ただスタートし、好きなところで筆を擱けばよい。二つ目は、スタートとゴールの二つに点を打ち、そこを通るように物語を転がしていく手法だ。これはゴールが設定されている分、物語を任意のフレームに押し込めることができる。額縁があったほうが、そこから敢えて絵をはみださせることで逆説的に立体感や深淵さを演出可能だ。三つ目は、スタートとゴールのあいだに、捻転する点を打つ手法だ。どんでん返しや、オチのある物語構成をつくりやすい。エンタテインメントを標ぼうするならば意識しておいて損はないつくり方だ。ただし、点の数に限らず、小説は、その物語をおもしろく叙述したものがおもしろくなる。点の数が一つだろうと、三つだろうと、オチがあろうとなかろうと、おもしろいものはおもしろく、おもしろくないものはおもしろくない。そしてそのおもしろさを規定する読者は、それこそその小説を読解した者の数いる。あなたにとっておもしろくないものがたりが、ほかの誰かにとってはおもしろくなりうる。違う言い方をするならば、ある程度書き慣れてくると、点を三つ打っておいたほうがショートショートはつくりやすい。型の組み合わせでしかないからだ。そこにきて、点を一つしか打たない小説で極上の物語を編めたならば、それはどんな物語でもおもしろくできる書き手だとの傍証となりうる。各々、まずはつくってみることである。つくってしまえば、どうとでもなる。


2907:【虚構への旅行】
書きたいことも、ネタのストックもありません。常に、どうしよどうしよ、と思いながら、なんもないな、なんもないな、と焦りながら、でもなんか楽しいことをしたいな、と思ってじぶんの周りの世界に目を配ります。世界には見えているところと、見えていないところがあり、見えていないところに目を、奥へ奥へと、或いは深く、深く、潜らせます。とくに小説をつくることそのものは楽しくはないのですが、ほんのときどき真実それを体験しているような没入感を覚えます。それは映画を観るよりもずっとずっと現実味があって、旅行にでかけるよりも新たな出会いと刺激に溢れています。小説をつくることそのものよりも私は、この体感を得るために日々、ああでもないこうでもない、と言葉と戯れ、ときに打ちのめされているのです。


2908:【BGMの是非】
創作中に音楽を聴くときと聴かないときがあります。場合によりけりで、聴いているとものすごく物語のなかに入り込めるとき、却って深く潜れなくなるときがあります。物語の雰囲気に合う曲だと体感ではよい集中状態に入れるようですが、物語は基本的には起伏がありますので、ある部分ではちょうどよくとも、ほかの部分ではちょっと、ということもでてきます。また、音楽のちからを借りて深く物語世界に入り込むことが直結して物語により合致した言葉の並びに繋がるわけではないようです。むしろどちらかと言えば、読者さんは作者の聴いている音楽を知らない状態で物語を読解するわけですから、何かが欠けたような読み味になってしまう懸念はつねにつきまとうように思います。ただ、それは音楽に限らないことですので、作者の想定している世界、体感している世界を読者さんはどうあっても読解することは適いません。程度の問題として、そういう考えもあるだろうな、程度に参考にしてくださるとうれしく思います(もちろん参考にしてくださらなくとも構いません)。


2909:【成長と確率】
成長とは確率を操作できるようになることである。百回のうち一回しか成功しなかったことを鍛錬ののちに百回のうち十回、二十回、ついには十割成功できるようになる。十割といかずとも、一%の成功率を、それ以上にすること。これが成長の内訳である。ゆえに、最初から得意なことを何十年もつづけていくよりかは、成功率の低いあまり得意でないもののうちで、これならば長くつづけても苦にならないだろう、というものの成長を望んだほうが長い目で見れば楽しい思いをしやすくなるだろう。成長する余地が多分に残されているからだ。確率を伸ばす余白がある。成長することを楽しめる者はつよい。言い換えればそれは、上手くいかないことを長く楽しめるということだからだ。成功する確率が上昇するとき、そこには勢いのような余分な加速度が生じる。それが助走の役割を果たし、本来ならば十割で止まるところを、壁を突破するように予想外の何かへと行き当あることがある。いつでも起こることではないが、成長しつづける者にときおり落ちてくる棚ぼたと言える。僥倖を掴み、さらなる余白へと突き進めたら御の字である。


2910:【痛みだけは無視できる】
小説をつくるのが楽しいときは、じっさいにじぶんが物語世界に降り立って旅をしている。そういう気分になるのではなく、真実に、現実と同等の質感を以って体験している。裏から言えば現実とはそれくらい曖昧な、想像と妄想と虚構のどれともハッキリと区別のつけられないあやふやそのものと言えるが、痛みだけは例外であり、現実とはすなわち痛みを無視できない虚構と言えそうだ。


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参照:いくひ誌。【1571~1580】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886971360

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