• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【2911~2920】

※日々、脱皮しつづけて虚無になる。


2911:【じぶんでも何言ってるか意味わからん】
民族や国で他者を区別することの意味はこれからさきどんどんなくなっていく、と妄想できる。反比例して、思想でひとを判断するような真似がまかりとおるのではないか、との懸念があるが、これの是非もまた慎重に見極めていきたいところである。というのも、人は一つの思想に染まりきることはできないからだ。つねに人は、いくつかの思想を重層して、思考の幅を限定している。名前のついていない思想もあるだろうし、知らずに任意の似た思想に浸かっていることもあるだろう。そして個人というものは、いくつも層を積み重ねたミルフィーユに通した一本の管のようなものであり、それを引き上げて現れる紋様はじつに多種多様である。似たような思想の組み合わせであろうとも、貫く位置や、層の重ねる順番(すなわち優先順位)や、層の厚さによって、いともたやすく模様は変化する。どの個人の管を比べても、まったく同じにはならない。なりようがない。それほど、思想で他者を区別することはむつかしく、区別する意味合いもまた薄いと言える。とはいえ、遠目で眺めて見れば似ている紋様もあるだろう。そうした紋様で区別すること(或いは同類項を結び付けること)がまったくの無意味ではない点には留意されたい。


2912:【選択肢の不平等】
性的指向に関する問題において、「社会のなかに漫然と漂う偏見への対処」と「個々人の性愛の差異をどう扱うか、といった当人たちの在り方」は、別々に考えたほうがよいだろう。たとえば同性愛の場合、人口の大多数を占める異性愛者を基準とした社会がかねてより築かれてきた。それによってもたらされる差別や偏見が強固に根強く社会を漂っているが、それを是正していくことと、ジェンダーフリーを基盤とした社会構造を構築していくことは必ずしもイコールとはならない。まず以って、同性愛者にしろ、異性愛者にしろ、そうした価値感は絶対ではないはずだ。異性愛者だからといって同性を愛せないわけではないだろうし、同性愛者だからといって異性を愛せないわけではないだろう。ジェンダーの差異においては、先天的と後天的の双方がまじりあって、個を個と足らしめている。生まれつきの同性愛者だろうと、異性愛者だろうと、生まれつきの個性に囚われる必然性はなく、むろん変わろうと努めなければならないというわけでもない。好きなように好きな相手を好けばよい。要するに、いま妨げられているそうした自由な指向や嗜好の変化を妨げるような流れをどのように変えていくかの問題と言える。人間は人間を愛するのであって、性別を愛するわけではない(もちろん、性別を特別に愛する、という指向性を持った個がいてもよいし、そうした嗜好もまた尊重されてしかるべきだ。しかし、そうした嗜好によって好悪の基準が築かれようと、そのさきでさらに相手とのあいだで愛を育むには、やはり人間としての魅力が大きく作用するものではなかろうか。きっかけがどうであれ、けっきょくのところ人は人を愛するのである。きっかけは何であっても構わない)。単純な理屈のはずだ。今現在、そうした単純な理屈を否定され、自由を侵害されている者たちがいる。問題なのはただのその一点である。では、その問題を取り除くためにすべきことはなにか。どういう社会を目指すのかを明らかにし、そのうえで、目指すべき価値観を基準としたメッセージを暗黙の了解にまで昇華させることではないのか。常識にまで磨きあげることではないのか。同性愛も異性愛も変わらない。変わらないとする価値観を構築していくことこそが、ジェンダー問題の在り方を是正する最も合理的な解法であり、不自由からの解放なのではないだろうか。


2913:【2021/02/18*脱成長論についての所感】
脱成長論における「生産性の向上を目指す経済は限界を迎えている」との主張はそのとおりだと思う。異論はない。だがそのうえでどうすべきか、と挙げられたいくつかの指摘にはいささか反論の余地があるように思われる。まず前提として、脱成長論では、資本主義の根本的瑕疵が、生産性とそれに伴う市場独占にあると指摘していた。タガの外れた大量生産大量消費と、貨幣価値を高めるための資源寡占による稀少性の向上が資本主義の問題点であるそうだ。言い換えれば、資本追及の過程で生産性が歯止めなく求めつづけられ市場が飽和し、それによる弊害として、市場の寡占を進めようと、生産性とは真逆の稀少性を資本家たちが恣意的に引き起こすことに資本主義の問題がある、と述べている。つまり、過剰供給と、それによる経済の鈍化を避けるために、本来はみなへと平等に安価に提供できる商品を、敢えて供給制限し、稀少性を増すことで利益を上げようとする流れを構築する勢力が生まれる。そうした勢力は、資本を多く持った資本家や一部の特権階級と呼ばれる権力者によって舵をとられ、世の中の仕組みそのものがある種の独裁下におかれる。脱成長論ではそのように資本主義の欠点を指弾している。そのうえで、そうした事態を避けるために、自然資源を人類の共有財産とすべきだ、と主張している。コモンという概念がそれにあたる。だが、共有財産とするにしても現段階ですでに共有しきる資源が足りない現状があるのではないか、との視点が吟味されていない。コモンにするにしても、そこにはすでに稀少性という、資本主義の悪果の種が組み込まれている以上、それら悪果を芽吹かせないためには、今以上の科学的技術の向上が不可欠だ。脱成長論でも、科学技術の発展は不可欠だと述べている。それに関連して、同時に、加速主義を批判してもいる。科学技術を追い求めるうえで、資本を必要とし、そのために産業が急激に活発化し、資本主義の悪果が肥えていくのではないか、との批判だ。発展を急ぐあまりに、却って環境破壊を促進してしまうのではないか、との懸念がつよまるのである。これに関して反論はない。だが、科学技術の発展には、資本主義の仕組みは欠かせない(競争原理と市場原理が、技術の応用を促し、比較的すみやかな技術の社会普及を実現させるためである)。ここで私論と脱成長論との最も大きな相違点を述べておく。現在全世界の社会に顕現している問題は、資本主義そのものの瑕疵というよりも、人間に備わった脆弱性の創発によって起きているのではないか、との疑念である。システムの問題よりも、個々人の人間にあるそもそもの性質によって、問題が大きく顕現しているのではないか、と思われてならない。つまり、資本主義であろうと共産主義であろうと、そもそもが人間が大勢集まり、共同体を築けば、多かれ少なかれ生じる問題というものがあり、それは、現在ある種々の仕組みでは是正しきれないのである。なぜか。何が問題かを未だ誰も論理立てて、体系づけていないからである。見えていないからだ。指摘できていないからである。たとえば脱成長論では閉鎖的技術、という概念を用いて、科学技術の発展の方向性を示している。閉鎖的な技術ではなく、開放的な技術を目指すべきだ、と述べているが、そもそもインフラのような技術は閉鎖的にならざるを得ない。開放的にするにしても、どんな組織であれ、隠ぺい体質は生じるものだ。それは資本主義とは別の悪因がある。人間にはそもそも、じぶんに都合のわるい環境を築きたくない、とする性質がある。もっと言えば、人間には生存本能があり、その派生として競争本能が備わっている。資本主義の問題も、共産主義の問題も、根っこはこの競争本能であり、そこから創発する、社会全体の(或いはコミュニティ全体に漂う)競争原理なのである。それを、闘争原理と言い換えてもよい。もちろんそれが本能から派生している以上、生き残るためには不可欠な要素だ。完全に失くしてしまうことはできない。しかし人間が増え、共同体が複雑かつ広域に展開されると、そうした本来は生存や発展に欠かせない性質が創発を起こし、予期せぬ性質を顕現させる。それはときにエポックメイキングとして人類の発展に与し、またあるときは破滅へと転がす契機と化す(民主運動とファシズムは目的こそ異なるが、生じている事象そのものの構図に大差はない)。たとえば資本主義を放棄し、べつの仕組みを築いたところで、資本主義のような仕組みは舞台を移すだけで似たような悪果を振りまくだろう。現在ではそれは評価経済として、場所を物理市場ではなく、インターネット内に舞台を移し、カタチなき価値によるバブルを膨らませている。単なる一個人が、大勢からの評価を得るだけで、権力者のような影響力を有する。原理的にこれは資本主義の暴走と似た構造を有している。ほとんどと言わずして同じだ。貨幣にあった役割が他者からの評価に代わっただけである。そして、他者からの承認は、これはどんなシステムのうえでもついてまわる人類に備わった基本的な報酬源と言える。資本主義をより好ましいカタチに変えていくことは無意味ではなく、必要すらある改善となるが、同時にそれだけでは根本的な解決には至らない。成長指向を脱したところで何も解決はしない。むしろ同じ轍を踏むことになるだけだ。問題を先延ばしにし、闘争の舞台を変えているにすぎない。本質的な問題は、人間に備わった生存本能にあり、そこから派生する競争本能にあると言える。我々現代人は、他者との競争からこそ解放され、もっと自由に生きていく道を模索していくほうが好ましい社会を築けるのではないか。むろん、資本主義がそうした人間に備わった根源的な競争本能を刺激し、増幅している面は無視できない。だからといって、では脱成長すれば解決するのか、共産主義に移行すれば解決するのか、といった簡単な問題ではない点は指摘しておきたい。また、脱成長論では考えられているコモンが地球上に限られているが、すでに人類はこの地球上だけでは繁栄しつづけることは不可能だとの予測が示されているのではないか。地球を離れ、ほかの星での暮らしも視野にいれるとすれば、技術の追求を加速させていく考え方は、捨てるには惜しい可能性を秘めていると言えそうだ。ブレーキを踏み磨くべきは、技術の革新ではなく、それら技術をどのように運営していくか、という理念のほうだ。競争とは無縁の、理念を、我々はいまこそ生みだし、つくり、磨いていかねばならないのではないだろうか。(競争するのがいけない、と言っているのではない点には留意されたい)


2914:【選択肢を増やす工夫】
誤った知識による誤った判断の積み重ねによって破滅に向かって見える人物に対してしてあげられる支援は存外にすくない(たとえばカルト、たとえば疑似科学、たとえば陰謀論など)。正しい情報や知識を自力で掴み取れるように環境を整えてあげる以外になく、それは情報の遮断による術ではなく、すべからく施しによる情報の選択肢の増加による作用であるべきだ。情報を制限するのは洗脳である。あくまで本人に選ばせる。情報を拒む自由を残す。その末に破滅したならば、そこはしょうがないと呑みこむよりない。本人が選んだ自滅ならば、それはそれで至福の一つのかたちだろう、と認めるよりない。ただし、できうる限り、最後までよりよい環境を、より多くの選択肢に囲まれた環境を築こうとする意思は持っていたいものである。それを行動に移せたら言うことがない。つまり、言い訳をする余地をじぶんに与えずに済む。よくもわるくも最善を尽くすとはそういうことなのだろう。


2915:【いっぱい失敗したい欲】
失敗する経験はあったほうがよい。なにより先人は、じぶんより未熟な者たちから失敗する余地を奪ってはならないのではないか。言うまでもなく成果を掠め取る所業もまた避けるべき事項だが、それよりも、失敗する機会を奪うほうが、のちのちに大きな損失を与えてしまい兼ねない懸念については常日頃考え抜いていきたいものである(言を俟つことなく、取り返しのつかない失敗は、あらかじめ予防線を張っておくくらいの保険は先人として施しておきたい挙措である)。


2916:【一番にもいろいろある】
じぶんのなかの好きという気持ちに優先順位をつけているひとがすくなくないようだ。じぶんのなかで一番好きと思えなければそれは好きではないと判断してしまうひともいれば、ほかのひとと比べて好きの気持ちが劣っていると感じるだけでその好きという気持ちを全否定してしまうひともいるようだ。好きという気持ちは、比較によってなされるものではない、と思うのだが、そうではないのだろうか。誰かを好ましく思う気持ちと、朝陽を浴びるのを心地よく思う気持ちと、お風呂に浸かる瞬間の、あぁ、という気持ちは、すべて好きという箱に入れても構わないはずだ。好きとは、状態ではなく、分類だ。その箱の大きさを小さくしてしまえば、中に入るモノは限られる。箱の入り口の形を限定してしまえば、中に入る対象は滅多に現れなくなってしまう。そういう箱をつくってしまうのも一つだが、できるだけ大きな箱を用意しておいて、入るだけ入れてしまって、そのなかで新たに箱のなかに仕切りをつくればよいのではないだろうか。すべてのものごとをまずは好きに入れてしまうことだってできるはずだ。そのうえで細かな、限定的な枠組みをつくることもできると思うのだが、好きという気持ちは特別なもの、という固定観念があると、なかなかそれもむつかしいのかもしれない。


2917:【いまの一瞬、一瞬がだいじ】
衰えた技術を取り戻すことを指して、リハビリをする、と形容する文章を目にする機会がある。疑問なのだが、元の状態に戻ろうとすることはクリエイトとは相反するものなのではないか。怪我や病気を負った者や、アスリートがリハビリをするのは解る。本来の言葉の使用例として適切だ。しかし表現者におかれては、リハビリをしなくてはならない創作表現などあるのだろうか、と引っかかりを覚える。表現者や創作者におかれては、できるかできないか、或いは、つくるかつくらないか、しかないのではないか、との直感がある。つねにいまあるじぶんがつくるもの、生みだすもの、表現するものやこと、それらは刻一刻と変化し、ゆえに再現性はない。過去より現在の表現が優れている点はあるだろうし、その逆もあるだろう。しかしすべてにおいて凌駕していることはまずないと言ってよいのではないか。拙さに宿る魅力もあれば、衰えに宿る味もある。未熟であるころにしか編みだせない荒々しさもあれば、成熟しなければこなせない素朴さもあるだろう。そこはそのときどきで、そのときどきのじぶんにしか生みだせない表現や創作をしていくしかなく、それゆえに際限がなく、ことほどに遊びの余地のある分野はないと言えるのではないか。正解はない。極限はない。生みだし、編むじぶんとほかの世界との境界があるのみだ。あらゆる組み合わせ、ゆらぎ、紋様をとりそろえていこう。


2918:【2021/03/03*靴買った】
新しい靴を買ったが、足の甲の部分がメッシュの物はあまり好みではないことを失念しており、過去に繰り返した失敗を反復してしまった。失敗を活かせないのは反省ばかりをしているからだ。反省よりまずは対策である。


2919:【2021/03/04*じぶんがわからない】
本能を満たしたい欲を高めるために、敢えて飢餓状態になろうとする意思がある。反面、本能を満たしたあとにいったい何が湧き、残るのか、との疑念はつねにつきまとい、けっきょくのところ歩みつづけるために飢えておくのか、それとも満ち足りたいからこそ歩むのかは、ときどきと言わず反転しつづけており、いったい何をしたいのかがほとほと見失いがちな日々である。私は何がしたいのか。どう生きたいのか。或いは、何を最も避けたがっているのか。心地よく傷つき、或いは心地よく傷つけたいだけなのではないか、との疑念が日々刻々と濃さを増す。


2920:【2021/03/05*負担】
ここ半年、不調の原因の区別がつきにくくなったと感じる。新しい刺激を取り入れるようにしたからなのか、単なる日常の疲労なのか、の判断がなかなかつかない。いったん新しい刺激をやめてみれば判るが、まだはじめたばかりなのでもうすこし継続して様子をみたい。というよりも、要因がどうであれ、身体のほうで慣れてくれば収まるのだから、まずはつづけたほうがよいのだろう。ただし怪我をしないことと、体調を崩さないようにすることには注意しておきたいものである。


______
参照:いくひ誌。【1771~1780】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887843365

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する