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いくひ誌。【2881~2883】

※日々、鍛えず、磨かず、極めずに、在るがままをそのままに、未熟な我が身を意のままに。


2881:【後釜に、今宵、なる臍を】
 いつかはこんな日が巡るだろうと覚悟してはいたが、よもや最愛のひとと結ばれたその日にやってくるとは思わなかった。
 シルバーソーグはこの日、何年も真剣に愛をささやき、伝え、縁を固く結びつけてきた最愛のひとを置いて住み慣れた家を、街を、去った。
 持っていくものは何もない。衣服も靴も途中で着替えた。着替えは以前から用意していたもので、いずれはこんな日がくると構えていた。
 だが、きてほしくはなかった。
 そう願ってやまなかったが、台風や地震が人の意向を気にしないのと同じように、それはシルバーソーグの気分にも、気持ちにも、もちろん生活にも気を払うことなく、そうするのが最も合理的だったから、都合がよかったから、というただそれしきの理由でその日、彼にこれまでの人生を捨て去る決意を固めさせた。
 シルバーソーグの本名を知る者はなく、シルバーソーグをシルバーソーグと呼ぶ者もない。彼にはいくつかの過去と、いくつかの名前、そして偽の経歴があった。それらは彼が各地を転々とするあいだ、居住した地ごとに新たに増え、そして消し去ってきたものだ。
 最愛のひとにはダグと名乗っていた。だが最愛のひとのもとを去った彼はもう、ダグではなく、数多の仮面を使い分けるシルバーソーグでしかなかった。それは、これまでひたむきに覆い隠してきた彼の核であり、習性であり、行動原理そのものであった。
 移動は徒歩に限定した。ときに下水道を使い、民家を抜け、屋根を伝った。足跡は残さず、靴は一日ごとに履き替えた。たいがいは民家から盗んだ靴だ。衣服も拝借する。
 シルバーソーグには罪を犯すことへの呵責はない。そのように幼いころに教育を施された。どこにいても生きていけるようにと、生存に最も有利な術をそのときどきで使えるように人格を補強された。
 最新機器の扱いにも手慣れたものだが、シルバーソーグは情報収集以外ではそれらを極力使わない。
 自動車はいまや、巨大な追跡装置でしかない。店舗の立ち並ぶ区画にはどこも監視の目が張り巡らされており、それは人混みですら例外ではなかった。
 誰もがいまや、カメラを携え、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922436288


2882:【ドッペルランナー】
 自宅で仕事をするようになってからランニングをはじめた。歩かないからだろう、体重が増加したためだ。昼間は人目があって恥ずかしく、仕事が終わるとたいがいすぐに寝てしまうので、走るとすると夜中になる。
 一週間をかけて、すこしずつ道を変えた。どの道が走りやすいか、気持ちよいか、コースを厳選した。
 やがてコースが固定されてくる。前半に長い階段をのぼり、疲れが溜まる後半に坂を下り戻ってくるコースだ。
 階段には街灯が数えられる程度にしかなく、闇に沈んでいる。月光があるときはかろうじて足元の段差が見えるが、鬱蒼とした藪に挟まれているために影が落ちて余計にどこに段差があるのか判らない。迷彩柄じみている。
 とはいえ、毎日のように登っていれば感覚が掴める。目を閉じてものぼれるくらいだ。思ったが、じっさいにやってみたらまったくできずにコケそうになったので、危ない真似はしないでおくに越したことはない。
 秋の虫の音が闇夜を埋め尽くすような肌寒い日のことだ。
 この日も、例によって例のごとく長い階段をのぼっていた。
 ほとんど小走りだが、一回も休まずにのぼりきれるくらいには体力がついた。
 夜中であるためにひと気は皆無だが、この日は上から駆け下りてくる人影があった。
 気づくのが遅れたので、ほとんど闇から出現したように感じた。
 心臓が跳ね、身構えたが、向こうからしてもこちらの姿にびっくりしたのではないか。互いに左右に道を開け、すれ違った。
 服装はジーンズにパーカーで、年齢は大学生くらいだ。相手の顔は見えなかったが、ずいぶんと息があがっていた。
 下り坂のほうが体力を使うとはよく聞く言説であるので、呼吸が荒いのも無理からぬことかもしれない。なかなかどうして警戒心を呼び起こすには充分な迫力があり、じぶんも気をつけよう、と何ともなく、夜道を歩くひとへの配慮を心に誓う。
 そのときだ。
 いましがた駆け下りていった人影の軌跡を辿るように、もう一つの影が現れた。こちらは、ずいぶん早くに気づけたので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922496549


2883:【海の卵】
 朝、海辺を散歩する。さざ波とウミネコの鳴き声がある。砂浜を歩くたびに足音がサクサクと鳴るにぎやかな静寂の合間を縫ってときおり遠くでトラックのエンジン音が走り去る。
 スカートを穿くと裾の長さに関係なくいつも知れず汚れているので、浜辺を歩くときはデニムを履く習慣がついた。きっとしゃがんだときに汚れるのだろう。靴のかかとの汚れを目にしてから思い至ったが、けっきょくデニムにしろ汚れることには変わりはなく、その点はしょうがないと呑みこんでいる。
 犬でも連れていたらもっと楽しいのかな、と思うけれど、マイペースにじぶんの速度で歩くのが好きだ。片手が塞がれないほうが身軽でよい。
 波打ち際には様々な海の落し物が散らばっている。埋もれているそれを掘り起こし、拾うのがひそかな私の楽しみだった。
 最も多い落し物はゴミ類だ。異国のプラスチック製包装紙や、ペットボトル、母国のゴミも目立つ。そうしたゴミも拾うが、それは目ぼしい海の落し物があったときに持ち帰ってしまうことへの呵責の念を払拭したいがための、等価交換のようなものだった。
 一日に一個はステキな落し物を拾う。人の落としたものではない。天然の、自然からの贈り物だ。
 きれいな貝殻や小石が多い。サンゴを拾うこともある。そうした宝物を見つけると何か、子猫を初めて飼うときのような高揚感に満たされる。
 そのガラスの容器に気づいたのは、家に帰ってから浜辺で拾ったゴミを仕分けしていたときのことだ。
 ゴミ袋の中から引っ張りだしたときに、おや、と目が留まった。大きさは栄養ドリンクのガラス瓶くらいで、片手で包み込める。色が黒く中身が見えなかったので、まさしく栄養ドリンクの空き瓶かと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
 水で洗ってみると、器は琥珀色に煌めいた。半透明で、細かな装飾が施されている。材質はガラスに似ているが、金属に似た光沢がある。手にずりしりとくる重たさゆえにガラス瓶と勘違いした。その実、容器そのものは薄いようで、指で弾くと硬質な鐘のごとく音色を響かせた。
 蓋がしてある。
 中に何か入っているようだ。液体のようにも、砂のようにも映る。僅かな隙間が空いているのみで(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054924495127

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