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いくひ誌。【3011~3020】

※日々、鍛えた刀を錆びつかせる、磨く余地をつくるために。


3011:【2021/06/06*ワガハイ、ほのぼのしすぎの罪かもしれない】
唐突に、「A級戦犯ってなんだ?」と思ったので、インターネットさんで検索してみたら、ウィキペディアさんが、「国際法におけるA項、B項、C項のうち、A項に違反した戦争犯罪者」といった旨のことを言っていて、へぇそうなのか、とびっくりした。S級ヒーローみたいな感じで、格付けの意味合いのAかと思っていたのだ(あんぽんたん)。べつにA級に昇格した犯罪者、という意味ではないらしい。ちなみに国際法のA項とは「平和に対する罪」とあり、なんだか漠然としていて、神々の意思に反したなにかしら、といった塩梅がする。おそろしい。よっぽど重たい罪なのだろうな、といった厳かさがある。おどろおどろしい、と言い換えてもよい。平和に対する罪、という字面はなんだかハトが飛んでいそうな青空のイメージがあるのに、そうした青空の下で繰り広げられる地獄絵図、といった禍々しさを感じる。ホラーにおいて、目を塞ぎたくなる場面で、童謡が流れると却ってこわい、の作用かもしれない。童謡はべつにこわくはないはずなのに、ふしぎだ。平和な毎日に感謝したくなった日であった。(平和でない毎日をすごしているがんばっている方々にも感謝申しあげます)(うそ。めちゃくちゃ感謝致しております)


3012:【2021/06/07*本日の小話】
ぽんぽん痛くて、オクスリ飲んだろ、と思って正露丸手に取ったら、「虫歯にもいいんだってよ」と半年前から家に住み着いているヤモリさんが、壁をぺたぺた這いながら言っていたので、へぇ、と思って、正露丸を一粒、虫歯の穴に詰めこんだら、砕けた正露丸は、舌に触れるとぴりぴりしていて、たしかになんとなく、なにかしらが効いている気がして、しばらくそうしていたのだけれど、ヤモリさんがその様子を天井から眺めて、クスクスしていたので、これはなにかあるな、と思って、インターネットさんで検索してみたら、正露丸に虫歯を治す効果はなく、鎮痛作用があるだけだと出てて、たしかに虫歯の痛みは一時的にとれるけれども、穴の開いた虫歯の虫歯菌さんをどうにかできるちからはないんだよ、と知れて、ああよかった、とその足で洗面所に向かって歯を磨いて、部屋に戻ってきてからさっそく虫取り網を手にとって、「でてこいトカゲ野郎!」と夜中だというのに、猫でもなしに、大運動会をはじめたのであった。めでたしめでたし。


3013:【2021/06/08*メモ】
「相手のたいせつにしているものを奪うなよ、という単純な理屈がなぜわからんのだ」「弱い者いじめをするな、と言っているだけだ。なぜこれしきのことが伝わらないんだ」


3014:【2021/06/08*瓢箪の中身は飲み干すな】
子どものころに聞いたことのある気のする昔話がある。ある日男は、天狗か何かを助けた。そのお礼に「無尽蔵にお酒のでる瓢箪」をもらったのだが、そのときに、「ぜったいに瓢箪の中身を飲み干してはいけない。一滴でも残っていれば、いちど蓋をすればまた満杯になる。それから中を覗きこんではいけないし、底を叩いてもいけない」と聞かされた。男は天狗と別れ、さっそくお酒を楽しむ日々を送っていたのだが、深く酔っぱらった日に、瓢箪のお酒をすっかり飲み干してしまい、「あれれどうした。なんででてこないのだ」と言って中を覗きこみ、ついでのように、「酒よでてこい」と言って底を叩いてしまった。はっとしたときにはときすでに遅し。天狗の言葉を思いだし、慌てて蓋をするも、もう酒は増えることはなく、無尽蔵に酒を生みだす瓢箪はただの瓢箪になってしまった、といった話があった気がするのだが、これは創作の神髄にも通じている気がする。ネタがなくなっても、一滴でもその欠片が残っていれば、蓋をして寝かせておけばまたネタが湧いてくる。しかし、本当にすっかり燃え尽きるように、すっからかんにしてしまうと、あとはもうネタは湧いてこなくなる気がする。できるだけ一滴の余裕を残しておくようにするといい気がする。そしてつねに新鮮なネタを瓢箪のなかに詰めておくためには、できるだけ毎日それを味わってしまうようにしたほうがよいのかもしれない。一滴を残しながらも、出し尽くす。その繰り返しによって、無尽蔵に酒のでる瓢箪は、つねに新鮮な酒をその身に蓄えておけるのだ。ちょっと強引でしたかね。強引でした。(ただ、どうしてお酒がでてこないんだ、と瓢箪の中身を覗きこもうとするその自責の目線は、たしかに創作には毒な気もいたしますので、なかなかお酒が湧かずとも、まずは蓋をして、ひと眠りするのがよいのではないでしょうか)(定かではない)


3015:【2021/06/09*再開しました】
二〇二〇年の九月からこの日誌の掲載をお休みしていたが、四日前(この記事を書いているのは六月九日だが、WEB上に更新したのは六月十六日である。ゆえに正確には十一日前となるが、それ)くらいから、WEB上にもこの日誌をふたたび載せはじめた。とくに意味はない。毎日十記事ずつ載せているので、あと一週間ほどできょうの分の記事に追いつくはずだ(追いつきました)。そうなったら以前のように、ほかのいくひしさんたちに任せようと思う。誰に読ませようと思うでもなく、ただ思ったことをつらつらと並べているだけなので、日誌の内容の正当性は低いし、論理性の欠片もない。根拠となる情報をほとんど載せていないからだ。飛躍と妄想の栗ご飯である。誰かに読んでもらおうとは思っていないが、ひょっとしたら誰かが読むかもしれない、と想像するとすこし気分が昂揚する。いたずらを仕掛けて、いつかは誰かがかかるだろう、しめしめ、とほくそ笑むのに似た高揚感がある。根が性悪なのである。魔性と呼んでいただきたい。魔女にならいますぐになりたい。魔性の女であってもよい。魔性の男となるとなんだか物足りないので、そこはぜひとも魔王がよろしい。なんの話だ。こういうどうとでもないことをつらつらと並べるのは楽しい。でも読むほうがつらいだろうから、日誌にするくらいがちょうどよい。小説はどうなのか、とお叱りの声も聞かれようが(聞かれるのか?)、あちらは私の領分ではない。各々担当のいくひしさんがおられるので、非難の声はそちらにぶつけてほしいとお願いもうしあげるしだいである。けけけ。


3016:【2021/06/10*知恵の輪】
偶然に、知恵の輪を手に入れた。二つのM字型の輪が絡まっている。悪魔の爪という名前がついているそうだ。知恵の輪のなかでは有名なのかもしれない。簡単にとれそうなのに全然とれなくて、インターネットを眺めている片手間に、目視せずに片手でカチャカチャいじっていたら、とれた。いちどとれてしまえば、あとはゆっくりと「絡ませて解いて」を繰り返せば、原理を理解できるので、なるほどこうやればとれるのか、と学習することができる。ずるいやり方だが、それでも充分に楽しめた。いちど解き方を覚えてしまうと、どうしてこれが解けなかったのかが分からないくらいに、簡単なのだ。この、知っている状態と、知らない状態の差を、体感として知覚し、なおかつ記憶できることが、知恵の輪の最大の魅力に思えた。通常、いちど何かしらの技術を体得すると、体得しなかったころのじぶんの感覚をすっかり忘れてしまう。それが知恵の輪であると、むつかしいと思っていたときのじぶんの感覚と、簡単に解けてしまう現在のじぶんの感覚とを比べることができる。こんなん解けるわけないじゃん、という感覚と、なんでこんなものも解けないの、という感覚が同居しているのだ。ふしぎな感じがする。そしてこの感覚というのは、じぶんがふだん向けられている、どうしてこんなこともできないの、という眼差しと通じているし、同時に、なんでこんな簡単な理屈が通じないのだ、という我が身のもどかしさとも似ている。できる人にはできるし、できない人にはできないのだ。解かる人には簡単すぎるほどに解かることが、解らない人には解らない。この理解の非対称性を、じぶんのなかで自己完結しながらにして同時に実感できた。解らない人が解らないのは当然だし、できない人ができないのも仕方がない。同時に、簡単にできるはずのことができない人を見て、なんでなの、と苛立ちを覚える人の気持ちもよく分かったし、なんでこんなことも理解できないの、と思うじぶんのもどかしさに潜む理不尽さにも思い至った。しょうがないのだ。知らなければできないし、段取りや構造を知らなければ理解が及ばない。知恵の輪に限った話ではあるが、こうしたときにはこうしたほうがいい、というコツはあるものだし、いちど覚えてしまえれば、知恵の輪はただ引っかかっているだけだ。絡まってすらいない。しかし、その構造が理解できていない者にとっては、南京錠に匹敵する強固な鍵と化す。自力で施錠するには骨が折れる。知恵の輪にはまりそうだが、じぶんで購入するほどの熱のあげようではない。ただ、よくもまあ、考えた人がいるものだ、と知恵の輪をつくった者の想像力には、感嘆するよりない。すごいなぁ。(感心いたしました)


3017:【2021/06/11*電線ってすごない?】
高圧電線の鉄塔が近所にある。頭上高く屹立しており、三百メートルほどの間隔を開けながら、いくつも鉄塔が立っている。頭上三十~五十メートルくらいの高さに、電線が吊るされている。まるで手を繋ぐ巨人のように、そこにあるのだが、あまりにそこにあって当然の存在であるから、日常で意識することはほとんどない。雨の日に近くを通ると、ジジジ、と放電ちっくな音を立てており、感電しちゃわないかな、と不安になる。きょう改めて真下を通るときに見上げて、いまさらのように、すごいなぁ、と思った。まず以って、三百メートル以上の距離を吊るされた電線の重さは、一トンではきかないだろう。気温の差で伸び縮みするだろうし、暴風にもさらされる。それでもいままでいちどだって、電線が千切れた、という話は聞かない。電柱ならばあるが、この鉄塔の高圧電線の場合は、記憶を探るかぎり、ないのだ。よほど頑丈な素材を使い、厳重に管理されているのだろう。たとえば電線は、一本を張るのではなく、途中で金具で繋ぎをつくり、二本から三本を繋いで鉄塔同士を結んでいる。これを結ぶのはもちろんいまはまだ人力だろう。どうやって固定しているのかは知らないが、事故を未然に防ぐために工夫された機構があるはずだろうし、ミスがないかをチェックする工夫もあるはずだ。たとえばボルトを使うとしたら、ゆるんだままで終わったら危ない。絶対にボルトの締め忘れがないようなチェック体制になっているはずだ(ボルトを使ってないかもしれないが、そういう漏れがないような工夫があるはず、という趣旨です)。また、どうなったら一斉点検をすべきか、という基準も、科学的に設定されているはずだ。電線や鉄塔の耐久年数も、素材の摩耗する速度を考慮して計算されているだろうし、どれくらいの衝撃までならば問題ないかも、数値化されているはずだ。鉄塔や電線に、圧力センサのような機構も備わっているかもしれない。鉄塔は電線同士で繋がっているわけで、常時、左右から引っ張られているわけである。どこかが緩めば必然、その分のちからがほかの電線に伝わる。そういうセンサがついているかもしれない。もし鉄塔の管理を私が任されたら、地震があるたびに一斉点検を命じてしまいそうだ。心配で風のある日の夜なんか眠れなくなりそうである(絶対に寝ちゃうだろうけれども)。とにかく、身近にこんなにすごい建造物が悠然と建っているのに、まったく気にも留めなかった過去のじぶんに、のんきやなぁ、と呆れてしまいましたとさ。(SFとかで、未確認巨大浮遊物体が突如として街の天空に現れて、浮遊しつづける、なんて場面がでてくるけれど、案外、ずっとただそこにあるだけならば、すんなり日常に溶け込んで、何事もなく人々は過ごしていくのかもしれない。きっとそうなるのだろう。人間の危機感のなさや、関心のなさ、それらを含む適応能力には目を瞠っちゃうな)


3018:【2021/06/12*蜘蛛はどうして餌場に集まれるの?】
初夏のため虫たちが活発に蠢きはじめた。夜中などは街灯に羽虫が溜まり、それを捕食するために蜘蛛が巣を張っている。驚くべきことに、羽虫の群がる照明や街灯には総じて蜘蛛の巣が張っている。しかも何重にも巣が折り重なり、織られた機(はた)のように白く見えている。ふしぎだなぁ、と思う。なぜ蜘蛛は、ずばりそこが餌場としての穴場だと判るのだろう。まるで樹液に集まるカブトムシのごとく、そこに集中して巣を張って見える。確率の問題として、ちいさな蜘蛛が、任意の場所に偶然集まってくることはあるだろうか。いくらなんでも、個体数に対して、局所的すぎないだろうか。大海原のなかで、遭難者はみな偶然、流木のあるところに辿り着き、生存を果たした、みたいな確率の低さに思える。だがおそらくこれは考え方が間違っているのだ。カブトムシやチョウが樹液や花に集まるのとは原理的に違っている。どちらかと言えばハエにちかい。雌と雄の二匹だけでも、餌場に辿り着けたならば、そこで繁殖することができる。大勢集まったのではない。偶然辿り着いた数匹が、穴場で増えたのだ。ゆえに、巣がたくさんできる。だがその数匹が穴場に辿り着く確率もまた、かなり低いように思うのだが、そこはカブトムシやチョウのように、何かしら餌を知覚できる機構が蜘蛛にもそなわっているのではないか、と妄想してしまうのだが、真実のところはどうなのだろう。熱源に集まりやすいとか、羽虫から放たれるナニカシラを捕捉し、集まる習性が、蜘蛛にはあるのかもしれない。たとえばそれは糞尿であり、臭いであり、音などであるが、そういった研究結果はあるだろうか。気になった夜であった。(疑問に思っても調べようとしないところに、私のダメダメさが凝縮して表れていますね。私のダメダメさんたちにも何か、私から発せられるナニカシラを察知して集まってくる機構でも備わっているのかもしれません)(ああ、それで)(納得すな!)


3019:【2021/06/13*恋愛感情について】
以前にも似た考えを載せたが、恋愛感情と性欲はイルカと哺乳類の関係に似ているのではないか。哺乳類のなかにイルカが含まれるように、性欲のなかに恋愛感情が含まれる。恋愛感情は性欲の一形態なのだ。そう考えれば腑に落ちる、というだけのことで、特別にこの考えを絶対視しているわけではない。とはいえ、基本的には、性欲を含む好意を恋愛感情と呼ぶのではないのか、という短絡な考えが私にはある。たとえば性欲の湧かない恋愛感情は原理的に抱きようがないのではないか。性欲の湧かない好意には、憧憬や愛情、仲間意識などが挙げられる(友情は特殊なので、ここでは触れずにおく)。それら諸感情に性欲が付随すればそれらは総じて恋愛感情と呼べるのではないか。この考えであれば、性欲が湧くのに恋愛感情は抱かない、という属性も解釈できる。恋愛感情の継続期間を考えに入れると、これは解りやすい。私自身がそうなのだが、性欲はつねに継続して任意の対象に抱きつづける、ということができない。どこかで必ず飽きがくる。それを経験上知っているがゆえに、いつかは冷める一時的な好意でしかない、という価値判断をじぶん自身に課してしまう。これをすると、恋愛を成就させよう、という動機が失せる。なぜなら性欲を満たしてしまえば済むからだ。じぶんで処理できる。わざわざ面倒な段取りを費やしてまで、恋愛関係になる必要がない。もし性欲を満たしてなお結びつけたい関係性があるならば、それは上述したように、憧憬や愛情や仲間意識として、昇華される。つまりどうあってもそこに恋愛感情を見出す意味がない。恋愛感情と性欲が、イコールになる。恋愛感情というカテゴリィを用意する必要がなく、ゆえに恋愛感情という概念そのものが消失する。これはたとえば、理髪のようなものだ。髪の毛には痛みがなく、時間が経てば生え揃う。一時的に髪の毛が消えたところで、たいした問題ではない。だがもし、いちど切ったら二度と生えず、痛みが継続するとしたら、傷として残るとしたら、これはもう看過できない重大な事案となる。恋愛感情を恋愛感情と見做せる人物というのは、このたとえで言うところの、髪の毛がもう二度と生え揃わない人々だ。たった一度の理髪が、一生を左右する。じっさいのところはそんなことはないが、仮に現実であっても、髪の毛がふたたび生え揃う、と知らなければ、やはり髪の毛を切ることへの抵抗は、それを知っている者よりも大きくなるだろう。畢竟、どれだけ未来を質感豊かに想像しているのかの違い、と言える。ただし、人間は性欲にいちど支配されると、それが満たされないかぎり、正常に思考を巡らせられない、という欠点を抱えている。そのために、想像の翼を前以って広く羽ばたかせていない者は、容易に性欲に流され、感情の核となる憧憬や愛情や仲間意識を、恋愛感情へと昇華させてしまうのだろう。性欲が付随しているだけで本来はこれらは別の感情だ、と自己分析し、見抜ける者であれば、性欲の存在を自覚した時点で、恋愛感情を抱くことはない(なぜならそもそも恋愛感情ではなく、そんなものは存在しないからだ)。では、性欲の湧かない恋愛感情はどのように解釈すればよいのか。これもまた単純に、憧憬や愛情や仲間意識を、恋愛感情と錯誤しているのだ。ただし、そこに性欲が関与していない。初恋が、憧憬なのか恋心なのかの区別のつかない小学生のようなものだ。或いは、近所のお兄さんお姉さん――教師や先輩に、恋慕の念を寄せる中学生のようなものかもしれない。性欲に流されたことのない者にとって、つよい憧れの気持ちは、疑似恋愛感情として錯覚しやすい。なぜ錯覚するのかと言えば、恋愛感情というものがあることを、虚構の物語や、体験談として、周囲の環境から見聞きするためだ。ああこれか、と早合点してしまうのだろう。ともすれば、その錯誤をずっと抱えつづけてしまう者もでてくるだろう。性欲をつよく他者へ向けるようになれば、そうした者たちも性欲と恋愛感情が結びつくようになる、と妄想できる。以上の考えから、私は恋愛感情にはどうあっても性欲が付属し、同時にそれゆえに性欲が失せれば消える儚い一過性の錯誤である、という考えが抜けないのである。恋愛感情という感情は存在しない。性欲の付随した各種感情があるのみである。定かではないが、私にとってはそのように考えると楽であるし、それゆえ恋愛関係というものは、虚構で充分なのである。(恋愛関係よりも、友人関係や仲間や家族のほうが、遥かに深い関係であり、たいせつにする価値があると思っています)(恋愛がくだらない、ということではなく)(性欲を独占欲、と言い換えても成立するかもしれませんね)


3020:【2021/06/14*狼少女は本当にいたの?】
狼少女の本を読んでいる。実録として書かれた本だが、ところどころで違和感があり、「う~ん、これ本当のことかなぁ」と疑ってしまった。インターネットで検索してみると、やはり現在では、創作だったのではないか、という意見が通説になっているようだ。著者たる牧師が、精神疾患や身体疾患のある捨て子を匿うためについた嘘が、意図せず広まり、嘘に嘘を重ねてしまったのではないか、引き返せなくなったのではないか、とのことだ。なるほど、あり得るな、と思った。本を読んで引っかかったことを並べてみよう。まだ最後まで読んでいないので、前半部分で覚えた大きい疑問だけを並べる。まずはなんと言っても写真だ。本の冒頭に、狼に育てられた少女たちの写真が載っている。古い写真だ。白黒で画質が荒い。ただし、それだけであっても、狼の生活についていける肉体にはどうも見えない。本のなかでは、少女たちが狼さながらに俊敏に動き、リスのような身のこなしで四つ足で移動する、と叙述されているが、四つ足での移動は人間には向かない。本のなかでは、四つ足での生活で、関節がねじ曲がり、肉体も狼の生活に特化した身体に変質していると、書かれているが、写真から窺える姿からはそのような特徴は見受けられない。たとえば四つ足で身体を支えるには、広背筋が不可欠だ。だのに少女たちの肩甲骨のあたりにそれらしい筋肉の発達が見受けられない。足も細すぎる。いちど飢餓状態になったので、痩せたからだ、という理屈は理解できるが、だとすれば余計に四つ足で這いまわることはむつかしい。人間の身体はそんなに都合よくできてはいない。衰えたらすくなくとも同じような訓練がなければ衰えたままだ。二律歩行ですら、宇宙に長期間滞在した人間は、満足にできなくなる。四つ足ならばなおさらである。また、狼少女たちを発見し、保護した場面についての記述が、どうにも引っかかる。狼の巣たる穴のなかで少女たちもまた狼にまじって暮らしていたそうだが、狼が巣として利用するような穴は、狐の巣同様に、かなり狭いのではないか。人間が高速で出入りできるような造りにはなっていないはずだ。にもかかわらず、狼少女たちはその穴を、高速で出入りしたそうだ。人間の柔肌では、穴を出入りするだけで、側面に触れて、肌がズタズタになってしまいそうなものだ。穴のなかで暮らしていた、までなら呑みこめるが、狼のように出入りしていた、というのはちょっと想像できない。また、狼少女たちはかなり幼いときに狼に拾われたのではないか、と本には書かれているが、人間の赤ん坊が人の手を離れて生きながらえる確率はかなり低いのではないか。だいいちに狼の乳を飲めないだろう。栄養的な問題もあるが、それ以前に、狼の乳に吸いつく真似がそもそもできないはずだ。サルのように両手で抱えて胸に押しつけるならまだしも、子豚や子猫のように、各自でおのおのに吸い付くような真似はできないはずだ。狼は群れで暮らし、季節ごとに移動もするだろう。人間の赤ん坊がそれについていけたとはどうしても思えない。ほかにも、引っかかる点はいくつかあったが、長くなりそうなので、この辺にしておこう。信憑性はそれほど高くはないのではないか、というのが軽く目を通してみて覚えた第一印象であった。(実際のところがどうなのかは知りませんので、気になる方は、研究者の見解を参考にしてください)(はい)


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参照:いくひ誌。【1971~1980】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054889179746

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