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いくひ誌。【3001~3010】

※日々、弱さに守られている。


3001:【2021/05/27*分母が多ければ例外出現率もまた増える】
新規のワクチンに関しては、これほど多くの摂取者が世界にいる以上は、ワクチン接種による副作用で亡くなる方はでてくるほうが自然だと考えたほうがより妥当だ。水ですら、それを飲んだことで亡くなるひとはいるのだ。それを、ワクチン接種普及の妨げになるので、報道するな、とか、ワクチンは安全だから副作用で亡くなる人なんかいないんだ、といった同調圧力を形成するのは、公共の福祉の観点からも好ましくないように思うしだいだ。ただし、ワクチン接種に及び腰になっている人々に接種のメリットを説明するような報道をしたほうが、トータルでは大多数の最大幸福に繋がるのは、そのとおりであろう(接種したのと、しないのとでは、したほうがメリットが遥かに大きい)。ただしやはり、ワクチン接種による死亡事案を、ないものとして闇に葬り去られ兼ねない土壌がいまはぷくぷくと肥えて映るので、そこはぜひとも慎重な調査を期待したいところである。遺族は賠償金を受け取る権利があり、国は、賠償金を支払う義務があるはずだ。そこはなあなあにしてはいけないところであろう。(ワクチンが原因で死亡する者がいたとしても、その割合が一億分の一程度であれば、接種するほうが、総合して得をする確率が高い。言い換えれば、ウィルスに感染して損をするリスクを激減できるのだ。また、ワクチンを接種する者が多ければ多いほど、行動制限が取り払われるので、より自由な生活を手にできる。ワクチンを接種したほうがメリットが大きく、ワクチンを接種しましょう、と広報することが結果として公共の福祉を高める方向に働くのは、そのとおりである)(ワクチンの安全性については、これまでとは異なる仕組みを用いたワクチンである以上、これまでこれをクリアすれば安全だとされてきた条件をクリアしたところで、見逃している副作用がないとは言いきれない。ゼロリスクという意味ではない。単純な話として、調べようとしなければ結果は得られないのだ。見逃されている視点があるのではないか、という懸念は、科学的見地からしても、無視しないほうがよろしいのではないか、と疑っている。とはいえ、短期的な視野におかれては、致命的な副作用は起きにくい、と判明しているそうなので、やはりウィルスに感染するリスクを減らせる、という意味では、ワクチンを接種したほうがメリットがあると言えよう)


3002:【2021/05/28*天才は築いた回路を無尽蔵に組み替える】
感情や欲動とは何だろう。なぜ湧くのだろう。おそらく感情や欲動といったものはつねに無数に張り巡らされており、任意の対象がそうした琴線に触れたときに、ほかの感情や欲動が遮断されて、相対的に強化されることで、その作用を増すのではないか、といった直感がある。水脈のようなものだ。ほかの水脈が遮断されるので、任意の流れのみが際立つ。物理的には、脳内分泌系の活性化によるものとして観測されるのだろうが、どうして脳内分泌系が活性化するかと言えば、遮断された感情や欲動に割く能力を、任意の感情や欲動に集中するからではないのか、と考えられる(もちろん、順番としては、脳内分泌系が活性化したから、感情や欲動が発生するのだろうが、感情や欲動は単一で機能する成分ではない以上、そこには相互に関連して働く仕組みが築かれているはずだ)。繰り返すが、水の流れのようなものだ。無数にある出口のうちのいくつかを塞げば、ほかの出口の水流と水圧は増す。それが表面に現れる感情や欲動として主観にしろ客観にしろ、観測されるのではないか。理性はどうかと言えば、これは持論だが、理性もまた感情の一形態だ。好奇心と、記憶と、圧縮された過去の情報処理の来歴そのものが、人間に、思考の再現性を持たせる。理性とは、この思考の再現性を、好奇心によって別のものにも当てはめようとしたり、或いは拡張したりしようとする働きを言うのではないか。これはほかの感情や欲動にもみられる働きであり、必ずしも理性の専売特許ではない。ではなぜ理性だけこうも人間に固有の能力のように見做されているのかと言えば、言語を獲得した人類が、他者との情報のやりとりの過程で、他者の思考の再現性――思考の筋道や知識そのものを集積可能としたからだ。感情や欲動は、他者にそれを伝播させにくく、ゆえに多様性の揺らぎを持たず、拡張されにくい性質がある。理性とはすなわち、他者との交流のなかで複雑化し、多様化する、再現可能な「感情や欲動」の筋道と言える(この場合、思考と理性はほとんど同じだ)。感情にしろ、欲動にしろ、人間はそこに記憶との照合を試みており、そこには大なり小なり、過去と現実と未来の比較がなされ、それによって因果の筋道がつけられている。それが真実に因果関係であるとは限らないが、こうなったからこうなった、といった過程が、次回からの感情や欲動の発動をなめらかに行わせる。或いは、未来に起こり得るリスクを測り、抑制できる。その精度が高くなれば理性として判断され、低ければ衝動や葛藤として解釈される。いずれにせよ、人間の脳内回路は、複雑化と単純化を繰り返し、回路の型を増やしたり、強化したりしている。感情や欲動は一つではないし、そこから築かれる回路もまた、人によってその数を変え、或いは回路同士の連携の仕方も異なる。無数の回路を多重に築き、そのつどそのつどで組み替えることのできる個体こそが、おおよそ社会的に、天才と表現されるのだろう(ふつうは一度築いた回路を組み替えることはむつかしいし、社会生活のなかではメリットがすくない)。


3003:【2021/05/29*抽象と具体は、結果と作業の違いにちかい】
型をつくるというのは、組みあげていく作業というよりも、何を削ぎ落とすべきかの取捨選択が要であるように思うのだ。組みあげていく作業はどちらかと言えば、素材や土台づくりでしかなく、そのあとに、削ぎ落としていく作業にこそ神髄が宿って感じられる。ということは、自由度を上げたければ初めにできるだけ大きな素材があるとよい。木彫りのようなものだ。掘る対象が大きければ大きいほど、自由に理想を削りだせる。そういう意味では、「無駄に思えるさまざまな知識や体験を繋ぎ合わせ、組み立てることでどんな型でも削りだせる下地を築いていくこと」は、これは総合して見れば無駄ではない、ということになる。また、何を削ぎ落とすのかにおいては、むろんその前段階で、どのような型を削りだすのか、といった完成形が浮かんでいたほうが好ましい。図案がなければ、無造作に、その場その場での場当たり的な作業にならざるを得ない。もちろんそうした偶然による創造もあってよいが、型というからにはやはり、ある程度の作為は入り用だ。それを工作と言ってもいい。型をつくることは一種の創造であり、創作であるが、単なる芸術よりも、工学的な絡繰りの側面が際立つのではないか。建築、と言ってもよい。それは、木彫りの像ようなものであり、もしくは宝石のカットのようなもの、と言ってもよいかもしれない。なんにせよ、いちど組み立てた素材をどのように削り、型を浮き彫りにするか。何を残し、どのように削っていくのか。その切断や研磨の道具そのものもまた、過去に削りだした型を用いざるを得ないのだろう。型は、つぎなる型を削りだすための指針であり、道具そのものである、と言えそうだ。或いは、目安とも。(削ることで見えてくるものが抽象であり、抽象を掘りだす作業が、具体なのかもしれない)


3004:【2021/05/30*自分本位の言葉】
以前並べていた日誌では、毎回異なる文章形態を意識して並べていた。キャラクターをつくり、口語文語の区別なく、敢えて崩すことを意識して、実験的な文章の創造を心掛けていた。こうしたちょっとした日記じみた文章では、大いに失敗しておきたい。こうしたところで失敗せずに、いったいどこで失敗すればよいのだろう。もちろん小説そのものにおいても試行錯誤は欠かせない。だがそれはあくまで、成功を目指した末の、結果論としての失敗であり、失敗を目指した失敗ではない。だが以前の日誌においては、失敗することを求めて失敗を重ねていた。駄文を意識して駄文をつむいでいたが、現在は、いささか文章形態の形式を固定しており、あたかも分散した人格をひとつに統合するような文字の並べ方をしている。見方を変えれば、何の挑戦もしていない、最もつまらない文章と言えるかも分からない。この方針が、物語創作において、どのように影響するのか、ひとまずつづけてみて、傾向を抽出してみようと企んでいるしだいである。(誰も読んでいないのによぉやるわい)(誰も読んでいない、読むわけがない、と思わなきゃ並べられない文章もあります)(日記や日誌って本来はそういうものかもしれませんね)


3005:【2021/05/31*私はこう思うのですが】
ブラックホールについてよくは知らないが、シュバルツシルト半径を超えて圧縮すればどんなに高い質量を持った物体であれ、ブラックホールになるそうだ。質量の高さによってシュバルツシルト半径は変わる。質量の高い物体ほどシュバルツシルト半径は大きくなる。シュバルツシルト半径とは言ってしまえば、任意の質量体(物体)を圧縮していったときに、脱出速度が光を超える境界を言う。光さえ逃さないほどの高密度の質量体になったとき、それはブラックホールになる。ただし、物体はそのとき無限に凝縮していくと考えられるため、どのような物体であれ、ほとんど同じ極小にまで縮小するのではないか、と妄想できる。我々がブラックホールと呼ぶものは、ブラックホールそのものではなく、シュバルツシルト半径における事象の地平面のことであり、それは質量を生みだしている圧縮された極限の点のことではないはずだ。どれほど質量が高かろうが、最終的に、シュバルツシルト半径を超えて圧縮された物体は、極限に圧縮され、ほとんど同じ点に収斂するのではないか。つまり、ブラックホールはすべて同じ大きさなのではないか、との疑念が湧く。内包されたエネルギィに差があるため、それを取り巻く周囲の時空の歪みに差が生じる。蟻地獄の穴が、深ければ深いほど、蟻地獄の円周は大きくなる。しかし蟻地獄の穴そのものの大きさは変わらない。それと似たようなものだ。(ほんとか?)


3006:【2021/06/01*多少不親切でも目の離せないものを】
百年前の人間が、現代の映画を観て楽しめるか否かに、少々の興味がある。たとえば漫画であれば、漫画を読んだことのないむかしの社会文化に馴染みのあるお年寄りは、漫画を読めない者がすくなくない(どういう順序でコマが進むのか、誰のセリフなのかが分からないそうだ)。あべこべに現代では、小説を読めない若者もすくなくない。これはおそらく、慣れの有無で説明がつく。また、エレベータを知らない人間にとって、数十秒で建物の一階から百階まで移動していたら、これは魔法や誤謬と区別がつかない。飛行機にしろ自動車にしろ同様だ。近代文明の利器にしたところで、ろくに説明されなければ理解しにくいだろう。だがこの理屈であれば、SFはのきなみ視聴者を置いてきぼりにしていると呼べる。説明を挟んでいるSFほど、多くの視聴者を見込めるが、映画内に登場するアイテムが、当然あってしぜんな社会におかれては、ただただ冗長な説明場面にしかならない。そういう意味で、未来永劫おもしろく視聴できる映画というものは、基本的に、現代では難解に映ることだろう。これは映画に限らず、小説や漫画にもあてはまる。だが、高度に発達した科学は魔法と区別がつかない、という言葉があるくらいであるから、いっそ魔法を扱うように描写してしまったほうが、視聴者にはやさしいと言えるのではないか。そういう意味では、ハードSFはこれからはあまり好まれない、むしろ現代人の理解力をいささか低く見積もっている作風と言えそうだ。説明などいらない。説明なくして伝わるくらいに、その物語内にあってしぜんな描写をこころがけたほうが時代の変遷につよい作品をつくれる。これは裏から言えば、それくらいの想像力を、作者に期待されるいまは時代なのだろう。定かではない。(無責任でごめんなさい、と思いながら、定かではないことを並べています)(うそ。どんなもんだい、としたり顔を浮かべています)


3007:【2021/06/02*いっぱい休む】
老いを実感することが増えた。疲れやすく、回復するまでに時間がかかる。六時間以上、起きているともう眠い。一日を三分割して、睡眠をとりたいくらいだ。また、不調と好調の波が大きくなった感覚がある。若いころはめったに不調にならず、仮になったとしても、出力が六割以下になることはなかった。だがいまは、一割ちかくまで下降する。それも頻度が増加して感じられる。波が高く、また周期も早い。なかなか出力があがらず、絶好調なんてものは、一瞬きたように感じたら、あとはあっという間に遠ざかる。そしてだいたいおおむねの時間はつねに不調なのだ。これはもう、不調が常であると考えたほうがよい。不調の底に向かっているのか、すこしだけ好調に向かっているのかの違いがあるだけだ。つねに燃料切れ間際みたいな感じかもしれない。それはそれで休めばいいだけなので、楽といえば楽である。いっそ出力なんて上げずに、いかに楽しめるかの工夫をしていくほうがよいのではないか、と思考の方向を調整していこうと思うしだいだ。(いつでも休みまくりだぜ、いえぇーーーい!)(うそ。ほんとはすこし焦っています)


3008:【2021/06/03*きれいごとかもしれないけれども】
人類や社会や文明の存亡という大きな枠組みでの危機をまえにして、問題解決にいそしむなかにあっても、子どもが転んで泣いているとか、友達と喧嘩をして悲しんでいるとか、或いはあべこべに歌を歌って励まそうとしてくれていたり、何か役に立とうとして奮闘していたりしたときに、それはもちろん子どもに限らないことであるが、人間のそうした善性のようなものを、目のまえの大きな問題と比べて蔑ろにはしないでいたい。というよりも、なぜそうした大きな問題を解決しなければならないか、と言えば、そうした人間に潜むささやかな、しかし尊いなにかしらを守るためではないのか。何かを創造し、しあわせを分かち合おうとする人間の在り様を守るためではないのか。問題の大小ではないのだ。危機の多寡ではない。優先すべきは決まっている。決まっているがゆえに、まずは目のまえの大きな問題を解決しなくてはならない、というだけのことであるはずだ。そこにあるのは優先順位ではなく、合理的な段取りでしかない。繰り返すが、問題の規模の大小は、何を優先すべきかを決める基準とはなり得ない。優先すべきは決まっている。そのために、大きな問題から解決していくほうが、合理的な場面が多い、という判断があるのみだ。そうではない、という者の言う、優先すべきこととはいったいなんなのか。なぜそれを優先しようとするのか。そこだけは、誰がなんと言おうと、共有できるものだと信じたい。否、これは信じる信じないに関係なく、論理的に共有できる解なのではないか。定かではないが、定めてしまってもよい気がする。(そうでない社会なら、それはそれでもよい。そしたら私もそういう社会を大いに楽しむだけだ。そういう社会をつくりだした者たちに、その社会が肯定するあらゆる合理をそそいであげよう)(そういうのを危険思想と言うのでは?)(ハッ!)


3009:【2021/06/04*ヒット作を生みだしたいなら、みなが思い描く願望や欲望を描けばよい】
百年後の小説を読んだとする。おそらく会話文は何を言っているのか分からないだろうし、諧謔の半分も伝わらないだろう。地の文はまだかろうじて読み解けるだろうが、ところどころで、固有名詞なのか新しい慣用句なのかと悩むことになりそうだ。何かしらの構造があったとして、たとえば叙述トリックが仕組まれていたとしても、そもそもほかに引っかかる箇所が多すぎて、じつはこうでした、と種明かしされても、はあそうでしたか、とすっとんきょうに呑み込んでしまいそうだ。ホラーやサスペンスならば、それなりにスラスラと楽しく読めるかもしれないが、何かしら重要な仕掛けを、仕掛けだとすら気づかずに、本来当然引っかかるだろう、という違和感にも引っかからずに、なんかわからないけど、そうだったのかぁ、とそのまま本を閉じてしまいそうだ。肝の部分を楽しめないで終わる公算が高そうだ。そういう意味ではまだ、百年前の小説のほうが楽しめそうだ。これは、小説の質そのものではなく、培われてきた文化が、物語の文脈を読解する手助けになるからであり、ひるがえって百年後の小説には、想像で補うには分厚すぎる空白が含まれると予測できる。これは何も百年後に限らない。文化を踏襲していなければ読み解けない文脈というものはあり、素養なき者には伝わらない諧謔というものがある。現代でもすでにそうした、文化の断絶による、娯楽の空白化が波及して感じられる。みなが同じように楽しめる娯楽というのは、みながかろうじて共有可能な文化を、薄く膜のように練りこんだものと言えそうだ。希薄でなければ受け入れられない土壌が築かれつつある。同時に、みなに強制的に共有させうる強固な物語であれば、そうした既存の文化に関係なく、広く浸透させることも可能だろう。むしろどちらかと言えば、現代において虚構の娯楽を広く波及させたくば、一見すればみなには受け入れられそうにない、いまはまだ共有されていない、しかし必要とされるだろう価値観を練りこんだ、重厚な物語であるほうが好ましいのではないか、との直感がある。共感がだいじだ、と叫ばれて久しい昨今であるが、みながすでに体験したことのある何かではなく、体験したがゆえに実現できなかったなにか、そうあってほしいと望む未来(可能性)を描いてこそ、新たな共有の文脈は築かれるのではないだろうか。定かではない。(そういう意味では、破壊願望や加速した欲望の成就などは、ヒット作の必須条件として組み込んでもよさそうに思うしだいである)


3010:【2021/06/05*抽象と具体は、視点によって変わる?】
抽象的に考えたときに、ある問題にとって最も合理的な解決策を編みだしたとする。しかし具体的にそれを施行しようとすると、却って問題がこじれてしまうことがある。むしろ、いちど否定されたあまり効率的ではない案のほうが、問題解決の策として有効になることは、取り立てて珍しくはない。机上の空論と呼ばれるものは、抽象的には最適解だが現実的ではない、という場合に引き起こる。たとえば現在、技術的に可能で、最も効率よく安全にエネルギィを生みだす案としては、核融合炉がある。核分裂ではなく、核融合によってエネルギィを生みだす技術であるが、これは地球上に小型の太陽を生みだすようなもので、安全性も高い技術だと期待されている。しかし実用化には及んでいない。抽象的に、技術の良し悪しだけで考えるのならば、代替エネルギィや原子力発電よりも合理的な技術であるが、核融合炉はまだ、具体的な技術として利用できない。もし利用すれば、とたんに現実のエネルギィ問題はこじれにこじれ、近代文明そのものの崩壊すら引き起こしかねない(技術としてはまだ未熟だからだ)。抽象的思考は、時間の概念を超越する傾向にある。未来においては最も合理的かもしれない技術が、必ずしも現在の最適解であるとは限らない。もし時間軸を限定して抽象思考を行うとすれば、それは必然、具体的な思考に寄るだろう。つまり、具体的な思考そのものもまた、抽象思考の一形態なのだ。(本当か?)(いい加減なことを言いすぎである)(あっちょんぶりけ!)


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参照:いくひ誌。【1511~1520】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886671128

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