※日々、無数の流れのそとにいる、濁流に呑まれぬように、目を回さぬように、上から下から、矯めつ眇めつ眺めるように。
2991:【2021/05/16*きみはデタラメばっかりなんだから、もう】
人間は、ある一定以上の財や影響力を有すれば、基本的には援助に回るようになるのではないか。じぶん以外の者にあらゆる環境の発展や改善を行ってもらうほうが苦労しない。自己保身を考慮すれば、それはすべからく援助であり応援であるべきだ。献身なのである。おそらくこれからの企業や権力者に求められる資質とは、献身の姿勢であろう。これはほとんど既定路線であり、国家ですら例外ではない。そうでなければインターネットの張り巡らされた社会にあって、支配階級に位置づけられる者たちはつねに銃口を突きつけられているようなものであり、ゆえに命の危機すら容易く招くことになる。権力を手放さずに自由な環境を築くためには、献身の姿勢を手放さぬことである。ひるがえって、より自由な環境を求めるならば、権力や影響力を求めないほうが都合がよい世の中になっていくのかもしれない。定かではない。(先進国ほど出生率が低くなっていくのと似た原理かもしれません)
2992:【2021/05/17*がははは】
ある作家が、ツイッター上で、「不倫をした芸人を辞めさせるような流れはおかしい」といった旨を述べていた。じぶんたちが我慢していることをされたのでズルイと言って怒っているだけでは、とのことだ。条件反射的な所感としては、それの何がおかしいのだろう、と思った。ズルいというよりも、結婚という一つの契約を破るような人物が、大多数に影響を与える地位にいる。これを問題と捉えないことのほうがおかしいと感じるが、いかがだろう。刑事の管轄か、民事の管轄かの違いがあるだけで、理屈の上では万引きして捕まったようなものであり、痴漢をして捕まったようなものだろう。犯罪ではないだけで、社会的な秩序を脅かす行為であることに違いはない。不特定多数の相手と恋愛をしたいのならば、そも結婚をすべきではない。せめて離婚をしてから、或いは、配偶者と合意を結んでから行うべきだろう。配偶者との合意を結んでいれば、民事でも負けることはない。つまり不倫とはならない。不倫をしたのならば、それはやはり相応の責任をとるべきだ。大多数に影響を与えるような地位には立たないほうが好ましい。これは理屈上、一国の首相がじぶんの思想信条を優先して、公務ではないプライベートで犯罪ではないが、首相として好ましくのない行動をとることの是非を問うのと同じである。大多数に影響を与える者には相応の社会的責任を担ってほしいと求めることはそれほど理屈に合わない望みではないはずだ。むしろ、影響力を持てば(偉くなれば)不倫も容認されるのか、といった誤った風潮が広まるよりかはマシだろう。これは裏から言えば、アイドルの恋愛はご法度、といった誤った風潮が築かれていることと根っこは繋がっている。アイドルであろうとも人であることに変わりはない。社会的に容認されている人権は守られてしかるべきだ(人権のなかにも、現状社会的に容認されていない事項があるので、こう表現するが、基本的人権は本来、誰の容認もいらない。ただし公共の福祉を著しく乱さない限りにおいて、との但し書きがつくはずだ)。それが社会的責任というものだ。アイドルだからこそ、人権侵害にあたるような禁止を享受すべきではないのである。むろん、そこには公共の福祉の観点が加味される。思想信条を優先して、社会的な損失を与える真似は控えねばならない。大多数に影響を与える者には、相応の責任が生じるし、そうあってほしいものである。(だからいくひしさんは影響力を持ちたくないし、持たないほうが、社会を構成する大多数にとって好ましい)(なぜならワガハイ、傲慢なので!)
2993:【2021/05/18*言葉足らずだったかも】
上記で、政治家と商売人を同列に語ったが、いささか強引だったかもしれない。たとえれば教師と生徒のようなものだ。教師には許されずとも生徒には許される行動があるのはたしかに思われる。立場によって、許容される行為はたしかにあるのだ(反対に、立場によって一般通念では許容される事柄であっても許容されない場合もある)。だがたとえば、何か過失を犯したときに、それがいかに個人的なことであれ、その結果に他者からの評価が落ちたならば、やはり信用を損なう。人気商売を担っていたならば、他者からの評価はその職業をつづけていくうえで大事になってくる。他者から何を言われようとも、契約や法律に違反していないのであれば、職業を辞める道理はないのかもしれないが、そもそも他者からの信用を損なえば商売をつづけてはいけないだろう。直接の因果関係はなくとも相関関係はある。もちろん、そういった大多数の意見によって個人の尊厳が損なわれるのは間違っている。しかしそもそも人気商売は、そういった誤った認知の歪みを用いて、他者からの高評価を集めているのではないか。ならばその逆の効果も引き受けるのが道理であろう。一方はよくて一方はダメだ、は理屈として合わない。ただしこの考え方の場合、仮にどんな反社会的行為を犯そうともそれにより却って人気が出た場合には、それを享受しても理屈の上では妥当になる、という負の側面がある。やはりどんな場合であれ、信用を損なう真似をしたならば、それがいかに個人的なことであれ、その者の社会的地位と相関してその責任のあり方を考えることは、それほど間違ってはないように思う次第だ。ただし、その裁量は大勢からの偏見によって恣意的に変動するので、慎重な判断が必要とされるのは言うまでもない。(むつかしそうに言っているけれども、失望させたら人は離れていく、という単純な話だ。理屈で判断できない者が多い社会では、顧客に失望されたら仕事はつづけていけない。失望される理由は、それこそさまざまあるので、その良し悪しには慎重になってほしい、という意見に異論はない)
2994:【2021/05/19*あなたも私も、差別の恩恵を受けている】
差別問題については、大別して二つの視点から分析していくのがよいのではないか、と感じている。一つ目は、権力を保持している者が自身の権力に無自覚な点だ。弱い者いじめをするな、という禁止に対して、じぶんが強者であることを自覚できない者は、この禁止を自身にあてはめて考えることがそもそもできない。ゆえにまずは、じぶんがどんな立場であると強者になるのか、という視点を各々が自覚できると好ましい。どんな人物であろうと、ある場面では強者であり、またべつの場面では弱者になり得る。往々にして同時に満たしているものであり、どんな場面であるとじぶんは強者になり、または弱者になるのかを考えておこう。また、人間は社会性を育む過程で、差別を学ぶとも言える。これが二つ目の視点だ。個人ではどうにもならない構造が、差別を社会に蔓延させる因子になっている。たとえば人間はコミュニケーションをとるわけだが、どうすれば最も効率よくじぶんに有利な環境を整えられるか。或いは、仲間を築けるか。こうした社会のなかでの立ち位置をじぶんに有利にするために洗練されてきたコミュニケーションの技術そのものが、差別を内包している場合、そこには社会的に妥当な利があるために、それを差別であると見抜けない、または見抜けても見て見ぬふりをしてしまう、という奇禍の種が含まれる。ゆえに、まずは社会全体で、そういうコミュニケーションは好ましくない、なぜならこうした分断や属性への差別が助長されるからだ、という視点で議論を行っていくことが、差別の悪影響をすくなくしていくうえで欠かせないのではないか、と思うしだいである。(差別の権化みたいなひとが言うと説得力があるじゃろ?)(わぁ、ホントだ)(否定して!)
2995:【2021/05/20*モコモコ】
生きていると思わぬ符号の合致を目の当たりにする機会がある。思いのほか多い。あたかも、じぶんがそうと念じたからそれが引き起きたのではないか、とすら思うようなことが連続して起きたりする。しかしそこに因果関係があることは極めて稀だ。ほとんどが偶然でしかない。この世のどこかではいまこの瞬間に地震が起こり、或いは雨が降り、それとも雪が舞っている。その情報を目にする機会があるかどうかの違いがあるだけで、あす地震が起こる、雨が降る、雪が舞う、と言っておけばひとまず外れることはない。いつどこでなにが起きるのか――すくなくともこの三つが当たらなければその予測は偶然でしかない。もちろん漠然とした予測としてならば、ある程度の精度で予見はできるだろう。砂漠で雨の降る確率よりも、梅雨入りしたこの国での雨の降る確率のほうが高い。あたりまえの話だが、このあたりまえは、未来を予期し、予測分析できる人間の知能が可能とする蓋然であり、けして単なる偶然ではない。法則を見抜き、複数の未来を想起し、過去の事例を統計し、類推しながら、総合して確率を計算できる人間の営みがなせる業である。ただし、その確率の計算というものは、だいぶんどんぶり勘定であるし、見逃されている情報が確実にある。その見逃された情報によって、予期せぬ事態が引き起こることは、珍しくない。楽観視と言えば端的だ。往々にして人間の予測というものはそういうものだ、と言ってもよい。ただし、そうして訪れる予想外の事態ですら、統計して集め、確率の計算の精度を高める素材として有効活用できる。ゆえに、思わぬ符号の合致を連続して目にしたときに、それが単なる偶然なのか、そうではないのか、の判断には慎重になっておいたほうがよい。その事例を素材として用いてよいのか、それとも素材にすらならない偶然でしかないのか。それを知るためにも、符号の合致をただの偶然と片付けずに、何かしらの背景があり、法則や仕組みがあるのではないか、と想像し、吟味する習慣は、予測の精度を高めることに繋がる。予測は基本的に外れるのだ。しかし外れた予測から学べることもあり、外さなければ得られない情報もある。繰り返しになるが、多くの符号の合致は偶然である確率のほうが高い。ただし、それだけとも限らない。また、因果関係ではなくとも、相関関係になっていることはある。これもまた、見逃している側面の一つだ。まったく関係のない者同士を結ぶ因子があるかもしれない。化学反応を起こしている触媒があるかもしれない。歯車の役割を果たす因子が、あちらとこちらを結びつけ、関係させているかもしれないのだ。その結果、ニワトリが鳴き、川が干上がるという、一見すると奇跡のような事象が引き起こり得る。たとえそのような事象が連続して引き起きたからと言って、ではニワトリの鳴き声に川を干上がらせる性質があるのか、と言えば必ずしもそうではない。何かしらの見えていない仕組みが、ニワトリの鳴き声と相関して、川を干上がらせている可能性が残っている。むろん可能性があるだけであり、これもまたまったくの偶然かもしれないし、或いは川が干上がることですら、ほかのもっと大きな仕組みが動いた結果に副次的に生じた事象であるかもしれない。いずれにせよ、符号の合致の多くが単なる偶然だとしても、そこに何らかの因果関係や相関関係がないかを見定めようとする姿勢は、回りまわって予測の精度を高めると言えそうだ。或いはこうも言い換えられる。予測しないことには、予測の仕方を修正することもできないのだ、と。(失敗することの意味とは、半分くらいはこの効能に集約できる気がする)(きみはいつも、気がするとか、かもしれないとか、曖昧モコモコしすぎクンやね)(わぁ、羊みたい)(モコモコにだけ反応するの、やメェい)
2996:【2021/05/21*価値と法則】
いつどんな時代にあっても、結びつけるモノ、の価値は揺るがないように思うのだ。その副産物として、解きほぐすモノの価値もまた一定水準以上に維持される(マニキュアと除光液みたいなものだろうか)(だいぶ違う)。たとえばこの世から人類がいなくなれば、素人の作曲した音楽と、モーツァルトの作曲した音楽のあいだいにハッキリとした価値の差はないと言える。これは音楽に限らず、あらゆる人間の生みだす成果物に言えることだ。しかし、例外がある。それは何かと言えば――事象と事象を結びつける作用そのものである。この宇宙では、無から有が生じたが、そこから種々相な物質が生まれたのは、融合と崩壊の繰り返しによるものだ。重力の揺らぎができ、星々が形成され、超新星爆発が起き、重金属などの物質が錬成された。融合と崩壊とはすなわち、結びつけ、ほぐす、ということだ。まずはなんであれ、結びつけることが前提に立つ(もちろん、結びつける素材がある場合に限る話ではあるが)。結びつけるのは何も、異質な物同士である必要はない。同じ物同士であっても、結びつき方やその規模によって現れる性質は変わる。巨視的微視的な視野の違いで、観測できる性質もまた変わってくる。いずれにせよ、結びつけないことには何も生まれない。ただし、その前段階には、流れを妨げる障害物が生じている。障害があるゆえに、流れに偏りが生まれ、差異ができ、それが結びつけるべき素材の輪郭を生みだす。障害はどんな流れにも生じている。畢竟、障害があるからこそ内と外が区切られ、流れが一定の枠組みに抑え込まれている。そうした流れや障害すら、結びつけるモノにとっては素材の対象となる。結びつけるモノは、つねに内と外を観測できる上位の次元に位置する。俯瞰し、観測できるからこそ、結びつけることができる。これは、どんな時代、どんな環境であれ、この宇宙にある限り、変化を生む種そのものである。価値とはすなわち、何かを新しく生みだすことだ。これまでなかった変化を生み、変化をもたらす。そうした変化を止める術ですら、変化の一つと数えられる。停滞や維持もまた変化の一種なのだ。そうした数多の変化は、大小の区別なく、総じて事象と事象の結びつきによってなされる。ゆえに、いつどんな時代、どのような環境であれ、何かと何かを結びつけられるモノの価値は揺るがない。結びつけるモノこそが、価値の本質なのである。(それを、法則の、と言い換えてもよい)(妄想ですので真に受けないでください)
2997:【2021/05/22*へへん】
とくに書きたいことも伝えたいこともないときに、無理やりに文章を並べても、けっきょく書きたいことも伝えたいこともないんだ、ということ以外を並べるのはむつかしい。だが一転、これが小説の場合であると、ただ文字を並べるだけで、それとなくなんとなく、なんらかの物語らしいものがつむがれていく。おそらくは、何も書きたいことがなく伝えたいこともない状態のほうが、却って「じぶん」という殻に縛られずに済むゆえに、より純粋に物語の登場人物たちに寄り添えるのではないか、という仮説が成り立つ。反面、じぶんを反映してキャラクターを叙述することができないため、別途にキャラクター造形の素材となる乱雑な情報が入り用となる。これは書きたいことや伝えたいこととはまったく異なる「情報のジャンク」と言える。言い換えれば、日々の生活を送るうえでまったく役に立たない取るに足らない記憶の断片が、そうしたキャラクター造形の素材となると言ってもよい。書きたいことや伝えたいことがあると、こうした雑多な情報の断片を素材に用いることなく、書きたいことや伝えたいことを物語に用いることにばかり意識がそそがれ、却ってこじんまりとしたものになりやすいのではないか、との直感がある(宝石ばかりあっても家は建たない)。ただし、こじんまりとしていようが、そこに投入した素材が極上であれば、やはりそこから生みだされる物語は無類のものになるのだろう(家を建てるにしても、素材や道具にはこだわりたいものだ)。そこは相互に影響しあうもののはずだ。つまり、いちど空っぽになるために、敢えて書きたいことや伝えたいことを素材として物語をつくり、そのつぎに無造作に、無意識から沸き起こる雑多な情報の断片をつむいで、唯一無二の物語をつむげばよいのである。これは歯車のごとく相互に絡み合い、物語の起伏をより深淵に、より密接に作用する回路を築くための、前進していくちからとなる。本当にそうなのかは定かではない。(いくひしさんの小説を見てごらんよ。偉そうなことを言ってもこんなものなのさ。へへん)
2998:【2021/05/23*ちっぽけ】
ちっぽけな存在であることにある種の安堵の念を覚える。それはじぶんの弱さを免罪符にしてじぶんの惨めさやふがいなさを許容しようとする無意識からの自己肯定なのかもしれないが、もちろんそれは逃避でもあるだろうし、卑下でしかないのだろう。自虐を以って自傷行為とし、みずからを慰めているだけだと言われて否定するだけの論理を構築できない。だとしても、ちっぽけな存在である事実は、これは誰であってもある意味で正しい解釈でもある。解釈とはつねに視点によって変わるものであるにせよ、いったいどれだけの視点を内包しているのかによって、より普遍的な大きい枠組みでの解釈は可能だ。そういう意味では、じぶんはちっぽけな存在だ、という解釈は、人間はちっぽけな存在だ、という意味と同等の規模で、真理にちかい解釈を伴なっている(宇宙という最も大きな枠組みからすれば、人間という私はちっぽけだ。これは真である)。だとしても、けっしてそれは無意義であることと同義ではない。ちっぽけではあるが、たしかにここに存在し、なにかしらの影響を世界に与えている。それを他者に、としてもよいし、自然に、としてもよい。枠組みを広げて、宇宙に、としても間違ってはいない。ちっぽけであることは、大きいわけではない、という以上の意味合いは持たず、それは必ずしも、偉大ではない、ではないのだ。ちっぽけであっても、誰かにとっての偉大にはなれるし、尊く、たいせつな、かけがえのない存在にもなれる。その可能性が、ちっぽけな存在にはつねに内包され、或いは不随されている。影のようなものだ。他者という存在によって、ちっぽけな存在であれ、ほかのちっぽけな存在の光を浴びることで、偉大にも、極悪にもなれる。つねに大いなる存在ではない。だからといって、ちっぽけな存在である事実を忌み嫌う道理もない。(ちっぽけって響きがまずかわいくない?)(かわいい!)
2999:【2021/05/25*同時に満たし得る】
作品と作者は別、という考え方に拒否反応を示すひとがいる。作品と作者を切り離せないものとして評価する姿勢も分からなくはないが、本質ではないと感じる。そういう考え方をしているから、素晴らしい人物だ、という人物評価が先立って、作品を公平に評価できなくなったりするのだ。たとえば大昔の壁画に対して、美を感じるとき、そこに作者の側面像など加味されないだろう。それを描いた原始人たちがいかに現代の価値観からして野蛮な行いをしていたとしても、その壁画の美しさは揺るがない。同様にして、人工知能のつくりだす芸術作品であっても、美しいものは美しく、そうでないものはそうでないはずだ。たとえばいかにアインシュタインがセクハラ大好き人間だったとしても、アインシュタインの研究の価値が落ちるわけではない。ただし、芸術と科学は違うだろ、という指摘はその通りだ。まったくの不可分ではないにしろ、科学は真理を追い求める行為であるのに対し、芸術はただ或るがまま、思うがまま、を出力する姿勢そのものだ(我がままと言い換えてもよい)。芸術に正解はない。ゆえに、ある人物からしたら醜い表現が、ある人物からすれば極上の美に値することもある。そこは完全に相対評価であり、絶対評価ではあり得ない。そういう意味で、作品と作者を別々に評価しようとする価値観と、作品と作者は不可分だ、とする価値観は、それぞれの美の解釈が異なるだけで、けして相反するものではない。同時に満たし得る。片一方の価値観で作品の価値を量ろうとすることはむろん、責められたものではない。そもそも芸術に正しい評価など存在しないのだから。じぶんにとっての美を見詰める作業があるだけなのである。(鏡のようなものなのかもしれませんね。作品の評価とはすなわち、じぶんの価値観の反映なのです)(好きなように見ればいい)(自由な物の見方をすればいい)(いろんな解釈をしてみればいい)(いろんな見方を学べばいいし、これといって学ばなくともよい)
3000:【2021/05/26*天才であるメリットはすくない】
天才と秀才と凡人がいるとして、その比率は人口を分母にすれば、多いほうから、凡人、秀才、天才となるだろう。では社会的に有意義な存在である率はどうだろう。天才は唯一無二の存在だ。反して秀才や凡人は、比較的替えがきく。だからといって、では天才が社会的に最も有用で、それ以外の人々は価値が低いかと言えば、そうではない。天才はむしろ、その他大勢の協力がなければその才能を発揮できない。数多の凡人の協力を経てこそ、天才はその能力をいかんなく発揮できる。これは秀才にも言えることだ。秀才は、天才と凡人の懸け橋になることができる。ただし、環境への適応という面で言えば、秀才と凡人、どちらが進化しているかと言えば、これは生物学的に言えば明らかに凡人なのである。凡人であることは、現代社会に生きていくうえで最適な進化を帯びている。言い換えるならば、環境に適応した者から順に凡人になっていくと言ってもよい。凡人はいわば、環境適応の天才なのである。つまり、進化論的に言えば、凡人であればあるほど生物としてより進化している。進化した結果、繁栄し、その数を増し、社会の多数派となる。その多数派につけられた名がすなわち凡人であり、ただ単に数が多いというだけの傾向があるだけだ。本質的に、天才も凡人も、生物としての性能に大きな差はない。ただ、どちらが環境により適応しているのか、の差があるだけなのだ。ただし、天才と呼ばれる者たちは、何かしらの影響を他者へと及ぼし、それにより社会変革を成し遂げている。天才とは、後付けの解釈であり、そもそも天才として生まれてくるものではない。進化するものではない。単なる称号でしかないのだ。社会という秩序を崩し、なお大多数にとって好ましい変化を及ぼした者。そうした社会的異物に対してつけられた許容の証のようなものである。天才であることにさしたるメリットはない。むしろ、凡人であるほうが遥かに生物として生存競争に有利であり、もっと言えば、進化していると呼べる。秀才もまたその限りではない。定かではない。(サカナではない、みたいにとってつけたみたいに言わないでください)(そりゃきみはヒトであって、サカナではないでしょうよ)(そういう意味で言ったのではありません。ひとの揚げ足とりばかりして。いくら考えなしだからって、他人の足を奪ってもお利口さんにはなれないんですよ)(あーえっと、うーん。それってひょっとして、考える葦と、考えなしと、揚げ足取りをかけたジョーク?)(だったらなんですか)(わかりづらすぎてびっくりした)(そんなそんな天才だなんて。褒めてもなにもでませんよ、えへへ)(天才と言った覚えはないんだけど?)(サカナと言った覚えはないんだけど、みたいに言わないでください)(安心したまえ、きみは天才でもサカナでもない)(どうせそれも定かではないんでしょ)(これだけは断言するよ。定かだ)(ぎょぎょっ!)(サカナだった!?)
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参照:いくひ誌。【101~110】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881386208