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いくひ誌。【2981~2990】

※日々、存在しない存在ばかりを積みあげる、見えない、触れられない無数の箱は、いくら鬼でも崩せない、私だけの賽の河原で遊び尽くす。


2981:【2021/05/06*サボる言い訳】
たゆまぬ努力というが、常に日々張り詰めていては肉体の消耗を加速させるだけで、逆効果に思える。一流とは、何を妥協してもいいのかを最小単位で理解していることを言うのではないか。そして妥協していいことは、常に変化していく。また、誰が本当に一流なのかを見抜く審美眼があることも条件の一つに入れていいように思う。一流とは、一流同士でしか認知しあえない暗黙知そのものと言える。(ということは、いくひしさんは誰が一流かを一生見抜けないってことですね。かわいそ)


2982:【2021/05/07*確率で把握する癖をつけるとよい】
未来予測には、精度と距離がある。いかに正確な予測かはむろんのこと、どれくらい遠くの未来を計算できるかも、予測の主要な指針と言える。予測の能力値は、個々人によって異なる。予測の精度が高くとも、目先の未来しか見通せないのであれば、あまりあてにしないほうがよい。精度が低くとも、ざっくりとした大枠で、遠い未来を予測できるのなら、それは得難いビジョンとして共有しておいたほうが利になる予測と言える。そうした予測の能力差は、無視できない行動選択の差として現れる。問題なのは、必ずしも長期的な未来予測を精度高く行える者が生存に有利となるわけではない社会構造にある。社会の構成員の大多数が、短期の未来予測を基に行動選択を行っている場合、そうした大衆の行動は一つの流れとして、揺るぎがたい因果の筋道を確保する。そっちに行くのは危ない、と長期的な未来予測を示したとしても、そうした流れを変えるのは容易ではない。往々にして、焼石に水を地で描く。また、中期的な未来予測を行える者は、そうした大勢の構築する流れを利用して私利私欲を満たそうとするので(つまり長期的な未来予測ができるのならばそうした行動をとることの社会的な害を理解できるはずなので――社会的に害があるのならば回りまわってじぶんにもその危険が巡ってくるだろうと理解できるはずだから――そうではない時点で、長期的な未来予測ができない者と呼べるため)、ますます抗いたい流れが強化される。こうした流れを変えようとすることは、長期的な未来予測を精度高くできる者ほど、諦める傾向にある。無駄だと判るからだ。しかしもし、短期中期長期といずれの未来予測をも精度高く行える者があった場合にはその限りではなく、そうした者が往々にして、世の中の大きな流れを変える布石を投じることとなる。ピタゴラスイッチさながらにそうして投じられた布石によって生じた波紋により、大きな流れは、任意の方向へと進路を変え、或いはその流れそのものを干上がらせる。未来予測の真価とはこの流れを変えることにこそある。流れそのものはどこにでも漂っている。どの流れを強化し、どの流れと流れをくっつけ、どれとどれの流れを妨げるのか。短期中期長期の未来予測のそれぞれでこうした作為が交錯し、ゆえにすべての視点で吟味できる者たちこそが、流れを任意の方向へと灌漑し、ときに堤防を築くことで、新たな土地へと運ぶ役割を担える。何を運ぶのか、と言えば、流れそのものではなく、流れを構成する成分たちを、であり、それはときに、水であり、養分であり、人そのものであり、或いは技術や知恵、文化や文明そのものである。(私はこの予測がものすごく苦手なので、たいがい外れてしまうので毎日、うがー、となっています)


2983:【2021/05/08*集めて作り壊して忘れる】
型をつくったら壊す。それはある意味で、型を忘れることもでもある。否、忘れることのほうにこそ本質がある。忘れるために、壊すのだ。忘れるよりも壊すことのほうが簡単だからだ。型をバラバラにし、そしてまた新たな型を組みあげる。その材料は、砕けた型の破片であり、同時に新たに調達した素材ともなる。壊さずに、型を何個も保存していく方法もなくはないが、人間の処理能力、こと記憶容量からすれば負荷の増加は免れない。負荷が増えては、よりじぶんにとって好ましい、自在な型には届かない。否、或る程度の負荷があってこそ、強靭な型がつくれる場合もある。だがやはり、それを破壊しないことには、つぎなる境地へとは旅立てない予感がある。破壊は簡単だが、しかしより細かく砕き、素材にするには、相応のちからがいる。単に崩すだけではなく、粉々に砕き、忘却するためには、強靭な型と同じくらいに強靭な別の型がいる。二つあれば、双方をぶつけあい、ぐちゃぐちゃにできる。いったん無になれる。無地を描ける。できるだけ別の土壌からこさえた型であるとよい。破壊と創造を繰り返していくとやがて、どんな型と型をぶつけあい、まぜこぜにするとよさそうかを想定できるようになる。色と色をまぜて新しい色を作るように、組み合わせの知識だけは、蓄積されていく。忘却しようとしても、それだけは身体が覚えるのだ。それこそが肝要だ。否、それをこそ残すために、壊し、忘れ、つくるのである。(みなさんご覧ください。これがかの有名な、なんかそれっぽいこと言いたかっただけのひとです)


2984:【2021/05/09*立場と基準と眼識】
相手の立場で物を考える、というのは、立場によってその効能が様変わりする。たとえば立場が上の者の場合は、じぶんよりも環境のよろしくない、より不自由な者たちの苦悩を想像し、それを解消するように行動指針をつど修正していくことが、回りまわって世の中から不平等や理不尽を失くす流れを強化する。あべこべに、立場の下の者たちは、じぶんたちよりも枷がなく自由度の高い者たちが、いったいどのような行動原理でそれを選択し、或いは選別しているのかについて理解を深めると好ましい。なぜ好ましいのかと言えば、基本的に世の中の評価基準をつくるのは、立場が上の者たちだからだ。ではそうした者たちは、どのような基準で、人材や成果を評価するのか。これはどの分野であっても共通しており、その分野にとって都合がいいか否か、である。だが、分野とは世界と同義ではない。社会の一部であるが、それがイコールすべての社会ではない。分野の発展を目指すことで、社会全体に不平等や理不尽が増えては困るのだ。そのために、分野の発展だけではなく、それが広く公共の福祉に与するように、評価基準を修正していく必要がある。修正するためには、評価基準がどこにあるのかを解っていなければならないが、往々にして立場の上の者たちは、じぶんたちよりも立場の下の者たちに、この評価基準を明らかにしない。建前やきれいごとで煙に巻くことはあるが、往々にして真実を口にすることはなく、ときにはじぶんたちですら、本当のところを自覚できていなかったりする。岡目八目ではないが、外野から眺めて初めて明らかになる基準もあるのだ。そうした曖昧な、しかし絶対的な仕切り――ときに壁――となり得る評価基準を、立場の下の者たちは、じぶんたちよりも上の立場の者の視点で考え、見抜くことで、より対等な交渉を可能とする。まずは見抜かねばならない。そして立場の上の者たちは、じぶんたちよりも立場の下の者たちに、その評価基準を見抜かれても(よしんばわるいほうに勘違いされたとしても)問題ないとする姿勢を保つことが、より長期的な安寧や秩序を築くうえで有効であり、合理的なのだ、とする知見を持っていると好ましい。相手の立場で物を考えるとは言ってもこのように、その効用は、立場によって様変わりする。だが相互に作用して、社会全体を好ましい仕組みに変えていくこともできるのである。そうあってほしいと望むものである。(そういうむつかしいことは、みなに任せて、いくひしさんは毎日、うがー、ってしていたい)(うそ。うがー、ってならないように、全人類どうにかしてほしい)


2985:【2021/05/10*さいきんお腹がスライムみたいでかわいい】
衰える、というのは、ひょっとすると余白が広がることなのかもしれない。筋肉をつけるためにはまず脂肪を蓄えるとよい、という理屈と似ている。まずは休息をとり、身体を衰えさせてから、そこで開いた余白に、つぎなる新しい技術を刻みこむ。これは思考も似たようなものだ。まずは熱を持った頭脳を冷まし、いったん休眠させてから、つぎなる新しい思考形態を築いていく。それは回路をつくるのに似ており、なるべくまっさらな状態であったほうが好ましい。まっさらにするのだから、以前に使用していた回路の得意としていた思考はむしろにぶるのが道理だ。しかしそうして、いったん保留し、ときに破棄して塗り替えないことには、つぎなる思考、回路、視野、を獲得できない。一つの回路を延々と発展させる、という考えもできなくはないが、それはそれで余白は入り用だ。けっきょくのところ、いかに理想を思い描き、創造を具現化させる土地を自らの身体に与えられるかが、枝葉や根を伸ばしつづけるためには欠かせないのかもしれない。つまり、鍛錬だけではなくむしろ、休息や遊びの時間がたいせつなのだ。(筋肉をつけるためにまずは脂肪をつける、というのはじつは科学的根拠はない、というのは通説なのだろうけれど、実感としては、脂肪をつけたときのほうが筋肉痛になりにくいし、体力の回復にプラスに働いて感じられる。因果関係はないが、相関関係はある気がしている)(筋肉を酷使するほど激しく動いたりはしていないけれども)


2986:【2021/05/11*ぴゃー】
小説に関して言えば、日々の生活や日常の風景における心の動かされた瞬間を、ときに装飾し、誇張し、または余計な部位を削ぎ落して、描くことが、結果として人の心をも動かす物語になるのだと考えている。ゆえに、読書だけをしていても極上の新鮮な物語は描けないのだろう。いわば読書は、物語を描きだすための部品や道具の手入れであり、準備だ。物語の部品そのものは、日常生活から仕入れなければならない。ときには読書をしたときに動かされた心の機微を流用することで物語を描くこともできるだろう。だがそれはけっきょくのところ、焼き増しでしかないのだ。そこに、じぶんの触れてきた生の刺激や情報が練りこまれていなければ、二次創作との違いを探すのはむつかしい。ひるがえって言えば、二次創作とて、そこに作者の生の刺激や情報が練りこまれていれば、どれだけ元の物語に似ていようと、紛れもなく創作であり、表現である。もっと言えば、どんな人間であれ、なにかしらを表現すればそこには、生の刺激や情報が挿入されることになる。ゆえに、物語の質を決めるのは、その配分であり、配合であり、いかに練りこませ、任意の色を、思い通りの位置に、意図したとおりの滲み方でおいていけるのか、にあるのではないか。もちろん物語は、それを受け取った側のなかに展開された世界こそが本物であり、すべてである。意図したとおりの世界を思い描いてもらえるかはわからない。往々にして、異なった世界が展開されるものだが、それを含めて、意図した絵柄になるように作者は、己がうちに広がる世界を練りあげ、つむぎだす。ゆえに、できるだけ人生を味わうほうがよい。それが楽しいか否かは別問題だ。味わうのである。そうして咀嚼し、嚥下し、消化吸収した刺激や情報が、極上の新鮮な物語を生みだす素材となる。もっと言えば、ひねくりだされる世界とは、そうした刺激や情報のしぼりかすと言ってよい。創作や表現とは、ほとんどそういうものである。主要な栄養素は基本的に、味わった本人の血肉となり、ゆえにつぎなる刺激や情報を味わう活力を当人に与える。繰り返しになるが、創作や表現に限らず、何かしらを生みだすためには、人生を、日々を、味わい、生きることである。(まったくできていないひとが言うと説得力があるじゃろ?)(ゼロでは?)(ぴゃー)


2987:【2021/05/12*平面で見ながら、立体を構築する】
何か知識を得ると、任意の事象を目にしたときに、これはこういうもの、という箱ができて、それを以って何かを解った気になってしまうものだが、知識の有効性とはそういう安易な断定にあるのではなく、同時並行でほかの箱にも当てはめることができる、というある種の重ね合わせを実現できることにあるのではないか。こういう視点ではこういうくくり方ができるが、これはこれでいちどおいておいて、ではほかにはどういうくくり方ができるだろうか。そういう物の考え方を、ある種の秩序を築きながら、整理しながらできる。知識はそのための箱であり、箱を並べ替え、整理し、築いた秩序そのものが新たな知識として箱を形成する。この繰り返しの果てに、夜空の星々のような紋様を浮かびあがらせる。宇宙の大規模構造は、平面的に見たときにのみ現れる図柄にすぎず、一つ一つの星の点描は、一見した大きさでは、その位置関係を把握できない。巨大な恒星が遠くにあることで、ちいさな点として映る。あべこべにちいさな恒星とてちかくにあれば大きく映る。この繰り返しと融合によって、大規模構造という宇宙にあるゆらぎの結晶が現れる。思考形態にも似たようなことがあてはまるのではないか。それこそが自我を育むということなのではないか、との直感を述べて本日の日誌としておこう。(妄想ですので、真に受けないでください)


2988:【2021/05/13*私は無知なので知りたいのです】
世の中で高評価のモノをじぶんが何かしらの審査をする側ならば選ばない、ということがある。権威のある賞を受賞した作品であっても同様だ。じぶんが審査員ならばまず選ばなかっただろう、というものが選ばれている。ここで言いたいのは、審査員の見る目がない、ということではなく、じぶんのような人間が審査員でなくてよかった、という安堵の念だ。じぶんが選ばないものを選んでくれる者たちがいる。じぶんには素晴らしいと思えないものを、素晴らしいと評価してくれる者たちがいる。それによって、なるほどこういうものにも素晴らしい点があるのか、と判る。いったいどこが素晴らしいのだろう、と興味のなかったものに興味関心が芽生える。賞や、高評価、というものは元来そういうものである。これは翻って、じぶんでは好きなモノやコトが評価されない場合でも同様だ。なぜその評価者は低く評価しているのだろう、という新たな視点が生まれる。視点を増やし、解釈を増やすことは、じぶんの世界の幅を広げる。つまり、高評価だろうと低評価だろうと、評価そのものの持つ効用は変わらない。高評価なモノが必ずしもじぶんにとって価値があるとは限らないし、逆もまたしかりだ。評価とは基本的に相対的なものでしかない。絶対的な指標とはなり得ない。そうした分別をつけるためにも、視点や解釈を増やそうとする意欲は欠かせない。そのためにも、できるだけ、これまでになかった視点や発想、世界観ほど得難いものとして評価していく姿勢が、権威のうえに評価する者たちには求められるのではないだろうか。(あなたがよいと思ったものを、たくさん教えて欲しい)


2989:【2021/05/14*もっと楽しくできる気がする】
大きく型をつくることと、細かく精密に流れをつくることは、相互に機能を高める。しかしいちどできた型だけに頼っていると、細かく緻密な流れをいかに変化させたとしても、ぱっと見の印象は変わらない。あべこべに、いかに大きな型を変えたところで、細かく緻密な流れを変化させ、新しい流れを築いていかないことには、うつくしさを磨く真似はできない。たとえうつくしくとも印象に残らないこともあるし、たとえ印象に残ろうともうつくしくはない粗暴な型というのもある。それはそれで得難い旨味となることもあり、いちがいに美を追求すればよいというわけではないにしろ、理想を追求していけば否応なく突きあたる壁というものもあり、それを打ち砕き開かれる道は往々にして、美へと繋がっている。大きく型をつくりながら、細かく緻密な流れを築きあげ、さらにできた流れそのものを変化させ、大きい型をより美しく磨きあげていく。その反復があるばかりであるが、それからさきにも何かしらの活路があるように思われてならず、それはおそらく、これ以上美を追求しない、という我執(理想)からの解放を以って開かれるつぎなる遊び場であるようにいまはなんとなしに直感している。定かではない。(要するに、飽きているのです)


2990:【2021/05/15*植物さんはえらいなぁ】
植物の時間感覚で人間を知覚するとすればそれは、人類からしたウィルスと似たようなものなのではないか。ウィルスは言い過ぎにしても、虫のようなもののはずだ。植物は匂いや根っこから分泌する伝達物質によって、ゆっくりとではあるが、ほかの植物と情報の伝達を行っている。それはたとえば、毒の有無や日光や土壌の様子などであろう。生存に有利な環境か否かを、ほかの個体と共有すべく発信しているのだ。会話をしているようなものであり、やはり植物からすると人間は、超高速で動き回る虫や、存在を危ぶめるウィルスのようなものに感じられるのかもしれない。定かではない。(うろ覚えの情報をもとにした妄想ですので、間に受けないでクロサイ。それはツノのある動物、鎧をまとったような皮膚をしていて、ほかにはシロサイやインドサイ、スマトラサイもいるよ)


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参照:いくひ誌。【401~410】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882848175

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