※日々おもったことなどなにかあるのだろうか。
101:【カウンター】
基本的にドハマりするものの特徴として、最初にめいいっぱい舐めくさっていたもの、という共通点がいくひしにはある。かつては、小説なんて人生になくてもよいものベスト10に入っていただろうし、下手をすると殺人よりも「なくていいモノ」扱いしていたかも分からない。どんなもんかいっちょ見てやっか、といった冷やかし気分で手に取って、そして打ちのめされた。偏見という名の分厚い壁を、まっしょうめんからぶち破られた。ぶち破ってくれた対象に抱く敬意の厚さときたら、最初に抱いていた偏見の非ではない。好きなものをより好きになるのもひとつの深化ではあるが、蛇蝎視してやまないものを好きにさせるだけの威力を秘めた何かを、いち表現者としては目指したい。諸君。遠慮はいらぬ。めいいっぱいいくひしを見下してくれ。蔑んだ目で舐めくさってくれ。望むところである。そんな諸君をまるごと、全身全霊で、愛し尽く(返り討ちに)してくれよう。
102:【小物】
器のちいさな人間を「小物」と呼ぶ。大きい器は「大物」である。期待の大きさを示す意味で、大型新人、などという言い方もある。ただし、現在の社会では往々にして小さいモノのほうが高性能である確率が高い。ムーアの法則を引き合いにだすまでもなく、現代社会では小ささこそ、進化の証である。よっていくひしは小物でよい。デビューしたあかつきには小型新人のコピーで売りに出してほしい。超薄型でもよい。
103:【BL】
多くは語るまい。漫画家「はらだ」氏が天才である。なかでも「やじるし」「ネガ」「やたもも」がすばらしい。
104:【適当なコードを言いすぎ】
小説における文章力とは、表現したい情景や事柄のコードをいかに無駄なく編成できるかにあると言っていい。この場合、読者はまんま読み取り機を意味する。コードそのものに美しさや感動は宿っていない。それを読み取り、展開したことで読み取り機のなかに、美しさが宿り、そして感動を生むのである。主役は言うまでもなく読み取り機のほうであり、中身が同じであるならば、コードの形状はいかようなものでもいいと呼べる。ただし難点がひとつある。読み取り機の仕様が個々によって違っているという点だ。ある機種にとって最適なコードが、ほかの機種にとっては読み込むことすら適わない。そうした不具合が往々にして引き起こる。また、コードは基本的にシンプルであればあるほど読み取りやすくなる。ただし、シンプルさを極限まで突き詰めていくと、ある境目から、ひじょうに高度な認識を要求される構造体へとその性質を反転させる。究極にシンプルな構造体には複雑さが宿るのである。たとえばそれは、人間の絵をデフォルメしていくと、ある時点から棒人間となり、あらゆるキャラクターの区別がつきにくくなるのと似た現象と呼べる。或いは、情報の圧縮に0と1というシンプルな羅列を用いることで、あべこべに人間ではとてもではないが扱えないほどの膨大な数字の爆発が起きるのとちかい現象と言い換えてもいい。ゆえに、ある程度の複雑さは、コードを識別するうえでは必要になってくる。これは逆にも言えることであり、極限まで複雑な形状を成したコードは、その複雑さゆえにぱっと見からは単なる黒い汚れにしか見えないかもしれず、或いはどんな汚れもしょせんは汚れでしかないように、識別されることなく単一の事象として処理されてしまう恐れが終始つきまとう羽目になる。シンプルさと複雑さは、どちらか一方のみを極めていくのではなく、双方共に意識し、一見してコードだと判るような、読むためのものだと認識される形状で、内なる世界の情報変換を行っていくのが理想なのかもしれない。メリハリのある文章とはおそらく、QRコードのように、一見して、「あ、これわたしが読むべき文章だ」と判るカタチを伴っているはずであり、あべこべに、「おれの読むべき文章ではないな」とスグに気づくことも容易であるはずだ。本当だろうか? 適当なことを言いすぎである。
105:【純文学と少女漫画】
純文学と大衆文学のちがいは何か。散々論じられてきたこのバカらしくも切実な問いかけにはいくつかの答えがある。だがそもそもを言ってしまうならば、純文学と呼ばれる小説が果たしてあるのか、というところに疑問を持つ作家はすくなくないのではないかと個人的には思っている。それでも敢えて純文学とは何か、を問うならばいくひしはこう答えよう。純文学とは少女漫画であると。否、少女漫画は純文学であると言ったほうがより精確ではある。まず視点のちがいが大きい。基本的に少女漫画は一人称である。例外もあるが、少年漫画とのちがいを一つ挙げよと言われたらいくひしはためらいなくこの視点の違いを挙げるだろう。少年漫画の代表作としてワンピースを例にとってみよう。ワンピースは大衆文学の文脈を忠実になぞっており、愛と勇気と冒険と、なにより前向きなワクワク感をだいじにしている。そしてもっとも重要な「視点」だが、これは大衆映画のように神の視点で描かれており、視点が固定されていたとしてもそれは限定的な三人称一視点である。けっして一人称で物が語られることはない。ワンピースでキャラクターたちがモノローグを挟むというのは稀ではないだろうか。まったくないとは言わないが、極力排されている傾向にある。では少女漫画はどうか。モノローグの嵐であり、これでもかと内面描写がちりばめられている。ともすればいくひしの好む少女漫画は、極力モノローグを挟まずに、キャラクターたちの微妙な仕草や、表情で、心情を表現している作品が多いように感じている(モノローグがわるいという話ではないのでそこは勘違いしてほしくない)。たとえばそれは志村貴子氏の漫画であり、いくえみ綾氏の漫画であったりする。モノローグを使っている場面であってもそれは、面に出している感情と、呑みこんでいる感情との対比をより効果的に反映させるための技法であり、安易な表現への逃げではけっしてない。人称の固定は、そのために必要な制約であり、足場である。そしてこれは純文学におけるもっとも主要な性質であると呼べる。純文学とは、見えているものと、そして見えてはいないが、たしかにそこに存在するものとを浮き彫りにするための技法を、ひとつひとつ丹念に洗いだす作業だと言っていい。純文学が文字によってなされるのは、それが「文学」だからではなく、言葉という目に見えないがたしかにそこにあるものを使うのがもっとも理に適った術だったからである。だからして、同様に、見えないがたしかにそこに感じられるものを描きだせるのならば、それが絵でも、映像でも構わないのである。ゆえに少女漫画は純文学だと言ってしまってもこの場合は一抹の不都合も挟まれない。繰り返すが、純文学とは「術」である。ゆえに本来、本質的に、大衆文学の対となるような概念ではない。そのため、大衆文学の文脈を有した少年漫画にも、同様にして純文学と呼べる作品はたくさんある。一人称で、愛と勇気と冒険と、そうしたワクワクとは相反したナニカを描き出しているものがあるのである(たとえば近年の押見修造氏の作品などはその典型である)。あべこべに、少女漫画にも神視点の作品があり、大衆映画さならがの多視点で、目まぐるしく場面が移ろい、より奥行きのある世界観が描かれている傑作もすくなくはない。だがはやりというべきか、傾向として少女漫画は、その物語の主人公の性別に関係なく、基本的には一人称で物が語られ、そして異性という名の未知との遭遇を徹底的なまでに、残酷なまでに、生々しくもおぞましいほどに、主観的に描かれているのである。そして少女漫画と少年漫画でもっとも異なる点は、少年漫画がキャラクターたちが総じて、その物語に固有の世界観に染まっているのに対し、少女漫画のキャラクターたちは押しなべて各々に個別の世界観を築きあげている点にあると呼べる。少女漫画はより孤独なのである。少年漫画が、ボクシングという共通のルールを共有し合っているある種のスポーツであるのに対し、少女漫画は、完結している世界が互いにぶつかりあう、総合格闘技――否、原始的な闘争そのものなのである。言いすぎか? 言いすぎやもしれぬ。すまぬ。
106:【いくひし、虎になる】
「新しい才能は新しすぎるために初めはどこからも評価されない。そうした箴言があるわけじゃん?」「あるのか」「あるの。で、いくひしはそう、たぶんその新しすぎる才能ってやつだと思うんだよねー」「それって、あー。どこからも評価されないからか」「そう。だってべつにヘタクソってわけじゃないわけじゃん? だのに勝てない。評価されない。それって新しすぎるからってことでしょ。勝つためには、評価されるためには、その舞台に根付いている固有のルール、ドレスコードに合致した格好を真似なきゃならない。すくなくともそうした装いを表向きしておく必要がある。サッカーで手を使っちゃいけないのと同様に、バスケットで足を使っちゃいけないのと同じレベルで、どんな舞台であってもそうした過去から連綿と受け継がれてきた風習みたいなものがあるわけで。でも、いくひしたちがやってるのってスポーツじゃないわけじゃん? いかに新しい価値観を提供するか、いかに見たことのないナニカを実感させるかにその真価はあるわけで、ほかのみんなと足並みをそろえた表現なんてそれこそする意味あるのっていくひしは思っちゃう」「言いたいことがふたつあるな。ひとつは、新しい価値観ってやつはけっきょくのところそれ自体が、既存の価値観を踏み台にし、破ることでしか成し遂げられない化学反応みたいなもんで、それそのものが独立して成立する概念ではないってこと。そういう意味でどんな表現であれ、その根底には脈々と受け継がれつづけてきたドレスコードみたいなものがある。というよりも今ではどんな人間でも服を着ているだろう。裸で過ごすことが新しいからって、素っ裸になった人間とお近づきになりたいと思う人間は稀だ。それこそセックスするとき以外はな。で、言いたいことのもう一つだが、おまえはじぶんをヘタクソではないと思っているようだが――」「なにさ」「ヘタだぞ」「なんじゃ?」「ヘタクソだって言ったんだ」「ヘタ? ど、ど、どこが?」「ヘタにどこもクソもない。いや、ヘタクソなんだからクソはあるかもな」「待って待って。いくひしの悪口はいいから真剣に話そうよ」「悪口ではないからな。事実だからな」「待って待って。え、ホンキで?」「ヘタクソだろ。だから勝てない。評価されない」「うそ、どの辺が?」「どの辺もクソもないだろ。いや、ヘタクソだからクソはあるのか」「二度も言わんでいい!」「そもそも誤解しているようだから言っておくと、新しい才能がどうこう、おまえは拘ってるみてーだけどな。新しい才能ってのは、評価された対象につく愛称みたいなもんだ。真実それが新しいからそう呼ばれてるわけじゃないんだよ残念ながらな」「でも……いくひしは、じゃあ、えっ。ヘタクソなの?」「そう言ってるだろ」「ヘタクソだったから評価されないの?」「だからそうだって」「じゃあさ、じゃあ、いくひしはどうしたらいいの。ヘタクソで、おもしろくなくて、触れる価値どころか見る影もなくて、いくひし、これからどうしたらいいの」「月にでも吠えとけば?」「がおーー!!!」「そういう素直さはあるのな。まあ冗談はこの辺にして」「冗談だったのかよ!」「おまえはさ、他人に評価されたいからしてんのか?」「そりゃされたいでしょーが」「それが目的ならドレスコードだろうがルールだろうが、なんだって守ればいいだろうが。すくなくともそれを見抜く眼力くらいはあるんだろうよ。なら勝つために、評価されるために、できることをしろよ」「ヤダ」「は?」「ヤダヤダ、そんなのやる意味ない、おもしろくない、ツマンナイ」「でも勝ちたいんだろ。評価されたいんだろ」「いくひしは!いくひしとして!!評価!!!されたいの!!!!!! 真似っこじゃ嫌なの! したいようにしたいの! すべてをまるっと、くるっと受け入れてほしいの!」「わかってねーなー。その傲慢さを自覚できないかぎり、おまえはいつまで経っても月に吠える虎ちゃんなんだよ」「いいだろ! 虎! かっこいいじゃん! がおーー!!」「それでいいならそうしてろよ」「がおーがおー!!!」「ふう。月がきれいだ。まあ、言っても――人語を操れる虎なら、勝ち負けを超越して重宝されることもあるかもな。ただし、がおーしか言えなくなった人間じゃあ、それこそ見る影もないけどな」「ねえ、ホントにヘタ?」「しつけーなー! 認めとけ!」
107:【ダイジェスト】
いくひしはダイジェストが好きだ。いいとこどりというやつだ。スポーツでもひと試合すべてを観るのはかったるいけれど、ダイジェストでずばりそこですってとこだけを集めたダイジェスト版はたのしく観れる(意図的な「ら」抜き)。小説だって同じだろう。読者はほんとうにおもしろいところしか観たくない。かつておもしろかった小説は、時間の経過と共に余分な脂肪を蓄えていく傾向にある。読者のほうがそう感じるように進化しているだけのことではある。スマホを使えばいい場面でスマホを使わないのははっきり言って無駄だろう。そういう場面の圧縮がむかしよりもいまのほうがよりしやすい環境にある。読者に、こうすればいいじゃん、と思われては負けなのである。ゆえに小説において、物語の圧縮作業というのは常に必要とされている。ともあれ、スポーツでも小説でも、元となる試合や物語がなければダイジェスト版はつくれない。そこには無駄なものがたくさん含まれている。それそのものをつくりだすのは、素材からダイジェスト版を削りだすよりはるかに大きな労力が必要とされる。ただし、素材からじぶんでつくらねばならない場合、ダイジェスト版を用意するほうがよりむつかしいのは言うまでもないだろう。ダイジェスト版には、できあがったものから推し量れる労力よりも格段にめんどうな作業が隠されているのである。ダイジェスト版とは、けっして素材に対する劣化版ではない。むしろいっぱんに出回っているなんの加工も施されていない「それそのもの」のほうが、よほど製品として劣っているといくひしは考える。ともあれコアなファンからすれば試合すべてを観たいだろうし、そこは需要に応じて、ということになるだろう。だがすくなくともいくひしは、ダイジェスト版のほうが好きである。
108:【人生にうるおいを。】
たいせつなことは目に見えない。だけれど目に映るものにだってたいせつなものはたくさんある。目に入れたくないものも含め、たいせつなものはむしろ、目に映るもののほうが圧倒的に多い。目に入れずにどうにかそれを直視できないか。そうしたあがきが文学だとも呼べる。人生に文学など必要ない。必要としたら、負けだ。(負けても終わらないのが人生だ。果てなき挑戦を祈る)
109:【退化】
新しいことをしようとしてひたすらじぶん道を突き進んできたつもりでも、気づくとなぜだか時代遅れになっている。誰からも見向きもされず、求められもせず、周囲を見渡してみればじぶんが理想とする方向性にちかいことをすでに軽々こなしている者がいる。一人や二人ではない。なぜじぶんはこうまでも成長しないのだろう。答えはすでにでている。流行りを血肉としていないからである。じぶん道という骨格を、流行という名の他者の介在によって肉付けしていくことでしか成長の道はない。ただし、退化に退化を重ねていくと、あるところを境に、突如として得体のしれない変化を帯びる例がある。ガラパゴス諸島の生態系に見られる独自の進化のように、明らかに個体としての特徴がひとめでそれと判る独特さを兼ね備えるのである。長い歴史のなかで見れば、個体としての劣化――退化もひとつの進化なのである。怯える必要はない。求められる必要もない。理想とする姿を追求しつづけるかぎり、進化は自ずと訪れる。
110:【不躾】
礼儀や作法は相手から攻撃されないようにするための呪文のようなものである。最低限それをしておけば、相手から「不快だ」という理由で攻撃される危険性が減る。言い換えれば、こちらに非があるという免罪符を相手に与えずに済むわけである。繰り返しになるが、礼儀とは、相手が不快に思うか否かに関係なく、相手からの攻撃を無効化できる楯のようなものである。攻撃されれば攻撃し返す免罪符が得られる権利書でもある。礼儀を尽くしてさえいれば、さいあく悪者になることはない。重要なのは、礼儀がけっして「相手を不快にさせないためのルール」ではないという点だ。礼儀を尽くしても不快に思われることはある。相手を最大限尊重し、尊敬し、敬愛していても、不快に思われることはあるのである。珍しいことではない。往々にしてありふれている。礼儀は尽くしたほうがいい。すくなくともじぶんにとっては。ただしそれは、楯を持ち歩くのと変わらない防衛行為であり、礼節を重んじることと、相手を不快にさせないようにすることは別物である。もっと言えば、相手を不快にさせたくなければいっさいの接点を持たないようにするほかない。そういう意味で、だいじなのは、じぶんがじぶんの行いをどう思うかであり、じぶんでじぶんを不快に思わないようにすることが回り回って本当の意味での相手への敬愛、感謝の儀式、まさしく礼儀となる。似た理屈としては、「誰かを愛したくば、まずはじぶんを愛そう」や、「じぶんがされて嫌なことは相手にするな」などがある。ただし、じぶん(のこと)が大好きだからといって、それが相手への礼儀となるわけではないし、じぶんがされたいことだからといって相手もそれを手放しで喜び、受け入れるとは限らない。そういう意味で、平均化された基準のようなもの、すなわち礼儀や作法は、じつに合理的で、実社会では必要なものである。むろんいくひしは、礼儀に欠け、作法を乱すことに絶大なる快感を抱く尊大無礼不躾なちんちくりんであるので、これからも多くの人間を不快にさせていくだろう。殺人をはじめとする、拷問や強姦、裏切りや弾圧――そして愛、あらゆる理不尽と暴力の渦をこれからも表現しつづけていく。みなの衆。大いに不快になられるがよろしい。心乱されることを試みよ。