※日々おもったことをボソボソとつぶやくよ。
91:【付加価値】
小説は小説のおもしろさのほかに評価する点はない。作者の素性などどうだっていい。著者が東大生だとか、芸能人だとか、殺人犯だとか、そんなのは些事どころか作品の質を無駄にさげる蛇足でしかない。むしろ何者にもなれない者がおもしろい小説を紡げるだけで何者かになれるという奇跡のようなチカラが小説にはあるのだ――と、そういった夢がかつてはあった。それがいいことか否かは熟考の余地があるが、しかし現在、そうした夢は商業出版から遠のいた(その分、インターネット上でそうした夢は肥大化し、多くの若手作家を増殖させつづけている)。小説が売れなくなったここ数年、売るために版元は小説に小説以外の付加価値をつけはじめた。ネイムバリューという名の偏見である。効果はたしかにあるだろう。無名の、何者でもない作者の小説よりかは弁護士やお笑い芸人のつむぐ小説のほうが話題になるだろうし、小説に興味はなくとも、どんなもんかいなと興味の矛先が向く傾向はよりつよいと言える。だが長い目で見ればそれは小説業界にとって逆効果であり、自らの首を絞める愚行もとより不幸である。本来付加価値とは、それそのものよりも魅力のないものが抜擢される。飽くまでおまけであるべきなのだ(ただし携帯電話がスマホになったように、本体よりも付加価値のほうがその価値を大幅に上回ることもある)。だがネイムバリューは、それそのものが小説本体よりも大きな魅力を有している。付加価値のほうが価値が高いのである。相対的にみればそれは小説の価値をさげている行為だと呼べる(スマホがもはや電話として扱われていないのと同様の原理である)。作者の経歴を重視するのは商業出版としては必要な戦略ではあるだろう。だが、それがあたりまえになってもらっては困るのである。これでは才能ある作家たちから、あそこはホンモノを嗅ぎ分ける能力すらないのだ、と見切りをつけられても文句は言えまい。だがいち読者としては文句のひとつでも言わせてほしい。小説家は小説のちからなんざ信じちゃいない。信じた時点で歩みは止まる。信じていないからこそ立ち向かっていけるのだ。だからこそせめて版元だけは小説のちからを信じてほしい。願わくは、小説に値段をつける者として、小説を売り物にする者として、本気の矜持を見せてもらいたい。
92:【批判】
十割いくひしについての話である。ネット上でなにかを批判するのはきもちがいい。批判の対象を目のまえにしたらぜったいに言えないようなことでもネット上なら言い放題である。こと、権力への批判はどこか正当性を帯びているかのような錯覚を引き起こしやすく、ますますきもちのよさに拍車がかかる。が、そうしたルサンチマンにまみれた批判は、それを己のそとに出力した時点で、自身の何かが削れ落ちていることは自覚しておいたほうがいい。それが単なる愚痴であろうと批判であろうと創作でさえ、例外ではない。ルサンチマンは「いくひしまん」を万が一にも成長させない。ともすればやり方しだいでは研磨することは可能かもしれない。それにはやはりというべきか、自覚がたいせつになってくる。自傷めいた内省である。内緒の話なのである。さいきんすこしおやじギャグが多すぎない? はんせい、はんせい、と言ったその足で性懲りもなく、自身の半生の半生、創作活動をはじめたここ数年を振り返るいくひしなのであった。まる。
93:【秘伝のたれ】
人間はつねに細胞を入れ替え、代謝している。骨でさえ例外ではなく、破骨細胞により骨は溶かされ、骨芽細胞によって補完されている。ではすべての細胞が入れ替わったとき、果たしてそれは以前のじぶんと同一人物だと呼べるのか。いくひしはこれを秘伝のたれ問題とかってに呼んでいる(テセウスの船という言葉があるらしい)。ラーメン屋にて何十年も消費され、その都度すこしずつ継ぎ足されつづける秘伝のたれは、中身がそっくり入れ替わってしまってもオリジナルの秘伝のたれだと呼べるのか。或いは、カップにそそがれた水がある。蒸発した分をコーラで補った場合、いつかはすべてがコーラに置き換わる。それはもはや水ではない。とすれば、これは人間であっても同様なのではないのか。自己同一性とはいったいなんなのか。答えのひとつとして、変化の連続性が挙げられる(循環系の維持もひとつの答えではあるが、ここでは敢えて触れずにおく)。水からコーラへ、瞬時に変化すればそこに同一性はない。しかし連続し、コマドリアニメさながらに変化していく一連の流れが保たれているかぎり、水がコーラになってしまっても、そこには同一性が保たれていると呼べる。結果がだいじなのではない。その過程を含めての同一性なのである。つまり、人間は絶えず変化しつづけ、別人として生まれ変わってはいるが、その変化が断続的でないかぎり、そこに同一性は保持される。だが解離性同一性障害や記憶喪失、或いは洗脳を受けた人間など、変化の軌跡が鋭角に繋がれたとき、もしくは途切れてしまったとき、その人物は別人として観測され、同一性がないものとして扱われる。そう、けっきょくのところ同一性とはその程度のものなのだ。他者の観測によってなされる一種の評価でしかない。レッテルのようなものである。コマドリアニメでさえ、繰りだされるコマの速度を遅くすれば、それはアニメとしての扱いを受けなくなる。断続したものとして見做される。途切れているとうなされるのはいつだってそれそのものではなく、外部である。ともすれば、長い時間に身を置く観測者がいるとすれば、人間は死ぬまでがセットなのかもしれず、或いは人間という細胞が構築する人類を一単位とした連続性を感受しているかもしれない。人類はゆっくりと新たな人間によって入れ替わっている。しかし、長い時間に身を置く観測者からしても、さいきんの人類はやや連続性を欠いて映っているやもしれぬ。急激な技術革新は、人類から、その同一性を奪っているのかもしれない。果たしてそれの何が問題なのか。人類を個人に置き換えていちどじっくり考えてみたい。
94:【93のつづき】
人類が技術を発展させたけっか、急速な変化がおよぼされ、人類がゆるやかにたどってきた変化の軌跡がいちど途切れ、人類としての同一性が失われるかもしれない。93ではそのことについて触れた。だが考え方が逆だったかもしれない。技術革新を経て人類は、これまで以上の同一性を獲得しはじめているのかもしれない。インターネットという繋がりを得て、人類は足並みをそろえて変化できるように進化しはじめているのではないか。より個としての輪郭を強固なものとして再構築されはじめていると考えると、人類は今まさに秘伝のたれとして調理されている最中なのだと捉えることができる。そう、変化はまだ訪れていない。同一性を獲得している真っ最中なのである。言い換えればそれは、新たな個の誕生であり、誕生した個には死が約束される。人類は今、まさに死を獲得しはじめているのかもしれない。死を獲得したモノは例外なくなにかを残そうとする。人類はいったいこのさき、何を生みだし、残そうとするのだろう。何を残し、死にいくだろう。いくひしは、それを見届けられないことがざんねんでならない。或いは、見守りながら滅ぶことも可能性としては残されている。
95:【吊り橋】
橋のうえに立っていながら、谷底は絶望だ。まっくらでなにも見えない。救いがない。そう言って嘆いている泣き虫がいたらいくひしは全力でふざけんなーーーッの嵐を見舞いたい。おいおいベイベー。おまえのいる場所がどん底かい? そこが底ならここはどこ? 否、それはいくひしにも言えることだ。ここはホントにどん底かい? もっと下があるのではないかね。否、否。下を見たって仕方がない。できれば上を見て、やはりいくひしは、ふざけんなーーーッと叫びたい。否、否、否。這いあがっていつか耳元で言ってやる。
96:【フェチ】
あと二十年もすれば今ある性愛のカテゴリーは大きく様変わりするだろう。同性愛や異性愛という言葉はなくなり、ゲイやレズという言葉も学術的な専門用語として定着するはずだ。セクシャルマイノリティの分類は現在、ものすごい勢いで細分化され、類型されている。しょうじきその道を研究しているわけでもないのに覚えるのは骨が折れる。マニアックだと言い換えてもいい。そうしたマニアックに細分化されていく事象に対し、世の人々はやがて業を煮やし、こう言いだす。「うるせーー!!! 愛は愛だろ、それでいいじゃん!」こうなると事象への差別は単なる区別として定着していく。というよりも区別するのさえ億劫に思われ、すべてを単一化した事象として見做されるようになる。すなわち、人は人を愛するのだ――と。同性愛や異性愛、性同一性障害など、様々な性愛のカタチがあれど、それらはけっきょく人を愛することに変わりはない。好きになるきっかけが異性か同性かの違いがあるだけで、その後の愛の育みは、性別ではなくその人物そのものへと向かうはずだ。言ってしまえばフェチなのである。男フェチであり女フェチである。女性の足の裏が好きなら足裏フェチだし、男性の鎖骨にセクシーさを感じるなら鎖骨フェチである。性差への執着も同様である。本能など関係ない。単に現在、この社会には、男は女フェチに、女は男フェチになりなさいという風潮がつよく流れているにすぎない。フェチとは性的倒錯の一種であり、本来の意味であれば、性的な興奮を喚起されない物や生き物、身体の部位に性的魅力を感じることを言うそうだが、性別という概念そのものに性的興奮を喚起されるというのは充分にフェティシズムの範疇に属すると思う。フェティシズムは環境によって後天的に形成される。ならば社会が変わっていけば自ずと性差フェチも変化していくはずだ。
97:【異文化】
色のちがう環境に飛びこめば単純に目立つので、勝負ごとでは有利に働く。いくひしはそうかと思い、試してみたが、結果は散々である。かつてない惨敗の連続で、じぶんの仮説の至らなさをいやというほど痛感中である。基本的にその土地にはその土地の文化があり、そこでなりあがった者が現在の主流をつくり、ある種のルールを暗黙の内に成立させている。そこへ、ルール外の異分子が飛びこんできても、ワル目立ちはするが、評価はされない。だがそこで引いてしまっては本当の負けである。色が違うならば染めあげてやればいい。時間はかかるだろうが、勝てる環境で勝ちを得ても、そこに本当の価値はない。文化を破壊するのは問題だが、文化に変化を与えるのは、その環境にとっても必要な刺激である。基本的に文化とは固い殻に覆われている。外界からの刺激や、内部圧の変化を厭う傾向にあり、重要なのはそうした殻に囲われた事象は緩やかに滅びゆく点にある。文化は守るものである。守らなければいずれ消えてしまうという逆説がそこにはある。密閉された空間にいてはいずれ酸欠になる。穴を開け、窓とし、新鮮な空気の通り道をつくりたい。ただし、それをしてあげたいと思える文化が、環境が、そこにあるのかがもっとも重要な点である。かってに滅びろ、と匙を投げだされなければいいが、と老婆心ながらぼやいてみる。
98:【自家撞着】
平和のためには武力は必要ない。言葉を尽くせばきっと伝わる。否、伝えていかなければならない。これは性善説を前提にした主張である。相手にもこちらの言葉に耳を傾けるだけの善意があるのだという理屈があってはじめて成り立つ主張である。だがそうした主張を掲げる勢力は、同じ口で、自国の権力に対しては、性悪説を前提に議論を展開している。外部の人間には言葉を尽くせば伝わると言っておきながら、内部の権力に対しては相手の主張を曲解して、人間は自制がきかない、最悪の事態を考えておくべきだと「自身が批判している方法論そのもの」を用いて反論している――ように、いくひしにはこのごろ映りはじめて仕方がない。いくひしは正論を言う人間が好きだ。正論は青臭く、ゆえに正面きって唱えるのは忌避されがちだ。だから正論を吐き、それに向かって前進している集団は応援したい。だが、主張を押し通すために、自身で否定している「悪意」を用いるべきではない。たとえば偏見を用いて何かを拒絶するのはよくない。いわゆるヘイト活動への批判がある。いくひしもそれに反対するつもりはない。じつに正論っぽい。だがそういった正論っぽさを口にしながら同じ口で、相手がおにぎりだと言っているものを「汚握り」だと言い換えて非難している。レッテル張りはいけないのではなかったのか、といくひしなどは言いたい。そこに問題があるならば、そうした安易なレッテル張りなどせずに、正々堂々と正論で対抗すべきではないのか。むろん政治となればある種のプロバカンダ、マルクス的イデオロギーが必要になってくる。目的遂行のためには理想を曲げなければならない局面が往々にして訪れるものだろう。だが、それは非難したい相手も同様である。理想のため、平和のため、何かを成し遂げるために致し方なく「悪意」を用い、こちらが非難したくなるような問題行為を犯しているのではないのか。真実に正論を行為として昇華したいならば、踏みとどまらなければならない局面というものはあるはずだ。さいきんすこし、逸脱しすぎてはいないだろうか。いくひしは、理由があって今回の選挙に参加できず、たいへん申しわけない気持ちになりながらも、ちゃっかり懸念だけは呈するのである。
99:【鏡に向かって】
じぶん一人を満足させられないのに赤の他人を満足させようなんておこがましいとは思わんかね。徹底的に、完膚なきまでに、もうこれがつくれたら何もいらないというくらいの情熱をいちどくらい作品に籠めてみたら? 誰にも受け入れられない、世界中でただひとり、じぶんしか楽しめない作品に仕上がってしまうかもしれない。ただし、じぶんという存在が世界中でただ一人の存在だと思いあがれるほど「私」はそれほど特別な存在だろうか。ひとまず、じぶんを満足させてみよう。満足できるかの保証はできないが。
100:【原点回帰】
いくひしの原点についていい機会だから述べておこう。いくひしは数年前、それこそ八年前までは本なんていっさい読まない人生を送っていた。読んだとしても小学生のころに読書感想文のためにハリーポッターを三冊読んだくらいである。十五少年漂流記を読んだ記憶もあるが、内容はさっぱり思いだせない。ただ楽しかった感応は残っている。読書体験はだいたいその四冊ぽっきりだと言ってしまっていい。漫画は手塚治虫氏か藤子F不二雄氏の作品以外はほとんど読まなかった。というよりも、いわゆる少年漫画、ジャンプ作品などを貸し借りする相手がいなかった。だから必然、図書室で借りられるような、親に買い与えられるような漫画しか身近にはなかった。中学生のころに少女漫画にはまったが、じぶんで買うほどの熱のあげようではなく、それもまた家にあったから手に取っていたくらいの浅い縁である。ちなみに片岡吉乃氏の「しじみちゃんファイト一発」はいくひしにとって原点を刻むための白紙のような漫画である。どんな物語を紡いでも、しじみちゃんファイト一発にでてくるキャラクターの癖のつよさが染みついて離れない。困ったものである。小説なるものにハマったのは高校を卒業してからのことである。知人のすすめでちょうどハンター×ハンターを読みだしていた。そしてアニメ映画「イノセンス」を視聴したのもちょうどそのころのことである。イノセンスの監督である押井守氏繋がりで「GHOST IN THE SHELL」をツタヤから借り、つづけざまにTVアニメ「攻殻機動隊SAC」を視聴した。アニメというものへの見方が一八〇度変わった瞬間である。攻殻機動隊にハマったそのころ、押井守監督が映画「スカイクロラ」を発表した。観るしかないと意気込んだいくひしではあったが、しかし映画館へ足を運ぶのには抵抗があった。当時のいくひしにとって、もっとも楽しいひとときと呼べる時間の一つに映画を観るという行為があった。そんな至高の時間を赤の他人にまみれて過ごすなんてもってのほかで、苦痛以外のなにものでもなかった。かといってDVDがツタヤに並ぶのを待つのもまた我慢できなかった。そこでいくひしは、ひとまずの急場をしのぐ案として原作を読むことにした。そこでいくひしは正真正銘、生まれて初めて、自らの意思で本屋さんなるお店に足を運んだのである。さながら精肉店へ足を運ぶブタのような心境であった。ブタの気持ちなどわからぬが。文庫コーナーの一画に「スカイクロラ」はあった。森博嗣なる作家が紡いだ物語という前情報はすでにネットで検索し、知っていた。なるほど、ほかにもいろいろ本を出しているらしい。出版社別に並んでいたので、念のためほかの出版社の棚も調べてみた。驚いた。どんだけ出してやがんだこやつ。どうやら森博嗣なる作家は大御所の作家のようだ。これだけ本が並んでいるのだからそうに違いない。押井守監督が映画に抜擢するのも納得だ、と妙に腑に落ちたのを憶えている。スカイクロラを探しにきたはずが、そのときいくひしはひとつの短編集を手に取っていた。長らく小説とは縁のない人生を送っていたいくひしには、はじめから長編に挑むのはひどくしんどく映った。スカイクロラは長編に属する小説であった。でも短編ならば読めるかもしれない。そこで手に取った本が、いくひしの人生を、大げさでなく、変えた。森博嗣氏の「地球儀のスライス」であった。むろん初めは購入するつもりはなかった。スカイクロラを立ち読みして(もはやチラ見といったほうがよかったが)、立ち去ろうと思っていたのだが、パラパラとめくった「地球儀のスライス」の解説者が冨樫義博氏だったことが、いくひしの後ろ髪を、地引網がごとく引いた。冨樫義博氏は、ハンターハンターの生みの親、作者たる漫画家であった。理系と文系のちがいを持論をまじえながら展開した冨樫義博氏の解説に、いくひしはまんまと心を掴まれた。気づいたときには「地球儀のスライス」なるタイトルの文庫本と共にレジに並んでいた。まさしくいくひしはそのとき、なにかとてつもない存在と肩を並べているような感覚があったのかと問われれば首を捻らざるを得ないのだが、まあしょうじきレジにどうやって並んでいたのかは憶えていない。ただ、翌日、いくひしはふたたび同じ本屋さんへと足を運び、未購入だったスカイクロラと、森博嗣氏のほかの短編集をもう一冊購入していた。一晩で読み、翌朝にはいくひしは、いくひしとなっていた。郁菱万は、そのとき産声をあげたのである。おぎゃー。以後、いくひしは、森博嗣氏の癖のある小説ばかりを読み漁った。とりつかれたように本を読みはじめたいくひしを心配した従姉から、ほかの作家のも読みなよ、と伊坂幸太郎氏を勧められ、なんだこんなもん、と激しい反発心と共に、クソつまらなかったぜ、と突きかえしてやろうとイヤイヤ読破したが、あべこべに完膚なきまでに打ちのめされた。いくひしは伊坂幸太郎氏の小説にハマった。というか、小説に、ハマっていた。同時期、TVアニメ「化物語」が放映を開始した。アニメの原作者が、森博嗣氏の同門とも呼ぶべき西尾維新氏であり、アニメ第一話を視聴し、やはりつぎの放映を待ちきれんとばかりにいくひしは原作を購入し、性懲りもなくみたびハマった。いくひしが小説のようなものをつくりはじめたのはちょうどそのころのことだったと記憶している。西尾維新氏の小説にハマってからは以降、京極夏彦、本多孝好、桜庭一樹、中田永一(乙一)、石田衣良、森見登美彦、三浦しをん、中村文則、恒川光太郎、川上未映子、筒井康隆、伊藤計劃、円城塔、松岡圭祐、ほか売れっ子作家たちにつぎつぎと魅了されていった。圧倒されてきた。いくひしはハマった作家の影響をすぐに受ける傾向にある。たいへんよろしくない欠点だと自覚している。しょうじき手の内を明かすようで、好みの作風の作家を詳らかにするのはためらうが、そうした姑息な真似をしているうちは借り物でしか物語を紡げない小者にしかなれないと思い、「いくひ誌、第100項目」を期に、ここに打ち明けておく。こと森博嗣氏の紡いだ小説からの影響は計り知れず、ほんとんどパクリではないのかと思われる個所もあるかも分からない。ないことを祈るが、ないと断言できるほどいくひしの受けた衝撃は軽いものではなかった。その衝撃がなければいくひしは未だに小説とは無縁の人生を歩んでいたであろう。そういう意味でいくひしは多少なりとも森博嗣氏をうらんでいる。(その才能をうらやんでもいるが、)なんてことしてくれたんだ、と嘆いている。小説なる虚構を必要とせずにいられる人生は、小説がなければ生きていけない人生よりかは遥かに明るく、浮ついていられただろう。知らぬが仏を地で描けた人生のはずだ。ともすれば、森博嗣氏の小説を手に取ったのは必然であったのかも分からない。当時のいくひしにとって、それは必要な物語だったのである。ただ、今こうして創作という道に、浅からぬ期間、足を踏み入れている身としては、いくひし以前のじぶんに戻りたいとはふしぎと思わないのである。いくひしは小説が好きだ。おもしろい小説が、好きだ。だから、そんな「好き」を、じぶんの手で生みだしたい。愛を、編みだしたい。愛するよりも、愛撫したい。この手でじかに感じたい。誰よりも深く、虚構を。存在しない、存在を。我が手に。って、なーに真面目くさってんだ、新作はやくよこせ、と内なるいくひしが吠えているので、がんばって新作つくります。がんばるぞー。おー。