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いくひ誌。【3021~3030】

※日々、ひび割れていく鏡に映る分身の、ゆがみを個性と錯誤して。


3021:【2021/06/15*ぺんぺぺーん!】
やあやあいくひしさんでござる。お久しゅうでござるなあ。ちょいとまた手伝っておくれ、と頼まれてしまったので、頼まれたら断れない、えらいのえらいの飛んでいけな、いくひしさんはお手伝いするでござる。またとってもくっだらなーいいくひしさんのつれづれを載せていくでござるよ。うは。いくひしさんはさいきん、カフェイン断ちをしているでござる。まいにちガブガブしてたお紅茶をやめて、お茶とか烏龍茶を飲むようにしているでござる。で、いま気になって、ひょっとしてお茶や烏龍茶にもカフェインって入ってたりしないでござるか、とするどく見抜いて、インターネットさんで検索してみたらコーヒーさんの三分の一くらいはカフェインさんが入っているそうでござる。ガブガブ飲むもんちゃうよ、と言われそうでござるな。意味ないやん、ってつっこまれちゃうでござる。でも飲むでござる。ついでにやけ酒ならぬ、やけコーヒーでござる。飲んでやるでござる。久々のコーヒーはやっぱりとってもにがいでござる。にがいのにおいちいなんてぜいたくでござる。やたー。いまさら気になったんでござるけれども、なんでいくひしさんはござるなんでござるか? そのござるになにか意味はあるでござるか? ないでござるか? おサルさんでござるか? ウキーでござるか? モンキーなんでござるか? しつこいでござる。なんも意味なーい。なんとなく、「ござるってかわいない?」「かわいいかわいい」みたいになっただけでござる。べつにおじゃるでもよいでおじゃるし、あべし、でもよいであべし。ぷぷー。あべしってなんでござるか。おもちろいでござる。わらっちゃうでござる。おへちょでサーフィンができちゃうでござるよ。ざぶーん。いくひしさんは思うんでおじゃるが、なにゆえいくひしさんにこうして駄文を書かせるであべし? じぶんで書けばいいでおじゃる。なんでしないであべしか? きっと載せることがないときにこうしていくひしさんの文才に頼るんでおじゃるよ。なんて姑息なんじゃましょ。スネちゃまだってスネちゃうくらいにあべしでおじゃる。あべしなのかおじゃるなのかはっきりして! で、ござるー。やっぱりござるがよいでござるな。いくひしさんはござるなんでござるよ。ウキ。もうもう何を書いてもおもちろくなってしまういくひしさんの文才にはびっくりしちゃうでごじゃるな。ごじゃるだって、ぷぷー。嚙んじゃったでごじゃるよ。あやや、ごじゃるのほうがひょっとしてかわいくないでごじゃるか? ごじゃる、ごじゃる。まるでいくひしさんのお部屋みたいでごじゃるな。それは、ゴジャゴジャでごじゃるよ。無理があったでござる。やっぱりいくひしさんはござるがよいでござるな。中身のないことを並ばせたらいくひしさんの右にでる者はいないでござるよ。じゃあ左にでる者はいるでござるか? 上は? 下は? まえにでたほうがなんかすごそうでござる。いくひしさんのまえにでる者はいないんでござるよ。こうしてじぶんをおいしょしないと立っていられないでござる。ヨボヨボのヨボでおじゃるよ。トホホでおじゃる。がびーんでおじゃる。古臭いでおじゃる。気づいてしまったでおじゃるが、おじゃるもござるも古いであべし。きょうからはあべしでいくであべし。というか、あべしってなんであべし? タカシやムサシではだめでおじゃるか? 名前じゃないであべし。もういっそ、あいだをとって、カフェインにしたらよいでカフェイン。あばば。ギャグっぽくしたかったのに、それっぽくなってしまったでカフェイン。でもカフェインさんの採りすぎはあんまりポンポンによくないみたいでおじゃるので、ときどき味わうくらいがよいでごじゃるから、カフェイン断ちをするでござる。やっぱりござるでござるな。はぁ、おちちゅく。で、ござるー。


3022:【2021/06/16*素朴で清潔で動きやすいのが好みです】
最近の悩みは、古着をいつ捨てるか問題です。ヨレヨレになったり、色落ちしてきたりしたら捨てればいいのではないか、とは思うのですが、これがまたいちがいに判断できるものではなく、いつの間にかヨレヨレのを着ていたりして、その時点でようやく捨てるのですが、なかなか着る前に気づけません。というのも、ぼくは同じTシャツを何十枚も持っていて、それを毎日のように着まわしているので、色もサイズも同じなので、どうにもどれがいちばん新しいTシャツで、どれが古いTシャツなのかがわからなくなるのです。Tシャツに限らず、下着や靴下もそうです。同種のものを、何十枚も持っています。ですので、なかなか捨て時が判らず、一目してヨレヨレになるまで手元にとっておいてしまう、という悪循環に陥っています。ほかのいくひしさんのなかにはオシャに気を使う方もいらっしゃって、そういう人からは、見りゃわかるだろ、とか、ほかの色のも買えばいいんじゃない、といった身も蓋もない助言をいただくのですが、いざそうした助言を実践に活かそうとするとなんだか日々の生活が落ち着いて感じられずに、くよくよしてしまうので、できるだけ同じ服につつまれていたいのです。ぼくのこの感応に共感してくださるいくひしさんもいらっしゃるのですが、その方は百円均一で下着やら帽子やらを買い揃えてしまうようなおひとなので、ひと月もしたらすべて捨てて買い直す、ということをするような方ですから、そうした点でも、感性やら価値観やらの違いを否応なく感じずにはいられないのです。最もぼくとかけ離れているいくひしさんからは、ヨレヨレになっても着りゃいいじゃん、という他人事の極致のような感想をいただいて、いつもならこっそり傷ついてしまうのが常なのですが、今回ばかりはふしぎと心が軽くなりました。みんながみんなあなたのような方だったらよかったのですけれどね、といったことを述べましたところ、まずはおまえがあたしんみたいになればいい、というようなことをおっしゃられて、目からウロコが落ちた心地がいたしました。それはそのとおりです。べつにヨレヨレの服を着ていようが、色落ちしたTシャツを着まわしていようが、たしかにぼく自身はそれで嫌な思いはいたしません。ほかのひとから、あのひといっつも同じ服着とるね、なんか汚い、と思われたくないだけなのです。だからといっておシャレに気を使って、毎日異なる服装や着回しを考えるのは億劫で、疲れてしまいますから、だったらもういっそのこと、じぶんの安寧を維持することを優先して、気づいたときに、古いバージョンの衣服を捨てればいい、と割りきってしまえばよいのかもしれません。ぼくもあなたみたいに、それの何が問題なのだ、と言いきれる図太さがあったらよかったのですが、なかなかそうもいかないようです。けっきょくのところぼくの悩みは、古着をいつ捨てるのかうんぬん、ではなく、他人からどう思われるかに引きずられてじぶんの価値観を貶めてしまう、このウジウジした虚栄心への対処法だったのかもしれませんね。はっとするような、目の覚める助言をありがとうございました。みなさまへのお礼を最後に、きょうの日誌を終わらせてください。本日の日誌当番の、いくびしまんでした。


3023:【2021/06/17*ネタくれるひとです】
(――前略――)えー、なんか書けって言われても困っちゃうな。音声入力でもいいん? あ、いいの。じゃあそうするけど(――準備中――音声入力開始――)、んー、思うんだけどうちね、日記ってひとに書かせるもんちゃうよって思うんだけど、ちがうかな? あ、いきりなり前提蒸し返しちゃう感じでごめんだけど、べつにこれ文句ってわけじゃなくて、そういうなんかあるじゃん、そもそもの大前提みたいなさ。なんであなたのお日記をわたくしちゃんたちがおつむぎになられなくてはならぬのだろう、みたいなさ、あるじゃん? だってべつにこれお駄賃でるわけじゃないし、お手伝いしてください、ってあなたはそうやってなんかちょっぴりかわいこぶりながら、かわいそうな感じを醸しながら、礼儀正しそうにお願いはいたしますけれども、それってただの押しつけでは? 夏休みの最終日に、宿題終わってないから手伝ってぇー、ってさっこんのび太くんですら言わないお願いを押しつけているだけでは? ちがう? あのね、べつにね、いいんだよ。わかるよ、わかる。本当はそうやってお願いにかこつけて、本当はわたくしちゃんたちとおしゃべりがしたいんでしょ? かまってほしいんでしょ? 仲良くしてくれい、ってぇ、そういうなに? まあ、あなたなりの愛情表現なわけなんだとは思うわけなのだよ。わかっているよ。ただね、まあ、あなたはそういう余裕というか、暇というものがあるのは理解しておりますけれども、なんかちょっと説教ちっくになってごめんだけど、うちらはまあ、そこそこまあまあの忙しさなわけですよ、日々ね。クッタクタなわけですよ。そこにきて、屈託なくあなたはしょーもなぁ、お願いをしてくるとくればもう、そりゃあちょっとくらいは溜まるものがあるわけですよ。あ、べつにいまのは偶然だから、クッタクタと屈託で韻を踏みたくて踏んだわけじゃないのでそこは触れずにお願いしたいんだが、えっとー、なんだっけ。脱線しちゃったな。えー、あーそうそう。あなたのお遊びに付き合うのは百歩譲っていいのだけれど、それでわたくしちゃんたちに何か利がありますか、ってぇそういう気分にならないか、てぇ言われれば、これはまぁなるんですわ。なっちゃう。なるよ。や、誤解があったかもしれんけれども、たしかにあなたに懐かれるのはわるかぁない、わるかぁないんだが、こうもクッタクタの日に、全身脱力しちゃうようなお願いをされるとだね、さすがのわたくしもだね、一言モノ申さねばならぬ、ってぇ気にもなるわけだしょ。噛んだ。噛んだの。ちょい笑いすぎだからね、こっちは真剣にしゃべってあげてるんだからね、いちいちそうやっておちょくるのやめんさい。わたくしちゃんたちってぇ言い方がそんなにおかしいか。いちおう読み物としておもしろくなるようにってぇ気ぃきかしてやってんだってことをあなたはもっと知ろう。知れ。あー、酒まわってきちゃったな。もういい? こんなもんでいい? いや笑いすぎやろ、もうあなたのその顔載せりゃいいよ。文章である必要ある? 日記である必要ある? え? 日記じゃない? 日誌って、どっちでもええわ、同じだしょ。噛んだ。噛んだの。いちいちうるさいなぁ、もうおわり。しゅーりょー(――音声入力終了――)


3024:【2021/06/18*偽物】
わたしはじぶんでじぶんをクリエイティブではないと思っています。そのことで劣等感を覚えます。どうしてもじぶんでゼロからイチをつくりだすことができないのです。過去に見聞きした外部情報をもとにして、素材にして、それらを練りあげてじぶんにとっての内世界をこちらの世界に出力する以外に、わたしはじぶんで表現や創作というものを行うことができないようなのです。どこかで見たことのあるような既視感がどうしても拭えません。実際にあとになって、これはあれに影響されたやつだな、これはひょっとしてあれに含まれていた要素ではないのか、と気になって仕方がなくなることがあります。違和感と言えばそうなのですが、じぶんでじぶんの表現や創作物を受動すると、どうしてもじぶんがそれをつむぎだしたとは思えなくなるのです。現に、表現している最中、創作をしている最中にも、これはあれに似ているな、と思いながら、過去に鑑賞した数多の表現や創作物を連想してしまい、じぶんでじぶんが嫌になります。どうしてゼロからイチを生みだせないのでしょう、といつだって嫌気がさしているのですが、それはそれとして、じぶんのなかにゆったりと渦を巻く紋様を、灰汁を掬うようにわたしのそとへと出力する過程は、どうやらわたしにとって不快な行為ではないようです。しかしこの世界に出力するわたしの内世界そのものが、わたしの唯一無二の世界ではなく、わたしの触れてきた数多の外部情報――この世界のさまざまな造形や構造、流れによってかたちづくられ、色を変え、渦を巻くので、そもそもわたしそのものがこの世界の構成要素であり、どうあってもわたしはわたしだけの世界を生みだす真似ができないのです。わたしとこの世界の輪郭に漂う、薄い薄い膜に揺蕩うしゃぼん玉の膜のような紋様を、わたしはわたしの内世界だと見做し、それを映しとることを以って、表現だの創作だのと言い張っているだけなのかもしれません。その薄い薄い膜に揺蕩うしゃぼん玉の膜のような紋様は、しかしわたしの表現物でも創作物でもなく、わたしの内世界ですらなく、わたしとこの世界とを区切るための輪郭や影のようなものであり、そもそもわたしの生みだしたものではなく、この世界の彩りの一つでしかないのです。わたしは何も表現などしておらず、創りだせてもいないのです。この自覚はいつも、じぶんの至らなさや、未熟さ、どうあってもこの世界から抜けだすことのできない束縛をつよくわたしに抱かせます。それは同時に、わたしがわたしであることをやめることができず、わたしはわたしを抜けだして世界を眺めることも、触れることもできないのだ、という諦観の念を突きつけられることでもあります。わたしはわたしの内側に感じられるこの、薄い薄い膜に揺蕩うしゃぼん玉の膜のような紋様に隔てられ、わたしはわたしそのものにすら触れることができずに、曖昧な境界線の狭間にて、膝を抱えて丸まっています。わたしとこの世界を隔てる境界は、わたしの外にはなく、そもそもわたしは外にすらおらず、世界に内包されたままで、目のまえに揺蕩う薄い薄いしゃぼん玉の膜のような紋様をじぶんの内世界だと錯誤し、ありもしないあちらとこちらとを幻視することで、かろうじてわたしという外殻を保っています。わたしはただ、眺めているだけなのです。映しとっているだけなのです。それを表現と呼ぶにはあまりにお粗末で、創作と呼ぶにはあまりに工夫がありません。オリジナリティの欠片もないのです。わたしがつむがずとも、それらはただそこかしこに流れており、わたしが出力せずとも、すでにどこかしらに揺蕩っているものたちなのです。わたしはクリエイティブではありません。そのことで劣等感を覚えます。どうしてもじぶんでゼロからイチをつくりだすことができないからですが、過去に見聞きした外部情報をもとにして、素材にして、それらを練りあげることでわたしに感じられる内世界のようなものを――本来はそれすら単なる風に舞う砂塵のようなものにすぎないのですが、それらを――この世界に記録する(映しとる)以外に、わたしのしたいことはとくにないようなのです。わたしは偽物です。本物を構成する数多の偽物にすぎません。わたしは幻影です。存在する存在の奏でる刹那の紋様にすぎないのです。


3025:【2021/06/19*美醜】
ごみ箱からはみだした、名も知らぬちいさき花を、うつくしいと思う我が心は、。


3026:【2021/06/19*予防がだいじ】
医療制度の問題は、長期的な視野で言えば、病院にかからずに済むひとたちにいかにそのまま健康な生活を送ってもらえる環境を築いていけるのか、の問題と繋がっていると言える。誰であっても医療の受けられる環境を目指すのはもちろんだいじなのだが、同時に、いかに病院にかからずに済む生活を人々が送れるのかが、これからの国の政策として欠かせない視点となっていく。そういう意味で、貧困や格差社会の問題は根深い。虫歯一つとっても、食生活から労働環境から、ブラッシングの習慣の有無などの文化資本にしろ、人々の私生活の差が、虫歯が悪化するか否かに大きく左右する。生活習慣病にしろ、ほかの大病にしろ同様だ。疫病と同じく、予防がたいせつなのだ。いかに多くの国民を病気にさせないか。そうした健康な生活を送れる下地を築いていけるか。大病を患わない人々が増えれば、国民保険や社会保険の財源の負担も減る。国民の健康を維持しようする政策が、結果として制度の合理化に繋がる。もちろんこれは理想論であるが――なぜならたとえば、がんは、人間の長寿が招いた身体の異常であり、高齢化が進めば、誰もががんにかかる確率が高くなる(もちろん寿命が延びたことだけが要因ではないが)。いくら健康な生活を送ったとしても、みなが長生きすれば、けっきょく誰もが病院にかからざるを得なくなるため、予防を徹底できたとしても、それが即座に医療制度の改善に繋がるわけではない。ただし、それでも国の主な労働力でもある若年層に、最大限に幸福の追求を行ってもらうことは、国力というものの土台をどっしりと頑強なものに作り変えていく触媒になると期待できる。また、病気にかかるリスクを減らすのは、高齢者にとってだけでなく、その家族にとっても大いに助けとなる。看病や介護に費やされる負担は、けして軽くはない。そういう意味でも、若いころからいかに健康を維持できる環境にあるか、病気の予防や早期発見を行える環境にあるか、というのは、どういった視点であっても、国民の幸福の追求に最大限に与すると考えられる。国民が豊かになることこそ、国の豊かさに繋がるのは言を俟つまでもない。自国に余裕があってこそ、他国にも支援を行える。以上の点から、医療制度の問題は、医療の現場だけの問題ではなく、社会全体の福祉(や経済)の問題と切っても切れない関係にあり、どちらかといえば、率先して解決すべきは予防にこそある、と指摘して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(漠然とした印象論にすぎませんので、真に受けないでください)


3027:【2021/06/20*妄想ですのでうんにゃらかんにゃら】
※以下妄想です。――ウィルスは一般的な動物に比べて進化の速度が桁違いである。死滅のサイクルが速いために、ほかの動植物と比べて数万から数百万倍と進化速度が高く、感染者数が増加すればさらに進化の速度が加速すると考えられる(変異の末に繁栄すればそれが進化となる。変異が即座に進化に結びつくとは限らない)(たいがいの変異個体は進化に結びつかず、淘汰される)。そうしたなかで、ほ乳類はおおむね感染したウィルスに対して抗体を獲得するわけであるが、必ずしも抗体ができたからといってウィルスに対抗できるとは限らない。抗体ができたために、却ってウィルスの感染力や毒性をつよめてしまうことが稀にある。同種のウィルスに対してのみならず、本来ならば無害なウィルスに対しても、べつのウィルスの抗体を持ってしまったがために免疫不全や免疫過剰反応が引き起こされ得る(よくは知らないが、ワクチンの弊害としても知られているのではないか)。一概にワクチンを打てば安全、というわけではないはずだ(基本的にはワクチンは接種したほうが好ましい。なぜなら感染すればどの道、体内に似たような抗体ができるためだ。より安全に抗体をつくるにはワクチンが効果的だ)。また、ウィルスそのものではなく、ウィルスの一部分を免疫系に記憶させる手法では(たとえばmRNAワクチンなどは)、ウィルスの一部さえ合致してしまえば類種の「人体に好ましいウィルス」までをも広範囲にわたって攻撃してしまう懸念があるように思われる。本来であれば任意のずばりこの遺伝子情報を有したウィルスのみを攻撃せよ、と指令をだせた免疫系が、ウィルスの一部だけを記憶したことで、広く、形状の似たウィルスを攻撃し得る(その結果、任意のウィルスの生みだす「肉体にとって好ましい効果」が副次的に阻害されるかもしれない。なにより、人によって共生しているウィルスは異なるはずだ――そもそも個々人がどんなウィルスをどれだけの数持っているのかすら、いまはまだよく解っていないはずだ。もしもこうした弊害が観測されたとしても、こうした事例は個々人の体質によるので、統計的に判断しにくい傾向にある。因果関係を探るのに、時間と労力がかかる、と言い換えてもよい)。ワクチンに汎用性があればあるほどこの懸念はつよまるのでは、と個人的には疑っている(妄想とも言うが)。変異したウィルスにも効果がある、というのは一概に褒められたものではないように思うのだが、真実のところはどうなのだろう(素人考えなので、真に受けないでください。そもそも免疫系はウィルスの遺伝子情報を記憶したりはしないのかもしれません。一般的には、ウィルスから内因性抗原――遺伝子情報ではなく、ある種のたんぱく質――を受け取り、それをもとに抗体の設計図を免疫系はつくる、と考えられているようです。ただ、ウィルスの遺伝子情報もなんらかのカタチで抗体設計図に情報として付与しているのではないか、と個人的には妄想してしまいます。とはいえ、免疫機構の仕組みを勉強したことのない素人の妄想ですので、話半分どころか一万分の一にして読んでください)。また、ワクチンに限らない話であるが特効薬にしたところで、そうした人類の対抗策に耐性を持ったウィルスが現れないとも言いきれない(そうした耐性ウィルスが、ワクチンや特効薬の対象ではないまったく別種のウィルスからでてくる可能性もある。2021年現在に流行しているウィルス以外にも、人類にとって致命的な変異を起こし、流行するウィルスが出現する確率は、けして低くはない。すでに存在しているが、人類がまだ感染した例がないだけの可能性もある。百年以内にあと数回は、現在のような社会システムの致命的な崩壊に結びつきかねない感染症の流行が起こってもふしぎではない、と個人的には妄想している)。以前から繰り返し述べているが、人口過密型の都市設計と、大多数の長距離移動を要とした経済発展計画は、早々に見直したほうが、これからの人類のありようを考えるうえで有用なのではないだろうか(各種専門分野の基礎研究への投資も国をあげて支援していってほしいと望むものである)(また、各種専門分野を統合して結びつける新たな分野の研究の登場にも期待したい。たとえば行動経済学をもとにすれば科学的知見をスムーズに国民に広報できるだろうし、医学だけでは見落とされる視点を、物理学の視点で補えるようになるかもしれない。各分野の横断による最適な都市設計の提案など、多層的な視野での社会システムの構築が、これからの未来では求められていくと想像できる)(AIの進歩により、こうした分野の横断や統合は、これまで以上に行われやすい土壌が耕されていくはずだ)。(以上は、妄想ですのでくれぐれも真に受けないでください)


3028:【2021/06/21*ビカビカ】
十年以上前のじぶんの表現を目にする機会があり、びっくりするほどお下手であそばされて、記憶の中にある過去のじぶんを美化していたじぶんに気づいて笑ってしまった。あるんですねやっぱり。美化。


3029:【2021/06/21*変わるものだね】
創作論のなかで、「じぶんの小説が本になって書店に並んだときを想像し、じぶんでそれを手に取って買いたくなるかどうかを考えてみましょう」なる助言があったと思うのだけれど、むかしは、買うに決まってんじゃん、と傲慢に思っていたけれど、いまはむしろ、買うわけないじゃん、に変わったので、趣味趣向のあやふやさときたらないな、といつでも同じでいられない人間の不確かさをしみじみと感じる。(つくりたいときにつくりたいものを、つくれるうちにつくりましょう)


3030:【2021/06/21*ふしぎだな、と思う】
何かを思いどおりに動かすことの快感は、人間にのみ備わった報酬なのではないか、ということをこのごろ考える。ほかの動物たちも、遊ぶ、ということをするが、じぶんの手を離れたものを操ることへの興味関心を抱くのは、人間だけではないのか、という疑念があるが、どうなのだろう。他者を支配するだけで飽き足らず、道具を使うだけに留まらず、自然や環境そのものを拡張し、支配化に置こうとする人間の働きはどこから生じているのだろう(先天的な欲求なのか、これもまた後天的に獲得される文化的形質なのかもよく分からない)

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参照:いくひ誌。【1351~1360】

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