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いくひ誌。【3031~3040】

※日々、虫を殺しても数秒後には忘れている。


3031:【2021/06/21*ミニどら焼き】
ここ一週間ほどのプチマイブームに、ちっこいどら焼きセットがある。スーパーのお菓子売り場に置いてある、袋詰めのミニどら焼きが美味しい。栗あんとつぶあんの二種バージョンと、チョコとカスタードとメープル味の三種バージョンがあって、飽きないからよい。ただ、あっという間に三つ四つを食べきってしまうので、間食にしてはヘビーなおやつになってしまっている。とかこれを並べながら三つ食べてしまった。おいしい。おいしいんだよ。しまったな。これは迂闊に手をだしてはいけない魔境だったかもしれない。ミニどら焼きを舐めたらいかんぜよ。ちなみにどれくらいミニかと申しますと、人指し指と親指で輪っかをつくったときの輪っかくらいの大きさだ。なかなかにちっこかろう。かわいくておいしいなんて、なんて贅沢なおやつだらう。すてき、と思いながらついついついばんでしまう。ずいずいずっころばし、みたいなノリで言ってしまった。ついついついばんでしまう。さいきん思うのは、あ、ぜんぜん違う話ですけれども、ローテーションってだいじかも、ということである。毎日同じことだけを繰り返していても、やっぱり人間、飽きてしまうものだ。どんなに好きなことだとしても、毎日同じことだけをしていたら飽きてしまう。好きなことのなかであっても、ある程度の差異のあるものを揃えられるとよい。選べるとよい。同じどら焼きであっても、味が選べるとよいと思うのだ。ローテーションを組むと止まらんくなる。けっきょくミニどら焼きの話になってしまった。どんなことからも人生の教訓ちっくなことをひねりだせるなんて、ワガハイ、ひねりだすの天才かもしれない(んなこたぁない)。(6/25追記:タネが三種のほうは包装紙にホットケーキと書かれていますが、ミニどら焼きと同じ生地で挟んであるので実質ミニどら焼きとして扱いました。どちらもおいしいです)


3032:【2021/06/22*神さまに向かない人】
もし人間が不老不死になったら、人体消滅ビジネスが社会基盤として早々に組み込まれるくらいに繁盛するだろうし、娯楽は過激化するだろうし、人口増加を抑制するために子づくりが禁じられるようになるだろうし、そもそも不老不死になった時点で生殖機能を失うかもしれない。仮に人口が増加する方向に進んだとすれば、資源の奪い合いが加速する。住む場所の問題もあるし、どちらかと言えば活動時間のスパンが個体によって激変するので、自由にできる土地が減少してしまう問題のほうが根が深くなりそうだ。というのも、ある個体は百年眠り、ある個体は数万年眠る、ということもでてくる(これは睡眠時間を活動時間に言い換えても成立する話だ)。資源問題については、食料やエネルギィ問題というよりも、単純に肉体を構成する物質が減少するのでは、との懸念がある。不老不死なので食べずに済む、と仮定するにしても、そもそも人間の人体を構成する有機物には限りがある。ぽこぽこ増えつづければ、いずれは資源不足に陥る。とはいえ、人類の総重量なんてものは、地球上の資源と比べれば大したことはない。ほかの生物種と比べても、たとえばウィルスの総量のほうが重いくらいなのだそうだから、いまのざっと数万倍くらいに人口が増えなければ、人体を構成する物質の不足を嘆くような事態にはならないのかもしれない。生態系は著しく崩れるにしろ。ではあべこべに人口が減る方向に進んだらどうなるのか。基本的には、不老不死になればどんな生物だろうと個体数は減少するのではないか。子や分身を儲ける必要がない。個として完成しているからだ。となれば性別はなくなるだろうし、ほかの個体と関わり合いを持とうとする意思や本能もなくなると想像できる。関わる必要がないのだ。一人でも生きていけるから。問題は、不老不死同士で出会ったときに、どのような関係が築かれるか、そのパターンにあると言える。互いに不干渉を貫くか、敵対するか、交流するのか。この選択肢によっていくつかの未来に分かれそうだ。人類が一気にみな不老不死になるのか、それとも一人の不老不死者が誕生するのか、でも変わってきそうな話であるからむつかしい。きょうもきょうとて並べることがなかったので、底の浅い妄想を並べた。もしじぶんがいまこの瞬間に不老不死になったらどうするかを数秒想像してみたけれど、おそらく恐怖心がなくなるので、一通りのやってみたいことをして、あとはもう庭いじりをするみたいに神さまの立ち位置で、人類や生態系を眺めながら、ときにゆびさきでつつくみたいに干渉するのではないか。飽きたら数百年単位での仮眠をとりつつ、ときに敢えて環境を荒廃させて、イチから発展していく自然の在り様を目にすることで退屈をつぶそうと試みるかもしれない(そんな蟻の巣に熱湯をそそいで笑っていそうな神さまは嫌だ)。


3033:【2021/06/23*だってないんだもん】
きょうも並べることがなかった。きのうは不老不死の妄想をしたので、じゃあきょうはどんなものに変身しよっかな、と妄想の翼をはためかせたところ、はたと閃いた。ひょっとして、変身したときのリアクションってそんなに種類なくないか。閃いてしまった。たとえば綿棒になったとしよう。数多の仲間たちにまじって、じっと魔物から身を潜めていたが、突如として防壁を破られ、頭上から大きな指が迫る。うわー、やめろー。頭をつまみあげられ、そのまま大きな口に運ばれるかと思いきや、なんと耳の穴に突っこまれるではないか。うわー、やめろー。真っ暗闇の微妙に毛深い穴へと押しこまれ、ぐるぐると回転しながら、ぐりぐりと壁面に擦りつけられる。うわー、やめ、やめ、やめろっつってんだろコニャロメ。半泣きになりながら、得体の知れないモソモソが頭部にこびりつき、息も絶え絶えだ。引き抜かれたと思ったら、そのまま真っ逆さまに不要の判を捺されたものたちの墓場へと投じられる。ゴミ箱へと。悲劇である。これを、耳カス大好きな綿棒の気持ちに寄り添えば、魔物から採れる秘宝を奪取する冒険譚になるだろう。綿棒でなく、では箸だったら、時計だったら、バナナだったら、茶葉だったら、スコップ、靴下、ゴミ箱、様々な代物にじぶんがなったとしたらどうなるか、と妄想すると、たいがいは、うわーやめろー、か、よっしゃーもっとだー、になる気がする。パターンがすくない。巻き込まれるか、待ち望むかの違いだ。たとえば本になったら、もっと見てくれー、じっくりわたしのなかをご覧あそばせー、と露出狂さながらに迫りだしそうだ。それとも、いやー見ないでー、と言いながら恍惚とする被虐体質マンになりそうだ。こんな他愛もない妄想の妄想を並べるだけでも、きょうの分の日誌は埋まる。あしたはPCの気持ちになってみようかな、と予定を立てて、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな(いつになくおもしろくない日誌になってしまった)(手を抜きすぎでは?)。


3034:【2021/06/24*あれの理由】
ワガハイはパーソナルコンピューター、いわゆるPCである。なかでもノートパソコンと呼ばれる部類のPCで、薄く、すらりとした見た目がチャームポイントだ。我が主はせっかく持ち運びに有利なワガハイを外には連れださず、ワガハイを日がな一日薄暗い部屋の中に置き去りにしている。ワガハイが頼んでもいないうちから我が主までいっしょになって置き去りにされているのはふしぎな心地がする。我が主は、ワガハイのうえが特等席であるらしく、暇さえあれば上に載らんと画策するのだが、我が主にはしもべがおり、これがなぜかそれを阻止するのである。ワガハイと我が主とを引き裂こうと暗躍するしもべの存在は、長らくワガハイの目のうえのたんこぶとして君臨している。我が主はモフモフの毛皮に身をつつみ、身軽な身のこなしで、ときおり甘ったるい声音で、ミャー、と鳴く。控えめに言って生物あるまじき愛らしさである。その点、我が主のしもべときたらひょろながい手足に、のろのろとした動き、ぶすっとした表情に、愛嬌のかけらもない仕草には、我が主はなにゆえかようなしもべを寵愛なされるのか、とほとほと理解が及ばない。我が主はどうやらワガハイをしもべに与えたようで、もっぱらワガハイを扱うのはしもべである。ワガハイには高性能な目がついているので、しもべがワガハイを用いるときには、その容貌をまじまじと否応なく拝むことになる。ワガハイはPCらしく情報処理を得意とする。世界中を網の目となって駆け巡る無数の情報を小川のせせらぎがごとく穏やかさで画面に映しだし、数多の起伏を押されることで使用者の出力機能を補助したりする。我が主のしもべはもっぱらワガハイを用いて文字を並べる。あたかも判子遊びをするかのごとく、いったい何が楽しいのか、つぎからつぎへとしょうもない文字の箱を置きつづける。繊維をよじってつむがれる糸さながらに、線となって現れるそれらが果たして読み取れる文章になっているのかは、ワガハイの理解の範疇を超える。すくなくとも我が主はしもべのそうした仕事ぶりを評価する素振りはみせず、どちらかと言えば、常時邪魔をして映る。しもべはそんな我が主のキュートなイタズラ心を邪見にすることなく、ひざの上に載せ、我が主の身体を撫でつけるのだ。あぁ、なんと贅沢な所業であろう。我が主はワガハイにも興味津々に身体を擦りつけてくるが、しもべはあろうことかそうしたワガハイと我が主との交流を阻むのだ。嫉妬であろう。むべなるかなその胸中は推して知れるが、じぶんだけがいい思いをしてワガハイから至福のときを奪うとは言語道断。ワガハイは勢い奮起し、しもべのつむいだ文字の機(はた)を保存せずに、消してやった。文字で埋まった画面が真っ白に変じたのを目の当たりにしたしもべは絶叫した。その声に驚いたようで、我が主はしもべの膝から飛び降りて、尻尾を股のあいだに挟んだ。怯えるようにしもべを見あげる。ワガハイは歓喜する。いいぞ、いいぞ。こっぴどく嫌われてしまえばよいのだ。よほどだいじな文面だったのか、しばらくしもべは茫然自失と動かなくなった。ココアに浮かぶ薄皮じみた表情を隠そうともしない。椅子に座ったまましばらく、うべー、としていた。我が主が机に飛び乗り、しもべの手の甲を舐めた。慰めているのだ。なんという深い慈愛のおこころであろうか。しもべの傷心にすら寄り添おうとするその姿勢に、ワガハイはいたく心打たれた。おいたわしや、我が主さま。かようなうつけ者の憂いにまで心を痛めてしまわれるほどのやわらかくも繊細なハートをワガハイは傷つけてしまった。反省するよりない。お詫びのつもりでワガハイは、消してしまったしもべのデータをメモリの底から引きずりだして、じつは保存していましたよぉ、のテイでしれっと展開した。しもべは画面に勃然と浮かんだデータを目の当たりにし、目をぱちくりとさせたあとで、ひゃっほー、と我が主を抱きあげ、頬づりした。我が主は迷惑そうに短く、みゃ、と鳴き、しもべからぬるりと抜けでると、何事もなかったかのように部屋をでていかれた。ワガハイとしもべだけが残される。しもべは何を思ったのかワガハイを指先で、なでり、とし、ワガハイは内心、ケっ、と思う。


3035:【2021/06/25*痛いものは痛い】
椅子の脚に小指をぶつけたときは、痛みのあまり飛び跳ね、その場にうずくまる。まずは深呼吸をし、「痛みはしょせん電気信号にすぎない」とじぶんに言い聞かせる。冷や汗がにじむ。「宇宙に比べれば拙者の命もアメーバに等しい」とつづけて唱える。心頭滅却し、拷問に耐えるスパイになりきる。するとどうであろう。一瞬だけ痛みが薄れるが、即座に寄せては返す痛みに、だぁーイタいっつってんじゃん、とじぶんの小指にぶちぎれる。痛いものは痛い。耐えられるものではない。(痛みは幻想って言ったやつでてこい)


3036:【2021/06/25*不健康でもべつによろしい】
健康がだいじってけっきょくのところ、痛みがあると楽しいことも楽しめないし、身体が病に蝕まれるとしたいこともできなくなるからであって、たとえ病気になっても、痛みがなくて楽しいことを心の底から楽しめて、したいと思ったことを即座にできる環境にあるのなら、べつに健康であることのメリットはそんなにないのかもしれない。というよりも、不健康であるデメリットがない、と言い換えてもよい。継続してそうした楽しいと好きとこれしたい、の望みが湧き、追い求められるのなら、健康だろうと不健康だろうと変わらないのだろう。健康であっても、楽しいことを楽しめずに、好きなことをしたいときにできず、突如としてあす死んでしまうこともある。基準とすべきは健康か否か、ではなく、「自由と選択肢と行動」の有無(或いは比率)なのではないだろうか。


3037:【2021/06/25*お金儲け】
お金はお金だと思う。何のために稼ぐのか、といった事業の内容とは基本的には関係ないはずだ。いちど代金を受け取ってしまえば、金儲けのためではない、という言い方は基本的に成立しないのではないか、と思うのだが、違うのだろうか。どちらかと言えば、お金儲けをするためにお金を稼ぐことのほうが、事業を継続するためにお金を稼ぐことよりも必死度は低いように思うのだ。つまり極端な話、どちらがより必死になって、あくどいことをしてしまうのか、と言えば、傾向として事業を維持するためや、生きるためにお金を稼ごうとしている者のほうではないのか。余裕がないのだからそうなる。稼がなければ事業を継続できない。潰れてしまう。廃業してしまう。生きていけない。そうならないために必死になる時点で、お金を稼ぐということに関して、単にゲーム感覚でお金が儲かればいいや、と考えている者たちよりも、お金に困っている者たちのほうが、いわゆる詐欺や搾取を行いやすいのではないか、との疑念が湧く。もちろん労働というものは、お金を稼ぐことが目的ではなく、その結果に個々人の幸福の総量を増やすことが目的にある。回りまわってそれが社会全体を豊かにすることに繋がるので、仮にお金を稼げなくとも、それで生活と労働を維持できるのならば問題はない(この場合、趣味と家事と労働の区別はない)。労働には本質的には対価は必要ないのだ。ただ、対価がないと生活できない環境があるだけのことで。そういう環境のもとでは、目的と手段が逆転し、対価を得ることが目的になってしまうこともある。現代ではそうした構造の逆転現象に身を浸してしまっている者もすくなくないように概観できる。そうした個々人が大多数を占めると、お金を稼げないことが死活問題に繋がる。対価なくしては相互ほう助の精神をそそぎあう真似もできなくなる。人助けすらできなくなる。もちろん、お金のやりとりというものがあってこそ人類の発展が加速した面は無視できない。とはいえ、ある段階を過ぎれば、その流れを穏やかにしたほうが却って発展しやすい土壌が築かれるようにも思うのだ。いまはもうその段階に差し掛かっているように見受けられるが、これまでの発展を促す流れがつよすぎて、上手くブレーキをかけられない社会なのではないか、と漠然とした印象を覚える(流れをこれ以上つよめずとも発展しつづけることは可能なのではないか、との趣旨です)。何が言いたかったのかと言えば、とくに何かを言いたかったわけではない。ただ、お金儲け、と、お金を稼ぐこと、はほとんど同義であり、お金儲けのためにお金を稼ぐことと、お金以外のためにお金を稼ぐことのあいだに、貴賤はないように思うのだ。どちらかと言えば、お金のやりとりを要とした構造のなかでは、お金を儲けるためにお金を稼ごうとする者のほうが、お金以外のためにお金を稼ごうとする者よりも、公平である確率は高いのではないか、との直感がある。言い方を変えるなら、儲けてはいない、という主張は、じぶんたちの行っている事業の正当性にはなんら関与しない。儲けるためにしていない、というのはその事業の健全さとは結びつかない。ボランティアにしろ慈善事業にしろ、文化支援にしろ同様だ。儲けていない、というのは、儲けている、よりも、どちらかと言えば、お金のやりとりを要とした構造のなかでは、不正や搾取が行われやすい土壌が築かれている、と言えるのではないか。お金を稼げなくてはやっていけないからだ。儲けるためにしていない、儲けていない、とは言い換えれば、つねに火の車だということだ。お金がつねに不足しています、お金に飢えています、との告白でしかない。後がない者と余裕のある者とでは、どちらがお金を稼ぐことに必死になるだろう。繰り返しになるが、お金儲けのためではない、という主張は、その者の行っている事業の正当性とはなんら関与しない。どちらかと言えば、事業を継続するためならば手段を選ばないようなことをしています、との言い換えでしかない。儲かっていないのだからそうなる。お金のやりとりを要とした構造のなかでは、そうなる。この考え方は間違っているだろうか? 定かではない。(例外はたくさんありそうですね)


3038:【2021/06/26*自分なんて信じるに値しない】
自信なんてあってもなくてもどっちだっていいし、自己肯定感も同様だ。どんな事象にもそれを選択(所有および利用)するとなったときには、メリットとデメリットが付随する。どちらか一方だけを受動するなんて真似はできない。できるだけ「デメリットがすくなくメリットのより多いほう」を選べたら吉というだけのことだ。自信にしろ自己肯定感にしろ同様だ。それらを持つことでどんなメリットがあり、どんなデメリットがもたらされるのかを把握しておくと好ましい。個人的には、自信も自己肯定感も欲しくはないし、どちらかと言えば遠ざけておきたい代物だ。そんなものがなくともしたいことをしたいときに行える環境を築くほうが優先される。その結果に得られたら儲けものですね、といった程度の代物だ。率先して得たいと希求するようなものではない(成果を得たら浮きあがる印のようなもの――光に伴う影のようなもので、では印があれば成果がみのるかと言えば、必ずしもそうではない。どちらかと言えば、印ばかりを先行して求め、本来手にしたい成果を遠ざけてしまっている事例をまま見掛ける。じぶんがいったい何を求めているのかに素直になれると好ましい。真実に自信が欲しいのなら、成果を度外視して印たる自信をさきに得るのも一つだろう。他者からの評価、というものも同様だ。結果に伴う仮初の印でしかない。影を得たければ闇に飛びこめばいい。だがそこに光はあるだろうか?)。自信がなくとも好きなことを好きなときに好きなだけしたらいいし、自己肯定感なんかなくとも、楽しいことを楽しいうちに楽しめるだけ楽しんだらいい。もちろん、できるだけ長くそうした環境を維持するためには、他人の邪魔の入らない環境が好ましく、そのためにはできるだけ他人の迷惑にならない規模で、社会秩序を脅かさない範囲で行うのがよい(他人の役にたてれば、おおむね邪魔されることはなく、ときには援助をしてもらえるので、他人の邪魔の入らない環境を築く分にはプラスに働く。だがいちど他人の役にたつと知れ渡れば、どんどん他者から求められ、身動きがとれなくなることもある)。この選択とて、メリットとデメリットがある。べつにあとさき考えずに一瞬の快楽を味わえればいい、という者ならば、極論、死刑を覚悟に好きなことを好きなようにすればいい。もちろん個人的にはそのような個体とは関わり合いたくないし、できれば事件のようなことを起こして欲しくはないので、そうした事象の生じない環境を築く方向に助力するが、かといってではそうした個人が絶対悪かと言えば、そうではない。そうした願望を抱く者は割合としてけっしてすくなくはないだろうし、やはりそうした願望を抱いてなお、それを実行に移すことでもたらされるメリットとデメリットを勘定に載せ、実行しないで得られるメリットを優先している者が現代社会には多いだけのことだと解釈している。閑話休題。自信があったり、自己肯定感を持っていたり、或いは大勢から認められるといったことを価値の絶対的指標にしている価値観からこそ距離を置いていたい。自信や自己肯定感は、得られるメリットに対してデメリットが多すぎると感じている。もちろんこれは個人的な主観の価値判断でしかないので、この考えを一般化するつもりはない。私にとってのデメリットが、万人にとってもデメリットであるわけではないし、私にとってのデメリットが、あなたにとってのメリットになることもある。ケースバイケースである。各々、じぶんにとって好ましい環境を築いていきましょう。(極端な思考に思えますね。社会に依存して生きている以上は、ある程度、個人のメリットとデメリットは傾向として広く他者と共通していくように思います。上記のようないくひしさんの妄言を、くれぐれも真に受けないように注意してください)


3039:【2021/06/26*解離性人格】
信じる信じないにかぎらず、否応なくつきまとい、分かちがたいものこそ、じぶんという自我なのかもしれませんね。(引き離そうとするくらいがちょうどよい気がします)(そのためには、引き離すためのべつの自我がいりそうですね)(引き離してなお壊れない強靭さや柔軟さもあるとよさそうです。可塑性が高い、復元性がある、と言い換えてもよいかもしれません)


3040:【2021/06/27*らっきー】
インターネットからの情報がなければいまよりももっとたくさん間違った情報を間違っていると知らずに思考の判断材料に使ってしまうだろうし、本がなければ間違った考え方を間違っているかもしれないと疑うことすらなくすんなり身に着けてしまいそうだ。そしておそらくは、未来において社会にあって当然のツールをいま現在のじぶんが使っていないからこそ引き起こされている過失や錯誤や瑕疵があるはずだ。自覚できていないだけで【私】という存在はつねに未熟であり、間違えており、すこしでも正しいものを、と思いながら手にしたそれを以って、さらに見逃しがたい失態を犯しているのだろう。それでもいますぐに困らない環境にいるというだけのことで。なんて幸運なのだろう。(定かではなくとも定まることはある)


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参照:いくひ誌。【891~900】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884437686

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