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いくひ誌。【2961~2970】

※日々、寝るのがきもちよい。


2961:【2021/04/16*夢は見て、描き、覚めるもの】
じぶんの夢を他人に委ねている者がすくなくないようだ。他人から認められなければ現実にできない夢はおおむねそうした他人に依存している夢だと言える。それはそれで難易度はぴんきりであろうし、他人に依存した夢だからこそむつかしい、というのはあるにせよ、夢ならばせっかくだし、とことん個人的な夢を追い求めたほうが楽しい気がしている。他人からの評価はいつだってあとからついてくるものだ。他者からの高い評価それそのものを追い求めるのもわるくはないのかもしれないが、どこかで虚しくなってしまいそうだ。誰に認めてもらえると一番うれしいのかもまた別途に問題となってくる。個人的には過去や未来のじぶんに、「いまのはなかなかよさげじゃない?」「え、それいまどうやったの、もっかいやって」と言ってもらえたらうれしい(めったに言ってくれなさそうだが)。しかし人によっては、じぶんを認めるためには、多くの者からの称賛がなければならない、と考える者もあるだろう。そうした者は、おそらく満ち足りる、ということが原理的にできないのではないだろうか。なぜかと言えば大勢からの称賛であると、現実にはすでに超えられないほど称賛を集めている偉人たちがいる。それらと否応なく比べざるを得なくなるし、またいつまでも同じような熱量で称賛されつづけるなんて真似もできない。反面、至極個人的な夢を追求したところで、満たされるとも限らない。しかしふしぎなのは、自己満足を突きつめていくほど遠ざかる夢を追うようになってしまったとしても、とうてい到達できないそのもどかしさそのものが、自己満足の場合は、心地よいのである。いつまでも追い求めていたい。むしろ追いつけないくらい大きな夢を抱きたい、と、満たされぬことそのものが病みつきになる。底なしの楽しさである。そうした日々を送れることのほうが、他人からの承認を基準にする夢よりも、日々を、或いはじぶん自身を、豊かにしてくれるのではないだろうか。定かではない。(病みつきになっちゃだめじゃない? という意見もある一面では正しい。没頭しすぎて日常生活を送れないほど退廃してしまう者もあるだろう。そうならないためには、夢と目標は、相互に関連づけながらも、別途に用意しておくとよいのかもしれない)


2962:【2021/04/17*水だって飲み方によっては死ぬ】
ワクチン推進派も、ワクチン消極派も、どちらもけっきょくのところ以前のような社会にいかに早く戻れるか、という点を、持論の正当化の要に置いている点が、いくぶん楽観的だな、と感じる。ワクチンに関しては万能ではないし、短期的な効果はかなりの精度で確立されているが、長期的な視野での安全性はそれこそ長期的な経過を見なければ判断つけられない(何にでも言えることではあるが)。個人的には、体内における酵素や腸内ウィルスなど、有害とされるウィルス以外にも免疫系が共鳴し、攻撃してしまう懸念が残っているように思われる。安全だ、とは現時点では言えないのではないか、と心配性の性分ゆえに思えてしまう。断るまでもなく、ワクチンの有効性は広く科学的にも認められており、接種の推奨に賛同の立場であるが、いささか楽観的すぎる気もする。データとは基本的に、調べようとしたところの情報しか集められない。見ようとしなければデータは集まらないのが基本だ。もうすこしこれまで以上に、悲観的な見方で、ワクチンの効能を判断する姿勢が見られてもよいように思うしだいだ。繰り返すが、ワクチンを打てるひとは打ったほうが好ましいことを強調して本日の日誌を終える。(全人類規模で接種しようとしているのだから、慎重になりすぎて困るということはないのでは、という趣旨です)


2963:【2021/04/18*ひがみ大爆発!】
文芸とは関係のない分野の話であるが、憧れるに値する人物が、プロの世界ほど見当たらないのはどうしてなのだろう。もうほとんど、そういういわゆるプロと呼ばれる舞台に近寄りたいとは思わなくなってしまった。むしろ、関わり合いたくはない。だが、そうしたプロが、世の中における基準を決めてしまうような風潮があり、これはなかなか見ないようにしようとしてもかってに視野に入ってくるので、気分が塞ぐ。じぶんに限ったことかもしれないが、私の口に合う表現や、私にとってキラキラと輝いて見える作品ほど、基準から外れて映るので、基準なるものの正当性がいかほどなのか、と疑問視してしまう。もちろん、じぶんが気に入ったからといってその作品や成果物に普遍的な価値があるとは限らないし、高確率でそうではないだろう。だがそれは、基準と見做されている大多数に受け入れられている作品にしたところで同じだ。いささか、大勢に認められる、という評価基準を無条件に肯定する流れがつよすぎないだろうか。もうすこし、視野を広げて世界を見られる個人が増えると、社会はもうすこし豊かになるのではないか、といった直感があるが、おそらくは、いまよりも豊かになってほしい、と考えている個人は、思っているよりも多くはないのだろう。社会の豊かさよりも、じぶんがいかに注目されるかにこだわる者が多い社会であるから、しようがないのかもしれないが、同時に、そうした個人が多ければ必然、大勢からの高く評価されることの価値はあがるので、悪循環だなぁ、とほとほと距離を置きたい気持ちがつよまる日々である。もちろん、大勢から高く評価されているものにも、素晴らしいと思える表現や成果物がある点は認めるしだいである。(大ヒット作品であっても口に合う、大好きな作品はすくなくありませんしね)(ねぇねぇ、いくひしさん。たとえばですけど、もし流れが反転して、みんなが消極的になって人の目を避けるような振る舞いが多くなったら、そもそも好きな作品や成果物を目にする機会が減っちゃうので、どちらかと言えばいまのほうが都合がよくないですか?)(そういう一面もあるけれど、私が言いたかったのは、みなが隠れ気質になるのならば、掘りだそうと躍起になる需要者が増えるので、けっかとして私好みの作品が日の目を見る機会が増えるのではないか、との期待です)(それっていまある社会でもできることではないんですか? 現にそうやって、これいいよ、って感想を発表しているひともすくなくないように思えますけど)(それはそう。だからこれはいわゆる、ひがみだから気にしなくていいよ)(あ、はい。そうしますね)


2964:【2021/04/19*どうしたらよいのかわからない】
がん患者に限らないが、じぶんの病気を治すために、敢えて標準治療を受けずに、民間療法や信仰治療などを選ぶ者がある。標準治療は、現状最も妥当な医療と認められた治療法である。だが、命の危機に見舞われた者は、藁にも縋る思いで情報を漁る。そのときに、同じ病から立ち直った者の自叙伝などは大いに支えになるのだろう。中には標準治療を拒んでなお全快した者もある。だがそれは生存バイアスである。効果のない治療法を選んでも生き残る者はある。だが死んだ者の多くはその事実を語れない。死人に口なしを地で描くためだ。前提として、誰であってもじぶんの自由に生きる権利がある。ゆえに、効果のない治療を受ける自由もまたある。だが、その過程で、「標準治療などの正規の情報」を否定する言説を広く吹聴してしまうのが、なかなか困った事態だな、と感じる。これはフェイクニュースや陰謀論、ほか風評被害でも同様だ。善意からの行為が、悪因を撒き散らす行為に繋がってしまう。そして往々にして、影響力のある者ほど、この危険性を高めてしまう傾向にある。SNSの普及により、誰であっても他者への影響力を持ちやすい世の中である。情報の吟味や取捨選択を怠っている者であっても、広く言説を伝播させることが可能だ。そうした中で、そうした言説の悪影響を最も受けやすいのは、何が正しい情報かを見比べる術を知らない無垢な者たちである(私もそのなかの一人だ。無垢ではない点が異なるにしろ)。さいきんの悩みは、影響力のある者が、そうした誤った情報を広げているときに、どこまで介入し、どのように事態を収拾させるか、その段取りと手法についてであるが、いまのところ、報道機関や政府機関が、そうした誤った情報を、誤った情報であると是正し、なおかつより正しい情報を伝える仕組みを強化していくほかに、ないと言える。問題は、そのために、「より正しい情報を発信しているからこそ影響力を増さなければならない」という流れを肯定してしまってもよいものか、という点である。影響力の有無は、関係ないのではないか。結果として影響力が増すのは理解できるが、大勢の行動を変質させるべく影響力をつよめよう、という考えは、いささか危うい気がするが、いかがだろう。(これもまた理想論ですね。応急処置がまずは優先されることはあると思います)(その応急処置を、応急処置だと見做さずに、正当な対策だという風潮がつよまることへのこれは懸念です)(応急処置のあとにきちんとまっとうな対策を打ちましょう、ということですね)(往々にして、いま対処できているからよいだろう、という流れになりがちなので、そうならないように、仕組みを築いていきたいですよね、というこれは考えです)


2965:【2021/04/20*なんてわがまま!】
じぶんが本当にしたいことほど、世の中で禁じられていたり、或いはしてはいけないこととして扱われている。しかし、そうしたなかであっても、同一の行為でありながら、そうと見られないような装飾を施され、世に平然とはびこっているものもある。性行為にまつわるあれやこれやから、支配欲から生じる上昇志向である。何かを極めたり、突き詰めようとする姿勢と、競争のなかで一番になろうとすることは、ほとんど異質であるように思うのだが、これは単純に割り切れる問題ではなく、ある部位においては、相互に相乗効果を促す働きを見せることもある。ライバルがいると実力以上の成果を発揮できる、といった具合だろうか。だがそれにも限りがあり、ある閾値以上の枠外へと足を踏みだすには、そもそも競い合う、という姿勢が、大きな足かせになるように思われてならない。競える時点で、限界を超していない、と言ってもそうそう的を外してはいないのではないか、との直感がある。とはいえ、そこは必ずしもトレードオフではない。競争の舞台であっても、トップを目指しながら枠外の前人未到に踏みだすこともできないことはないだろう。だが、作業は余計にかかり、力は分散する。あまり利口な選択ではない気がするが、そこに経済的な損益の視点を入れてしまうと、どうあっても競争原理からは逃れられなくなり、いささか目を逸らしたくもなる。ただただ、べつの視点からの景色を望むことはできないのだろうか。(好きなことを好きなように、じぶんかってにしたい、というそれはわがままでは?)(そうとも言う)


2966:【2021/04/21*いっぱい衰える】
あとはもう衰えていくいっぽうだ、と諦念を覚えたとしても、その諦念を覚えなければ得られない何かがあると予感できる以上、変化を求める者にとっては、それを見ずにはいられない。大きな変化であればあるほど望ましいが、大きな変化はなるべく得たくない。ゆえに、老いという避けがたくも生きているかぎり必ずやってくると判明している変化におかれては、たとえそれがくることが確定的に明らかであったとしても、明らかであるからこそ、それを直視し、いまいちどの足取りの確認を行う。それゆえに、衰えを避けたいとは思わない。衰えたとしても、歩を止める理由にはならない。任意の活動をやめる理由には使えないのである。スランプもまた然りである。停滞も衰退も、変化の一つだ。受け入れたうえで、好ましい変質の触媒にしてしまえばよい。


2967:【2021/04/22*鞭に打たれている気がしませんか?】
結果として人の役にたったり、誰かのためになったりするのは好ましく感じるが、率先して誰かの役にたちたいと思ったり、誰かのためになりたい、と思うのは、現代社会においてはむしろどことなく危うさを感じる。むかしのように命の危機が日常に溢れていた時代や、衣食住に余裕のなかった時代ならばいざしらず、いまはそのようなひっ迫した生活を送っている人々は相対的にはすくなくなっている。むろん充足してはおらず、格差の問題は現代であってもまだまだ是正の余地があり、是正していくほうが好ましい。だが、なぜそのような問題が顕現しつづけているのかについては、かつてのような、人の役にたち、誰かのためになることを美化推奨する流れが、著しい格差社会を拡大しているかもしれない側面からは、目を逸らさずに、その因果関係の有無を明らかにしていきたい。現代における倫理観には、正の影響を強化するものもあれば、負の影響を強化している面もあるのではないか、との懸念がある。誰を傷つけず、暴力を働かず、他者の生活を脅かさず、直接に損なっていないのならば、努めて人の役にたとうとしたり、誰かのためになろうとするのは、むしろ社会の負担を増すだけのように感じられる。言い換えるならば、誰かからの高い評価がなければ、社会に属している資格がないのではないか、との強迫観念を植えつける契機になっていそうに思うのだが、真実のところはどうなのだろう。脅迫観念は容易く偏見を強化し、他者への無言の圧力となって、誤った評価軸を広める。他者から必要とされたり、高く評価されなければ満足に生きることも許されない。そういった同調圧力を生まないためにも、まずはじぶんのしあわせを追求しようではないか、との姿勢を、もっと一人一人が示してもよいのではないか。結果としてそうした生き方こそが、人の役にたち、誰かのためになれば言うことがない。(いまはそれくらいの余裕が本来は、社会にあるのではないか、との疑念です)


2968:【2021/04/23*ぷぷー】
生きるうえで大事な指針はたいがい本から学んだが、なぜそれが大事かは、現実の体験を土壌に知ることとなる。学びとは芽だ。疑問という名の好奇心を養分に、記憶という名の体験を土壌にして萌える芽である。種子はでは、何か。おそらくは、夢中になって楽しめる余地であり、自由そのものである。自由なくして学びはない。(うぷぷ。みなさん見てください。これが世にも珍しい、偉そうなこと言いたかっただけのひとです)(せっかくかっこつけたのに茶化すのはやめてください)


2969:【2021/04/24*成功したことがないひとの言い分】
これからの時代は、機械学習が発展していく。そのため、いかに新しい失敗データを集められるのか、が発展と同義になっていくと予想できる。したがって失敗を責めるのではなく、許容し、いかに安全に失敗を繰り返せる環境を築いていけるのかが、発展する組織やコミュニティになっていけるのかの分水嶺となると言えるだろう。言い換えるならば、失敗をした場合の対処法として、過去に同じ失敗をしていたならば、対策が充分でなかったと判るし、新しい失敗の場合には、新しい対策が生まれる。進歩とはこうした対策の繰り返しからでしか成し得ない。また、環境が変わるからこそ、失敗の余地が生まれる。挑戦をすれば環境は変わるし、そうでなくとも自然はつねに環境を変化させている。どうあっても変化していくのだから、失敗するのが基本として、ではどうするか、といった悲観的に楽観的な姿勢が、これからの時代では、不可欠な素養となっていくのではないか、と思うしだいである。(いっぱい失敗したらいい。対策を練って、敷けるのならばね)


2970:【2021/04/25*いろいろもう飽きちゃった】
飽きるまでやりこむことは、慣れる状態にまで身体を深化させることと直結している。まずは飽きるまでやりこみ、そのあとに別のなにかに挑戦し、つぎの場へと移行する。その繰り返しの中で、かつて飽きた何かをもういちどこなしたときに、新しく体得した何かと融合することがある。変革はその繰り返しの中で生まれる、偶然の連鎖にすぎない。そのため、どういった偶然を手に入れたいのか、という理想をできるだけ明晰にイメージできていると好ましいが、問題なのはこの理想というものが、本質的に明晰足り得ないという性質を有していることだ。ゆえに理想は絶えず形を変え、その姿を変貌させる。上達し、変革するたびに、理想こそがまっさきにその姿を変える。だからこそ余計に、理想から目を逸らさず、そのわずかな変化を見逃さないようにしなければならない。言い換えるならば、理想の明晰度をあげるというのは、理想の変化を見逃すな、という意味であり、けして理想を、確固とした目標にする、という意味ではない。この違いは、大きい。ここを勘違いしてしまうと、人はある時点で袋小路に陥り、変化を嫌い、形骸化していく。定かではない。(定かでないことをかっこつけて言わんといてくださる?)


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参照:いくひ誌。【1371~1380】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886173854

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