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いくひ誌。【2691~2700】

※日々、何も積み重ねず浪費する、浪費するものすらすでにないのに、そんなことにも気づかずに。


2691:【大発見】
どんな文章のあとにも「そんなことにも気づかずに」ってつけると、すごく詩的になる。例文「ゴリラはバナナをめっちゃ食う、そんなことにも気づかずに」「お湯に浸かるとはぁ~ってなる、そんなことにも気づかずに」「立ち止まると進まない、そんなことにも気づかずに」「エスカレーターは進むけど? そんなことにも気づかずに」んー、やっぱりそうでもないかも。


2692:【知らんかった】
野生のゴリラはバナナ食べないらしい……。というか、ゴリラの住む場所にバナナがそもそもないらしい。人間の食べるバナナはいろいろ栄養価がすごいので、ゴリラやサルには与えないほうがいいともネットに書いてあった。そうなんだ。キツネはコンコン鳴かない以来の衝撃かもしれない。インターネットさんは物知りや。


2693:【じゃ】
ちょっと五分だけ仮眠、のベッドにころんてんしたらすっかり夜になってた。公園には行けなかった。あしたは雨なのであしたもナシじゃ。動物が歩くためにつかう器官、それはアシじゃ。知能指数がグングン下がっているのを感じるきょうこのごろじゃが、知能指数がグングン下がっていなかったころがあったのかと小一時間問い詰められたら下唇ぎゅーのカタツムリになってしまう。問い詰めてくれるひとがいないのが救いじゃな。救いかな? 救いじゃ、救いじゃ。


2694:【水の量によるのでは?】
おうおう、ずいぶん猫被りが板についてきたじゃねぇかいくひしさんよ。でもそう、たとえば海ってぇのは潮が引けば引くほどゴミが海底に目立つよな、いくひし、おめぇのそれも似たようなもんじゃねぇのか。泥を水で薄めたところで砂利は砂利でそのままだ、消えるわけじゃねぇし、却って目立つだけなんじゃねぇの。知らんけど。


2695:【やめたげなよ】
せいいっぱいなんだよ、いっしょうけんめいなんだよ、まんちゃんのそういう無駄な努力を笑うのはよくないと思う。あ、ごめん無駄って言っちゃった、違う違くて、なぁー傷ついちゃったよね、いまのはよくなかったうちがわるい、いくらなんでも本当のこと言ったらよくないよね。ごめんね。でも悪気はなくってさ。


2696:【どゆこと?】
それはえっとー、泣いてもいいってこと?


2697:【寄生ちゅう】
文章を並べているときだけ、妄想しているときだけ、何かをこねくりまわしているあいだだけ、じぶんの肉体から離れていられる。忘れていられる。忘れたいのだ。じぶんが何でできていて、いったい何に宿ってしまっているのかを。


2698:【2020/04/17雑感】
病床を増やしても意味がない、ということはないだろう。ただし、いまの医療従事者数のままで病床を増やしても、一人あたりの仕事量が増えるだけなので、負担にしかならないとは思う。時間をかけて国の福祉そのものを充実させていくしかないのでは?(日ごろから誰もが気軽に医療機関に罹れる仕組みでないと、医療機関はどんどん縮小していく)。いますぐどうこうはできない。最も避けるべきリスクと、妥協せざるを得ないリスクとを判断し、リスクを分散して負っていくしかいまのところの方針はないと言える。それでも人口密度の高い場所で仕事をつづけるしかない人たちはたいへんだ(リスクが高いというよりも、予防策によって仕事量や負担が増えてしまうことがたいへんそう。もちろん心理面でも負担は増すだろう)。労う気持ちや支援はあったほうがよいのは当然として、今後そうした事態に陥らない仕組みを国民はみなで考え、築いていくほうが、いっときの感動や感傷――つまるところ祈り、で終わらせるよりも前向きな態度と言えそうだ。(主語すら曖昧なあんぽんたんの妄想ですので、何かの判断材料にはしないでください)


2699:【2020/04/18雑感】
(飽くまで雑感です。正しくないと思ってお読みください) 危機感と恐怖心は同義ではない。SNSを眺めているとみな過剰に恐怖を抱きすぎに思える(大御所作家ですらなんだか恐怖を煽っていて、それでいいのですか、と思ってしまう。悪循環を助長したいのだろうか)。楽観視してもよい、と言っているのではない。予防は必要だ。いまのままでは状況は悪化の一途を辿ることは理解しているが、そのことと間違った知識を前提として恐怖を煽ってもよいことはイコールとはならない(いましばらくはどうしようもないのだ)。人混みに出向かないことと、手洗いを徹底することさえできていれば及第点だ。日常生活においては現状、人と接近せず、手洗い前の汚れた手や指を粘膜(つまり口や目)に接触させなければリスクはそれ以上あがらない(ここにほかの対策を加えたところで日常生活を送るうえではリスクの高さはあまり変わらない、と言い換えてもよい)。手や服にいくら汚れが付着しようが、それを口に運ばなければそれで構わないのだ。汚れることそのものがいけないのではない。マスクや消毒液にしたところで本来は体調がわるくないひとたちは使わずとも、リスクの増減にはあまり関与しないはずだ(人混みに出向く場合は、しないよりかはしたほうが好ましいが、マスクをしなければならない状況に立つことがそもそも予防の観点からして間違っていると言えるのでは?)。マスクをするしないよりも、対面でひととしゃべらないことのほうが重要だし、人と接触しないことのほうが優先される。もちろん引きこもっていられるひとは引きこもっていればよいが、そうできないひとたちだってすくなからずいるだろう。極端な話、誰もがしゃべらず、物理的に肌と肌を接触させずに、外では口に手を運ばずに(店内で食事をとらずに)、屋内に入るたびに(部屋を移るたびに)手洗いをするだけで、それで不足はないはずだ。それができない者がたくさんいるので、最大公約数的に、外出は控えましょう、と言っているにすぎないのではないか。政府としては最も効果的な施策をだすしかない。それは、取り逃がしたくない魚を逃さないために大きな網を使うのと同じ理屈だ。ある程度の、余裕がそこには含まれている(含まれていなければそもそも政府の立てる対策としては失敗していると呼べる)。医療現場の混乱や危機感を、一般市民も同様に持ちましょう、というのはあまり利口とは思えない(理屈を理解する前に過剰に恐怖を抱くから、いまのうちに不測の事態に備えておかなければ、となって大勢が一か所に押し寄せてしまうのではないか)。繰りかえすが、人混みに出向かないことと手洗いは徹底したほうが好ましい。ただ、汚れてしまうことを極度に恐れるのはいかがなものか、と思ってしまう。手や衣服が汚れるだけならさほどに神経質にならずともよいのではないか。汚れを口に運ばないように、体内に取り入れないようにすることが肝要であり、そのためにこれさえしていれば問題ない、というのが「人混みに出向かないこと」と「手洗いの徹底」なのだ(一番いいのは人と接触しないことなのは言うまでもない)。それ以外は、多少リスクが上下するだけの効果しかない、というのがいまのところの判断のはずだ(状況が変われば、この判断も変わっていくだろう)。政府や医療機関の抱えるべき危機感と、一般市民の覚えるべき危機感は一緒ではないし、一緒にしないほうが好ましい(恐怖に駆られて、判断力が落ちる確率をあげたいのだろうか)。恐怖心を最大化させようとしたり、こうしなくてはダメだ、といった禁止をつよく課す言説には注意しておいたほうが身のためだろう(なぜならそうした情報発信者は、それによって生じる混乱や反発を意図して発信している確率が高いからだ。大衆の混乱を予期できない程度の知性に――或いは意図して引き起こそうとする知性に、重大な判断は荷が重いのではないか)。すくなくとも、医者の発言だから(専門家の発言だから)、言っていることがすべて正しいなんてことはない。出産を前に耳を傾ける価値があるのは、外科医ではなく、産婦人科医のはずだ(産婦人科医にしたところで、経済の専門家ではない)。権威主義がわるいとは言わないが、権威を正しく見抜けなければ思わぬ落とし穴にハマることになるだろう(政府の言うことを信じろ、という意味ではなく)。もちろん、断るまでもなく、こんなあんぽんたんの文章を真に受けるなんて真似は愚の骨頂であるので、きちんと専門家たちの発信する情報を元に、とるべき行動を各自が判断しましょう。私見だが、いまは娯楽以外でSNSを利用するのはやめておいたほうがよいと思うしだいだ(いまというか、つねに、かもしれませんが。ちなみにじぶんの考えを表現するのは娯楽の範疇です)。(現状、総合して諸問題を分析し、判断できているひとは、いくひしさんの観測範囲には一人もおりません。それだけ問題が広域にかつ多岐にわたっており、複雑だということです。あちらを立てればこちらが立たず、が到る箇所で発生していますし、いまはこっちだけれど、状況が悪化すればやっぱりあっちを優先しなければ、といった優先順位の反転もこれからますます多発するでしょう――或いは全世界の国という国が亡びる可能性を考慮していれば、そこからいますべきことを一貫して洗いだせるかもしれません――が、その場合は功利主義の問題、ともすればトロッコ問題を地で描き兼ねません。言い方はわるいですが、八十億人がいまの文明を放棄するか、それとも一千万人が死亡するか、どちらかを選ばなければならなくなったときにいまの文明を放棄する覚悟がありますか? 現状は、文明が多少衰えても犠牲者を出さない方向に各国は動いていますが――あとで衰えた分は補えるとの考えが前提にあります、しかし――文明の衰える規模が増加していけば同じ判断をくだすのは徐々にむつかしくなっていくでしょう(むろんそれが正しい判断という意味ではなく)。不幸の手紙を封じ込めて終わりではないのです。以前にも述べましたが、不幸の手紙が拡散することよりも、短期間で爆発的に広まることのほうが問題なのです。もっと言えば、そのような社会システムである限り、根本的な解決には至りません。いま人混みを出歩いているひとたちは不幸の手紙を受け取る確率が高いですが、否応なく徐々に減少していくでしょう。医療機関はたいへんですが、それでもいつまでも倍々で増えていくことは原理上できません。上限、つまりピークはあるわけです。いまはそのピークをいかに下げられるか、に知恵を絞っている段階です。仮に地球上にいるすべての人間が不幸の手紙を受け取ることになっても、それが百年間のあいだにゆるやかに起きるのならば、それほど絶望視することはありません――もちろん、亡くなられる方はすくないほうがよいですし、誰の死であっても痛ましいのは変わりませんが――不幸の手紙にばかり目を奪われて、ほかの問題が疎かになれば、それこそ危機感が足りないと言われても致し方ないのではないでしょうか。いずれにせよ状況は悪化することを前提として、ではどうすべきか、を一人一人が考えながら、日々を過ごしていけるとよいですね)(家にいろ、というのは明瞭な指示で、短期的には功を奏するとは思いますが、問題点や危機感の共有という面では不十分に思えます。いま目のまえにある危機を乗り越えたときに、小さくない足枷となるでしょう。明瞭なスローガンには注意しておきたいものですね)(要約すれば、いくひしさんにはこのさきどうなるのかがまったくわかりません、となります)


2700:【インターネットに繋がったら孤独ではない時代】
みんなが孤独になってしまうと相対的にいくひしさんの孤独が薄れてしまって、いまとても孤独が足りない気がしてしまう。


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参照:いくひ誌。【2441~2450】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054893176126

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