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いくひ誌。【2431~2440】

※日々、とてもではないが背負いきれない、蟻一匹でも重たすぎる。


3431:【挑戦していないからかも】
文芸とは別の話だが、じぶんの失敗を振り返って(姿を見て)笑うことが増えてきた。愉快なのだ。前はただ悔しいだけだったのに、何が変化したのかな。(巧くいきそうでいかないもどかしさはくすぐったいのとすこし似ている)


3432:【あてずっぽうに考える自由】
仮に人間サイズの原子を想定するとしたら、ブラックホールみたいな構造になるのではないか、との妄想を歩きながらした。原子が極小でないと存在できない理由は何かと言えば、重力の小ささにその因を求めることができそうだ。重力は基本相互作用――この世界を構成する根源をなすチカラのなかでもとくにちいさいとされている。したがって物質の構成要素たる原子もちいさくなると考えて、それほど飛躍してはいないのではないか。原子の質量のほとんどは中心にある原子核に集まっている。その周囲を電子が漂っている。原子の外郭にあたる電子を捕まえておくには、なるべく原子核に近くないといけない(とはいえ、原子核と電子の大きさからするとかなり離れてはいるのだが)。重力の作用が届く範囲が限られているからだ。でもここで原子の大きさでありながら重力が極めて高い物質を想定してみると、遠くを周回するように電子を捕まえておけるので、必然、その外郭も大きくなると考えられる。じっさい、銀河の中心には巨大なブラックホールがあると考えられている。言い換えればブラックホールはその高い重力で以って銀河を構成しているのだ。これと同じことが原子にもあてはまるのではないか。つまり、原子の大きさを巨大化させるには、ブラックホールくらいの高い重力があればよい、ということにならないだろうか。かなりあてずっぽうの妄想だが、そこそこ楽しい妄想だった。坂道を自転車を押して登っているあいだにこういう想像を巡らせている。誰もいない坂道は左右を藪が覆っており、見下ろせば町並みが、見上げれば月が雲に隠れる様が目に入る。こういうときに自由を感じる。何かに夢中になったり、集中したりしているときには自由を感じる余地もない。ただ、夢中になり集中する時間が、自由を感じる下地をつくるのはたしかに思われる日であった。(妄想は妄想ですので真に受けないでください。重力や原子に関する記述は間違っている確率が高いです)


2433:【下手な鉄砲のほうが当たることもある】
なんでもかでも、美味しい美味しい、と食べてしまうひとのつくるソレよりも、こんなの大っ嫌いだ、と頑として口にしないようなひとに「そこをどうにか食べられるレベルに調理してみて」と頼んでつくらせたソレのほうがより多くのひとの舌をうならせるものができる気がしているが、これも人やつくる品によりけりだろう。たくさんの「味」のサンプルを持っていない者には一度の奇跡は起こせても、二度目、三度目、と奇跡を繰り返し手繰り寄せる真似はできない気もしている。この場合、奇跡を創造と言い換えてもよい。


2434:【屈するとは応じること】
組織は不当な圧力に屈してはならないし、一個人の横暴な要求に応じてはならない。仮にその動機に正当な主張があろうと、まっとうな段取りを介さずに圧力を加えて横車を押しとおそうとする行為には断固として否を突きつけなければならない。そうでなければ組織としての威信にかかわる。この威信というものが厄介で、これは要約すれば、その組織がほかの組織や個人と正当な手段で取引をしますよ、という信用にかかわる、という意味だ。言い換えるなら、不当な圧力に屈することはイコール正当な取引をしない組織と見做される(論理的な解としては不適切だが、常識としてはまかりとおる)。よってどのような動機がその根底にあろうと、不当な圧力に組織は屈してはならないのである(正当な取引を維持できない組織、と見做されてもよいのなら屈する選択肢もあるだろう)。屈してはならない、は、応じてはならない、と言い直してもよい。


2435:【近づけない】
デジカメの原理がよくわからない。古典的なフィルムを用いる写真はなんとなくだが納得はできる。光が当たってその部分が化学反応を起こして変色すると解釈してそれほど大きく的をはずしてはいないだろう。だがこれがデジカメとなるとよくわからない。なぜレンズに入ってきた光をあれほど解像度高く感知して、それを色や濃度ごとに再現できるのだろう。光が当たった場所に「光の波長ごとに見合った電子を飛ばすような装置」がついているからだ、と見当をつけることはできるが、なぜその装置がフィルムのように消耗しないのかがふしぎだ。或いは見当はずれで、まったく異なる原理を用いているかもしれない。知識不足で想像の余地しかない。似た疑問として、PC画面を漂うカーソル(矢印)の止まった場所をどうやってPCは感知しているのだろう。じっさいに画面上を物質が動いているわけではないはずで、カーソルと「画面に再生された動画」との区別はどうやってつけているのだろう。これは多重に表示される「選択肢」にも当てはまる疑問だ。たとえばプロフィール欄のうえにカーソルを持っていくと、各々「小説」「近況ノート」「おすすめレビュー」とリンクの選択肢が並ぶ。じっさいに箱が開くわけでもないのに、単なる表示画面との区別はどうやってつけているのだろう。カーソルの動きを感知しているわけではないはずだ(なぜならカーソルが物体としてじっさいに動いているわけではないから。動いているように見えているだけでこれは点「ピクセル」の点滅にすぎない)。いったいどんな仕組みなのか、想像の余地しかないはずなのに、想像すらつかない。だがじっさいに原理を考え、応用し、これらを創りだした者たちがいるのだ。頭のよい人たちがいるものである。感心というよりもこれは驚愕にちかい。否、驚愕よりも恐怖にちかいかもしれない。まるで同じ人類だとは思えない。それでもたしかに同じ人類のはずなのだ。いったい何が違うのだろう? これもまたどうやら想像を働かせる余地しかなさそうだ。さて、想像する余地を失くすにはどうしたらよいだろう?


2436:【怠け者すぎて申しわけなくなっちゃう】
さいきんいっぱい寝すぎていて、また痩せてきてしまった。たくさん寝るとその分エネルギィを補給しないし、それでいて水分が飛んでいくから全体的にしゅっとなる。身体を動かさないから筋肉も衰えて、細くなるから体感、痩せて感じられる。見た目にもけっこうな違いがあるようにじぶんでは感じるけれども、顔から太るタイプなので、顔だけむくんでいて、なにむっつりしているの?って鏡を見るたびにセリフが浮かんでおもちろい。あと、ふだんから運動不足なので、三日前くらいにちょちょいのちょいって動いたら右太ももが壊滅的な打撃を受けてしまった。筋肉痛がウニウニ言ってる。曲げるだけで痛い。タンパク質をとらないと、と思うのだけれどお菓子ばっかり食べてしまう。太ってしまうなあ、と思っても、またたくさん寝ると痩せてしまうので、燃費がわるく、便利なようで損な体質だと思うものの、やっぱり運動不足だと肉体が悲鳴をあげやすくなるようだから、ときどきは身体を活発に動かすようにしていきたいなあ、とは思ってはいるのだけどね。思うだけなら簡単なのに、どうしてじっさいに動くとなるとむつかしいのだろう。ひょっとしたら思ったり、考えたりしている気がしているだけで、じつは指一本を動かすほどにも思っていたり考えていたりしていないのかもしれない。とはいえ打鍵をするとゆびは動かすから、三本分くらいの労力は費やしているのだ。ちなみにいくひしさんはブラインドタッチができないので画面とキィボードを交互に見ながら文字を打っている。使う指の数は三本だ。左手は人差し指だけ、右手は人差し指と中指だけを使っている。ほかのゆびは使わない。幼子がぱちぱちキィーボードをいたずらするみたいにして打鍵しているので、それほど速くはない。たびたび繰り返し並べているけれども、いくひしさんは不器用なのだ。何につけても上手にできない宿命を背負っている(もちろん背負っているのだから下ろすことも可能だろう。ただその方法が解からないだけで)。


2437:【感情に言葉を】
光を用いて壁に黒を投影することはできない。光は重ねれば重ねるほど白く明度があがっていくので、黒からは遠ざかる。黒い光は原理的に放てないわけだが、術がないわけではないだろう。たとえば影をつくればそこだけ黒く見える。また、壁が目に映るのは、壁の表面に光が当たって、吸収されずに乱反射した光の残滓が目まで飛んでくるためだ(壁がいっさい光を反射せず、飛んできた光をすべて吸収するならそれは限りなく黒く見える)。したがってそれら乱反射した光を打ち消すような光を投射すれば、観測者からは光が見えなくなって黒く見えるようになるのではないか。ただ、光に光を当てて打ち消すことが原理的に可能なのかがよく解からない。光には波の性質があるから、干渉しあうのだ。そしてたいがいの物質は鏡のようにそのまま光を反射したりせずに、乱反射する。つまり乱れるわけで、その乱れを光の波長ごとに捉え、解析し、それに対応する「打ち消し合う光」を正確に「乱反射している光」に当てるのは考えるよりもずっとむつかしいのではないか。私生活においては光はつねにいろいろなものにぶつかって乱反射を繰りかえしているから、そもそも一方向にのみ「対となる光」を放って光を打ち消すという発想そのものが間違っているのかもしれない。これは音にもあてはまるはずだ。音を打ち消すように対となる音をぶつければ、音は掻き消えて静寂をつくりだせるかもしれない。でも音もまた波であり、空気の振動であり、物質の振動でもあるから、一方向にのみ反射するわけではない。まっすぐに飛び交っているのではなく、さまざまな物質にぶつかり、反射し、ときに干渉しあって、ちいさくなり、ときに大きく振幅する。どの方向に「対となる音」を投射すれば音を打ち消すことが可能なのかは、その場にある音源の数や位置によるだろうし、その場にある物質の数や部屋の形状にもよるだろう。打ち消し合う、という発想そのものが、私生活においては現実離れした発想であるのかもしれない。これは人間の感情にもあてはまりそうだ。怒りや悲しみは、楽しさやうれしさでは打ち消し合うことはできない。だから人間には忘れるという能力がついているのかもしれないし、或いはそれゆえに記憶するという能力が発達したのかもしれない。優先されるべきは忘れる能力であり、記憶するのはそのあとに付随した能力だと解釈することもできそうだ(そうでもない?)。打ち消し合うことができない以上、あとは気を逸らしたり、紛らわせたりするよりない。打ち消し合おう、消してしまおう、と考えれば考えるほどに、よりそれに囚われてしまうといった悪循環は、割合いに身に覚えのある方も多いのではないか。何か一つ、没頭できること、夢中になれることを持っていると、怒りや哀しみに支配されずに済むかもしれない。いくひしさんはけれど、怒りや哀しみも嫌いではないので、いつでもある程度、それに言葉を与えて、飼い馴らすようにしている。打ち消し合うことはできないが、どんな感情もほかの感情たちと共存させることはできるようだ。それがよいことかどうかは分からないのだが。(正しい知識ではありません。真に受けないでください)


2438:【黒色発光ダイオード】
前の記事で「打ち消し合うような波長の光をぶつけあえば黒くなるのではないか」といった旨を並べた。どっかで見たアイディアな気がしたので、ネットで検索してみたら「黒色発光ダイオード」なるものがすでに開発されていたようだ(※)。蛍光灯と逆の波長の光を発するために、光が打ち消し合い、まるで闇が放射されているように見えるそうだ。ただ、飽くまでそれは閉ざされた部屋でのみ有効な仕組みであり、広く応用するにはさらに改良が必要なのではないか、と想像している。どの程度光を打ち消し合うのかも分からないが、真っ暗になることはないのではないか。とはいえ、やはりアイディアをカタチにするまで持っていけるひとは偉大だ。畏敬の念しかない。(※検索先の記事はデタラメですから「黒色発光ダイオード開発」はもちろん嘘ですよ。真に受けないでください)


2439:【光速とナメクジ】
宇宙の大きさからすると光速はあまりに遅すぎる気がする。光速より速く移動する物体はないと考えられているが、宇宙の膨張に至っては光よりも速く広がっていても矛盾はしないらしいので、たとえば観測可能な宇宙を俯瞰して眺めたときに、光の広がり方と宇宙の膨張の仕方にはちぐはぐな差があるだろうから、その差が一つの波として宇宙にうねりを与えているのではないか、と妄想してしまう。いや、それにしても光速はやはり宇宙の大きさからすると遅すぎるのではないか。それで何か困ることがあるのか、と問われるととくになにも思い浮かばないのだが、物体の速度の限界が光速だ、と言われると、感覚的に、んなばかな、と思ってしまう。地球を宇宙の大きさにたとえたら、光はおそらくナメクジよりも遅いことになるのでは?(また適当なことを並べてしまいました。申しわけありません。妄想にも満たない印象ですので、くれぐれも真に受けないようにお願い致します)


2440:【理想には届かないのが自然】
組み合わせこそがオリジナルだ、といった言説を目にする機会が増えた。ある一面では間違ってはいないだろう。そもそも世のなかの大半の事象がほかの事象との組み合わせでできており、純粋にそれ単体で成立する事象というものは、すくなくとも人間の私生活上では滅多にお目にかかれない。ほとんど存在しないと言ってもいいかもしれない。そういう意味では、どんな組み合わせをつくるのか、の前段階として、事象をどんな範疇で区切るのか、がその後の成果に大きく影響してきそうだ。いったい何を「組み合わせる素材」として見做すのか、がひとと違っていれば、もうそれだけでオリジナルになると言ってもよいかもしれない。みなが素材に思わないようなものを素材にして、既存のレシピに当てはめれば、完成した料理の味のいかんを問わず、それはオリジナリティがあると言えそうだ。つくるからには美味しいほうがよいだろう。だが、つくってみなければ美味しいか否かは判らない。やはりまずは素材を見つけたら、ひとまず手掛けてみるのがよさそうだ。とはいえ、個人的な隘路を打ち明けてしまうと、じぶんにできることの幅が狭すぎて、素材と見做す事象を見繕えない。ネタがない。つねに枯渇している。だからとりあえず、オリジナリティを求めずに、できることからやっていくしかないのだ。高望みをしない。それでも日々を楽しく過ごしていける余裕が才能のない者にはある。高望みしなくてもいい、という気楽さだ。このさきどれほど労力を割いても届きはしない理想がある。どうせ届きはしないのだから、といっそ端から諦めてしまえば、あとはのほほんと、ではどれだけ近づけるかな、と日々を楽しく歩んでいける。諦めることは必ずしも、止まることではない。諦めたさきにしか開けない境地もまたあるようだ。いずれ、楽しく過ごせれば御の字だ。理想に届いてしまったせいでかえって苦しい日々を過ごすこともあるだろう。何がじぶんにとって好ましいのかは、じぶんでしか決められないし、その環境にじっさいに身を置いてみてからでしか分からない。理想に届かないことを嘆くよりも、いっそ届かないことを楽しんでしまったほうが得に思えるが、やはりどうしても理想に追いつきたいものなのだろうか。理想に追いつきたい、と欲する渇望と、それが叶わないもどかしさは、別物であるし、別々に扱っても支障はないはずだ。だからというほどでもないのだが、理想は高すぎて困ることが、いくひしさんにはないのかもしれない。


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参照:いくひ誌。【1771~1780】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887843365

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