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いくひ誌。【2421~2430】

※日々、未来のとある点よりかははるかにしあわせだろうから、失われていく自由を余すことなく掴み、握り、圧し固めたなら、飴玉にして食べてしまおう。


2421:【愚痴でござる!】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはきょう、自転車をこきこき踏んでいたら、ぷっぷーって! 自動車さんにぷっぷー!ってされてしまって、でもいくひしさんは横断歩道を自転車で渡っていただけでござるから(横断する歩道なのに自転車で走ってよいでござるか、といった正論は耳に痛いのでやめてほしいでござる)、ちゃんとライトも点けていたし、どうしてぷっぷーってするでござるかって、すこしだけお腹の虫がドタバタ暴れたでござる。その自動車さんはいくひしさんのまえを左折して(いくひしさんから見たら右折ということになるでござるが)、すこしさきで止まったでござる。だからいくひしさんも自転車から降りて、歩いてそっちのほうに向かったでござる。いくひしさんのお腹の虫はドタバタ暴れていたでござるから、いくひしさんは心の中で細い腕をまくりあげて、んじゃこりゃダレにぷっぷー鳴らとんじゃんみゃーこわくて泣いちゃうだろー、とやっぱりドタバタ暴れていたでござる。そしたらいくひしさんのお腹の虫に驚いたんでござるか、その自動車さんはすたこらさっさとぶーんと走りだしたでござる。あっという間に見えなくなってしまったでござる。赤信号が青信号になっただけでござる。べつにいくひしさんのお腹の虫の暴れ具合とは何も関係なかったでござるし、そもそも自動車さんが止まったのも赤信号だったからでござる(そしていくひしさんが自転車から降りたのは上り坂だったからでござる)。それはそれとして、ぷっぷーってするのはやめてほしいでござる。きょうはなんだか全体的に自動車さんはみんなせっかちさんに映ったでござる。いくひしさんだけでなく、ほかの自転車さんや歩行者さんに対しても横暴に映ったでござる。帰宅時間だったからでござるか? それはそうとしてももうちょっと安全運転を心掛けてほしいでござる。自動車さんはロボットスーツみたいなものでござる。それを着てたら誰だって人を簡単に殺傷できてしまえるでござる。だから自覚しないうちから気が大きくなっていることもあると思うのでござる。もうすこし、じぶんが裸の王様かもしれないと疑って日々を過ごしてほしいなあ、とこれは完全なるわがままでござるけれども、お腹の虫さんをどうどうと宥めながら思ったでござる。いくひしさんも裸の王様にきっとときどきなっているでござる。ときどきというか、四六時中かもしれないでござる。ロボットスーツを脱ぎ捨てても同じ行動がとれるかどうかを想像しながら、街灯にかかった枝葉の影を見上げて、ほぉ、と息を吐くような日々を送りたいでござる。大きな音は苦手でござるなあ、とちいさくぼやいて、きょうの分の「いくひ誌。」にするでござるー。


2422:【反社会的勢力ではない組織とは?】
現状、日本では指定暴力団として反社会的勢力を名指しで弾劾可能な法律が成立している(暴対法など)。しかし聞くところによれば海外ではそうでもないようだ。ギャングやマフィアを規制する法律は日本よりかは厳格に制定されてはいない(あくまで犯罪行為に対する罰則があるのみだ)。日本であれば、反社会的勢力の撲滅に賛成します、との誓約書を交わすことが企業間での契約であれば日常的に行なわれている。これによって指定暴力団との繋がりを失くすことが事実上可能となっているが、反面、指定暴力団でなければこの限りではなく、ゆえに半グレなどの実質暴力団のような組織がまかりとおる。たとえば銀行は、融資するにしても口座を開いてもらうにしても、その相手が指定暴力団員か否かを見定め、ときにはいっさいの取引をしないと法律を武器に突き離すことができる。ただし、その延長線上で、いち市民に対しても恣意的なランク付けを施し、融資を断ったり、口座の扱いを変えたりできる。言い方を変えれば問題だと認識した時点で「その相手を干す」ことができるのだ。そしてその干す理由は基本的に相手には知らせないし、ただいっぽうてきに「お客さまとはお取引きできかねます」と断るだけなのだ。このあたり、おそらくそう遠くないうちに仕組みが是正される方向に動くだろうと想像しているが、その前に物理的な銀行が淘汰されるほうがはやい気もしているので、それほど深刻な問題だとは見做してはいない。いずれにせよ、反社会的勢力とは何なのかがかなりあいまいな表現だということは知っておいて損はないだろう。じぶんの関与している企業が暴力団ではないとどうして言い切れるのか。指定暴力団ではないだけで、暴力団であり、反社会的勢力かもしれない。(又聞きによる根拠のない文章ですので、真に受けないでください。銀行およびマフィアに関する記述も間違っている可能性があります。ひょっとしたらマフィアとして組織化するだけでも弾劾可能となる法律が海外にもあるのかもしれません)


2423:【いないほうが楽なので】
いくひしさんがこう言うのもヘンなんですが、友達いなくて寂しいひとは友達つくったほうがいいと思いますよ(つくるというか、繋がるというか)。ムリしてもいいことはない気がします。


2424:【思考がモヤがかっている】
同じ言語であっても文体が違えば、それをすらすら読み解くにはそれなりの学習が必要だ。さいきんそれを実感する。慣れ親しんだ文体であれば抵抗なく読めるのだが、はじめましての文体であるとときおり、ものすごく抵抗のある、斟酌せずに言えば読み進められない文章と出会うことがある。もちろん初めましての文体であっても比較的なめらかに読み進められる文章もあり、その場合は、書かれた内容が好みであると、楽しい、と感じる。ひるがえって、読書を楽しいと感じるためには、内容もさることながら、どのように文章を並べてあるのかも関係してくる。すらすら読めることは一つの評価基準となるだろうし、よしんば読みづらくとも、学習することでより内容を噛み砕きやすくなる文体であるならば、それもまた時間差はあるにしろ、読書の楽しみ、となり得る。言語の違いは、文法や構成要素たる文字や言葉だけではなく、どのようにそれを並べるかといった文体によっても分類可能だ。言語は、ほかの言語とのあいだに共通項がすくないために、学習が必要条件となる。だが文体の違いであれば同一の言語を習得済みであるかぎり、抵抗の多寡が異なるだけで、内容を氷解可能だ。ただし抵抗の高さが違うため、同じ言語であるのにすらすらと内容を氷解できない事態もでてくる。そのときにそれを、内容がおもしろくない、と判断するか、それとも文体に馴染んでいない、学習が足りていない、と判断するのかは大きな違いと言えるだろう。優先すべきは文章に仕舞いこまれた内容だが、それをよりすらすらと抵抗なく受動するためには、言語の違いに関係なく、学習が必要とされる。文体の違いはその一例であり、それ以外にも、思想や世界観など、インプットしなければならない回路がありそうだ。思想や世界観を含めて文体と呼ぶ場合もあるが、ここではそれを分けて、あくまで文章形態の差異を文体と呼んで扱っている。あたりまえすぎることをまどろっこしく並べているだけだが、口に合わないと思った本であっても時間を置いて読んでみると案外におもしろく読めた、といった経験は読書を趣味としている者ならば誰にでもある経験だと睨むものだ。あらゆる文体――可能であれば言語――を楽しめるように、回路を増やしていきたいものである。それは巡り巡って、あらゆる物語を楽しむことにつながるだろうとの予感を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2425:【でしゃばりました】
あ、言うほど読書はしていません。いかにも読書家みたいな言い方しちゃいました。申しわけありません。いくひしさんは本を読まないほうだと思います。月に多くても十冊いかない気がします。マンガを含めればもうすこし多い気がしますが、予算は五千円くらいなので、そもそも十冊以上を購入できません。読書歴もようやく十年いったかな、くらいなのでまだまだ素人です。たくさん読むというよりも、一冊一冊楽しく読書をしていければな、と思います。


2426:【自己犠牲は尊くない】
自己犠牲を尊ぶ系の思想はもういまはだいぶ時代にそぐわなくなってきていると感じる。自己犠牲を選択した末にそれをした者が死ぬにしろ生き永らえるにしろ、単に損をするだけにしろ、自己犠牲に走ることで得をするのはそれをした者以外のその他大勢なのだ。自己犠牲を尊ぶのはいつだってその他大勢であり、それをすることは素晴らしいと謳うのは信者や構成員に自爆テロをするようそそのかすことと原理上区別はつかない。というよりもほとんどと言わずして同じだ。では自己犠牲は悪なのかと言えばそれも単純にそうとは言い切れず、結果として自己犠牲的な構図になることはあるだろうと感じる。これに至ってはその後に、素晴らしい人物だった、好ましい行動だった、と称賛したくなる気持ちは分からないではない。だがあくまでそれは結果論だ。自己犠牲を素晴らしいことだとはやし立てるのとは違っているし、違うこととして扱ったほうが社会秩序は乱れにくく済む。自己を犠牲にする必要はない。これはどんな問題をまえにしても、自己を犠牲にしようとしてとる手段は称賛に値しない、とする倫理観を構築していくほうがこれからの社会にとってはプラスに働くだろう。個人はどんな問題をまえにしても自己を犠牲にするべきではない。自己を犠牲にせず、誰の犠牲も前提としない術を模索しながら、それでも相互に損失を分散し、負担をし、それでいて一人では実行できない手法で以ってじっくりと問題の解決にとりくむ姿勢が優先される。その過程で、結果として自己犠牲的な犠牲がでてしまうことはあるだろう。それはしかしあくまで事故であり、或いは事件であって、当人の善意ではあり得ない。それを善意や善行と解釈しないほうが、これからの社会にとって、ひいては個人にとって好ましい姿勢となっていくのではないか、とこれまでの人生で何かを犠牲にしたことも、しようと思ったこともない怠け者のその場任せの思いつきを並べて本日の「いくひ誌。」とさせてください。なんだか日々、ぞんざいになってきたなあ。まあいっか。


2427:【線、流れ、波、律動】
何を捉えようとしていて、そのうちの何を実際に捉えているのか。評価軸の一つにこの視点が欠けていると、たぶんあるレベル以上に到達した時点で、さきがなくなる気がしている。何を捉えようとしていて、そのうちの何を実際に捉えているか。視える者にしか視えない何かはやはりあるようだ。


2428:【けけけ】
まーた、まんちゃんがそれっぽいこと言ってる。書くことなかっただけのくせに。


2429:【たぶんいます】
前にも言ったかもだけれども毎日一作ショートショートをつくっていけば三年で千作を超えるのだよなあ。三十年で一万作。たぶんすでに実践しているひとがいるはずだ。発見されていないだけで(或いは現在進行形でつくっている最中かもしれない。そんなにつくって誰が読むんだろ。AI?)。


2430:【知ったかぶり】
液体のように振る舞うことと液体の違いとは何なのだろう。液状化現象に代表されるように砂は条件次第で液体のように振る舞う。たとえば砂時計は中身がカチンコチンの石では役に立たない。液体のようにサラサラと流れる砂だから時計として時間を測ることができる。しかし砂は液体ではない。いっぽうで、水にしたところでそれを構成しているのは水分子だ。粒子の大きさに差はあるが、砂も水もどちらも粒でできていることに違いはない。液体のように振る舞うことと液体であることはそもそも区切れないのでは? この疑問を解くには「液体(っぽいもの)」を気化させればよい。水であれば水蒸気になるが、砂はその前にマグマのような液体となって、そのつぎに気化する。一段階過程が多い。液体のように振る舞っても、構成する粒そのものが液体になる余地があるのならばそれはやはり固体なのだ。また、液体のように振る舞う、というときはたいがい「流体」の性質が際立っている。そのときに表面張力が働くか否かで「液体かそう振る舞っているだけなのか」を調べることも可能だろう。カップに砂を詰めてもカップと接している縁が盛り上がることはないし、宇宙空間で砂をばら撒いても丸くはならない(液体が丸くなって浮くのは表面張力のせい)。なーんて並べてはみたはよいけれども、じつのところ液体と固体の違いがよく解かっていないし、表面張力の値の求め方も知らない。こんな感じかなーって妄想でしゃべってみた。そもそも表面張力って何? 静電気と何が違うの? たぶんあんまり違わない気がしていますが、合っているでしょうか。だとしたら砂に指を突っこんだときに指に付着する砂は、表面張力でくっついていると解釈できるのでは? それってつまり「砂で濡れている」ってことで、濡れているならそこには表面張力が働いているってことなのでは? 指が砂で汚れるのはゆびの水分のせい? はーそうですかへー。やっぱりよく解からなくなってしまいました。お勉強不足です。お勉強します。いつか。たぶん。きっと。したくなったら!(おどけて煙に巻くのだけは上手)


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参照:いくひ誌。【251~260】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882226727

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