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いくひ誌。【2411~2420】

※日々、贅沢をしている、水のありがたみを忘れられるくらいに、飢餓の苦しみを知らぬままに。


2411:【鳴き声と言語】
たとえば「紅茶」と言う。その声を聞いてそこから「こうちゃ」と音を知覚して、それを言語として理解し、飲み物としての紅茶を連想するというのはいったいどんなメカニズムなのだろう。明け方に鳥の鳴き声を聴いて思うのは、鳥の鳴き声の延長線上に言語があるのか、それともそれとは別の機能として人間が獲得した能力なのか、そこら辺が掴みどころがなく、ふしぎな感じがして心地よい。たとえば鳥なんかは脊髄反射的に、任意の鳴き声を知覚したら脳内で共鳴する部分があって、そこから連鎖的に「鳴き声を返すのだ」と本能がささやき、鳴き返すといった単純なモデルでいちおうの説明はつきそうだ。それが当たっているかどうかはさておいても、いちおうの理屈がつく、というのはいくひしさんにとってそこそこ楽しいお遊戯となる。その点、人間の言語に至っては、なぜ「こうちゃ」という音を聴いて、そこから言語を抽出し、概念としての「紅茶」と結びつけて、物体としての「紅茶」を連想できるのか、がこじつけであっても理屈を見繕うのに苦労する。まず以って、単なる音と言語の違いはどれほどあるのか。サイレンや悲鳴を聴けば否応なくひとは危険を察知する。この延長線上に言語があるのか、それともそれとはまた別のメカニズムが必要なのか。たとえばボディランゲージであれば、これはサイレンや悲鳴とはまた別の認識機能が使われていそうだと想像できる。聴覚ではなく視覚で認識するからだ。思うのは、言語はどちらかと言えばボディランゲージのようなメカニズムに寄っていて、鳥などの鳴き声に反応するのとは分けて考えたほうがよいのではないか、といった直感がある。おそらく脳内には概念の共鳴装置が無数に記憶されている。それは知識や経験としても蓄積可能だ。そこには映像や匂いや音など、五感を通して結び付けられる紐(タグ)がたくさんあって、そのうちのいくつかが言語として機能しているのではないか。だから必ずしも言語が、音や映像である必要はなく、それゆえに点字などの触角を介した言語も成立する。言い換えるならば、言語とは記憶と外部情報を結びつける回線だ。鳥や獣にも似た回線は備わっているが、それは「光と鏡」のような反射でしかなく、ゆえに入ってきた刺激は脳内で反響してそとに出ていくだけのような単調なつくりになっているのかもしれない。人間の場合は脳内に入った刺激は、リアス式海岸に侵入した波のように複雑に干渉しあい、ときには打ち消し合って、なかなかそとにはでていかない。むしろ刺激をそとに出力する機構が、別途に必要とされているのかもしれない。いったん消えた波を復元し、そとに打ち返すそれは機構だ。言語はそのために変換される形式であり、その形態には声や文字や起伏など、知覚に見合ったカタチがそれぞれある。そしてその形式、形態、カタチは、他者という増幅装置を用いることで反復学習を可能とし、脳内の刺激変換装置の性能をより高める方向に働くのではないか。あたりまえのことを並べている気もしてきたが、ここでの趣旨をまとめれば、鳥の鳴き声を発するメカニズムと、人間の言語を操るメカニズムは、そもそも別途の機構を介しており、異なる能力なのではないか、ということだ。鳥の鳴き声が進化して言語になったわけではないのではないか、とのひどく雑な疑問を呈し、本日の「いくひ誌。」とさせてください(きょうのところはそもそも真に受ける余地がありませんので、注釈を挿すまでもないな、と判断します。個人的にはカラスは言語を操っているように感じます。そう考えると、鳥の鳴き声もやはり原始的な言語なのかも、と思いもします。脳科学的にはどのように解釈されているのでしょう。気になるところです)。


2412:【いまって俳句や短歌が流行ってるの?】
ホットケーキは冬の季語なんだってー。へぇー。冬とかに風がごうごう吹いて、屋根とか木々にあたって、ぴゅーぴゅー鳴るのは、「虎落笛(もがりぶえ)」って言うんだってー。へぇーへぇー。


2413:【さいのうがないよう】
がんばる、には三通りある。一つは、長期にわたって生活が困窮しないように私生活を営んでいくこと。二つ目は、脳内麻薬を分泌しやすい環境と習慣を築くこと。最後に、どんな局面に立たされても打開策はないかと模索する姿勢を保つこと。この三つは相互に関連して「がんばり」を成果に結びつけやすくする。三つすべてを高い精度でこなせばこなすほど目標を達成しやすくなる。しかし最適な目標を設定しないことにはいくらがんばっても望んだ成果をあげるのはむつかしい。目標の設定に関しては「がんばる」とはべつの範疇であり、論理や知恵に左右される。論理や知恵を身に着けるにはもちろんここでも「がんばる」ことが必要となるが、しかしその足掛かりとなる最初の論理や知恵を得るためには運や環境に影響される。こればかりはじぶんでなんとかしようとしてもできない。生まれる場所、肉体、国、時代を選べないのと同じだ。極論、どんな目標を立てるかはじぶんの「がんばり」ではどうしようもない。一般的には「がんばる」能力やその成果の差が「才能」として評価されがちだが、じつのところどんな目標を立てるのか、のほうが才能の要素が大きい。コーチングや誰のもとで学ぶかによって成果に天と地ほどの差が生じるのもこの影響だ。どのようにがんばるかは、個々人の姿勢でいかようにも補正がきくが、どのように目標を立てるか、はじぶんだけではどうしようもない。目標の立て方もいちど学べば、あとは自力でどうにかなるのではないか、と考えればなるほどそうかもしれない、といっしゅん合点するが、しかし「目標の立て方」ばかりは、最初の一手をいつ学ぶかによって、その後その能力を育んでいけるかが大きく左右される。こう言い換えればよいかもしれない――つまり、目のまえにぶらさがった「適切な目標」が視える者と視えない者がおり、その慧眼を手にするためには言語を獲得するのと同じくらいの時期に、その能力の種を植えつけてもらわねばならない、と。そしてその種を植えつけてもらえるか否かは、ほとんど運と環境による。自力ではどうしようもないのである。目標の立て方はいわば掛け算だ。よってそれがなくとも、足し算たる「がんばる」ことによってコツコツと成果を積み重ねていくことは可能だ。ただし、才能ある者――すなわち「適切な目標」を立てる能力を持った者をまえにすれば、徒歩と自動車くらいの歴然とした差が生じてしまう。がんばることは無駄ではないが、しかし才能の差はある。そしてそれはじぶんではどうしようもなく埋めがたいものなのである。それでも、否、それゆえに才能がない者はがんばるしかないのである。(ここで言う才能はなべて後天的に培われるものです。三つの「がんばり」もそうです。才能とは例外なく生まれてから培われるものとここでは解釈しています。では先天的な能力の差は何なのかと言えば、それはもはや形質です。馬の足が速いのは才能があるからではありません。それと同じことです。翼のない人間が鳥を見て、鳥は才能があっていいなあ、とは言いませんよね。それと同様にして、先天的な形質によって特有の能力を生まれ持った個体に対しては、才能どうのこうのと比較することそのものがお門違いなのです。ですから、才能はなべて後天的に培われるもの、とここでは分類して述べてみました。もちろん「こういう捉え方もできますよね」という意味合い以上の趣旨はありませんので、誤解なきようお願い申しあげます。とどのつまり、いつものデタラメでございます)


2414:【がんばれない症候群】
がんばる、を言い換えれば、工夫をする、だと思っている。どのように工夫をしたら目標を達成できるか、問題を解決できるか、それを考え、実行することが「がんばる」の内訳だと解釈している。したがって、何かを毎日継続したり、高負荷の訓練を積むことは必ずしも「がんばる」とは言えない。そこに工夫がなければそれらはむしろ徒労や負担――無茶でしかない。もちろん工夫をすればでは即座に楽ができるかと言えば否だろう。ときには高負荷な訓練や長期間の鍛錬を避けては通れない。ただやはり、工夫の余地がないかとつねにじぶんの取り組んでいる手法を疑い、よりよい方法はないかと術を変化させていく過程は、より困難な目標を達成するうえでは欠かせないのではないか、との直感がある。工夫をする以上は、ただ変化させて満足するのはむしろ逆効果だ。いつどのように変化させるのか、といった指針を見繕う作業そのものに工夫の余地がある。どのように工夫するのかもまた工夫できるのだ。そうして考えてみると、どこまでも工夫の余地を細分化させ、深化させられる。すると情報処理能力に限界のある人類にはある閾値以上の工夫は負担でしかなくなる。よってじぶんがいったいどのレベルの層において工夫の余地を探るとより目標を達成しやすくなるかを見極めておくと好ましい。ただ工夫をすればよいわけではなく、工夫の余地を探すと共に、それ以上はこだわらなくていい、工夫をしなくてもいい階層を見極めておくと、「これだけがんばっているのに、工夫しているのに、ぜんぜん求めている成果があがらない!」といった不満を抱かずに済むようになるのではないだろうか。いくひしさんはしかしこのような取り組みができないひとなので、そもそも工夫をしたりしないし、工夫をせずとも実る成果で納得できるようにじぶんの価値観や解釈のほうを変質させがちだ。けして満足するわけではないが納得はできる。このように満足せずとも納得できるような図太い性格であると、何かと過敏な現代を生きていきやすいのではないかな、と投げやりに結んで、本日の「いくひ誌。」とさせてください(もちろんお断りするまでもなく、じぶんがそれでいいからといって周囲のひとたちまでもが納得してくれるとは限りません。今回のこれは飽くまでじぶんの内世界における楽な生き方は、という意味以上の趣旨は含まれておりませんので、誤解なきようお願い申しあげます)。


2415:【このひと真面目ぶってるー】
まーた、まんちゃんがえらそうなこと言ってら。


2416:【皮と肉ばっかりで骨のないひとだこと】
えらくもなんともないのにえらそうなこと言うだけでなにかをなした気になれるんだから、ホントまんちゃんはいい性格してるよね。誤解されそうだから言っておくと、これは皮肉です。


2417:【違国日記五巻】
ヤマシタトモコさんのマンガ「違国日記」がいくひしさんはだいすきなわけでございますが、やー新刊発売されましてさっそく書店さんに寄って購入して(連れ帰って)きたわけでありますが、やーもうね、読みましたよね。したらね。諦めてしまいましたよね。いくひしさん、もう金輪際、この方向で物語を編むことを諦めてしまいましたよ。これを読めばいいよ、と言えてしまえる物語に出会ってしまったらもう、新たにつくる意味合いはないわけでありますよ。すくなくともいくひしさんにとってはそうでありまして、やーまいった。まいってしまったな。多くを語れば語るほどにせっかくの宝物が薄汚れて感じちゃうので、話を変えまして、純文学の賞を受賞したらいいと思う。ヤマシタトモコさんの「違国日記」は純文学の賞を受賞したらいいと思う。あとね、いくひしさんはワンピースとかのマンガもだいすきでござるけれども、そういう大ヒット作でもそれを好まないひともいるとは思っているわけでありますよ。そこにきてヤマシタトモコさんの「違国日記」でありますよ。いる? いるかなー? ヤマシタトモコさんの「違国日記」読んで、これきらい、ってなるひといるー? や、いてもぜんぜんよいですし、そりゃとうぜんいるんでしょうが、ぜんぜんこれがなぜか、へっへ、想像できませんな。想像したくないだけやろ、というのは図星でありますので、やーやー、我こそは!つって大声をだして誤魔化してヤマシタトモコさんのマンガ「違国日記」がだいすきです、と念を押して、本日のおまけとさせてくださいな。はー、お熱がでてしまったな。すっかり打ちのめされてしまったのだわ。寝込む準備しとこ。


2418:【寝すぎると腰痛くなりません?】
案の定、寝込んでしまいました。じぶんの世界観をぐらぐらとノックアウチされちまったらひとはこうまでも弱ってしまうのだね。もうしばらく引きずりそうですが、完膚なきまでに敗北できるというのはそれはそれはすばらしい体験なのであります。打ちのめされるなんて経験は歳をとるごとに減っていくのが一般的なのかもしれませんが、ことしはもうすでにコテリさんの「Veil」でもKOされておりまして(KOってなんの略だろ?)、そこに加えての「違国日記五巻」でありましたから、そりゃもう時期が時期なら再起不能に陥っていてもおかしくはありません。さいわいのさいわいにして、ボッキン、と折れた心もたちまち「違国日記」と「Veil」からそそがれる感情のせせらぎによって折れた事実すら忘却の彼方へと笹船がごとく押しやってくれるので、いまはもうただただ上向きの風、さわやかな陽射し、コタツのぬくぬく、冬の朝のストーブ、疲れた身体にお風呂、みたいな「はぁ……極楽」が残されております。これは純粋な読者であったら味わえない境地のようでいて、そのじつ純粋な読者であったほうがもっと素直に感動を味わえたのかな、といった疑念も湧きまして、まあまあひとはそのときのじぶん以外の人生を味わうことはできないのでありますから、ほかの人生を想像しながら、「いまここ」「ここにいるじぶん」というものを余すことなくぺろぺろ舐めまわして、最後はガリゴリ噛み砕いてしまうのが好ましいのかなあ、なんて思う本日のいくひしまんでした。


2419:【異論は封殺しないほうが好ましい】
過去を証明するのはむつかしい。だが着実に「過去そこで起きただろうこと」にちかい解釈はできるだろう、と考えている。証拠を積み重ねていくことがその前提条件となる。また、現在ここにはないが過去そこにあったかもしれないことを論じるとき、「それがあっただろうと推定されてほぼ事実としてすでに扱われている解釈」に対して異議を唱えることは封殺しないほうが好ましいと考えている。たとえその意義を唱えている相手がどんな属性を有していたとしても、である。恐竜がどんな容姿をしていたかは現状、いまはまだ想像に委ねるしかないが、それでも当時の環境や現存している類種の姿から近似的な想像図を構成することは可能だと思っている、それは考え方や手法が洗練されていけばいくほど、本物の恐竜の姿へと近寄っていくだろう、という期待がある。同じように「過去起きたことへの解釈」であろうとそれは変わらない。異論を挟む余地があるのならその異論に耳を傾け、そのつど理屈で反論し、ときには主流の解釈を補強していくことは大局的に見て有意義であり、「より揺るぎない事実」を解明していくうえでは欠かせない議論であると考える。もちろんただ闇雲に議論をする気もなく否定したいだけの野次に対しては、厳格な態度でそれを突っぱねなければならないときもあるだろう。議論には議論のための段取りというものがある。否定することが目的となって相手を困らせる手法のみを採用しつづけるようでは、議論の土台に立つ準備は整っていないと判断されても致し方ない。相手の考えを尊重する態度は、異議を投じる側が持っていたほうが好ましい武器だと考えるしだいだ。もちろん、武器を持たない相手へであっても可能な限り聞き耳は持ったほうが好ましいだろう。ただ、耳を傾けるべき異議とそうでない異議があるのもたしかであり、そしてそれを議論(や検証)をする前から見抜くことは、現状かなりむつかしいのではないか、との直感がある。何にしても、自己の考え方にしろそうでない考え方にしろ疑いはつねに抱いていたほうがより安全側なのではないか、といまのところは思えるが、あなたはどうお考えになられるだろう(裏から言えば、つねに疑いながらでも「これは疑いの余地がなさそうだ」と認めるしかない考え方であれば、必然それをもっとも妥当な考え方として採用するようにひとはなっていくはずだ。疑わなければ妥当な考えを採用するのもむつかしいのである)。


2420:【スランプ】
新作をぜんぜんつくれていなくて困ったなー、になっています。つくりかけが溜まりに溜まっているのが要因だと思うのであります。今年は一日のノルマを千文字以内にしよう、厳選しよう、そうしよう、と決めていたのですが、それはそれで「あ」と文字を決めるあいだに「むかしむかしおじぃさんとおばぁさんが」みたいに桃太郎が最初から最後までずばーっと流れてしまうみたいな思考とのズレがありまして、そのせいなのか、千文字の文字が二分され、三分され、十作を並行してつくったら一日百文字ずつしか進まなくなるのであります。とはいえそれでも一年あれば三万字以上にはなるわけですから、ではじっさいそのくらいになっているのですか、となると、おーおー、なっているのであります。三万字以上の作りかけの山ができております。今年中に一作、できれば二作は閉じてあげたい、否々、閉じてしまいたい、万年スランプのいくひしまんでした。


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参照:いくひ誌。【1761~1770】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887800209

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