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いくひ誌。【2401~2410】

※日々、みくだされ、あなどられ、さげすまされて生きているほうが楽に思える、みくだし、あなどり、さげすむよりも、なによりそれらに無自覚であるよりも。


2401:【比喩が伝わりにくい】
抽象化のイメージを抽象的に述べてみようと思います。抽象化は、「異なる輪郭をもったビスケットを重ねて、ちょうどそれぞれに練りこまれたチョコレートの塊だけを針で突き刺すような感じ」といったらそれっぽい気がします。そのときの針が抽象化された何かとなります(チョコレートそのものではなく、「重ねたビスケットに入っているチョコレートを結びつける何か」である点が、具体と抽象の大きな差異となっている気がします)。それぞれのビスケットは別々のカタチをしていても、チョコレートという共通項で結びついているわけです。ただこの比喩だと、もともとそれぞれがビスケットという大きな共通項を持っているので、比喩としては弱いかな、とも感じます。ビスケットですらない、まったく別々の事象に針を通せるとより抽象度が高くなるのかな、といった直感があるのですが、これもあまり上手な比喩とは呼べないのかもしれません。比喩は伝わらなければ適切とは呼べませんから、いつもひととしゃべるときには苦労します。抽象度が高すぎるのか、それとも的外れなだけなのか。比喩が上手なひとをうらやましく思います。


2402:【かわいくないのもかわいくない?】
かわいいものが読みたいし、見たいし、つくりたいのだな、と解かってきた感がある。あらゆるかわいいをいくひしさんは読みたいし、見たいし、つくりたいのだ。かわいいにもそれはそれはたくさんのいろいろな種類があって、まだ発見されていないかわいいもあって、本当はとっくに見つかっているのにそれがかわいいことに誰も気づいていないかわいいもきっとあって、そういうのに、「これかわいくない?」「かわいいかわいい!」みたいにやっていきたいのかもな、と思いはじめていて、じゃあそこにきていくひしさんの自作はどうなんだいっていうと、え、かわいい? かわいいかな。かわいい気もするけどそうでもない気もするし、え、かわいい? というかいくひしさんはかわいい? かわいくない? きもい? そういう言い方ってないんじゃないかな! みたいなね、なんかそういうのをつくっていきたいようなそうでもないような、かわいいってなんだ! かわいいってどうやったらかわいくなれるの、生みだせるの、つくれるの、キモかわいいってキモいの? かわいいの? どっちかにして! みたいなね、もはや何をゆびさしてもとりあえずかわいいって言っとけ、みたいな投げやり加減に走りたくもなってくる、もはやかわいいを追い求めることイコールこの世のすべてを描きだすこと、みたいなね、そんな感じなんじゃないのって哲学的な思索にふけりたくもなるけど、歳をとればかってに更けれますよってね。あ、そうじゃない? それはおやじギャグ? かわいくない? 対極? 正反対? 真逆? あ、さいですか。かわいいってなんだーーーーー!!!??? 勢いに任せて誤魔化すのがたいへん上手な本日のいくひしまんさんですけれども、あー、思ったんだけど、元がかわいくないのにかわいくなれたら最強じゃない? 誰でもかわいくなれるってことじゃんね、無からかわいいをつくれるってことだよ、錬金術じゃん、すごいじゃん。あー、やさしいおばぁちゃんの飼い猫になりてー。ぶちゃいくな猫も、猫ってだけでかわいいよね。そういうの目指してこ。目標、ぶちゃいくな猫になる(ぶちゃいくである必要ある?)。


2403:【アイディアの優劣】
アイディアはそれをカタチにしないことには是非のつけようがない。アイディアをボツにするくらいならとりあえず試しにそれを素に何かをつくったほうがよい。根元を穿り返してもみれば、優れたアイディアがあったとしてもそれをそのままカタチにするのは至難だ。アイディアをカタチにするには、ほかに無数のアイディアが入り用となる。優れたアイディアであればあるほど繋ぎとなるアイディアは増える傾向にある。なぜなら優れたアイディアというものは往々にしてこの世にまだ存在していないからだ。完成形のお手本がない。よって、試行錯誤を繰り返しながらそれをカタチにしていかねばならない。一つの優れたアイディアをカタチにしていけば、たくさんの問題に行きあたるし、それを解決するにはまたいくつかの優れたアイディアが欠かせない。突き詰めて言えば、アイディアとして優れていたとしてもそのときにカタチにしてみたそれが優れている保障はどこにもない。未来の技術力があれば形成可能だがいまはまだカタチにできない、といった優れたアイディアだってあるだろう。そういうときには「発想としては凡庸だが、いまの技術力であればもっとも適当なカタチに組み上げられるアイディア」のほうが現時点での重要度は高いだろう。アイディアの優劣と、それをカタチにした物体の優劣はまた別物だと言えそうだ。まずはカタチにしてみることである。


2404:【不安がるだけなら赤ちゃんでもできる】
いま十秒ぐらい妄想した感覚的な話でしかないのだが、人間には情報処理能力の上限があって、その限界を超えないようなフレームをルールとして定めることで社会に秩序を生みだそうとしてきたわけであるけれど、コンピューターの性能が向上していけばその情報処理能力の上限は飛躍的に伸びていくわけだから、人類はそのつど浮上する問題に対して場合分けをして、そのときそのときにあった解決策を見繕うことができるようになっていくと想像できる。とすると、同じ問題であっても時と場合によっては、微妙に対処の仕方が異なっていく。これは裁判なんかもそうなのではないか。むかしはそれでよかった判決であっても現代ではちょっとね、みたいなケースが徐々に増えていくことが予想される。というよりも、現状すでにそうなっているのでは。裁判とはそもそもそういう性質を帯びていて、過去の事例だけを参照していくばかりでは、罪を裁くことはできない。むかしからこの事例はこれこれこうだから今回もではこうしましょう、だけでは困るのだ。時代は変わるし、社会の有様も変化していく。そのつど、すこしずつ事例ごとに考えるべき箇所は増えたり、減ったり、変わったりしていくはずだ。これは裁判にかぎらず、個々人の言動でもそうだろう。広く定められたルールだけでは測れないケースがどんどん増えていく。それに対処するだけの余裕も徐々にできてくるはずだ。これまでは余裕がなかったので放置されてきた事象も問題視できるようになり、是正や改善を求める声が増えていくと想像できる。そしてそのつどそのつど場合分けして考えるようになっていくと、当然の帰結として、ダブルスタンダードのような、あのときはよかったのにこのときはだめ、みたいな一見すると矛盾して見える事例が増えていくのではないか、と妄想できる。個々人の事例ごとに最善を考えることはよいはずなのに、俯瞰して全体を眺めると到る箇所に矛盾(瑕疵)ができて見える。これの何が問題かというと、まずは本当にその個別にあてがわれた対処が最善なのかを誰が判断するかが不明となる点だ。もちろんAIや法律家など、それなりの判断基準を模索できる術があるのだろうが、相対的な問題に対しては基準そのものが基準たりえない。となると、基準の基準が必要となるし、それは雪だるま式に増加していく。合わせ鏡のように果てなく求められることとなる。だから大きな枠組みとしてのルールは依然として必要とされ、なくならないだろうとは思う。そのいっぽうで、個別のケースへとより配慮して、そのつどそのつど問題への対処を考えていこうとする風潮が増せば増すほどに、大きな枠組みのルールを恣意的に利用できる者の「抜け道」が増えることが予期できる。本来であればルールを逸脱したら一発アウトであるはずが、個別に対処をしましょう、となるといくらでも言い逃れできる余地ができてしまう。この言い逃れできる余地は、いっぽうでは冤罪や理不尽な処罰を失くす方向にも働くが、その裏では、恣意的な解釈を自在に言い張れる者ほど処罰を免れる余地も生むので、いちがいにいいことばかりではない。そしてこれは現状すでに看過できない社会問題として浮上しつつあるように見受けられる。それがこのさきさらに拡大して、社会に大きな穴を開けていくのであれば、「法律と倫理」や「ルールと良識」のあいだで、取り締まることのできない抗争が個々人のあいだで頻発するようになるのではないか――と、あてずっぽうで不安を煽るようなことを言っておけば、いざ問題が取り沙汰されたときには「ほらみろ言った通りになったじゃないか」と言えるし、それほどでもなかったときには「あのとき警鐘を鳴らしておいたお陰だな」と恩着せがましいことが言える。何かを危惧し、不安だなあ、と言っておけばとりあえず責任を負わずに何かをなした気になれるので、口だけの役立たずになりたい方はぜひ真似してみるとよいかもしれません。言うだけならタダなので(「オン」は買うかもしれませんが)。


2405:【やましいことも裏を覗けばうらやましい】
とくに伝えたいこともないし、言いたいこともないし、書きたいこともないし、なんだったら都道府県の名前十県をなにも見ずに漢字で書くこともできない。一生おまえ小説書くな、文章書くな、と言われても、「ガッテン承知の助!」とか言って嬉々として受け入れてしまいそうだ。しょうじき、文学なんて未だに苦手だし、本なんて読まずに済むならそっちのほうがいいと思っている。ただ、人として生きていこうとする以上は、本の助けを借りずにはいられないようだ。本の助けを借りずに生きていけるひとがうらやましい――人であろうとせずとも人でいられるひとびとが。


2406:【うらやましいこともうらを除けばただやましい】
じぶんのチカラではどうしようもない問題をどうにかしようともがく行為が一つの罪に思えることがある。イタズラに藪をつつけば何がでてくるか分からない。ヘビならまだ撃退の余地があるが、つついたさきに核弾頭の起爆スイッチがあったら目も当てられない悲惨な結末となってしまう。いまにも崩れ落ちそうになっているブロックがあったとして、どうにもできないくせしてどうにかしようとゆびでつつき、けっきょく崩壊するきっかけを与えただけになることも往々にしてあるもののように感じる。ありがた迷惑というよりもこれはただの迷惑だ。邪魔だ。厄介だ。大きなお世話ではなく大きすぎる奇禍なのだ。なぜひとはじぶんのチカラではどうしようもできない問題をどうにかしようとしてしまうのだろう。楽観にすぎるのかもしれない。どうにかできると思いあがってしまうのかもしれない。或いは、どうせダメになるなら後悔しないように何か行動をしたいと欲する衝動の結果なのかもしれない。そこには、何もできなかったことに対する言いわけをじぶんにつくっておきたい欲求も含まれるだろう。問題の渦中にいる人物であるならばもがいた末にその行動が裏目にでたとしても納得できるかもしれない。しかしときには、渦中にいない人物が外部から大きすぎる厄を運んでくることもある。それが善意からの行動だったとしても、渦中にいる人物たちにとっては単なる悪意よりも手に負えない災いそのものとして映るだろう。世のなか、こうした災いがすくなくない。世のなかの問題の総じてはこうした「単なる悪意よりも手に負えない善意」が被害や損失を大きくしているのではないか、と偏った見方をしたくもなることもある。社会を発展させていくにつれて悪意を抑え込む術を人類は磨いてきたが、善意の暴走を防ぐ手立ては未だに確立できていない。見境のない、向こう見ずな善意は、悪意よりもよっぽど「悪」の名に恥じない厄介さを兼ね備えている。それを純粋無垢と言い換えてもよい。幼子の純粋な好奇心を止める術はない。好奇心の結果として起こるだろう行動を制限する術しか周囲のおとなは講じることができない。思想の自由、表現の自由、なんでもよいが、現状そうした自由を尊重してよいのだが、それにしてももうすこしなんというか、善意も悪意もその後に起こる「行動の結果」の良し悪しとは別物だという解釈が普及してもよいのではないか。善意から人を殺す者だっているだろう。本人にとってそれは善意だったのかもしれないが、他者からすればそれは悪意以外のなにものでもない。他者を害するという行為から逆算されるそれは動機だ。善意や悪意なんてものはそういうものである、拡大して言ってしまえば、感情や意思というものもそういうものなのである。後付けである。悪意がなければいい、なんてことはないのだ。悪意があっても、よしんば善意からの行いであっても、厄は厄であり、益は益だ。結果論ではない。結果を優先して重視すべきであり、起きたことに対してあとから後付けの解釈できっかけを語っても仕方がないという意味だ。結果は因果の繰り返しによって引き起こる。善意や悪意は、それら因果にあとから付け加える解釈にすぎない。行動はそれでひとつの因果だ。悪意からの行動であろうと、善意からの行動であろうと、測るべきは行動の良し悪しであり、その動機ではない。悪意を働かせないようにしよう、とすることは他者にはできない。人間にはできない。行動を制限するよりないのである。善意も悪意も似たようなものだ。本質的に同じと言ってよい。他者からの解釈が異なるだけだ。じぶんの解釈がそのときどきで異なるだけなのだ。悪意も善意も同じである。いつでもまったく同じものではないというだけのことで。(真に受けないでください)


2407:【そう見えるだけ】
以前にも述べたことだが、枯葉は道路が濡れていなければ風などによって運ばれ、道路の脇に吹き溜まる。いっぽう雨などで道路が濡れていると、比較的均等に枯葉が道路に散らばり、貼りつくようになる。おそらく風がつよく吹けば吹くほど枯葉はより均等に散らばり、道路を埋め尽くすようになるだろう。そして道路の抵抗(表面張力)を無視できるくらいにさらに風が強まるとまた枯葉は路肩に拭き溜まるようになるはずだ。これは道路が濡れると抵抗(帳面張力)によって枯葉が飛ばされにくくなるのに比べて、濡れた葉っぱ同士はさほどにくっつき合わないことが一つの因子になっていそうだ。つまり枯葉は、ほかの枯葉のうえに重なったときは容易に風に吹き飛ばされ、道路の露出した部位に貼りつくようになる。もし枯葉が道路を埋め尽くすくらいの量があるならば、均等に散らばり、やはり道路を埋め尽くすのではないか、と予想できる。道路の抵抗――粘着力が大きければ大きいほど、枯葉は均等に散らばるようになる(風が吹くことが必要条件だが)。道を歩きながらこんなことを一瞬連想してしまうわけだが、いっぽうで、これを人間社会のコミュニティに当てはめて考えてみると、案外に逆の結果になるのではないか、と思いもする。たとえばルールや規則が厳しいコミュニティでは個々人はむしろそうした圧力への不満を共有すべく、他者とより繋がろうとするのではないか。派閥もできるだろうし、ダマはいっそう偏ってできるのではないか、と妄想してしまう。もしこれが比較的自由な、他者を害さなければなんでもいいよ、というコミュニティであれば、人と人との関係性は多様化し、流動し、ダマのような吹き溜まりにはならない気がしている。枯葉の場合は「場」の抵抗が大きいほうが個々の枯葉はバラバラに散らばるが、人間関係の場合は、「場」の抵抗が大きいほどダマになってしまうように見受けられる。枯葉は抵抗に反発しないが、人間は反発し、同族と癒着するように働くと考えれば筋は通るが、一般化するには拙い妄想でしかないので、何かを得た気にならないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(雨と枯葉の関係は、人通りの多さによっても変わってくると思います。上記の妄想は、単なる経験則ですので、雨が降らずとも案外に道路には枯葉が均等に散らばるのかもしれません。この場合、雨の有無で枯葉の拡散具合に差はないと言えるでしょう。とすると、ひょっとしたら、誰かが掃除をしてくれている可能性もでてきます。雨が降った日は掃除をしないので、枯葉が散らばるようになるのかもしれませんね)


2408:【デタラメに論理は必要ない】
もしDNAを素材から人工的に編めるようになったら人間は「種の創造主」として、いまここにはない生物を造りだすことができるようになる。現時点であってもゲノム編集や遺伝子組み換え技術によって「既存の生物の亜種」をつくることはできている。それが種として新しい生物か否かは、種として繁栄し、遺伝子を広く個体に安定させなくてはならないから、一匹のみの「珍しい形質を有した個体」だけではそれが新種か否かは判断つけられない。仮にそれを新種と言ってしまったら、この世には新種が絶えず誕生し、生き永らえることなく死んでいることになる。ある意味そういう言い方もできないことはない。解釈の違いだ。話を戻そう。人間が新種の生物を素材からつくりだせるようになったとして、それは環境に適応しやすいからこそ種として繁栄でき、それが新種の生物として確固とした地位を築きあげる。トートロジーじみているが、そうではない。繰りかえしになるが、「珍しい形質を有した個体」だけでは新種とは呼べず、それが環境に適応し、なおかつ個体数を増やすことができると新種の生物として格上げされることとなる。つまり、人類が「種の創造主」としてその技術を編みだしたとき、地球上には爆発的に「いまここにはない形質を有した新種の生物」が激増することとなる。激増することは必須条件だと言ってもよい。繁殖するからこそ新種の生物たり得るのだ。したがって、人類がそうした「種の創造主」の技術を手にした時期を境にして、おそらく人類はかつてない絶滅の危機に瀕することとなるだろう。なぜなら激増した新種の生物たちは地球環境を加速度的に変質させ、その変化の速度に人類は適応しきれないことが予想されるためだ。新種の生物がなぜ新種の生物たり得るかをよく思いだしてほしい。環境に適応し、増殖可能だからだ。そしてその生存競争において人類は新種の生物と比べてややと言わずしてはっきりと不利だ。人類が自らの手で生みだす「新種の生物」は、高い確率で、環境適応能力が高い。ゆえに増殖するわけだが、それを制御することが人類にはできず、そして環境が激変すれば人類がそれに適応するのは困難であると想像できる。もちろんある程度の環境の変化であれば道具や技術を使って凌ぐことはできるが、そうした技術や道具を維持し、発展させ、引き継ぐことそのものが困難なほどに環境が激変してしまえば、絶滅までのカウントダウンが十と言わずして三からはじまるだろう。ゆえに仮に人類がDNAを自在に編みだせる技術を確立させたとしても、それを「新種の生物」をつくることには使わないほうが好ましい、と現時点では妄想するしだいだ(医療の分野で用いる分には人類の環境適応能力を高めるのに役に立つだろうが、もちろんリスクはつきものだ)。(※なんの根拠もないデタラメですのでいつも以上に真に受けないでください。論理の欠片もないデタラメなのが解かりますか? こういう文章を鵜呑みにしないように気をつけてください。ファンタジーとして楽しむ分には構わないでしょう)


2409:【想像する余地しかない】
ガムの包装紙を眺めてみると、だいたい同じように包まれているのが分かる。ここで言うガムは、小指の爪くらいの大きさのトーモロコシみたいにきゅきゅっと一本にまとめて売られているガムのことだ。一枚ではなく粒で売っているほうのガムである。ガム自体は直方体に寄ったカタチをしていて、どことなく前歯のようだな、と思いもする。それを包む銀紙は正四角形よりの長方形だ。ガムのカタチよりかは正四角形にちかいカタチをしている。どの包装紙も同じようにガムを包みこんでいる。この「同じように」というのは、「包み方が」という意味だ。機械で大量に一気に効率よくガムを包んでいるのだろう。どういう仕組みであればもっとも効率よく包めるかを想像してみるのだが、ぱっと考えて二通りの手法がある。一つは、箱型だ。判子型と言ってもよい。蓋のない箱のうえに銀紙を載せ、そのうえにガムを置く。ガムを箱に押しこむようにすれば、必然、銀紙はガムの底と側面を覆うかっこうになる。そこでさらに箱の側面がパタパタと内側に折れて蓋を閉めたかっこうになれば、ガムは銀紙に包まれることになる。箱は段ボールのような構造を思い浮かべてほしい。蓋となるところは最初から開いていて、縦に伸ばされているようなものだ。或いは、穴に網を敷いておくタイプの罠みたいなものだ。獲物がかかったら網を引きあげ、獲物を網で包みこんで捕獲する。そういう仕組みであればガムを自動で銀紙に包むことができる。欠点は、ガムを大量に一気に包もうとすると必然的に箱の数が膨大になってしまう点だ。コストの面で採用するのに躊躇しそうだ。ではよりコストをかけないでガムを銀紙に包む方法はほかにないだろうか。発想の順番としてはコストをかけないことなので、一つの仕掛けがあるだけで大量に効率よくガムを銀紙に包む方法を考えればよい。これには「ベルトコンベアー」や「滑り台のようなレーン」のようなライン型を想定しておけばよさそうだ。一本のラインに高速でガムをつぎからつぎに流していけば自動でガムが銀紙にくるまれる仕組みを考えればよいのだ。ただ、ガムをつくる工程そのものがライン型であるだろうから、もちろん銀紙への包装工程もまたそのラインの途上にあると想像できる。とすると、そもそもライン型は前提条件であるので、ここではそれを踏まえて、ではコストをよりかけないには? へと考えを広げるのがよさそうだ。さきほどの箱型の仕組みを発展させてみよう。一つ一つを順番にやっていくから時間がかかる。似たような箱をタコ焼きの金型みたいに大量に並べ、そこにガムと銀紙を大量に一気に押しこめば、包装の効率が増すかもしれない(銀紙の切断も同時にできる利点がある)。底よりも口のほうが狭ければ銀紙は巾着のようにすぼまるので、ガムごと箱に押しこめばあとは上からプレスするだけでガムを包装できるはずだ。箱ごとにプレスをするのではなく、無数に並べた箱を一気にプレスする。箱の数を減らすのではなく、包装する動作――プレスの数を減らす方向に考えを飛躍させれば、コストは生産量に反比例して減っていくこととなる。じっさいに製造現場でどのような手法がとられているのかは分からないが、考えの方向性としては似たようなものではないかな、と妄想するしだいだ。もっと効率よくかつコストのかからない手法があるよ、と閃ける方は発明家の適正があると思うので、ぜひ何かを手掛けてみることをおすすめしたい。ちなみにいくひしさんは図工や工作をしないし、できない。手先が不器用で、ネジを締めればバカになり、釘を打てば曲がり、木材を切れば寸足らずで、ほとほと作業に向いていない。できることと言えば、お門違いで底の浅い妄想を並べるくらいでございます、と打ち明けて本日の「いくひ誌。」とさせてください(事実を並べるのは卑下ではありません。これに関しては真に受けてください)。


2410:【最大の賛美とは】
創作者にかぎって言えば、同業の創作者に対する最大の賛美とは、「あなたのそれに影響されてつくりました」ではないだろうか。要するにほかの創作者たちに「それをパクリたい」と思わせたら勝ちなのだ。口先だけでいくら、おもしろい、すごい、と言わせたところで、影響を与えられなかったらそれまででしかない。裏から言えば、悪しざまにののしられようと散々虚仮にされようと、それでもその者の創作に回避不能な影響を与えられればそれだけで創作者としては勝ちなのだ。勝つことにどれほどの意味合いがあるのかは個々人によるだろうが、すくなくとも創作者同士にとっての最大の賛美とは、レビューにはない、と言い残しておこう(レビュアー同士であればこの限りではない。なぜならレビューも創作の一形態であるからだ)。


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参照:いくひ誌。

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