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いくひ誌。【2391~2400】

※日々、とりとめもなく、断りもなく、ほとぼりもなく、虚脱ばかりがわだかまり、渇ききった冷たさに何かが満たされる思いがする、そうした卑近な錯覚に酔いしれる夜、生い茂る毒、解毒するにはしずかな孤独がよくなじむ。


2391:【影、尾根、道】
足元の影を追い駆けて歩いているうちに見知らぬ道に入りこんでいて、いつの間にか影は私のうしろをついて歩いている、そう言えば元々影とはまえにできるものではなく、追い駆けるようなものではなかったはずなのにそんな約束事すら忘れていたのは、光に背を向け、脇道にばかり逸れていた日々だったからだと気づいたあの日、それでもいいのだと進んできたいま、歩んできた場所、その日々が脇道ですらなかった事実を知ったときの、ああそうなんだ、だからなに? みたいな他人事のような腑に落ちた感はなんだか無重力じみていて手の甲に浮いた血管を眺めてはなんだか異国の幼子のイタズラ書きみたいだなって、なんて書いてあるのだろうと想像すると、思考すらまっすぐに辿れずに、それからゆっくり思いだす、道などはなかった、辿ってなどいなかった、ただあるがままを受け入れ、獣道ですらない草むらを歩いていた、ときには砂利道を、岩肌を、それとも川を、或いは海を、誰かに追いついてほしくて、追ってきてほしくて残してきた足跡もいまではすっかりどこ吹く風で、きっと子守唄みたいに塀と地面の境目にちいさなつむじ風をつくるんだ、それとも木々をカラカラと撫でるのかな、揺らす葉のない木々は寒々としていて、でもきっと雪の中で葉を茂らせている木々のほうが凍えているように見える、誰より厚着のひとが本当は寒がりなように、つよがりなひとほど弱みを抱えて怯えているみたいに、周りのひとが敢えて触れずにいる心配りにも気づけずに、じぶんばかりが傷ついた顔をし、怒っているじぶんにもやはり気づけないでいる、足元ばかりを見ているからだ、じぶんの影を追い駆けまわしているから、残してきた足跡を気にして、誰が追ってきてくれるだろうと、じぶんの影の行列を眺めていっときの充足にほっと息を吐く、光にばかり背を向けて、背を向けている事実からも目を逸らして、いったいどれほど歩いてきただろう、離れただろう、道にはもう戻れないのだろうか、と問うてみても周りにはじぶんの足跡ばかりで、影はただ長く、長く、尾根のように細い線を伸ばしている、それをけれど私は道と呼びたくはないから背を向けて歩んできたほうに背を向ける、きっとこんどは眩しいくらいに明るくて、目を覆ってしまわないくらいに瞼を下ろして、網膜が火傷しないように気をつけよう、明滅する点はべつにいらない、道しるべなんか必要ない、このさきもきっと道はない、影がまた地面にじわりと滲みだす、地面に溜まった影の墨汁で足の裏をちんたら濡らしてやったなら、それからまた歩きだすんだ、いつか誰かが地面に残ったそれを見て、足の裏を合わせてくれたらすこし愉快な気持ちになるのかなって、いまはただ、そのときを妄想してイタズラをした子どもの気分のままでいるよ。


2392:【とりとめってなに?】
とくに変わり映えのない日々だので、日誌をつける意味はそもそもないのだよな。ただ、意味のある何かしらってなんでか妙に退屈だし、途中でやんだくなっちゃうから意味のないナニカシラを以って遊びとするよりないのかなって。遊ぶのに意味を求めちゃ本末転倒っていうか、そんなの成り立つのかなって疑問に思うけど、楽しいって気持ちがすでに意味のあることではあるから、遊びにももちろん意味はあるのだろうけれども、それを広く共有可能な意味として扱っていいのかと考えると、首を縦に振るのがとたんにむつかしくなる。さいきんのマイブームはわざと深く考えずに行動して、取り返しのつく失敗をたくさんして、こうしてりゃもっと効率よく何倍もの成果をあげられたのにな、と妄想することだ。たられば、を言いわけにしても得られるものはすくないけれど、たらればを考えてそこから変化する因果の筋道に想いを馳せるのは、そこそこ無意味でやはり楽しい。物語っていうのは根元を穿り返してみれば、この「たられば」を考えて、因果がどのように変化していくか、どのように辿っていくかを叙述することと言ってよいのではないか。断言するには浅い思考なので、やはりここにも取り返しのつく失敗が隠れていそうだ。失敗というか瑕疵か。誤謬か。ともかくとして、このまま妄想を垂れ流して、意味のない「たられば」の軌跡を並べていられたら、そこそこなかなかに贅沢なほど充実して感じられるのだけどなあ、と思いながらも、なんだかすこし物足りない、それってなんでだろうと想像を逞しくしてみたところで得られる像は、たいしてこれも役に立ちはしないのだ。なればそこには遊びが見え隠れして、愉快かなって。満足しない自己満足じゃないと満足に遊ぶ真似もできないようだ。なんてざまだ。だからおまえは無様なのだ。鏡の向こうのじぶんに指をさされ、素知らぬふりをしてうしろを振り返る、自覚の足りない本日のいくひしまんでした。いつにも増してとりとめがないな。


2393:【点と線、態度と姿勢】
謙虚と卑下の違いは、線か点かの違いと捉えると判りやすい。謙虚はある種の姿勢であり、継続して顕われる変化の軌跡、或いは道から外れないようにと踏ん張るような修正や制限の意味合いが含まれる。部分的な状態を切り取って評価するのではなく、謙虚であるとは言い換えれば、そのつどじぶんの歩んでいる方向、或いは歩んできた道がゆがんでいないかと振り返る習性のことと言ってもよいかもしれない。その点、卑下は、一時的に自身の在り方を否定しているだけであり、いわば口だけの状態だ。言うは易しを地で描いており、ではどうするか、といった視点が欠けている。否、自身の欠点を見詰め、改善点を見出しておきながらそれを放置してしまうのも卑下の特徴かもしれない。じぶんはじぶんの弱さを、無知を知っていますよ、と表明することで、解かってやっています、と周囲に示すことができる。開き直りと言っていい。卑下とはじぶんの歩みや現状を修正しようとせずに、よくないことは知っていますよ、と言ってみせることで現在のじぶんを無根拠に肯定しようとする態度、と言ってもいいかもしれない。謙虚は姿勢であり、卑下は態度なのだ。姿勢は継続されて初めて浮き彫りになるが、態度は現時点を切り取って評価される傾向にある。あのひとは謙虚だ、と言うとき、それはいまの姿だけを高く評価しているわけではないはずだ。だが、そこを見誤ると、そのときの態度だけを真似して、じぶんは謙虚だ、と間違った認識をしてしまう者もでてくるだろう。そう、ここにひとり、馴染みの人物がおりますね。まさにいま、絶賛卑屈な態度をとっている反面教師の見本のような存在だ。ぜひ、見て学んで帰ってほしいと思います。


2394:【無知の利点は疑問がたくさん湧くところ】
温度には上限がないらしい。この物理宇宙では光より速く動くことが物体にはできない、と考えられている。ならもちろん分子や原子だって例外ではないはずだ。だとすれば、分子や原子の振動として解釈可能な「熱」には上限があることにならないだろうか? どうあっても物体は光速より速く動くことはできない、それは振動でも同じはずだ。なのに熱には上限がないらしい。なぜなんだろう。ふしぎだ。(原子や分子が静止すれば熱を発生させないので、温度には下限があると考えるのは筋が通っている。ただし、原子はただそこに存在するだけで周囲の場や素粒子と影響しあい、なんらかのエネルギィを外部に放射するのではないか。それは熱に還元されないほどちいさなエネルギィかもしれないが、それがエネルギィである以上、原子や分子が完全に静止し、振動数がゼロであっても、熱をまったく微塵も、いっさいがっさい生みだす余地がない、とはならないのではないか、と妄想してしまうのだけれども、厳密にはどうなのだろう。そもそもこの世に物体として存在しておいて、厳密に完全な静止が可能なのだろうか。それは世界と完全に乖離して、固有の世界――それこそべつの宇宙を生みだすのと同じくらいの考えにくい現象に思えるが、やはりこれもまた多元宇宙論を引き合いにだすまでもなく完全にあり得ないと断言するまでには及ばないので、よく解からないままでいる)


2395:【こじんまりとしていたい】
庭にできた霜柱を見つけて心がうきうきするような日々を送れたらそれだけでいいのに。


2396:【がんじがらめ】
いろんな価値観があってよいとは思うしそのほうがいくひしさんにとって好ましいのだけれど、じぶんがどんな価値観に縛られているのかには自覚的であってほしい。否定しているはずの相手と同じ価値観に縛られている人物を比較的よく見かける。たとえば鏡の向こう側とかに。


2397:【ぐっすりぐーぐー】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、ミルクティにはまっているでござる。ティパックを二個やかんにぽちゃんこして、お湯を沸騰させて、一気にたくさんつくるでござる。それからミルクをまぜて、ミルクティのちゃんちゃらーんでござる。でもでも、なんだかちょっと味が薄くなっちゃって、なんでかなー、なんて首をひねっていたでござるけれども、ひょっとしてミルクティにはミルクティにあった茶葉があるでござるか? いくひしさんはアールグレーで淹れていたでござる。検索してみるでござる。あ、やっぱりでござる。アールグレーは癖っ気がないでござるから、濃い目に淹れるにはよいけれどもそうでないと薄味になっちゃうかもしれないみたいでござるな。アッサムとかウバがよいみたいでござる。ちなみにいくひしさんは茶葉の種類は三つしか知らなかったでござる。アールグレーとアッサムとダージリンでござる。どれがどういうふうに違うのかも分からないでござる。聞いたことあるなーていどでござる。秋はいつも血が薄くなった感じがして、ミルクとかすこし脂っぽいものとか、そういうものがほしくなるでござるな。チョコとか! 甘いものたくさん食べちゃうでござる。秋にかぎらないでござるか? そういえばそうでござる。ミルクティにもたっぷりお砂糖をどばーするでござる。お砂糖をたくさんとるとなんだか疲れやすくなる気もするでござる。ものすごく眠くなるでござる。ぐっすりぐーぐーでござる。きょうもあとは寝るだけでござる。たくさん寝て、よい夢を見るでござる。よい夢を見るために生きていると言ってもよいでござるな。ぐっすりぐーぐーするために生きているでござる。好きなときにぐっすりぐーぐーできないのはだから生きているとは呼べないでござる。そんなのは嫌でござる。たくさんよく寝て、よく生きるでござる。きょうもよく生きるためにおやすみーでござるー。


2398:【傲慢の王】
「オレの目のまえで自己責任論を唱えるやつぁ、オレさまがおまえを殺さずにいるやさしさに気づいてねぇ甘ちゃんだってことを知ってほしいなあ。まあ知るときにゃ総じてそいつらは死んじまってるわけだから一生そいつがオレさまのやさしさに気づくことはねぇんだけどな」


2399:【芽を摘むのはやめてくれ】
「こと」や「もの」または「~という」といった表現を多用しないようにすると上手な文章になるそうです。いくひしさんの印象としてはこれはやや反対です。どちらかと言えば具体に寄った文章が世のなかには多いな、と感じています。「こと」や「もの」または「~という」といった表現の仕方は、抽象度が高くなるときに頻出します。集合の枠組みがひろく、ずばりこれ、とは言わないときにそうした言い回しになりがちです。ですから何を言っているのか解りにくかったり、じれったかったり、ふわふわと何かを誤魔化すような文章として認識されてしまうのではないでしょうか。ただし、そうした欠点があるいっぽうで、ずばりこれ、と指定できない事象を表現するには、漠然とした輪郭を引いて、ここからここまでのなかに含まれるだいたいのものは、といった表現をとることもときには効果的です。また、誰かに何かを伝える文章の作成を目指すのであればこちらのほうが有効な場合もあります。伝えたい内容を相手によりすんなり、より意図したとおりに伝わるように並べることのほうが、文章の巧拙よりも優先されるのではないでしょうか。うつくしい文章や、上手な文章を目指す利点は何があるのでしょう? 齟齬や誤謬のすくない文章は、公的な用途としてであるならば重要度が増します。それに比べて、娯楽や芸術の分野において、文章の巧拙はさほど重きを置くべき基準ではないと感じます(なぜなら優劣をつける基準が存在するといった考えそのものが、娯楽や芸術からかけ離れているからです。もちろん魅力を装飾する要素として取り入れても問題はないとは思いますが、基準としてしまうのは考えものかな、と感じます)。いくひしさんはこれまで文章そのものをうつくしいと感じたことがありません。その文章から伝わってくるナニカシラをうつくしいと感じることは多々あります。ですがそれは、文章の並びとは無関係ではないにしろ、文章そのもののうつくしさではありません。書道家の書いた文字や文章を見て、その形状のうつくしさを以って、「うつくしい文章だ」と形容するのは理解できます。ただ、言葉の並びとしての「うつくしい文章」というものがいくひしさんには未だにピンときません。入れ物よりも中身のほうがだいじだと思いますし、どのように中身をとりだせるのか、といったことも関連してくるはずです。繰りかえしになりますが、それはもちろん文字の並びと無関係ではないはずですが、すくなくとも文章から伝わってくるナニカシラのうつくしさを規定する因子は、文字の並びにはない、と想像しています(どちらかと言えば、文字の羅列の奥に潜み、広がる世界や概念のほうにある、といまのところは考えています)。飽くまで文字の並びは装飾であり、プラス要素だと考えています。どんなに拙い文章であっても、心を動かされ、うつくしさを感じることはできます。どう書くのかもだいじですが、何を書くかこそが文章の本質であり、なぜ書くか、がその根底に地殻として分厚く層をなしているものなのではないでしょうか。畢竟、文章はどのように言葉を配置し、並べても構いません。「上手な文章」や「うつくしい文章」といったうつくしさの欠片もない言葉に惑わされないようにしてほしいです、と打ち明けて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


2400:【選べることがだいじ】
2019年11月中に電子書籍化した新刊が三つあります。そのうち、「百合譚」の表紙をピンク、「薔薇譚」の表紙を水色にしたのですが、ジェンダーフリーを創作で扱っておきながら、女性はピンクで男性が水色というのは安易ではないか、といった違和感を持たれることもあるのではないか、と想像しています。その点に関しては、ジェンダーフリーなのですからもちろん女性にピンクをあてがってもよいはずですし、男性に水色を選んでもよいはずです。古い価値観に縛られないことと、それら古い価値観によって培われてきた感性を拒むことは(まったくの無関係ではないにしろ)、同じではないと考えています。信号機の色は赤黄青の三色ですし、ポストは赤く、救急車は白いです。トイレのマークも男女によって色が固定されています。シンボルやマークの意味合いとして、男女を示す色がそれぞれあってもよい気がしています。ピンクや水色に何かよくない意味合いがあるのなら話は変わってきますが、何かそのような色を性別に関連付けられて困ることがあるのでしょうか。もちろんその色を強制するのはよくないでしょう。男性を表すマークがピンクでも構いませんし、女性を表すマークが水色でも、そのほかの色でも構いません。ただ、色から連想するものがあるのも事実であり、それはこれまでの社会の「古い価値観」によって培われています。ひと目で意図を連想させるのは表紙の役割の一つです。いまのところ、ピンクと水色から連想される性別は、それぞれ女性と男性である確率が高いです。徐々にこうした固定観念も薄れていくことでしょう。ただ、まだしばらく時間はかかりそうです。率先して変化を促す必要もとくに感じていないので、べつだんそうした固定観念が変わってもらっても構わないのですが、いまはまだ古い価値観というものを利用することにして、「百合譚」の表紙はピンク、「薔薇譚」の表紙は水色としたしだいでございます。要するに、とくに深く考えは巡らせず、安易に配色しました。どうせならミルクティみたいな色にしたほうがおもしろかったかも、と思わないわけではないのですが、本音を漏らせば、どちらでもよく、横着しました。単色であれば何色でも構いません。たとえば色弱のひとにとっては、色の種類よりも色の濃淡のほうが優先される事項なのではないでしょうか。


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参照:いくひ誌。【301~310】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882443686

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