※日々、ひとの足を引っ張っている、まったく苦にもされず、引きずっていることにも気づかれずに。
2381:【意識の虹彩】
感覚的であいまいな話でしかないのですが、世のなかにある何かしらの創作物を見て、「下手だな」と思ってもそれはたいがい、じぶんでつくるよりかははるかに「上手」なわけです。じぶんよりもずっと上手な成果物を見て、なぜ下手だと思ってしまうのかと言えば、比較的楽に、そして頻繁に、より優れた一級品を目にできる機会に恵まれているからだと思います。世のなかの情報伝達技術が発展し、複製技術が向上し、誰であっても名作や一流の表現や演技を目にすることができます。そうすれば必然、目が肥えます。比較対象がいつでも一級品や一流なのですから、それ以外の「じぶんよりはるかに上手」程度の技術では、「下手」に思えても仕方ありません。ですがそれはほぼ確実に、じぶんよりも上手であり、じぶんにはない表現や手法、技術や視点が使われています。学ぶことに事欠かないはずのそれらに見向きもしないのはなんだかもったいない気もします。もちろん、一流や一級品からも学べる点はすくなくないでしょう。しかし、神の考えていることを理解するのはむつかしいものです。それに引き替え、「じぶんよりもはるかに上手」程度の相手であれば、そのかけ離れた「はるか」がどのくらいさきなのかをある程度想像し、推しはかることができることもあるかと思います。下手なものからも学べるものがある、ではないのです。下手に思えるだけで、それはじぶんよりも「はるかさきを行っている上手なもの」なのです。まずは指先のほんのちょっとでも届きそうな、「はるかさきを行っている上手なもの」に目を向け、そこから技術や視点を盗み、神の表現や技術までの足場として組んでいくのが、順当な段取りというものではないでしょうか。どちらかいっぽうだけでは足りない気がしています。神だけを見ていても、じぶんのまえを走る者の背中だけを見ていても充分ではないようです。意識の焦点をときおり、あちらへやったり、こちらへやったり、遠くを見たり、近くを見たり。そうして意識の虹彩を広げたり、縮めたりしないことには、より正確に対象へピントを合わせることもできなくなるようです。ときにはコーヒーカップの取っ手の裏や、鳥と雲の境目に目をやり、或いは蟻の足の先端や、星座のあいだに隠れた自己主張のひかえめな無数の星々に意識を配ることも、じぶんの想像力や表現力、視点や技術力を底上げするのに役に立つのかもしれません。もちろん、なんの役にも立たないのかもしれませんので、ここでの妄言を真に受けないように気をつけてほしい旨を告げて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。
2382:【予告】
PCが調子悪いので、とつぜん更新が途絶えるかもしれません。更新が途絶えたときはPCが壊れたのだな、と思ってください。新しいマシンを入手するまですこし時間がかかるかもしれません。
2383:【チームなみしぶき】
誰も読んでないのによくまいにち文字を並べているな、と思う方が何年後、何十年後かに現れるかもしれないので断っておきますと、誰も読んでいないだろうな、と思うからこそ、つづけることができています。気楽なのです。名文を並べているわけではありませんし、うつくしい文章を並べようとも思っていません。たとえば、目に映る物体を片っ端から右から順に書き表すだけでも文章になります。とくに負担でもなんでもないのです。「A」のキィボードをずっと押しっぱなしにしていれば「あ」を十秒間で四百文字くらい並べることができます。押しっぱなしではないので、それよりも速度は劣りますが、労力そのものはほとんどそれと変わりません。思ったこと、考えたこと、適当なこと、妄想を、ただ並べるだけなら誰でもできることだと思います。それからじつのところ、まいにち文字を並べているわけでもありません。ストックがあります。いちどボツにしたものを使いまわすこともあります。ぜんぜんサボっています。まいにち更新してはいるようですが、まいにち文字を並べているわけではないのです。いくひしさんが一人だとも限りません。すべての「いくひ誌。」が同一人物の手によりつむがれた文章だとどうしてそう思うのですか? 真に受けてはいけません、と散々注釈を挿してきたと思うのですが、ええそうですね、これもまた真に受けてはいけない文章の一つです。
2384:【嫉妬にも愛嬌】
わりとすぐ嫉妬するほうだ。手に入れたいのになかなか手に入らないものを他人が持っていると、やだやだいくひしも欲しい、となってしまう。たとえばペットボトルだ。ペットボトルは逆さにしても微動だにせず、その場に佇んでいられる。なのにいくひしさんときたら逆さまになったとたんにぐちゃっとつぶれてしまう。ペットボトルにすらできることができないのだ。なんてこった。やだやだいくひしもペットボトルさんみたいに頑丈な身体が欲しい。電卓さんの演算能力だってうらやましいし、辞書さんやウィキペディアさんの博識ぶりにはなんかもう、それズルイとすら思う。やだやだいくひしもそれ欲しい。カメラさんの解像度の高さも欲しいし、PCさんの語彙力も欲しい。ひらがなを打つだけで漢字の候補がぱっとでてくるなんてなんて記憶力だ。鏡さんの他人を模倣する能力はとんでもないし、雨さんのぐったりした植物を元気にする恵み力はハンパない。蟻さんはクライミングさせたらほぼ無敵だし、いくひしさんってばほとほと何もできないのね。そりゃ嫉妬だってしちゃうでしょ、しょうがないでしょ、しょうがないのよね。あー全知全能の神になりたい。でも全知全能になったらなったで、蟻にすら嫉妬するくらい非力なくせに何不自由なく生きていける世界に囲まれて暮らすいくひしさんみたいな役立たずに思わず嫉妬してしまいそうだから、もはやどうあってもいくひしさんから離れようとしない嫉妬の執着加減にはなにかこう、深い深い愛を感じてしまうな。いくひしさんってば愛されてるなあ。そう考えてみると、嫉妬のやつもなかなかどうして愛嬌があって、かわいく見えてくる本日のいくひしまんでした。
2385:【誤解はするよりされるほうがマシ】
誤解されるのが嫌いではない。というよりも、大なり小なり誤解はつきものであり、落としきることはできないと考えている。シルエットをぴったり重ねあわせて、すこしもはみ出さぬように、寸足らずにならないようにとコピーをつくるのは、それが物体であればなんとかなるだろうが、カタチのない考えや思想、意識や人格では、いまのところほとんど不可能だと言って大きな齟齬は生じないのではないか、と見立てている。カタチのない思想や人格を推し量って、脳内でそのコピーをつくるのは至難だ、と言い換えてもよい。つくったコピーがオリジナルとぴったり重なることを「理解」とするのならば、やはり完璧な「理解」はほぼほぼ存在し得ないと言って、間違えではないのではないか。そういう意味では、誤解して当然であり、誤解をしていた、と気づいたときにどの程度、認識を修正できるのかが肝要だとも言えそうだ。もっとも、修正をせずともじぶんは困らない場合もすくなくない。誤解されて困ることのほうが多いのが一般的かもしれないが、それでも誤解をするよりかはされる側でいるほうが、どちらかと言えば有利な立場でいられる確率が高そうだ。すくなくとも誤解をされる側は、相手が誤解をしていると気づける立場にある。より正しい事実を把握することは現代社会のみならず、あらゆる時代において、事を優位に運ぶのに有利に働くと言えそうだ。
2386:【最善、責任、看過】
赤ちゃんを楯にして悪行のかぎりを尽くしている人物の悪行をとめるには、ときには赤ちゃんを犠牲にする覚悟を決めなくてはならない。赤ちゃんを守るためには、しばらくは悪行のかぎりを尽くしている人物を野放しにしておかねばならないのだけれど、そのあいだにほかの赤ちゃんをどんどん楯にとられるし、ときには踏みつぶされてしまう。黙っていても赤ちゃんは犠牲になっていくのだから、だったらいま目のまえにいる楯となっている赤ちゃんはもうどうせ助からないと見做して、悪行のかぎりを尽くしている人物ごと滅ぼしてしまうのは致し方ないのかもしれない。必要悪というやつだ。しかしそれを果たして最善として評価できるのか。できないだろう、というのがいくひしさんの印象だが、かといって、ではどうすればよいのか、と言えば、なるべく赤ちゃんを犠牲にせずに悪行のかぎりを尽くしている人物の行動をとめるしかないよね、としか言いようがなく、それには大きく分けて三通りある。一つは悪行のかぎりを尽くしている人物を言葉や交渉を以って説得して、行いを改めてもらう方法だ。もう一つは、悪行のかぎりを尽くしている人物の周辺の環境を制限してしまって、悪行を働かせられなくする方法である。最後に、赤ちゃんを傷つけないように悪行のかぎりを尽くしている人物だけをピンポイントで殲滅する作戦をムリくり実行すること。最後の手法は、赤ちゃんが助かる確率が高くなくとも実行できてしまえる建前をつくれるところが、ただ悪行をやっつけるだけの作戦とは異なる。つまり、失敗したら大いに責められる覚悟を固めているか否かの違いだ、と呼べるだろう。責任をまっとうする覚悟があるかないか、の違いだ。なければ、赤ちゃんがどうなろうと知ったこっちゃない、と強引に悪行のかぎりを尽くす人物をやっつけてしまえばいいのだ。戦争とはおおむねこの、責任を負う覚悟のない作戦を実行することで起きると言ってもいいだろう。ターゲット以外の犠牲がでてしまったら何が何でもその責任を負う、との覚悟がなければ、いくらでもひとは強引な作戦を実行し、無茶な戦いを他者へ命じることができてしまう。覚悟があればいいというわけではないが、なくとも実行できてしまう、命じることができてしまう、そういういい加減な系統が組織にできてしまうと、その組織は腐敗していると表現していいように思うしだいだ。とはいえ、責任をとる覚悟とは言っても、ではどうすれば責任をとることになるのか、責任とは何なのか。犠牲となった赤ちゃんはもう何をしても戻ってはこない。いったい責任とは何なのだろう。再発防止策を徹底することと、被害者遺族への援助を施す以外に何ができるだろう。解からないのだから責任なんて取りようがない。よってひとは、何もしない、を選択してしまうのかもしれない。わるい選択ではない。すくなくともじぶんが赤ちゃんではないのなら。楯にされたのがじぶんの赤ちゃんではないのなら。
2387:【かんぱい】
コテリさんの画集「Veil1~2」が先日ようやく手元に届きまして。はじめてインターネット予約を利用してみたのですけど、ブックカバーの特典入りだったりして、二冊で4600円くらいですかね、お値段すこし高めではありましたが、とてもよい買い物でした。いまは十二国記を読み進めていて、でてくる主要人物すべて推しというすごいことになっているいっぽうで、それでもコテリさんの画集「Veil1~2」は燦然と輝く魅力がいっさい衰えない、それどころか魅力が相乗効果で増して感じられるすごいことになっています。や、セリフのセンスハンパないっす。画集のなかにはちょっとしたショートショートも載っているのですけど、文章お上手だし、コテリさんの小説も読んでみたい。もっと読んでいたい。比喩の感性とかすごいですよ。でもでも文章だと直接的な表現が、マンガという表現を介することで、より間接的に、透明な空気のようなやわらかさで「彼」と「彼女」の感情の機微――ときに振幅激しく乱れる喜怒哀楽の雨あられをしずかでやわらかな濁流のように体感させてくれます。やさしいことはうつくしい――「彼」と「彼女」の出会いが教えてくれることですよ。尊いという言葉の意味が実感を伴って解かってしまったな。やや、感想めちゃくちゃですね。すみません。や、すばらしい本です。セリフの文字をコテリさんの直筆のままにしておいてくれた担当編集者さまにも、「あなたよくわかっていらっしゃる、ありがとうございます!」と感謝感激雨あられしたいですね。そうですよね、コテリさんの文字そのものが画集の一部ですよ。読者のことわかってるー。ふー! とりあえずことし一年はコテリさんの画集「Veil1~2」をほかのいくひしさんたちにもおすすめしていきたいと思います。強いてムリヤり強引に欠点をでっちあげるなら、「彼」の服装が「軍服」や「ナチス」を連想させてしまうところかな、と感じます(作中、「彼」は警察です。制服という意味ではあながち間違った連想ではないのでしょう)。ひとによっては嫌悪感や反発心が湧き起こるのかな、とやや不安に思いますが、いくひしさんにはかっこよく見えます。かっこいいんです。ただ、ナチスの軍服もまたかっこよさを追求されていたわけですから、なんというかまあ、むつかしいですよね。ただ、そういう情勢を理解していないはずがないわけです。だってコテリさんですよ。敢えてそこは臆することなくじぶんの「美」を追求し、表現しているわけであります。その姿勢もまた美しい(関係ないのですが、差別用語や蔑称もまた、そこに本来の意味とはべつの「美しい意味」を上書きしていくほうが、言葉を規制するよりも有意義だと考えています。もちろん、なぜそれらが差別用語や蔑称として定着してしまったのか、そういった歴史的背景を忘却してはならないとも思いますが)。いくひしさんのなかでは「ホリミヤ」の作者HEROさんのセリフセンスなみの衝撃を受けました。自作にも影響が反映されることでしょう。不可避です。ここにはない何かを表現しようとしている者としてうれしい敗北であります。完膚なきまでにボコボコです。完敗です。降参です。まいりました。すばらしい! コテリさんの絵はツイッターでも拝めますのでね(こちら→
https://twitter.com/_K0TTERl_)、フォローしてみてはいかがでしょう。
2388:【想像と妄想ばっかり】
小説が「賢くなければならないもの」という時代は終わりつつあって、「新しい」や「愉快」なことのほうが小説の役割として重要視されていくだろう、と想像していてね。というのも、ユーチューバーなんかを眺めていて思うのは賢い話はそう、動画とか口頭のほうがよっぽど解かりやすくて退屈しないということで、わざわざテキストでしかも小説で「知識を得よう」なんて思わなくていい時代に突入してしまっている。むかしはおもしろく学術的なことを学ぶためのツールとしての側面が小説にもあったのだと思うのだけれど、そういう側面ももちろんあってよいとは思うものの、だったらユーチューブを観なよ、で終わってしまう。そっちのほうがよっぽど専門的で楽しく学べるよ、となったら知識を小説から得ようなんて思わなくないかな。それこそ新書があるわけで、同じテキストでもわざわざ嘘のまじった小説で「より正しい知識」を得ようとするのは効率がわるい。そこにきてじゃあ小説の役割って何があるのっていうと、まずは「いまここにはない世界」を覗けること。それからやっぱり「愉快」なことが挙げられる。新しさと愉快さだよね。これがこれからの小説における二大重要素となっていくのではないかな、と妄想しているのだけれど、え、そんなのむかしからそうだった? なるほどなるほど、それもそうだね。でもマンガや映画がいずれも「新しさや愉快さ」に特化して発展してきたのに比べて小説はそこに乗っかるのがずいぶん遅かった気がする。たぶん「文学」としての矜持がそれを許さなかったのかな。足を引っ張ってきた、と言ってもいいかもしれない。文化を守ろうとして却って衰退させてしまうってのは歴史を振り返ってみればそれほど珍しくはないのかもしれないね、よくは知らないけど。これからは小説も「新しさ」や「愉快さ」が重要視されていくようになると思うんだよね。これまで「文壇(なんてものがあるのかもよくはわからないけれど)」に見向きもされてこなかった作品にもどんどん陽の目があたるようになっていくと想像しているので、いま踏ん張っている作り手たちにはもうすこし踏ん張ってみて、楽しみながら、と言い添えておきたいな。無責任な妄言でしかないけれど、それでも時代はかってに移ろっていく。何もせずとも変わっていくのが時代なのだから気長に、気楽に、楽しく日々をすごしていってほしいかな。いつか「きみだけの世界」をみせてくれることを夢見て、本日の「いくひ誌。」とさせてください。ではでは、またお会いしましょう。いくひしまんでした。
2389:【資格がない】
一生懸命だからとか、本気だからとか、仕事だからとか、なんの言い訳にもなっていないことに気づいていないおとなが多すぎはしないだろうか。一生懸命で、本気で、仕事だったら何をしてもいいの? 法律違反じゃないなら何をしてもいいの? そういうことではないと思うのだけどなー、と思いつつ、法律を完全に順守している自信のないいくひしさんにはひとさまをとやかく言える筋合いはないのだった。そして法律違反ではないのなら基本的には禁止する道理がない。誰かを責める資格などいくひしさんにはないのだった。とはいえ、誰かを責めるのにとくにこれといった資格もまた必要がないのだった。
2390:【確率は一パーセント以下】
このさきこのまま文芸の分野で創作をつづけていくとして、寿命百歳としてもいくひしさんが大手出版社から本を出版する確率は多く見積もって一パーセント以下だと見込んでいます。いくひしさんは十年でだいたい五十冊分の小説をつくっていますから、あと七十年生きるとしても、ものすごく順調にいって残り三百五十冊分の小説しか編めないことになります。受賞確率が一パーセントだとすると、仮に長編小説を三百作応募したとしても受賞するのはそのうちの三作くらいだ、と言い換えてもよいかもしれません。低ければ一パーセント以下でしょう(つまり三百作応募しても受賞する見込みはよくて一作程度です)。そんなものだと思います(掌編込みならすでに百作ちかく応募していますが、いずれも一次選考すら通過していません。よほど才能――ともすれば適正――がないのでしょう。却ってすごい気がしています)。仕方がありません。才能も運も敬意すらないのですからそうなるのが道理です。一生陽の目を見ることはないでしょう。ですがそれでも楽しく創作はできています。楽しく日々を生きることもできるのです。じぶんでつくらずとも愉快で優れた作品を手軽に入手できる時代なのですから、なんてありがたいことでしょう。ラッキーです。才能がなければないほど楽しく生きやすい世のなかと言ってもいいかもしれません。お手本が山のようにあるのですから、これは願ってもないことです。その点、一流や、その分野のてっぺんにいるひとはたいへんそうですね。下々を引っ張っていかねばならないのですから。想像するだにお疲れさまなことです。真似できませんし、しょうじきなところを申しあげて真似をしたくもありません。できるだけ恩恵を受ける側でありたいです。たいへんなのは嫌です。好きなときに好きなだけ好きなように創作をできないなんてそんなのは地獄です。それは創作を禁じられるよりもつらいことかもしれません。いくひしさんがプロになれない理由の最たるものでしょう。才能の有無や努力のできないことよりもこちらのほうが要因としては大きいかもしれません。ちなみにいくひしさんはよく「新しさ」を重要視するような発言をしていますが、いくひしさん自身はまったく「新しさ」とは程遠い存在です。未だにスマホを持ち歩きません。ラインを利用したこともありません。アプリを使ったこともないのです(ひょっとしたらあるのかもしれませんが、何がアプリなのかもよく分かっていません)。また、じぶんでつくる小説にも「新しさ」なるものの片鱗は感じとれません。憧れのようなものですね。じぶんではそれを編みだせないので、それをことほどに重要視してしまうのでしょう。いくひしさんにはつむげないものを、けれどきっとあなたにならつむげる気がしています。生みだしてくれる気がしているのです。ぜひ、愉快で新しい刺激や影響をつくってほしいな、と望んでいます。愉快で新しいものならば、巡り巡っていくひしさんの目の届く範囲、手の触れられる場所にやってくることでしょう。そうした性質が、「新しさ」や「愉快さ」にはあるようです。その日が訪れるのをいまから心待ちにしております、と打ち明けて、本日の「いくひ誌。」といたしましょう。他力本願の化身こと、いくひしまんでした。
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参照:いくひ誌。【381~390】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882798664