※日々、死後の世界を生きている、生きていた者たちの影響を糧に。
2361:【覚めない夢を見ていたい、できれば悪夢と無限ループはなしで】
生きるのがめんどくさい。でも飽きないのがふしぎだ。ずっと生きていたい。でも寝ているあいだがいちばん気持ちいい。ずっと寝ていたい。それもまた生きていなければできないことだ。
2362:【元気でるわけだ】
何気ない生活のなかでは、目に見ているものよりも見ていないもののほうがはるかに多いと感じている。物を見る、視覚する、とは、何を見ないか、という選択のうえに成り立っているのだとさいきんとみに思うのだ。たとえばコンビニで買ったドーナツの包装紙には、名称から原材料名、内容量、消費期限、保存方法、製造者、栄養成分表示、バーコードが書かれている。このうちどれが必ず明記しなければならないもので、どれがサービスで記されているのか、いくひしさんはまったく知らない。なんとなくカロリーや糖質の量など、栄養成分表示は消費者のためにサービスで記してくれているだけのような気もするけれど、じっさいのところはどうなのでしょう。やっぱりこれも必ず記さなければなりませんよ、と何かしらの法律で決まっているのだろうか。たぶん、決まっているのでしょう。企業は無駄を嫌うので、わざわざコストをかけてまでそんな真似はしないはずだ。ひょっとしたら、カロリーや糖質の量などを記しておくと売り上げが伸びるのかもしれないけれども、これはあまり信憑性は高くなさそうだ。だったら裏ではなく表に堂々と記すはずだ。裏に載せている時点で、売り上げとは関係がなさそうだ、むしろ目立たせないでほしい、といった作り手の望みが窺える。と、このように初めてマジマジと包装紙の裏に目を配って読んでみたけれど、なかなかの情報量が記されているように思えただけに、日ごろ、いったいどれだけの情報を見て見ぬふりをしているのか、とぞっとしないものがある。増粘剤のキサンタンガムってなんですの? このドーナツ、脂質33.6グラムで、糖質32.1グラムあるんですけど、ほとんど脂と砂糖やないですか。なんてもんを食べてたんだ。元気でるわけだ。どうりでな。モグモグ。おいちい。おいちくて元気でるなんてすばらしい食べ物だ。二つ買ってきたのだけれど、もう一個食べてもよいじゃろか? うーん迷ってしまうな、としみじみ腕を組んだところで、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。
2363:【キャラづくり】
そろそろ新しいキャラつくってかなきゃだな。どういうのがいいかな。ござるは飽きたし、知ったか野郎も飽きたし、自虐キャラもいまはあんま需要ねぇしな。おっと、粗暴キャラもいまは心象わるくていけませんね、どうしましょう、困ってしまいます。
2364:【教え育てるって何を?】
短期間の育成は、ほぼ矯正であるし、洗脳だ。ひとを育むというのはもっと長い目で、じっくりやっていかなければならないし、失敗というものを明確に「定義しない」ようにしなくては、育つという概念そのものを育むことができない。そっちの道にはいくな、と強制するのは容易いが、本当にそっちの道にいってはいけないのかは、時と場合によるし、そうした危険への遭遇によって学べる体験もまた個々人によって異なる。極論、九死に一生を経て大きく意識を転換させる者もあるだろう。もちろん触れればやけどをすると判っているのに火に飛びこもうとしている者があるならば止めるのが教育者として、ひいては先人としてとるべき行動だ。しかし、ひとを育むためには、そうした危険に挑もうとしているのか、それとも無謀に突っこもうとしているのかを見極め、適切な距離にまで危険に接近することを敢えて断固として禁じないでおくこともときには入り用なのではないか。危険はときに、高すぎる目標や、無謀な目的と見分けがつかない。一人では高すぎる目標であれば、道具を使うなり、他人と協力するなり、工夫をすれば到達可能かもしれない。無謀な目的であろうと、それもまた時間をかけ、一段一段、土台を積みあげ、或いは穴を掘っていけば、分厚い隘路も打破できるかもしれない。いずれにせよ、教育者のとるべき立場は、そうした挑戦をする姿勢を否定せずに、挑戦しつづけられる場を「築き」「守り」「保ち」つづけることにあるのではないか。可能であれば共に考え、工夫する余地を広げつつ、つねに選択肢を増やしつづけてあげられれば、それに勝るものはないだろう。自由とは、選べるということだ。教え育てるとは、自由の実る土壌を共に耕すことを言うのかもしれず、そうではないのかもしれない。すくなくとも、誰からも教えられずとも、自然から学び、自由を手にする者もいるはずだ。そうした者の姿勢から学べることもあり、しかしそれもまた広い意味では、自由の実る土壌を共に耕していると言ってもそれほど大きく的を外してはいないのではないか、と思うしだいだ。みな大なり小なり、教え、育て、学び、育んでいる。
2365:【蔑ろにしているのはどっち?】
名誉とかメンツよりもだいじなものがあると思っている。故人に対する敬愛とは、そのひとの名誉やメンツを守ることよりもむしろ、どちらかと言えば思想や遺志を守り、いまを生きる者たちに(そうした思想や遺志から生まれる行動を以って)伝えていくことにこそあり、故人の名誉やメンツを守ることよりもそちらのほうがよほどだいじだと思っている。だがキリストやブッダの弟子たち(現代における教徒含め)がそうであるのと同じように、師の威光を笠に着て底の浅い欲を満たすことに躍起になる者たちが後を絶たない。どれほど立派で聡明な王がいようと、その死後、後継者に王の器がなければ国は亡びる。たいがいは、王の名誉やメンツを守り、それによる威光を失わぬようにしようと抗い、自滅する。けっきょくのところ先代の王の威光に寄生しているだけなのだ。そのことにまずは気づけるか否かが、王座を引き継ぐ者――王の遺志を受け継ぐ者たちにとって欠かせない素養と呼べるのではないだろうか。故人の名に泥を塗ることはけっして褒められた行いではなく、責められて然るべき所業だろうが、故人の遺志を蔑ろにしその者の生きた証――その影響を損なっている者たちと比べればいくぶんマシだと思っている。師をバカにされて怒るのは理解できるが、その前にまずはじぶんたちが師をバカにしていないかと省みられると好ましく感じます。きょうもきょうとて脈絡のない、知ったような口を利くコーナーでした。
2366:【真面目ってじつは簡単】
真面目なだけの文章を並べるのは比較的簡単だ。一見ふざけているようでいて、韻や伏線や布石が巧みに練りこまれている文章のほうがよっぽどむつかしい。それが読みやすく、おもしろければ神業と言ってもいい。真面目な文章はさいあく、論理的ですらなくてもよいから楽だ。一般論や常識を根拠にすれば一気に真面目な文章になる。たとえば論文などは真面目な文章ではない。あれは「より正確な文章」だ。文章は正確に記述しようとすればするだけ読みにくくなる傾向にある。読者のことを考えていないので不真面目だと言ってもいい。また、真面目だけれど正確でない文章などいくらでもある。真面目な文章は楽だ。
2367:【思考が浅い】
考えがまとまらない。文章を並べていて、無理筋だな、と行き詰まることが多くなってきた。思考を飛躍しすぎているようだ。もうすこし、考えを深め、厳密に考えるということをやっていかなきゃだなぁ。できたことないけど。
2368:【いくひし、ビッチになる】
「うー、ともだちがほしい、ほしいよー」「うわ、あんなところにボッチがおる」「うー、うー、さびしいー」「トモダチがいないのかなぁ。かわいそうなコだ」「うー、だれかともだちになってくれないかなー」「なんかチラチラこっち見てる……気のせいかな」「こうなったら!」「なんか言ってる」「ちんでやる!」「うわ、ベンチに立って、うしろむきに飛んだぞ、回転不足で頭から落ちていく! このままでは危ない、よーし、こうなったら!」「ハヤクタスケテ」「見なかったことにしよう」「ズコー」「お、うまく受け身取りやがった。よかった、よかった」「ちょっとあんた」「うお、なんかこっちきた」「待ちなさいよ、ちょっとそこになおりなさいよ、謝りなさいよ」「なしてよ」「いいじゃん、ちょっとくらいいくひしとともだちになったって」「ちょっとくらいってなーにー!? トモダチに大中小なんてあった? SMLのサイズ選べた?」「いくひしはともだちがほしいの!」「怒鳴れば済むと思うなよ。そんなんでできたら苦労しないでしょ、初対面でそれじゃできようにもできないでしょ、できたらこわいでしょ」「正論は悪魔でもいえる!」「正論は誰が言っても正しいから正論なんだよ」「耳がいたいのでやめてください」「こっちもそろそろ耳が痛いなー。鼓膜が破れそうだなー。もうすこーし声量抑えてもらってもいいかなー」「いいともー!」「いまどきの若い子はそろそろソレも伝わらんのかなー、なんて今ふいに不安になった」「いくひしには伝わるよ、おともだちになれるよ」「いやーでも、なんかちょっとこわいのよね」「いくひし、こわくないよ? やさしいよ? イタいのは最初だけだよ?」「最初は痛いのかよ、かんべんしろよ」「じゃあずっとイタいよ?」「性格的な意味でかな?」「それもある」「認めんのかよ、否定しろよ。あのさ、ホントにともだちになる気ある?」「うー、だれでもいいからともだちになって!」「誰でもいいとか言うひとになびく人間はいないんじゃないかな」「しみじみいわないで!」「しみじみ」「いわないで!」「しじみじる」「たべたい!」「しょうがねぇな。じゃあちょいと作ってやんよ。ちょちょいのちょいって作ってやんよ」「あんよあんよ、赤ちゃん扱いしないでよ」「あんよが上手なだけ赤ちゃんのほうがマシだろ、ろくに人生歩けないやつが何言ってんの」「ごめんなさいでした! まともじゃないくせにまともなフリしました! ともだちなんてものを欲しがっちゃいました! ブンフソウオウでした!」「ボッチは死ね」「しんらつ!」「ビビれ」「なんで!」「こっちはダビデ」「なぞの紹介きたー!」「こっちはブー」「どこの高木さんですかー!」「いち、に、さん」「ダーーー! ってなにやらしとんねん」「ノリツッコミ、うまくなったね」「えへへ。そう?」「じゃあさっそく。みんなでしようか」「うん」「どんじゃら」「なつかしー、ってドラえもんジャラジャラかよ。しかもふつうの麻雀だし。何もかも間違えすぎでしょ真面目にやって」「よしよし。合格。きみにノリツッコミ三級を進ぜよう」「ボッチはーー? ボッチの要素はどこですかー!!! そしてタイトルのビッチどこいったー!」「異例の昇級だよ? まさに急ピッチじゃん」「ピじゃなくて! ビーー!!」「ダってビはデかいんだもん」「略してダビデってやかましいわ」「あたしの顔に」「出ぴて、じゃねぇーーー! 下ネタかよビッチかよ」「でもおまえはボッチだけどな」「やかましいわ」「まあ、あたしにはおまえがいるからボッチじゃないんだけどな」「きゅん!」「九十分三万円な」「ビッチやないかーい」「おあとが詰まっているようで」「ホンマモンのビッチですやん」「プロとお呼び」「師匠! いくひしもビッチになりたいんですけど! めっちゃモテたいんですけど! ひとから好かれたいんですけど!」「ムリじゃね?」「ですよねー!!!????」「あたしだけいればいいじゃん」「お師匠――!!!」「五分で三万ね」「なんで値上げーー」「大親友価格ですもん」「じゃあ、しゃーないね」「しょうがない、しょうがない」「うわー、もう五分経った、お金が飛んでく飛んでくー」「まさに、【いくひし、ピンチになる!】だね。じゃ三万」「負債回収しないでー! 伏線回収のついでにしないでー!」「お金足んないから着てる服脱いで」「ピンチというかパンイチというか、これじゃわいせつ物陳列罪で逮捕されちゃうよ」「ヨっ! モノホンのビッチ! やったね!」「やったー、のか? というかそろそろ苦情きそうだね。差別表現やめよっか」「こんなんで苦情とかキチやん」「ビッチよりひどい放送禁止用語だからねそれ、ホント勘弁してください!」「ただでさえいない読者がこれで消えたね」「なにしてくれてんのねぇ」「だって独占したいんだもん」「師匠―!」「はい三万」「ズコー」
2369:【記憶×(想定+分析)=知能?】
人間の記憶は、どのくらいのスケールで事象を記憶しておけるのだろう。たとえば不老不死の人間がいたとして、生きているあいだにこの世のすべての書物を読んだとしても、そもそも人間には記憶できる限界があるだろうから、この世のすべての書物を読みきったところでそれは、この世のすべての書物を読んだほどには知能は発達しないのではないか、と想像できる。記憶の限界値を仮に、二万冊としよう。とすると、二万冊を読むのも、二億冊読むのも、ほとんど同じ結果になるはずだ。ただし、どういった本をどのくらいの種類読むのか、どういった幅でどのくらいの専門領域に傾倒するのかによって、育まれる知能には偏りが生じると考えられる。これは不老不死に限らず、寿命百年の人間であっても同じだろう。また、どのように読むか、流し読みなのか、それとも何度もページをめくりなおして、三歩進んで二歩下がるような読み方をするのか、どんな言語で、どのくらいのスパンを空けつつ読み進めるのかでも、読後の変質具合に差がでそうだ。書物に限らずこれは、現実の体験でも同じかもしれない。根元を穿り返してもみれば、本は誰かの記憶――体験や知識を元に編まれている。読書感想ですら、本を読むという体験からきている。体験から得た知見をもとに新たな書物を編むこともまた、その人物の知能を育むと言えそうだ。もちろん、書物を編めるくらいの実体験を得るには、何かしらほかの書物や知識が入り用であるだろうから(他人から直接言葉や実技で教えてもらうこともあるだろう)、けっきょくのところ、知能とは、「外部入力された情報を元に、じぶんなりに解釈し、整理したことをいつでも出力可能な形態に維持できた状態」と定義できそうだ。これは言葉に限らず、問題に直面したときにそれを打開するための反応であっても構わない。言葉をしゃべれなくとも、問題を解決できればそれは知能だ。クルミの殻を割るために道路に転がしておき、車に轢いてもらうことで中身を食べるといったカラスの一連の動作も、問題解決を図るという意味で、充分に知能があると判断できる。ひるがえって、問題を解決するには問題がなくてはならず、知能とは本質的に、何が問題かを見抜く能力と言ってよさそうだ(カラスの例でいえば、自力で殻を開けられない、開けられれば食べられるのに、といった問題と展望が、車にクルミを轢かせるといった手段をとらせる)。また、問題が解決されたらやめることができることも条件の一つに挙げてもよいかもしれない。割れたクルミをいつまでも道路に転がしておいては中身を食べることは適わない。目的を達成するためには、問題解決のためにとった手段を途中で中断し、そこへふたたび介入しなければならないようだ。最初の一手だけを押していつまでも放置しているようでは、その反応に知能が伴っているとは言えそうにない。斜面を転がる石には知能がなく、仮にそれが人間であったとしても、止まろうとする素振りを見せなければ、そこに知能を見出すのはむつかしいだろう。反面、植物は太陽の光や、周囲の気温の変化で、葉を茂らせたり、落葉したりする。環境に適応し、またほかの環境(問題)に移ろったら、それに見合った変化を遂げられることから、これもまた広義の知能を有していると言えそうだ。(※真に受けないでください)
2370:【知能が高いと非情になる?】
不老不死になったとしたらおそらく、途中でじぶん以外の人間たちを同じ種族とは思えなくなりそうだ。植物や昆虫との区別もつかなくなるのではないか。これは知識や記憶の量と無関係ではないだろうし、どういった時間スケールで物事を見るのかによっても異なるはずだ。犬や猫、もっと言えば虫や植物にも記憶はあるが、それぞれ想定できる未来には長短がある。たとえば人間は物が飛んできたら避ける。こうした回避行動は、ぶつかったら痛い、と未来を予期できるからこそとれる反応だ。予期とは言っても考えてのことだけではないだろう。反射もある。だが、反射にしろ、危機が直接身体に訪れる前に避けられるのは、未来を予期できるからだ。植物もまた、周囲の温度や光量の変化によって、季節の移り変わりや新たな環境の到来を予期する。ただ、その予期する未来の長さは、知能の高さと相関して延びる傾向にある。否、これは考え方が逆かもしれない。より長期的なスパンで、よりこと細かく未来を想定できるかが、知能の高さを規定するのだ。もうすこし言えば、時間スケールの長さと、一つ一つの事象に対する分析の緻密さが、知能の高さとして表れる。冒頭でも述べたが、記憶の量とそれらの高さは無関係ではない。同時に、どれだけ長く生きたかもまた関係してくる。とはいえ、長生きだからといってたくさんの知識を記憶できるわけではないし、ましてやこと細かく未来を分析したり、より遠くの未来を想定できるようになるとも限らない。そも、知能が高いからといって知能の低い者たちと比べてとくべつ優れた人間になるわけでもないだろう。知能が高いと、ちょっとの差異であっても知覚可能であるだろうから、おそらくしぜんと他者を同じ生き物とは思えなくなっていくだろう(同じ人間ではないのだから当然と言えば当然だ)。とすると、人間としての優劣と、知能の高さは無関係ではないにしろ、別の枠組みの話として扱う必要がありそうだ。言い方を変えるならば、他者をどうあっても同一の生物と見做せない個体を、果たして人間として優れていると高く評価してしまってもよいだろうか、との疑問を呈して本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(またデタラメを並べてしまいました。すみません)
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参照:いくひ誌。【601~610】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883501660