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いくひ誌。【2351~2360】

※日々、よくもわるくも慣れていく。


2351:【危害を加えられたことがない】
思惑通りに事が進んでもおもしろくないことというものがある。なるべくそっちにはいってほしくはないけれど、そっちへいってくれると最大火力の魔法が使える場合などがそうだ。たとえば虫だ。家のなかで、黒くて動きの素早い虫を見かけたとき、台所では火を使っているので、殺虫剤を使えない。スリッパもきょうに限って履いていない。居間にさえ来てくれれば最大火力で殺虫剤を放てるのに、といった場合には、あっちにさえ行ってくれれば、と祈ることになるが、同時に居間には新調したばかりの絨毯を敷いたばかりで、なるべくならば来てほしくはない。だが現れてしまったものは致し方ない、殲滅するよりないのである。であるならば多少の損失は承知で、最大火力でここで絶対に仕留めておかねば、といったときには、思惑通りに事が進んでもおもしろくはない。基本的に、防御とはそういうものであろう。何かを守ろうとすること、何かを排除して均衡を保とうとすることには大なり小なり、やるせなさがつきまとう。怪獣をやっつけて「やったぞー!」となるよりも、怪獣さえこなければな、といつまでも引きずることとなる。総合して損をしている気になってしまうものだが、たられば、の話をしてもしょうがない。ゴキブリはこちらの気分に関係なく現れるのだ。でてきてしまったならばしょうがない。とはいえ、ゴキブリが繁殖しないような環境づくりはできるだろうし、そもそもを言えば、ゴキブリってどうして殺さなきゃいけないのでしたっけ? 家のなかで見たことがないもので、じつのところゴキブリの実害を知らない、本日のいくひしまんでした。


2352:【おおうなばら】
世のなかにはゼロからスマホをつくれてしまうくらいの知識と技術を兼ね備えた人物がいるのだと思うと、その他大勢の「どんぐりの背ぇくらべじみた優劣の比較に一喜一憂する敏感さ」には何か、埃を見るたびに拾い集めて、白金やダイヤモンドでも手に入れたかのような感情の起伏を抱くのにも似たある種の狂気を感じなくもない。井の中の蛙が海だと思っていたものは下水の吹き溜まりでしかなく、そのさきには無数の水溜りがあり、そのうちのいくつかが川に繋がり、湖に行き着き、池や沼を経由できれば御の字で、たいがいの者は本物の海の存在を知ることすら適わない。井戸の中の蛙は大海を知らないが、その他大勢ものきなみ知らぬままなのだ。巨大な水溜りを海と呼び、それをしてそこに到らぬ者を蔑み、愉悦に浸っている。そういう日々もあってよい。愉悦に浸ることは何もわるくない。好きなだけ底の浅い比較を以って一喜一憂すればよい。そうした繰り返しのなかで得られる成長もあるだろう、成果もあるだろう、すこしでも海に近づければ御の字だ。いずれみな、大海など知らぬままに事切れていく。大海を目指すことすらやめていく者が大多数と言ってよい。大海を知ったところで偉くもなんともないのである。ただ、そこに行き着くことを目指して生きる日々を楽しめるのならば、目指すこともまたけっしてわるいことではないだろう。愉悦に浸るだけなら井戸の底にいてもできるのだ。井の中の蛙は大海を知らず、そらの高さを知ることもあるかもしれないが、鳥よりかは知らないままだろう。それでも、そらの高さを知り、なおその奥に深く底知れぬ闇がつづいていると想像の翼を羽ばたかせた者にしか辿りつけない大海原もまた、きっとどこかにはあるはずだ。何がじぶんにとって幸運かはそのときになってみなければ判らない。愉悦に浸るのに場所はあまり関係がない。好ましい浸り方を選ぶだけである。


2353:【あーん】
サボり癖がついてしまいました。だめでごわす、だめでごわす。


2354:【んー?】
いやいや、まんちゃん。それいつもどおりじゃん。平常運転。なんも問題なっしんぐ。


2355:【あ、と言える間を】
さいきん一週間が経過するのはやいなぁ、と感じています。街中でTVドラマをちらっと見かけては、だいたいは終わりかけを見かけることになるのですけれども、「むむ? このドラマって昨日観なかったっけ?」と記憶がバグを引き起こすくらいに、一週間が経つのをはやく感じるしだいでございます。とくに忙しいわけでもないはずなのに、寝て起きたら一週間が経っている気分です。歳をとると数年や十年があっという間だよ、なんて聞きますけれど、そういうことなんでしょうか。これからますます時間の経過が加速して感じられるようになっていくのかと思うと、なんだかちょっとこわいですね。かといってとくに困ることがあるわけでもなく、単に寿命を、器に入った水のように連想して、ちょろちょろ抜け落ちていた水が、どばーっと一気に抜けていくさまを想像して、こわいなーと思っているだけなのかもしれません。けっきょくのところ、死ぬのは嫌だなぁ、と恐怖しているだけなのでしょう。ただ、死ぬことというよりも、どちらかと言えば、したいこと、やりたいことが段々とできなくなっていくのだろうな、といった諦観や予感が、焦燥感を煽るのかもしれません。いずれにせよ、あっという間はあっという間で、あっという間ですから、あっという間にあっという間なのだと思います。でも、「あ」と言っているあいだに過ぎ去るくらいに短い時間という意味の言葉が「あっという間」だと思って使っているのですが、現実には「あ」と口にする間もなく過ぎ去っているようにも感じます。いつだって過ぎ去ってしまってから気づくようなもので、流れ星を見かけるようにはいかないようです。「あ」と言えるくらいに事前に認識できていれば上出来だと言えてしまえる我が身の自堕落な日々には、我がことながら、「このままじゃいかんくない?」とやはりというべきか、焦りを禁じえもんさんです。ひとまず、ぼーっとサボりがちに時間を浪費しているときには、「あ」と口にだして言うようにしたいと思います。それでいったい何が改善され、何の対策になっているのかは微妙にそこはかとなく謎なのでありますが、何もしないよりかは、微妙にそこはかとなく好ましいように思うところであります。はい。錯覚に違いありません。


2356:【心中お察しください】
得意なことと苦手なことは、疲れているときにこそ明確に分離して感じられる。言い換えるならば、疲れているときにもふだんの出力と変わらぬ成果を発揮できるものが得意なことであり、疲れているときにできなくなるものが苦手なものと言えそうだ。疲れてくるとついついサボってしまうものは得意ではないのだ。もちろん、単なる疲れと、不調は分けて考えなければならない。いくら得意だからといって体調を崩しているときにも通常通りに成果を出力できると考えるのはさすがにお気楽にすぎる。得意なことのはずなのになぜか上手にこなせない、向き合う気力が湧かない、そうしたときには、体調を崩しかけているのだと思って、無理をせずに休んだほうがよい。どうしてもサボりたくない、と抵抗を覚えるようなら、五分間だけ向き合えばよいのだ。たとえば小説ならば、五分間だけ文字を並べればいい。たかが五分だが、されど五分だ。五分という短時間であれば、休まずに一秒一文字以上を並べることも可能だろう。四百字から六百字くらいは並べられるかもしれない。五分だけつむいで、あとは思いきって休む。そういう判断をできるようにしておくことも、得意なことの条件に入れてよいだろう。得意なのだから、すこしばかり休んでも衰えはしない。むしろ休みながらでも進歩できてしまえることこそが得意の意味なのではないだろうか。もちろんお断りするまでもなく、いくひしさんは小説にかぎらずあらゆる分野において、たくさん休んでいるし、真面目に取り組んでもいないし、サボりまくりの腕まくりであるから、進歩はナメクジのおさんぽよりも遅く、いっそその場から微動だにせず、石橋どころか富豪のスネに齧りつく勢いで堕落の極みに興味津々の、「得意」とは皆目無縁のざんねん無念さんである。まあなんというか、ご愁傷さまなのである。


2357:【横着しちゃった】
マーボーナスの素でマーボー豆腐つくったらなんか汁っぽくて、しょっぱいのができちゃった。失敗しちゃった。でもお砂糖を加えて食べたら美味しかったよ。


2358:【解からないことばかり】
間違った知識と正しい(とされている)知識が半分ずつ載った本があるとして、それを読んで、間違った知識を間違っていると見抜ける自信がまったくない。おそらく現時点でも、間違った知識を間違ったまま憶えてしまっているだろうし、正しい(とされている)知識にしろ、間違って憶えてしまっているはずだ。けっきょくのところ、いくひしさんに蓄えられている知識はほぼ十割、間違っているのだ。イチ+イチはニだと知っているが、それも本当にそうなのか、証明することができない。リンゴ一個とリンゴ一個は足し合わせたらリンゴ二個になるが、リンゴ一個と地球一個なら、それはけっきょく地球が一個あるだけなのでは? 系を揃えること、単位を揃えること、視点を揃えること、ほかにも問題ごとに統一して扱わなければならない事項があるはずだ。断片的で局所的な情報を、普遍の知識や常識として扱ってしまっているような気がしている。何事にも例外はあるものだ。だが、何事にも例外があるのならば、何事にも例外があることにも例外があることになる、とどのつまりこの世のどこかには例外を許さない唯一無二の真理があるのではないか、解があるのではないか、と妄想したくもなる。この世に真理などがないとすると、真理などない、という事実もまた真理ではなくなる。ならば真理はこの世のどこかにはあることになるが、それを確かめることが人類にできるのか否かは、まだよく解からない。そしておそらく、物理法則というものもまた、例外を多分に許しており、しかし人類がその例外に気づくことができるのか否かは、これもまたよく解からないし、このさき解かることが可能かも、やはりよく解からないのである。解からないことばかりである。解かっていることなど何か一つでもあるのだろうか? 共有可能な錯誤を事実と呼び、重複しあわない余白を見て見ぬふりをしても問題ない集合を我々は現実と呼び、やはり錯誤しつづけているのではないか。間違っても困らない環境を築くこと――人類が発展と呼ぶものは、おおむね正解を導いた末の結果ではなく、重複しあわない余白が増えても現実が崩壊せずに済むようにと補強しつづける極限なのかもしれない。やはりこれもよく解からないでいる。妄想の域をでず、それでもかってに息をする。生きるとはまこと不確かで、他力本願なことである。


2359:【連続か離散か】
アナログは連続的であり、デジタルは離散的だ。連続して変化するものがアナログで、飛び飛びに変化していくのがデジタルである、と言い換えてもよい。これは世界の成り立ちを考えるうえでも当てはめることのできる考え方だ。たとえば、無限には二種類ある。連続的に無限か、離散的に無限かだ。あまりできた比喩ではないかもしれないので真に受けてほしくはないが、仮に、無限にある果物のなかで、バナナだけを取りだして集めたとき、そのバナナの合計もまた無限にあることになる。無限に無限を足そうが、掛けようが、無限は無限なのである。バナナだけの無限は、ほかの果物の合間を縫って(ときにはダマになって)散在していると考えられる。とすれば、この場合、「バナナの無限」は離散的に無限だと呼べる。反面、この場合、「無限の果物」は連続して無限だと言うことができる。飽くまで比喩なので、もちろん「無限の果物」もまた、ほかの要素を含めたもっと大きな枠組みの無限のなかにおいては、離散的な無限ということになるだろう。このあたり、考えだすとキリがない。いずれにせよ、人間の認識可能な世界が連続的に無限なのか、それとも離散的に無限なのか、という疑問は、我々人類が世界と呼ぶ「この世界」が、【もっと大きな世界】の一部なのか否か、という問題に行き着く(その前段階として、この宇宙が無限なのか有限なのかを考えなくてはならないが、観測不能な領域があることはたしかであるので、我々人類が観測可能な範囲において、この宇宙は有限である、と表現するのがいまのところは妥当だろう)。また、極小の世界において、粒子は波動の性質を帯び、離散的な振る舞いをとるように観測される。世界の根源が離散的なのは、ひょっとすると、我々に認識不能な世界が、そのあいだに横たわっているからかもしれない。我々はバナナしか認識できていないのだとすれば、世界は離散的に無限であり、この世界のほかに、無数の、それこそ無限個の無限が存在するのかもしれない、との妄想を並べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう(言うまでもなく、真に受けないでください)。


2360:【霧散する社会】
どんなに理解しがたくとも、同意できなくとも、不可解な発言や行動をとっている相手を、「病気だから」とか「頭がおかしいから」とか、そういう言い方をして、「同じ世界にはいない者扱い」はしないほうが好ましいのではないか。言い換えるならば、誰もが誰かにとっては病気であるし、頭がおかしく見えてふしぎではない。誰もが固有の世界を生きている。それを偶然、なんとなく共有可能な世界に感じられているだけで、厳密には、一秒前のじぶんと一秒後のじぶんですら同じ世界に生きているとは言いがたい。完璧に理解しあうことなどできはしない。ぴったり同じ世界を生きることができないのと同じように。誰もが、他者とちぐはぐな世界を生きている。だからこそ、距離の遠く感じる相手をさして、「病気だから」とか「頭がおかしいから」と突き放し、拒絶すらせずに相容れない存在として一線を引いてしまうのは、なんだか社会を引き裂き、ちりじりにする所業に等しい暴力に思えるのだが、果たしてこれは考えすぎだろうか。拒絶したり、隔離したりすることは、ときには必要なこともあるだろう。分類したり、分断することも、ときには問題の対処として有効な手段となり得るように。ただしそれは短期的な視野での対処法でしかなく、本質的な、より長期にわたっての解決策とは成りえないのではないか、との直感がある。分類も、分断も、区別を用いてなされ、そしてそれは差別と大きな違いはないように思うのだ。相手が病人ならば然るべき治療を受けてもらえるように環境を整え、治療の必要性を説くのが第一であるし、「頭がおかしい」のならば、拒絶ではなく納得を示し、然るべき機関の助力を得て、やはり援助の手を差し伸べるのが、長期的な視野において社会の豊かさに繋がっていくのではないか、と妄想している。そんな余裕がいまは個人にも社会にもないとの理屈は、否定するのに骨が折れるが、しかし、いまできないからといって目指してはいけない道理にはならないだろう。いまできないことをできるようにしてきたからこそ、社会はここまで発展し、ひとはそらを飛び、宇宙にまで旅立てたのではないのか。そしてそれらを成し遂げた者たちはみな例外なく、過去の「できなかった時代」においては、病気であり、頭がおかしい、と見做されたはずだ。そのとき彼ら彼女らを排他し、社会から追い出してしまったら、いまこの社会はなかっただろう。「病気だから」や「頭がおかしいから」は排他することの理由にはならない。いつだって非難すべきは行動である。病気であろうと病気でなかろうと、頭がおかしかろうとおかしくなかろうと、逸脱した行動をとれば罰せられる。逸脱していないのならば、罰することも、ましてや排他する必要もない。報復や復讐がそうであるのと同じように、排除や弾圧を繰りかえせば繰りかえすほどに社会は閉じていき、やがて萎み、霧散していくのではないだろうか。分類や類型は物事を単純化して扱う分には便利だが、それだけを基準に物事を扱うと、手ひどいしっぺ返しを受けてしまいそうだ。そうなる前に、ときおり分類や類型とは違った視点で、共通項だけではなく、他者のじぶんとは異なる点にも目を向け、それをして誰もが異なっていて当然だと自覚できるような社会になっていくといくひしさんには好ましく映る。同じではない。みなどこかしら違っており、その違いこそが、その人物をその人物として規定している。分類や類型は共通項を結びつける考え方だ。それはそれで共同体や社会を築いていくうえで必要だ。問題点に気づくこともまた、分類や類型があってこそだろう。だが、見て見ぬふりをした個別の差異や、排除してしまった性質や属性にも、もっと目を向ける習慣をつくっても、個人にも、社会全体にとっても、大きな損とはならないのではないか、と疑問に思うものだ。


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参照:いくひ誌。【171~180】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881792711

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