※ヒビ割れないように気をつかいつづけるよりもいっそのことこの身ごと砕け散りたい、あとのことは知らん、しかし未来を思うといらんと擲つわけにもいかんと帰還。
171:【わからない】
勝てない。負け癖がついた。新しいから評価されないのではなく、むしろ古いから評価されない。新しいつもりでただただ古臭く、時代遅れなだけなのかもしれない。スキルをあげても、そのあげたスキルがすでに時代遅れなのだ。現状を打破するために必要なのは、今ある「ふつう」を「新しい素材」として認め、評価される以前に、こちらからまずは評価する器を、そのセンスをイチから築き上げていくことにあるのではないか。くそー。いやだなぁ。考えるにつけ腹たつ。くやしい。
172:【尊さや、胸にしみいる、百合の声】
漫画「プリマックス」がもうなんかスゴい。リズム感ハンパない。錯綜しすぎていながらにして全体としてまとまっている疾走ぶりがたいへん面妖ですばらしい。あと、西UKOさんの漫画「となりのロボット」と雨影ギドさんの「終電にはかえします」が至高でした。なんだこれは……!? 心の底からビビビっときた作品で、しょうじきびびった作品で、どえりゃーもんこさえてくれたもんだ、とそれはそれはたまげたもんです、嫉妬モキュモキュしたもんです。あまりに嫉妬もきゅもきゅしたもんですからすぐにオススメできなかった。ほんとうにいいものはなかなかひとにすすめづらい、じぶんだけのものにしておきたい。でもさやっぱりみんなに読んでほしい。このしゅわわせーってシュワシュワ加減をもっとみんなで共有したい。いちどくしゃとして、物語という毒を飲み干す者として、いくひしだって提供者にまわりたーいって、なんかそんな感じがするきょうこのごろノラネコのノドを撫でまわしてはゴロゴロきもちよさそうに鳴かせたい。ビリーバッドや俺物語、僕はお姫様になれない、などなど、さいきん、好きな作品がこぞって最終話を迎えているので淋しいかぎりであるけれども、好きな物語が好きであるあいだに終わりーの胸にぽっかり穴をあけつつーのそれをしみじみ味わうのって、じつはもうこれ以上ないほどの贅沢なのではないのかなーなんて思うきょうこのごろいろいろと小言を漏らしたくなることが山盛り、あまもりのする部屋のすみでね、ほとほと、ぱっとしない日々にうんざりで、ある意味で課題が山積み、いそがしい、下積みの時代でもありつつ、ひたむきに耐え忍ぶ日々でも梁に巣くうシロアリ、されどぼくはヤマアリ、そこにはなぜか谷あり、抜けたらあとはもう道なりにまっすぐと伸びてく、やってくる三度目のしょうじき、それは遅まきの成長期、骨の軋む音が明瞭に、黙っていても遠のいてく行先は迷路に、立ち尽くしてるひまはないんだろ、ちまたはどこもハイアンドロー、答えはどこにもないんだろ、と問いただしてく時期はもうすぎたろ、もうひと息だよ、辿り着くはずさ、ぼくたちだけのπの孤島。――足並み乱して這いあがろう。
173:【時代遅れ】
らんま1/2の復刻版四巻を読んだ。時代遅れという言葉が単なる実力不足の隠れ蓑になっているだけだとむざむざと突きつけられた心地がした。時代を経るごとになおその魅力の増しつづける作品が悠然と存在しているのに、なぜそれを目の当たりにしておきながら、時代遅れだから評価されないのだ、などと的外れなことを言えるのか。恥を知れ、恥を。いくひしはざぶとんにあたまをつっこんで、ぷるぷるふるえている。
174:【攻殻機動隊アンソロジー】
が、2017年3月31日までには発売されるらしい。うれしい情報である。プロとアマのちがいを噛みしめさせてもらおう。(意訳:おれ以下だったらぶちのめす、それ以上だったら家宝とす)
175:【つまりは「あがき」なのだ】
虚構を虚構と認識しつつ、それを現実として承認する。芸術の基本的なあり方とはこの矛盾にこそある。ウソはウソだが、そのウソをウソとしりつつ、ほんとうのこととして扱う。ある種の信仰が芸術には不可欠だと言い換えてもいいが、うそっこをマジモノとして誤謬するのが信仰であるのに対し、芸術は飽くまで偽物を偽物のままで、それをホンモノとして見做す。信仰と芸術を明確に分け隔てている境界線がそこにはある。もうすこし馴染みある言葉に変換すれば、主観を主観と認識しつつそれを世界への解釈までひろげ、客観へと昇華する。これが芸術の基本的な性質であり、主観と客観をごっちゃにしたまま区別をつけられずにいるのが信仰であると呼べる(信仰と宗教はちがう。科学を崇拝するのも信仰のひとつだし、常識を盲信するのも信仰のひとつだ。むろん、なにかにつけこうして斜めに構えた視点で物事を眺めるのもある種の信仰がもたらす結果だと呼べる)。芸術、信仰、いずれにも狂気が多分に含有されるが、メタ的な視点が芸術には存在する。というよりもそれこそ不可欠な要素であろう。虚構に呑みこまれることは芸術ではない。現実に虚構をひっぱりあげてこそ、芸術は芸術として成立する。しかしじつのところ芸術でないほうがより芸術らしいことが往々にしてある。やはり「らしい」ものが「よりらしく」なろうとする過程にこそ芸術としての最高級の魅力が宿るものなのかもしれない。
176:【すごさ】
プロのすごさは、「すごくてあたりまえ」「楽しくてあたりまえ」そういった高いハードルに四方をつねに囲まれていながら、竜巻旋風脚で根こそぎハードルをぶったおしてしまうその異常なまでの精神力のつよさ、言い換えれば図太さにある。なかでもプロ中のプロは、「そんなんじゃだめ、もっとハードルあげて、そうもっと、もっと、まだ低い」と注文をつけ助走の距離をとりながら、ハードルのしたを何食わぬ顔で歩いて去る。そういうズルさを兼ね備えているものだ。いくひしに足りないのはまさにその部分の大胆さであり、経験値であり、遊び心なのである。真面目にふざけることのむつかしさといったらない。
177:【ふつう】
ふつうであることのすばらしさというか、王道を貫き通すいさぎよさは、どんな環境であれより円滑に成果を発揮する。基礎を必殺技にできるほどに研鑽を重ねることができたならば、それはまったく新しい技を開発し、繰りだすよりも何倍も効果のある攻撃となる。いっぽうで、王道からはずれた、いわゆる「あたらしさ」を生みだすことに意味がないかといえばそんなことはむろんなく、革新的で異質なものを生みだすことのままならなさは、そのままならなさ自体が価値を生みだすとも呼べる。王道とは、道であるがゆえに、誰かがいちどそこに到達しているかぎり、その道を同じように伝いさえすれば辿り着けるようになっている。登山のようなものである。頂上へのルートは無数にあり、最短距離でいけるルートもあれば、非常にゆったりとしたペースで、その地点でしか見られない絶景をつど眺めながらくねくねと蛇行しつつ歩む道もある。最短距離でのルートはしかし最短であるがゆえに険しいことがほとんどだ。もっとも、誰かがその道をいけた以上、同じような段階を踏めば、ひかくてき誰であっても頂上へと登りつめることが可能だ。この場合だから王道とは、ダンジョンの攻略だと言い換えてもいい。反して、あたらしさにはそういった道がない。道をつくることがあたらしさの価値であるとも呼べる。そういう意味では、王道をつくることこそがあたらしさを生みだすことの役割だといえるかもしれないが、誰もがあとを追える道に価値があった時代はすでに過去のものとなりつつある。いまはむしろ、それを道だと認めてもらいながらも、容易には辿れない、或いは、そこに道があることは知られているが、頂上に辿り着けた者は一人しかいない、そういうあたらしさが必要とされているのではないかと感じている。王道が登山ならば、あたらしさとは秘湯である。或いは単純に宝探しと言い換えてもいい。二度目にそこへ踏み入れても、宝物はすでに持ち去られたあとである。どうやって辿り着いたのか、道のありようは関係ない。そういう意味では、王道をいまいちどじっくりと伝い、通路にあいた隠し扉を探し当てていくのもまた一つのあたらしさの在り方であるだろう。どこへ辿り着くのか、が「あたらしさ」にとっての王道だと呼べる。ひるがえっては、どんなものにも王道はある。邪道にすらあるのだから王道を辿るなというほうが無理がある。むしろ王がとおった道が、あとからかってに王道と呼ばれるようになる。道そのものに本質はない。あとを追いたくなるような人物が通ったから王道と名付けられるにすぎないのだ。聖地巡礼のようなものである。だいじなのは、どこにいくかではなく、どうあるか、である。それはしかしいっぽうで、どういう道をいくのか、どう歩むのか、なにを追い求め、辿り着いたのか――やはりというべきか、道そのものに価値があるからこそ、王は王、足り得る。卵がさきかミルクがさきか。ホットケーキをつくるときに行き当たる問題のようだ。とはいえ、おいしくホットケーキが焼けたならばどちらがさきでも問題はない。どんな道をいこうとも、どんな場所に辿り着こうとも、そこで終わりは訪れない。けっきょくそれもまた、おおきな流れ、人生という名の「大道」をかたちづくるための道程なのである。あなたがあなたの人生の主体であるかぎり、おのずとあなたは王道のうえにある。王道を貫き通すいさぎよさは、どんな環境であれより円滑に成果を発揮する。しかし私が王でいられるのは私の「大道」のうえでのみである。一歩、ほかの道に迷い込んだが最後、そこでは無数の王に紛れる数多の家臣、追従するだけの無象無象にほかならない。「大道」をはずれ、王道を歩んだ時点で、私は王にはなれないのである。王道をいくことは誰であっても可能だ。しかし、あなたが王でありつづけるためには、あなたがあなたの道をいくしかなく、あなたがあらたな道をつくるしかない。「大道」からはずれぬようにするほかないのである。ゆめゆめわすれることなかれ。あなたはいつだって王であることを。しかし、いつでも王ではなくなり得ることを。
178:【うなー】
「勝ちに拘るのは構わねぇ。やるからには勝ちにいく。とうぜんだ。だが勝とうとするのは違うんじゃねぇのか。どうしたら勝てるのか、なんてその場で考えてるひまなんざねぇだろ。勝とうとなんて考えてんじゃねぇよ、姑息すぎんだよ。てめぇはてめぇのままで受け入れられてンだろ。てめぇはてめぇの世界をあいてに押しつけてぇんだろ。おのれを曲げてまで得る勝ちに価値を感じられるとは、オレにぁとうてい思えねぇ。てめぇはそこまで謙虚じゃねえだろ、ちがうかよ。そのままをだせよ。さんざん悩んできたんだろ。いまさら過去のじぶんを否定すんな、そんときくらい素直でいろよ」
179:【ひゃー】
「あんたぜんぜんわかってない。ひとと比べるようなもんじゃないから。やりたいときにやりたいだけやりたいようにすればいい。それがしあわせってもんでしょちがう?」
180:【あわわわわー】
「いいかい。万に一つのゴミクズが偶然砂金だったからといって、ほかの九千九百九十九のゴミクズまでもが砂金になるわけではないんだ。みんながみんな同じ土俵で競いあい、五十歩百歩でみんながみんなプラスチックになれる手段と、べつべつのゴミから派生したクズがくっつきあってできたゴミクズの山から偶然砂金がとれる思想。いったいどちらが厳しい競争原理を伴っているか判るかい? 結論は言わないでおこう。白黒はっきりつけるにはいささかいじわるな問題だった。でもこれだけは言える。より自然なのは後者だ。自然淘汰という途方もなく、残酷な競争原理がそこにはある。きみはそこに飛びこむ勇気があるのかい?」