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いくひ誌。【181~190】

※日々刻一刻とあたまがわるくなっていく。

181:【万氏に値する】
「なんでおれさまが下等生物より下に見られなきゃなんねぇんだよ」負けたときに味わうあの絶望感はまさにここに端を発しており、けっして向上心からくる悔しさではない。差別主義も大概にせいよじぶん。身の程を知ろう。いまいちど。いまいちど。


182:【こにゃにゃちわーーー!!!】
イクちゃんにおまかせの時間や。みんなちゃんと休みはナマケとるか。休みの日はダラけとったらええんや。好きなだけダラけとったらええ。せや、なんや時間の無駄に思うんやったらイクちゃんおすすめのWEB漫画でも読んで脳内麻薬ぱぱぱぱーんしながらダラけときぃ。ほないこか。まずはクール教信者氏をおすすめしとこかな。感情死んどってなんぼの女主人公に定評のある作者や。「旦那が何を言っているかわからない件」で一躍WEB漫画界の異端児に躍り出てから以降、「小林さんちのメイドラゴン」を筆頭に、数々の幻書をつくっては暗中飛躍に媚薬をばら撒くようにして信者を獲得してきた作者やな。言わずと知れた知る人ぞ知るクール系虚無ヒロイン製造機や。メイドラゴン、アニメ化も決定しとってチェケラッチョしといて損はないでー。おつぎは安田剛助氏や。安田堂なるWEBサイトで漫画を掲載中や。おすすめしがいのない作者でなぁ、ほんま読めばわかるやろ、としか言いようがないわ。さいきんなんや「働かないふたり」で有名な商業WEB漫画サイト「くらげパンチ」で、百合物の作品をタダで公開中なんやけど、どうにも既視感があってな。どこやどこや首かしげとったら、閃いたで。そうや、「ストレッチ」や。イクちゃん超おすすめのWEB漫画があってな、「いくひし2015年上半期ベスト1で賞」を受賞した百合界きっての超新星、アキリ氏の漫画が「ストレッチ」や。どや。読みたくなってきたやろ。やわらかスピリッツいうWEB漫画サイトにいまもまだ公開中やから、現役で公開中やから、ほんま言い直した意味もようわからんけど、ダラけがてら読みぃや。ほんでな、安田剛助や剛助。百合漫画書いとる話はもうしたな。でな、それがどうも「ストレッチ」と被るんや。アカンって話やないで。うちが言いたいんは、そんくらいめっちゃおもろいでいう話や。くらげパンチで連載中のほうと、じぶんのサイトで掲載中のほうと、両方の百合が繋ごうててな、じぶんのサイトのほうは恋が成就したあとの世界線で、めちゃめちゃエロに寛容で申し分なさ発揮中や。商業ベースのほうが初々しい百合百合でな、商業が控えめってどないやねん、まったくごっつ謙虚なお方やでまったく。そうや、「やわらかスピリッツ」で思いだしたわ。やわらかといえばおっぱいや。うそや。いやうそちゃうけど、やわらかおっぱいがスピリッツか言うたらそりゃ微妙やん。ちゃうちゃう。おすすめの作品の話やったわ。やわらかスピリッツな。せやせや「バイオレンスアクション」いう作品がおすすめやな。あとは同じ路線で、ノワールいうんかな、ダークヒーロー繋がりで、裏サンデーで連載中の「ドッグエンド」もおすすめや。ほんまやで。すこしも盛ったりしてへんで。ぎょうさん盛ったりはしたかもしれへんけどな、せやかてぎょうさんあるならええやんか。ええか。ダラけた心にひとつまみのピリリやで。しあわせの秘訣や。たんとお読みやー。ほな!


183:【枕営業】
枕営業と聞いて思い浮かぶイメージは、マネージャーに言われて大御所のプロデューサーの待つホテルに女優がみずから足を運ぶといったものが多いのではないか。もしくは、わかってるね? などと太ももを撫でられながらじかに迫られる。しかしそういういかにもな枕営業はじっさいにはすくなく(まったくないわけではない)、多くは、ほとんど恋人のような関係を築き、半ばハニートラップじみた巧妙さで女優のほうから優位な立場に登りつめていく。肉体関係というよりも、身内びいきの究極版である。肉体接待と呼ばれるようなものもなくはないが、そうした場合はむしろ専用の業者に依頼し、専用のプロを呼んで開くのが通例だ。仕掛け人はマネージャーであり、ゆえにこうしたケースは女優みずから身体を開く真似はしない。個人的なパーティで乱交じみた酒池肉林を地で描くような場合は、枕営業とはなりにくく、どちらかといえば身の破滅を招く、ほとんど餌じみた扱いをされてお終いである。さいあく、薬を盛られていずれ逮捕されるはめになる。妄想もここまでくると説得力が生じるだろ? コツは、一般にあるイメージをいちど否定してみることである(そのあとでなぜそのイメージが普及したのかをそれとなく説明し、イメージすべてが虚像ではないと示してあげるとよりそれらしい)。


184:【本質と表質】
ナニゴトカを受容する理由が、「流行っているから」である者はことのほか多い。同時に、ナニゴトカを拒絶する理由が、「流行っているから」とする者もすくなくはない。本質的にふたつは同義である。ナニゴトカの是非を定める判断基準が「流行っているか否か」である時点で、そこに貴賤は生じ得ない。「○○だから好きだ」という行動原理は、そのまま「○○だから嫌い」という盲目的な排斥行為に繋がりやすい性質を帯びていると呼べる。基準ではなくきっかけを。理由ではなく、飽くまで機会に留めよう。


185:【無】
いくひしはいくひしとしてのキャラがない。どういう人格なのかがまず分からず、果たしてじぶんは本当に存在しているのだろうかと常々感じている。だからたとえばじぶんについて何かを語るとき、そのときいくひしはいくひしとしての言葉を用いて語ることができない。或いは、何かを語るとき、それはけっしていくひしの言葉ではなく、じぶんの言葉でもない。借り物の、偽物の言葉である。ともすれば言葉というものがすでに借り物であり、偽物であるのかもわからない。誰かの視点に立たなければ、いくひしは何かを語ることができず、何かを語るとき、いくひしはすでにいくひしではない何者かになっている。これは文芸の世界だけでなく物理世界でも同様である。誰かと顔を合わせているとき、そこにいくひしとしての人格はなく、相手に合わせた仮初、虚像があるばかりだ。何もそれはいくひしに限ったことではない。誰だってそうなのだろう。大勢の他者によって個人は個人として模られ、形作られていく。それはたくさんの言葉を覚え、たくさんの価値観に触れることで、あべこべに人格の強度、その純度が高まっていくからくりと同じだ。しかしいくひしはむしろ、誰とも交わらないときのほうが、【私】という人格の純度が増すように感ずるのである。誰も出歩いていない森閑とした夜空のしたで自転車キコキコ漕いでいるとき、いくひしは、ああ生きているなあと実感する。誰の型にもはまらずに済む状態にあるとき、いくひしはいくひしとして散在していられる。


186:【或いはしかし同時にともすれば】
接続詞が苦手だ。削れるなら削りたい症候群にかかっておよそ二年になる。サ行、とくに「そ」から始まる接続詞は殲滅したいほどで、読者としても作者としてもおジャ魔女ドレミ、ふぁそらしど。接続詞ではないけれど、「その」や「あの」の指示語も可能なかぎりは削りたい。完全な好みの問題なので、削らないほうが読みやすくなる場面にはたびたび遭遇する。それでも削りたくなってしまうのだが、まさしく今ここで使ったように、「それでも」を使わざるを得なくなるときがある。例外的にけれど、傾向として多用してしまう接続詞もいっぽうではある。「或いは」や「しかし」「けれど」「だが」がそれにあたる。とくに顕著なのは「或いは」であろう。あんたちょっと惚れてるの?ってくらい「或いは」が頻出する。或いは、の汎用性の高さはちょっと異常で、これ一つでたいがいの接続詞が補完可能だ。或いはそれゆえに、「だから」や「加えて」などの補完不能な接続詞も多用する傾向にあると呼べるが、あべこべにそれもまた或いはただその響きに惚れているだけとも限らない。或いはには、対比の意味、「しかし」や「反面」と似た効用があり、或いは、今使ったように「同時に」という意味もある。頭がこんがらがってきそうな文章であるが、或いはこれも接続詞を無駄に使用しないことの弊害かもしれず、ともすれば接続詞の使い方がヘタクソなだけとも言えなくもない。やはり接続詞が苦手だ。いちど接続詞をいっさい使わない小説をつくってみたいものである。


187:【ライとコア】
アイドルの踊りをライトノベルだと定義すると、ストリートダンスはさしずめ純文学である。アイドルの踊りは、よりかわいく、よりかっこよいフリが求められるが、もっとも重要な要素は、それを真似したくなるか否かにあると呼べる。もっと言えば、それを真似したくなったときに、誰であっても真似できるレベルを保つことが大前提として組み込まれている。反してストリートダンスは、誰かに真似された時点で負けである。誰にも真似できない、じぶんだけの動きを追及することにその主眼の重きをおいている。どちらも、ベクトルは違えど、やさしくはない。振付けやスタイルを完成させるのには並大抵以上のセンスと研鑽が必要とされる。なにごとも、イチから何かを生みだすのは、その完成形の構造の差異にかかわらず、むつかしいものである(音楽という素材あってこそのダンスである。けっしてゼロからではない)。


188:【ついで】
音楽に乗せて身体を動かすだけがダンスではない。たとえばコンテンポラリーダンスは肉体を使った表現そのもので、そこに音楽が介入する必然性はない。無音で、雑踏で、雑木林のしずけさのなかで、いかような環境でもナニゴトカを表現できる。さながら俳句である。表現の対象は音そのものかもしれないし、それ以外の何かかもしれない。メロディという名の物語は不要なのである。


189:【よろしくない、庭と四葉に罰よ、トワにいなくしろよ】
洗脳はよくない。相手の人格を、存在を、魂を穢し、損ない、蔑にする、洗脳は、ある種の呪いである。ただしいくひしはそれでも、表現においては、見る者を砕き、染めあげ、根元からつくり替えてしまうような呪縛を編みあげたい。たいへんよろしくない志しである。


190:【閃きの軌跡】
コンテンポラリーは既存の枠にとらわれない自由なダンスです。あべこべに俳句は、五七五という字数の限定、そして季語の使用を課せられた不自由な表現であると呼べます。しかし双方は根元のところで共鳴しているのではないかとつよく思われてならないのです。言い換えますと、コンテンポラリーはむしろ、自由さを求めるがあまり、「いままでにない」という足枷をはめられており、反して俳句は、五七五と季語という限定を靴のように履くことで、より自由に表現なる大空を翔ることができるのではないかと思うのです。それはちょうど、手足を失う代わりに羽を得るように、或いは何も持たないがゆえに何もできなくなるように。「これを必ず使いなさい」という束縛と、「これを使ってはならない」という制約は、いずれも禁止を内包している時点で、やがては同じ地点に辿り着くのかもしれません。――さて、本題である。187ではダンスについて述べ、188では補足としてコンテンポラリーと俳句が似ていると述べた。そこから、しかしコンテンポラリーと俳句はむしろ似ていないのではないかというところに着目し、ではそこから何が視えてくるかに着想が飛んだ。この断続的な連なりが閃きの軌跡だと呼べるかもしれない。異なる色調の点と点をいくつ跨げるか、或いはどこまで遠くの点と点を結べるかが閃きにとってのキモであると呼べる。飛躍にも踏み台があるのだ。

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