※日々、わたしはよわいですと唱えておけば、いざよわさを突きつけられても、知っていますと、つよがれる、なんだけっきょくつよくなりたいだけじゃないか。


2151:【蚊は英語でモスキート】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、気づいたでござる。ひょっとしていくひしさんって、孤独が好きなのではなく、ひとから好かれないだけなんじゃないかって、いくひしさんは気づいてしまったでござる。あっれー、でござる。いくひしさん、もしかしたら孤独が好きなのではなく、孤独にしかなれないのでは疑惑が急浮上でござる。あれれー、でござる。よわいのは、孤独なのは、そう望んでいるからじゃい、とかなんとか、いつぞやのいくひしさんの一人がのたまいていたでござるけれども、それだとまるで、つよくなろうとしたらなれますけど?みたいなつよがりが見え隠れして、いくひしさんはつっごく恥ずかしくなってしまったでござる。なれるんでござるか? いくひしさんはつよくなれるんでござるか? みんなから親しまれるような人格になれるんでござるか? ムリでござる。家宝は寝て見ろでござる。恥を知るがよいでござる。動揺しすぎて、家宝と夢を間違ってしまったでござる。ずばり梅干しでござる。あやー、それを言うなら図星でござる。わざとらしいでござる。きょうはもうたくさん失敗してしまって、なにもかもが予定どおりにいかなかったでござる。いつどおりと言えばいつもどおりのオールウェイズロードでござる。英語を使えばかしこいと思っているでござる。失敗と言えば、伝達ミスで、ほかのいくひしさんと、この「いくひ誌。」が被ってしまったでござる。ストックしておいてもよいでござるけれども、どうせあすもだれかほかのいくひしさんが並べるでござるから、そうするといつまで経ってもストックが消化できずにけっきょくボツになってしまうでござるから、載せてしまうでござる。2150~2154までがきょうのぶんでござる。五つ載せるでござる。つむぐよりも、読むほうがたいへんでござるな。もうそういう世のなかになってしまったでござる。だいじなことなのでもういちど言っておくでござる。文章をつむぐよりも、読むほうがたいへんでござるな。もちろん、これは「いくひしさんの文章であれば」の話でござる。世のなかには、五千文字をつむぐために何年も、何十年も研究や探索をつづけるひとがいるでござる。そういう拝みたくなるような文章と、いくひしさんのアハンウフンをいっしょにしては失礼でござる。アハンウフンってなんでござるか。失礼でござる。もうきょうは、このいくひしさんはダメでござる。寝るでござる。とくにオチはないでござるけれども、みなのものはげんきにあすを迎えるでござるよ。いくひしさんはきょうの分のオチをあすに回すでござるから、すこしばかりオチ着いたいくひしさんになりそうでござるな。見るひとが見れば、げんきではないでござるけれども、いくひしさんはいつでもアハンウフンでござる。さっきからアハンウフンなんなんでござるか。うるさいでござる。蚊取り線香を焚くでござる。ブタさんの入れ物もあるでござる。かわいいでござる。え、かわいいんですけど、でござる。まるでいくひしさんのようでござるな。ぴぐぴぐ。きげんがよくなったので、きょうはこれから、おやすみーでござるー。


2152:【あまり好きではない】
否定するわけではないが、「恩」や「義」が好きではない。たいがいそういうものをだいじにしだすと、「怨」や「偽」にとりつかれてしまうからだ。恩を返すことは尊いかもしれないが、それはもらったから返すとか、受けたから報いるとか、そういうことでは本来、ないはずだ。恩や義は、愛や善と似ている。それそのものがそこに輪郭を帯びてあるわけではない。たまたま恩を与えたカタチになっただけのことであり、たまたま正しい行いになってしまっただけなのだ。それを、恩や義に、或いは愛や善にかってに見えてしまった者があるだけだ。錯覚なのである。返すのはかってだろう。受けた恩や義を返す。それは何かを受けたと錯覚した者がかってにすることだから、それはいい。ときには尊く見えることもあるだろう。しかし、恩を受けたなら返しなさい、義をもらったら報いなさい、とそうした風潮をつくるのはおかしいように思うのだ。挨拶も似たようなものだろう。しない状態からする状態にあったほうが好ましい。ゼロからプラスになる。問題はない。しかし、挨拶をしないだけで、こんどはマイナスになってしまう。これは本来、おかしなことだろう。プラスになることをしないならば、ゼロに戻ればよいのだ。しかし現実では、しないことでマイナスになるのである。そうした理不尽な流れができてしまうくらいならば、挨拶も恩返しも、禁止してしまえばよいだろう。何かを得たいから相手に干渉したならば、それを「恩」や「義」などと聞こえのよい言葉で着飾らないほうが、いくひしさんにとっては好ましい。恩や義は相手がかってに感じることである。けっして「私」が相手に与えているわけではない。思いあがらないことである。返せ、と要求した時点で、そこに恩も義もないだろう。見返りを求めるならば、それはビジネスだ。やりとりするならば、きちんと対価と対価を交換することである。恩や義など、そうした見えない鎖に縛れる必要はない。むろん、それをたいせつにしたければすればよいだろう。否定はしない。幽霊を信じる者がいても構わない。あの世を信じたければ信じればよいのだ。いくひしさんは何も困らない。ただ、いくひしさんは「恩」や「義」があまり好きではないなぁ、とお断りして、「本日のいくひ誌。」とさせていただこう。(文章を圧縮しておりますので、語調が荒く感じられるかもしれませんが、クッキーを齧りながら、のほほんと並べております。いくひしさんはいつでものほほんと、のんきに、なまけながら文章を並べておりますので、ナマケモノが木の枝にぶさがっている姿を思い浮かべながらお読みいただけるとうれしく思います。もちろん、バナナの木を振り回しているゴリラを連想してもらっても構いません)


2153:【もうありますか?】
粒子には、同じ粒子同士で同じ状態になれる粒子と、なれない粒子がある。なれる粒子をボーズ粒子、なれない粒子をフェルミ粒子と呼ぶ。フェルミ粒子で代表的なのは電子だ。電子は互いに同じ状態になることができない。これを、パウリの排他原理という。反してボーズ粒子は互いに同じ状態になることができる。ダンスでたとえるなら、ボーズ粒子はみな同じ振り付けを踊ることができるのに対し、フェルミ粒子は全部の粒子がどこかしら違う動きをしてしまう。ドラゴンボールにフュージョンと呼ばれる合体技がでてくるが、フェルミ粒子はフュージョンができず、ボーズ粒子はできるのだ。そしてボーズ粒子をかぎりなく絶対零度にちかいところまで冷やすと、ボーズ・アインシュタイン凝縮と呼ばれる現象を引き起こす。この場合、冷蔵庫を使うわけにはいかないので、冷却にはレーザーを使う。電子レンジで物を温めるのとは逆に、粒子(この場合は原子)の運動を止めるようにエネルギィ(電磁波)をぶつけることで原子の運動を静止させる方向に働かせるのだ(熱は原子の運動で表すことができる。運動していない状態が絶対零度である)。そうして冷やすと、無数のボーズ粒子の塊がすべて同じ、という状態をつくれる。このとき、ボーズ粒子の塊には、超流動と呼ばれる性質が備わる。超流動とはおおざっぱにまとめれば、ものすごくサラサラの状態、である。物質はたいがい粘性を帯びている。言い換えるならば、物質を構成する粒子同士が互いに引き寄せあい(ときに衝突しあい)、互いに自由に動けないような抵抗を帯びている。だがボーズ・アインシュタイ凝縮を起こした物質(もちろんどんな物質でもいいわけではなく、無数の「同じボーズ粒子の塊」である。代表的なのはヘリウムであるが)は、互いに動きを制限されないために、滑らかに動き回ることができる。そして世にあるたいがいの物質は分子や原子がよりあつまり、さらに大きな塊が積み重なってできている。ミクロの世界からすれば隙間がたくさんあいているようなものであり、スカスカなのだ。よってボーズ・アインシュタイン凝縮中の物質は、ほかの物質のそうしたスカスカの合間を自由にすり抜けることができる。ただし、前述したとおり、ボーズ・アインシュタイン凝縮を起こすには極めて低い温度――それこそ絶対零度にかぎりなくちかい超低温が必要なため、ほかの物質と相互作用可能な距離にちかづいた段階で、ボーズ・アインシュタイン凝縮は均衡を失い、超流動という性質もまたなくなるのが道理だ。とはいえ、仮に超流動の性質が温度変化にかかわらず物質に宿せたとして、そうすると超流動性を帯びた物質は、ふだん物質が帯びているいくつかの抵抗を受けにくくなる。そのため、たとえば表面張力によって、物体をどこまでもぐるりと覆い尽くす、なんてことが自動的に行われるようになる。表面張力は比較的身近に観測できるちからの一つだ。コーラをカップにそそぐと、ふちにそってコーラがすこしだけ盛りあがる。表面張力が働いているからだ。また、コインのうえに液体を垂らすと、液体はコインのうえでドーム型にカタチを保つ。そこに数滴加えても、しばらくそのカタチを保つのは、表面張力と液体の粘性が吊りあっているからだ(もちろんそこには重力が作用しているだろうが、ここでは無視する)。しかし超流動は粘性がかぎりなくゼロにちかいため、どこまでも表面張力に引っ張られ、接触した物体の表面を覆うことが想像できる。たとえば、超流動を帯びた液体を四角い部屋に零してしまったら、液体はかぎりなく薄くなりながら、部屋全体を覆い尽くしてしまうだろう。また、超流動を帯びているならばボーズ・アインシュタイン凝縮を起こしているわけで、密室状態のその部屋のそとに液体が漏れてしまうことも考えられる(壁をすり抜けることが可能だから)。或いは、部屋に穴が開いていれば、壁を伝ってその穴からかってにそとに漏れでてしまうだろう(凶器がかってに消えるトリックに使えそうだ)。むろんこれは、ボーズ・アインシュタイン凝縮が温度変化に影響されずにその状態を維持できることを前提とした妄想である。しかしたとえば、フェルミ粒子の場合は、同じように超低温にすれば超伝導の性質を帯びる(超伝導はリニアモーターカーに技術応用されているので、超流動よりかは一般に知られているはずだ)。超伝導は、こんご素材の組み合わせによっては、現在可能とされている低温よりも比較的高い温度であっても維持できるようになるのではないか、と考えられている。同様に、超流動もまた、比較的高い温度(むろん我々の感覚からすれば充分に低温であるだろうが)でもその性質を維持できるようになるかもしれない。虚構のなかでなら、こうした物質の性質をすこしばかり歪曲して転用すれば、これまでになかったトリックとして昇華できるのではないだろうか。すでにボーズ・アインシュタイン凝縮や超流動を利用したミステリー小説はあるのだろうか。いずれにせよ、虚構よりも現実のほうがよほどミステリアスなように思われるいくひしさんである。虚構創作家を標榜している以上、負けてはいられないな、と焦りを募らせ、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(言を俟つことなく、曖昧な記憶と情報による不確かな記述でございます。オームの法則もまともに理解していない素人の戯言ですので、真に受けないようにだけお願い申しあげます)(電子はフェルミ粒子だが、電子二つが対になると電子もボーズ粒子になる。これをクーパー対と呼ぶ)


2154:【契約書の是非】
何度目かになるかは分からないが、並べておこう。基本的にこの国の出版社は事前に作家と契約を結ぶことをしない。書籍を出版したあとで契約書にサインをするのが通例だ(だから一年以上かけてつくった小説がボツになり、出版社側から一銭も報酬が支払われないといった事例が珍しくないようだ)。いくひしさんはそういう風習はビジネスではないし、よろしくないのではないか、と考えている。しかし、事前に出版社と契約を交わすことで損をする商業作家もまた、すくなくないのではないか、と睨んでいる。極論、現状維持を望んでいるプロが多いのではないか。言ってしまえば、事前契約を結んでしまうと、締め切りを破ることができなくなる。邪推でしかないが、きっとそういうプロがすくなくないのだ。どっちかと言えば出版社は事前に契約を結んだほうが得をするはずだ。作家のためを思って事前契約をしていないのだ、という理屈は一理ありそうだ。だが、それは甘えだろう。すくなくともビジネスの体をなしてはいない(ようにいくひしさんには映ります)。出版社は、作家が締め切りを破るごとに印税率をさげるくらいの条件は契約書に組みこんでよいはずだ。これまでの商業作家はいったい何をしてきたのだろう。大御所と呼ばれている作家はいったい、何をしているのだろう。単純に疑問に思っているが、いずれにせよ、美味しい思いをした者たちはもう、このさき、辛酸をなめる真似はせずに済むのだ。いい御身分である。(いくひしさんには関係のないことではあるけれど、なぜかプロは誰も言わないようなので、いくひしさんが並べておきますね。よわっちぃ、おろかな、いくひしさんが)


2155:【作家と出版社の関係】
たとえばの話、リンゴ農家の仕事は美味しいリンゴをつくることだ。アップルパイがつくりたいからと注文があればリンゴを箱詰めして送る。それが仕事だからだ。しかし、できたアップルパイが売れそうにないからと返品されたら、リンゴ農家は堪ったものではない。頼まれたリンゴをつくり、納入したならば、アップルパイの製造元はリンゴを買い取るのが道理だろう。リンゴの味が合わないなら、そもそもそのリンゴ農家に注文すべきではない。みずから見る目がないと言っているようなものだ。勉強代だと思って、対価を得た分は報酬を支払うのがビジネスとしてまっとうであると考えるものだ(弁護士は裁判に負けても弁護した分は報酬を得られる。労働に対する対価を払うのがビジネスだからだ。成果報酬なら、成果報酬で、そのように事前に通達すべきである)。むろん、納入したリンゴが腐っていたり、虫が食っていたりすれば返品や新品の交換に応じるのは取引として妥当だ。それくらいの保証はリンゴ農家側が負うのが筋である。この場合、リンゴ農家は作家であり、リンゴは小説だ。アップルパイは本であり、アップルパイの製造元は出版社となる。話は脱線するが、基本的に出版社は本という媒体を売っているのであり、中身の小説を売っているわけではない。もし中身の小説を売っているのだとすれば、小説の質ごとに――或いは実売数ごとに――値段が違っているはずだ。需要のない物語と需要のある物語の市場価値が同じなわけがないのだ。すべて同じような値段なのは、出版社が、中身の情報ではなく、本という媒体を売っているからだ(貧富の差によって情報格差がでないようにしている背景も無視はできないが)。誤解がある言い方になるが、出版社はリンゴ単体では金にならないと思っている。アップルパイとして焼きあげるからこそ価値が生じるのだとの自負を抱いているように見受けられる。だがいまはアップルパイよりもリンゴジュースのほうが手軽にリンゴ味を楽しめるので、相対的にアップルパイの価値がさがりつつある。ほかにもリンゴジャムやリンゴアイス、香水や入浴剤など、さまざまな加工品として売りにだされ、リンゴの付加価値が高まるようになってきた。そのため、こんごはリンゴそのものに価値がつくようになっていくだろう。だからこそ出版社はWEB上に小説投稿サイトを開き、リンゴ農家をまとめて囲ってしまおうと考え、実行している。どうしてもじぶんのリンゴをアップルパイにしてもらいたい作家がいるならば、囲われるのもよいだろう。だが前述したとおり、こんごはリンゴそのものに価値がつくようになっていく。わざわざ他人にアップルパイにしてもらう必要はないのだ。過去と現在の変化を眺めてみればよい。そうすれば、二十年後にどうなっているかの想像が、ほんのすこしではあるだろうが、明瞭さを宿すはずだ。協力しあえるならば協力すればよい。ただ、何の保証もないうえに、一方的に利用されるだけのようなら距離を置くのも一つである。おのおの、できることを考え、模索していきましょう。(これは予言や予測ではありません。単なる妄想です。真に受けないようにお願いいたします)


2156:【下請法適用外】
資本金1000万以下の企業は下請法の適用外だ。1000万+1円以上でないと下請法を順守する義務が生じない。そして大手出版社以外の出版社はたいがい資本金が1000万以下だ。下請法を守らずとも罰せられることがない。ただし、独占禁止法は適用内であるので、たとえば私的独占や優越的地位の乱用に該当すれば(或いはその疑いがあるならば)、公正取引委員会の調査対象となる。私的独占とはおおまかに言えば、理不尽な言いがかりで、下請け業者や個人事業主を締めだしたりしていませんよね、いじめたらダメですよ、というルールだ。また優越的地位の乱用は、立ち場がうえだからって理不尽な要求を相手に押しつけてはいけませんよ、無料でお願いを聞いてほしいとか、おまけをしてくれとか、恩を売っておくといいことあるよ、とかそういうことはしちゃダメですよ、というルールだ。また、公正取引委員会へは、ルール違反をしているかもしれない企業がじぶんで「これって問題ありますか」と調査を申し込むことができる。何か問題を取り沙汰されそうで、なおかつじぶんたちに問題がないと自信があるならば、企業のほうで問い合わせてみるとよいのではないだろうか。公に問題になってからでは遅いと思う、本日のいくひしさんなのであった。(以前にも述べたが、小説などの商品は汎用性があり、一つの企業以外からも出版可能なので、独占禁止法の適用外とする向きが出版業界には根強くある。ただし、その出版社からでなければ出版できない内容だったり、修正の指示をたくさん受け、もはやその企業独自の商品と言ってもよい内容であると判断されれば、独占禁止法の範疇内となる可能性がある。どれだけ修正の指示を受けたかが争点となりそうだ。※お断りするまでもなく、いくひしさんは法律に詳しくはありません。ほとんど知らないと言ってよいです。真に受けないように注意してください)


2157:【思いついたことを並べる】
・2019年現在、ここ4年くらいで、ズボンにTシャツをインするのが巷に流行りつつある。というか、流行っている。ズボンの裾も、靴に触れないくらいの丈の長さで、むかしみたいにダルダルの部分がいっさいない穿き方が流行っている。だからどうという考えは浮かばないが、真似をしようとは思わない。シャツをインすると暑いので。ズボンの裾は、まくったほうが長さを選べて便利に感じる。 ・ツーブロックという髪型がある。抵抗のある者も、似合えば何でもいいんじゃないという者も、所感はさまざま抱かれるだろう。校則で禁止された、なんてニュースも見かけたことがあるが、それぞれ事情や考えがあるのだろう。思うのは、たとえばむかしのサムライは頭のてっぺんを剃っていた。おそらく兜をかぶるときに蒸れないようにするのに効果的で、それがかっこいい男の象徴みたいになり流行ったのではないか、と想像している。現代の視点からすると、何がかっこいいのかとしばし考え込んでしまうが、ツーブロックも似たようなものだろう。時代が変われば、カッコよさやうつくしさの基準は変わるのだ。流行とは移り変わるものなのである。より普遍的なうつくしさや、カッコよさは、見た目には表れないと言っていいだろう。他者からの評価もまた移ろいやすいため、普遍性の基準にするには不足であると言えそうだ。とはいえ、うつくしさやカッコよさは、けっきょくのところ観測者がいてはじめて顕現する評価であることに変わりなく、普遍のうつくしさやカッコよさなどはない、と言ってもいいかもしれない。そもそもが普遍そのものが普遍であるのかもまた疑わしい。より長期的に引き継がれる評価でしかなく、言ってしまえば、変えがたい頑固な人類の欠点こそが、やがて「うつくしさ」や「カッコよさ」になるのかもしれない。定かではない。 ・いくひしさんは言葉遊びをしているだけだ。並べた文章の内容を信じているわけでも、支持しているわけでも、肯定しているわけでもない。これは小説でも同じだ。殺人を肯定することだって可能だ。だからといっていくひしさんが殺人をしてもいいと思っているとはかぎらない。しょせん、言葉遊びなのである。虚構である。真に受けないことである。 ・いくひしさんは無責任だ。言葉の責任なんて持てないし、持とうとしたところで、どうやったら持てるのかもよく分からない。批判や非難、そしりや注意を受ける覚悟はあるが、それ以上の心構えがない。基本的に間違ったことしか並べていないと思っているので、間違っている、と指摘されれば、すみませんでした、ご注意いただきありがとうございます、としか言いようがない。誰でもよいので言葉の責任の取り方を教えてほしい。こんなだから言葉のプロとは程遠いのである。みな好きに表現すればよいのに、とすら思っている。一生アマチュアであろう。だがアマチュアがプロより劣っていると誰が決めた?


2158:【超短編25『彼女は虹のかけ橋』】
宣伝のつもりだった。言いだしたのは野村だ。「有名人起用すれば動員アップにPRにもなってがっぽがっぽよ」そんなうまい話があるわけないし、そもそも公演を開くたびに赤字がかさむような劇団だ、参加してくれる有名人がどこにいるのかと、そこのところにまず引っかかる。「ツテを頼る!」顔だけは広い野村には、たしかにツテだけはあった。ただ、それを実利に結びつける技量がなく、言ってしまえば、相互ほう助の精神の域をでず、もっと言えば「私たちの舞台を観に来てくれたらあなたたちの舞台も観に行ってあげる」みたいな付き合いの延長線でしかない。「んなことないって、うちらの舞台に出たらプラスだって。ぜったいいるって、でたがるひと」たった二人の劇団だが、たしかに毎回参加してくれるレギュラー俳優たちはいる。みなほかの劇団や事務所に所属しているが、それでもあなたたちの舞台なら、と七、八人の俳優が集まってくれる。そして今回、もっと大幅に動員数を見込める有名人を起用しようという話になったのだ。「いたよ、いたよ。ビッグゲスト!」(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890545384


2159:【つねに消灯】
むかしのじぶんを思い返して、あのころは輝いていたな、と思うことがない。というか、むかしのじぶんをじぶんだと思えない。ほぼ他人だ。理解しあうことは無理だろう。


2160:【一粒で百美味しい】
だんだん本が読めなくなってきた。一行読むあいだに連想することが増えてきて、いちどにたくさんを読み進められなくなった。ちまちま読む楽しみを覚えた、と言ってもよい。


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参照:いくひ誌。【641~650】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883601693