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いくひ誌。【2141~2150】

※日々、なんとなく生きている、努めて生き残ろうとするでもなく、なんとなく生きていられる。


2141:【ぴゅあんこぴゅあんこ】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんはあれでござる、さいきんはぐっすり、むーむー、でござって、夢のなかではぴゅあんこぴゅあんこしているでござる。だいじょうぶでござるか? 伝わっているでござるか? がんばってついてくるでござる。ぴゅあんこぴゅあんこしながら、いくひしさんは夢のなかでいくつかの分かれ道をかさね見るでござる。どーれーにーしーよーおーかーなー、なんてゆびを振りながら、夢の分かれ道が訪れるたびに、どの道がいちばんおもちろい夢になりそうかな、と考えて、迷って、でもどれを選んでもおもちろそうだから、まあいっか、ってなって、そいやってするでござる。そうやってぴゅあんこぴゅあんこしながらいくひしさんは夢のなかでおもちろい物語を体験するでござる。体験したことならあとはそのままえいやってすれば、それが文字なら文章に、やがては小説になるでござる。いくひしさんは寝ながら物語を考えているでござる。というよりも、夢のなかで、いくつかの同じ舞台の物語を、かさねて同時に見ながら、そのつど、そのつど、濃く見たい結末へと目を向けるでござる。ときには巻き戻して、やっぱりこっちの道のほうがよいかもな、とちがう結末を見たりもするでござる。起きているあいだよりも寝ているときのほうがたくさんあたまを使うでござる。疲れるでござる。だからいくひしさんはお寝ぼうさんなのかもしれないでござるな。いくひしさんはたくさん眠るでござる。すぐに疲れてしまうでござる。でも眠るのがきらいではないでござる。きらいではないというよりも、寝ているのに寝ていなかったりするでござる。眠りながら考えるでござる。ぐっすり、むーむー、でござる。でもいくひしさんは記憶力がよろしくないでござるから、せっかく体験した夢をたいがいは忘れてしまっているでござる。もったいないでござる。でもしょうがないでござる。そういうときは、起きているあいだにも夢を見るようにするでござる。いくひしさんは起きていても夢を見られるでござる。きょうもこれからぴゅあんこぴゅあんこするでござる。みなのものもぐっすり、むーむー、するでござるよ。よい夢を見るでござる。おやすみーでござるー。


2142:【戦争はだだっこ同士が引き起こす】
おのおの、守りたいものが違うだけなのだ。みんな一生懸命なのだ。守ろうとするから、必死だから、相手を余計に傷つけてしまう。配慮ができなくなる。余裕がないからだ。余裕があれば、相手の守ろうとしているもの、たいせつに思っているものがなんであるのかを想像できるだろう。正確なところがわからずとも、すくなくともまずは知ろうという姿勢をつくれるものだ。また、相手の守りたいものが何であるのかを知ろうとするのと同じだけ、じぶんが本当に守ろうとしているものが何なのかにもときおりでよいので耳を澄ます習慣をつくっておくと、厄介な衝突をいくつか避けられるようになるかもしれない。本当はじぶんの生活を守りたいだけなのに、社会秩序や正義を持ちだすと、話がややこしくなる。生活ならまだ正直になれるかもしれないが、それが地位や名誉、優越感となると、とたんにひとは誤魔化したがる。いくひしさんにも地位や名誉への憧れはある。それらを得ることでもたらされるだろう甘美な優越感への欲求だって湧く。明確にこれがそうだ、と言えるほど実感しているわけではないが、まったくないとはさすがに言えない。じぶんで判っていないだけで、はたから見れば一目瞭然であるかもわからない。欲張りではある。自覚している。なんにせよ、いくひしさんの守りたいものなど「じぶんの自由」以外にないと言ってもよいのだから、ほとほと独善的で、厄介極まりない。孤独が好きなのは、他者と関わると自由が減るからだ。一方的に貪りつづけることができない。搾取できない。だから孤独が好きなのだ。さもしい理由である。もちろん孤独が好きな理由はそれだけではないが、そうしたさもしい理由がないわけではない、と明かしておかねば、公平ではないだろう。いくひしさんが「じぶんの自由」を守るために他者に牙を剥くようなことがあれば、それは十中八九、いくひしさんがわるいのだ。我を通したいだけだ。一方的に貪っていたいだけだ。搾取したいだけなのだ。いくひしさんのような人間が、よそさまの守りたいものを傷つけようとするなんて間違っている。だったらいくひしさんのほうで、自由を侵害されたほうがまっとうだ。この場合、自由とわがままはイコールだ。いくひしさんはわがままだ。ただ、それだけのことである。我を貫き通そうとするがあまり、よそさまの守りたいものを傷つけてよいわけがない。身の程を知りなさい。わかっちゃいるが、嫌なものは嫌なのだ。どうりでね、としみじみ思う。戦争がなくならないわけである。


2143:【進歩は対策からしか生まれない】
組織を運営するのはたいへんだ。まず以って、組織が瓦解せぬように利益をだしつづける体制を整えなければならないし、組織としてのリスク管理はもちろんのこと構成員への教育もまた欠かせない。構成員の能力を最大限に発揮させつつ、裁量を制限し、責任のありどころが明確になるようにしていかねばならない。そうした工夫をしておくと、不測の事態が発生したときに因果関係を追及しやすくなる。因果関係がハッキリすれば対処ができるし、再発防止策がたてられる。それでもすべての構成員の動向を管理するのはむつかしい。プライバシーの問題もある。ある程度のミスは発生するものとして運営していかねばならない。だがそれもしだいに組織がうまく回らなくなり、利益がでなくなってくると、基準が緩くなっていく。ミスはどんどん放置されるようになり(それでいて叱責や罰則だけは厳しくなり、反面、対策がどんどんおざなりになっていき)、利益や効率重視になっていく。また、ズルをした者ほど成果をどんどんあげるようになっていくので、過激な手法や、違法スレスレな手法までとられるようになっていく。こうなってくるともう、組織として立て直すのは至難である。腐敗しきっていると言っても過言ではない。そして問題なのは、組織内部にいるかぎり(そして指示をだす立場になればなるほど)、こうした腐敗に気づくことができにくくなる点だ。なにより、気づいても変えようがない。なぜなら、その腐敗のおかげで、組織が組織として成り立ってしまっているからだ。重要な動力源こそが腐敗の温床となっている。否、腐敗しているからこそ動力源たり得ているのだ。除去するのは不可能だ。組織をいちど根本から再構成しないかぎり。或いは、動力源を外部から移植しないかぎり。基本的には、その組織と同等か、それ以上の組織の手による「手術」がほどこされないかぎり、いちど腐敗してしまった組織は変わりようがないのである。だからこそ、すこしの異変に敏感であったほうがよいのだ。すっかり変わってしまう前に歯止めをかけ、修正する必要がある。本当にそれでよいのか、このままでよいのか、と立ち止まり、吟味する余力がないと、そうした修正もむつかしくなるだろう。いまはどの組織も余力がない。余力がある組織はどんどん変わりつづけ、なんども失敗し、新しい地図を広げつづけていく。むかしもいまも、地図を手にした者が時代という名の大海原に帆を広げ、風を受け、さらにそのさきの新天地へと旅立てる。解かっている。ほとんどの組織は地図を手にすることなく消えていくし、せっかく地図を手にしたもののそのさきを描こうとせずに、同じ航路を行き来するだけの客船となる組織もある。いちがいにそれがわるいことだとは思わない。そうした船も社会には必要だ。だが、それだけに傾倒していると、飛行機やドローンや無人船などが台頭してきたときに困るはずだ。もっと言えば、現地に行かずとも人々は家のなかにいながらにして異国の地を歩くことが適う日が訪れるかもしれない。いずれにせよ、そうした新しい地図を描き、さきを行く船たちが現れつづけることを思えば、組織を運営しつづけるためには、そうした旅立つ船をみずからの母船からださねばならない。或いは、みずからがつぎの新天地へと旅立たねばならない。それを、模索しつづける、と言い換えてもよい。万物流転。時代は移り変わるのだ。社会は変わっていくのだ。組織もまた変わりつづけるのが道理である。表層のやり方だけを変えるのは簡単だ。だが、根っこが腐っていては意味がない。目を向けるべきは、組織の核をなす、理念であろう。いまいちど、目のまえに迫るつぎの時代と、組織の理念を照らし合わせ、不協和音が鳴り響かないかを確かめてみる時期なのではないか。ひょっとしたらそうした不協和音を耳にすることで避けられる衝突があるかもしれない。汽笛が、ほかの船との衝突を避ける目的で鳴らすことが義務づけられているのと同じように。人はミスをするものだ。組織もまた然りである。間違うことがわるいのではない。問題は、それを隠したり、放置しようとしたりすることであるはずだ。保身に走ることがもっとも保身にならない時代になりつつある。身を守りたければ、問題点を隠さずに、再発防止策をたてることである。問題を一つも起こすことのない組織よりも、問題があったときに迅速に対策をとれる組織のほうが、システムの面ではより上等である。進歩はそうした対策を重ねることでしか生まれない(とはいえ、進化はそのかぎりではない。なぜなら、退化もまた進化となり得るため)。


2144:【わからない】
政治はまったくわからない。わからないが、わからないなりに、印象を並べてみるとする。政治は、方法論が噛みあわない事態が頻繁に引き起こり得る。噛みあわないのは、目的が噛みあっていないからだ。政治の目的を大別すると三つになる。統治か、システムの維持か、システムの改善である。すくなくとも優先順位をつけねばならず、たほうで、一つの目的を達成するためにはほかの目的もまた満たさねばならず、ある種の矛盾を許容せねばならないので、その塩梅がむつかしい。いまはシステムの改善をすすめるために、統治が優先され、システムの維持がもっともおろそかにされている。だが現状のシステムでは長くもたないと誰もが漠然とであるにせよわかっているはずで、ではどうするか、と考えてみると、どうあっても一時的にはどこかにしわ寄せがいくことになる。そのしわ寄せをどこに寄せるかによって、対立が起きているのが現状であるように見受けられる。またべつの視点においては、国家をどう捉えるかで方法論が分かれそうだ。「人間のように頭脳がまずあり、それを支える器官があり、ゆえにまずは頭脳を率先して守るべし」と考えるか、それとも「すべての器官がシステマチックに働いて全体を機能させるために、重要度はつけられない」と考えるかによって、とるべき方法論が対立しているように感じられる。この場合、頭脳とは、すなわち一部の資本家や企業であり、政治家であるだろう(或いは、憲法であり、司法・立法・行政であるだろう)。頭脳を率先して守れば、なんとか状況を立て直せると考えるのは一見正しく映るが、いちど切り捨てたほかの器官はもう二度と戻らない。いまは移植すれば済むではないか、といった考え方が台頭してきているが、だからといってほかの器官を切り捨てていいことにはならない。切り捨てずに済むようにすることがまずは優先されるべきであるだろう。いっぽうでは、生命維持に関わる器官とそうでない器官があるのは国家も人体も同じだ。無視できない側面がある。かといって、それは重要度というよりも優先順位であり、なぜ優先するかと言えば、ほかの器官を正常に機能させるため、と言ってもよいかもしれない。優先度と重要度は必ずしも一致しない。また、切り捨てるべきは器官そのものではなく、腫瘍やがん細胞であり、それが頭脳にできていないとは限らない。なにより、何が腫瘍でがん細胞なのか、がこれまた考え方によって対立しがちである。弱者や生産性のない者(こう表現するのは好かないが)をそう見做すのか、それともそう見做すような「流れ」そのものであるのか。大多数の国民は「できるだけ早く成果をだしてほしい」と願っている(反面、願ったところでどうせ変わらない、と諦めてもいるだろう)。だからじぶんたちに有利な政策ばかりを支持したがる。だが、目のまえの利益ばかりに目をとられると往々にして痛い目を見るのが世のつねではないだろうか。いずれの考え方にしろ、「じぶんたちががん細胞かもしれない」とまずは仮定してみても損はないはずだ。そのうえでできることをしよう、と考え、行動することが、回り回って、じわりじわり、と世のなかの仕組みをよりよく変えていくのではないだろうか(自粛するのではなく、考え、行動するのである)。これは分析ではなく、単なる印象であるので真に受けないでほしいところではあるのだが(どんなときでもいくひしさんの並べる言葉は真に受けてはいけない)。政治のことはまったくわからない。ほかのこともわからないことばかりである。あたまのよいひとは幸運だ。うらやましいかぎりである。


2145:【手駒だと思ってるんでしょ】
正しさで人は動かない、と言うが、まるで人を動かさなければならないみたいな物言いだ(或いはほかのことでなら動かせるとでも言いたげだ)。人は物ではないのでは?(そして正しさを利用して何かを得ようとすれば、すでにその時点で正しくはないのでは?)


2146:【定期的に言うけれど】
いくひしさんはだいたいおおむねつねに悪の側に一歩足を踏み入れている。悪を失くしてしまえ、とは思わない。そう思うことそのものがすでに悪だろう。誰もが内に悪をしのばせ、ときに身にまとい、他者や環境を思いどおりにしようと企てている。その企てが、あるときは善として評価されることもあるだろう。だが企てを実行するための手段に悪を使っていない保障はない。だいたいおおむね、悪を使って人は何事かをなすのである。どのように悪を用いるか。何のために使うのか。反撃も撃退も正当防衛も制圧も、殺人も強姦もDVも殺戮も侵略も、暴力を用いてなされるのである。逮捕にしろ拉致にしろ誘拐にしろ拘束にしろ、相手の自由を侵害していることに違いはない。いずれにせよ悪を何のために使い、どのように用いるのか、が社会的に許容されるか否か、善と見做されるか否かの違いに繋がる。誰もが悪をしのばせ、使いまわしている。自覚的でありたいものである。


2147:【消費税増税への所感】
消費税増税に関しては、「賛成か反対かを議論する前に国民の過半数が、いったい増税した分の消費税が何に使われ、どう社会が変わるのか、を認識できるくらいに議論を煮詰めるのが先決である」と考えている。増やした分のお金が何に使われるのかが不明瞭である以上は、賛成も反対もできないのではないか、とこれは前回の増税のときにも同じことを思っていた。そしてじっさい、5%から8%に増税されてみて、その増えた分の税収が何に使われ、それで社会がどう変わったのか。そこのところを政府はもっと国民に広く説明していく責任があったはずだ。それが果たされていないうちからの、消費税10%は時期尚早なのではないか、と疑問に思っている。ただし、消費税引き上げ(増税)そのものは、その増えた分の税収でどんな仕組みを強化していくのかによっては、賛成しても構わないのではないか、と考えている。たとえるなら、たくさん献血を募ったところで、患者さんに適切に輸血できる仕組みが整っていないのなら(或いは献血を長期保存できるような仕組みがないのならば)、どれだけ献血を増やしたところで根本のところで問題は解決されないのと同じだ。あべこべに、献血から輸血までの流れがスムーズかつ適切であるならば、結果として無駄が減る方向に働き、必要とされる献血の総量は減っていくはずだ(重要なのは無駄を削ることではなく、結果として無駄が減ることである。そうした仕組みを整えることが政策の役目の一つであるだろう)。いずれにせよ、新自由主義、いわゆるネオリベラリズムが台頭して久しいが、自由経済を推進すれば経済は活性化するが、貧富の差は拡大する。そのことによる弊害を防ぐためには、政府が国民全体の生活水準を落とさないような政策を固めねばならない。極論、貧富の差が問題なのではない。そのせいで貧しい者たちの生活水準や待遇がさがることが問題なのだ。国が豊かになれば相対的に生活水準はあがっていく、といった理屈が唱えられがちだが、生活水準の差が貧富のあいだで拡がりつづけては意味がないのだ。過去百年と比べてどれだけ最低生活水準があがろうと、貧富の差に比例して生活水準の差までが拡がっては意味がないのである。繰りかえすが、貧富の差は拡がっても、さいあく構わないのである。稼げなくとも、一定以上の生活を保てればよいのだ。もっと言えば、働かなくともいまよりもずっと快適な生活を送れれば、それは、お金をたくさん稼げるようになるよりも望ましい環境であるはずだ。繰りかえすが、根っこにある問題は貧富の差ではない。その差に応じて、生活水準や待遇にまで差が拡がりつづけてしまうことが問題なのである。これを防ぐためには、社会福祉の充実と、基本的人権の尊重が示す最低生活水準の内容を時代ごとにアップデートし、貧富の差よりも生活水準の差が拡がらないような政策を政府が実施しつづていくよりほかはない。経済は自由化して構わない。企業はどんどん儲ければよいだろう。だがその分、経済の熾烈な競争原理から弾かれた「社会的弱者」であっても裕福層とそう変わらない水準で生活を送れるような社会制度を充実させていくことが前提にたつ。そのために税金が使われるのならば、消費税増税も致し方ないのでは、というスタンスに2019年7月22日現在のいくひしさんはいます、ということを打ち明けて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、いくひしさんは政治や経済をよく理解してはおりません。参議院と衆議院の違いもろくに言えません。そうした素人はなはだしい一介の「社会的弱者」の戯言ですので、真に受けないようにお願い申しあげます)


2148:【競わなければならないなんて誰が決めたの?】
いくひしさんは弱いし、孤独だけれど、べつに困らないし、ちょうどよい。損がないわけではないけれどそれよりも弱くて孤独なことで得られるメリットのほうが大きいから、不満はない。望むところなのである。望んでこうなのである。弱いまま、孤独なままで生きつづけられたら文句がない。みんなはどうしてそんなにがんばって、強くなろう、繋がろうとするのだろう。そうしなければきっと生きていけないのだな。たいへんそ。


2149:【孤独にもレベルがある】
いくひしさんの孤独レベルはけっこう下のほうだ。孤独レベルでもっとも高いのはきっと、不老不死のまま延々と宇宙空間を漂う状態だろう。或いはたったひとり幽霊になってしまって、誰とも触れあえず、会話もできず、それでも社会の外側にでられずに、さまよいつづける状態かもしれない。それに比べたらいくひしさんの孤独レベルなんて赤ちゃんのよちよちレベルだ。言うほどいくひしさんは孤独ではない、と言い換えてもよいかもしれない。インターネットはできるし、一方的にリツイートやいいね!をしているし、小説だって読んでくださっている方がいる。やっぱり言うほど孤独ではないのだ。以前にも述べたけれども、これくらいの繋がりで充分なのである。みんなにとってのぬくぬくひなたが、いくひしさんにとっては灼熱に感じられるだけのことなのだ。もっとちいさいぬくもりでよい。直接でなくてよい。間接的であればあるほど好ましい。人と人との繋がりよりも、表現と表現の繋がりくらいがちょうどよい。相手と触れあわずとも、相手の考えや想像のぐねぐねした行進を眺められれば、それはたいせつなひととテーマパークのパレードをいっしょに眺めるよりもずっといくひしさんの胸のうちをほくほくとさせるのだ。欲がないわけではない。むしろ欲張りだろう。触れあえば、熱を感じた分、こちらの熱も相手に奪われる。でも表現であれば一方的に貪っていられる。書籍や映画であれば対価を払うのに、SNSやWEB上では無料なのだ。こんなの相手から労力と才能を盗んでいるようなものだ。欲張りすぎる。なんて時代だ。思うものの、法律でダメだよってなっていないので、やっぱりそこは時代の未熟さに甘えてしまっている。仕組みの未熟さに流されてしまっている(いくひしさんにかぎっては無料で貪られたい性分なので、むしろ甘えて流されてもらったほうが得をする。小説を読まれることで作品として完成するのだから、読まれないと損である。ただ、いますぐ読まれる必要はないと思っている。おおざっぱに言えば、百年後でも、一万年後でも構わない。ただし、できればあなたに読まれたい。ほかの誰でもなく、今この瞬間にこれを読んでいるあなたに。それとも〈私〉に。或いは『私たち』に)。いずれにせよ、いくひしさんのなかでは、いくひしさんはべつに孤独でもなんでもない。だけれども、みんなの基準と比べれば、孤独のほうに寄っている。いくひしさんはじぶんの言葉を持っていないので、じぶんのことを語るのが苦手だし、じぶんのことを語るにしても、なかなかじぶんを基準にして考えることができない。というよりも、確固とした自我みたいなものがないので、我執や欲がつよいくせに、じょうずに話すことができないのだ。いまこうしてしゃべっているじゃないか、と思われるかもしれないけれども、これはこれ、それはそれ、いくひしさんはいくひしさんで、いくひしさんのそとのひととは違うのだ。だからキャラだっつってんじゃん。みたいなね。こういう感じで、よくわからないままに本日の「いくひし誌。」とさせてくださいな。


2150:【食洗機、べんりです?】
いくひしさんはよわっちいので、いくひしさんをヘコませたければ、マイナスなことを言えば、すぐにヘコむよ。でもスポンジみたいにスカスカだから、もちろんおつむがってことだけど、ヘコんだこともすぐに忘れるよ。いくらでもヘコむよ。粘り強さとは無縁だけれども、弾性は高いよ。すぐにつぶれるけれども、何度でもよみがえるよ。でも炎上にはよわいよ。燃えたら戻らないから、SNSで発言するなんて、よわよわないくひしさんには考えられないのだ。未だにお皿はスポンジで洗っているよ。食洗機とは無縁なのだ。


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参照:いくひ誌。【1471~1480】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886507947

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