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いくひ誌。【2131~2140】

※日々、人間のフリがどへたくそ。


2131:【延々とつづくドミノ倒し】
これまでできていたこと、かつては得意だったことができなくなる。十年単位で何かを継続していると、そういう衰退が頻繁に起こる。何かをできなくなった分、ではほかにできるようになったことがあったのか、と問われれば、そうかもしれないし、そうではないのかもしれない、と首をひねるのがせいぜいだ。よしんば、何かを得ているよ、と答えたところで、そのように感じられるだけかもしれない。全体的には衰えているのだ(そうでなければ人は寿命で死んだりはしないだろう)。それもそのはずで、時間は有限であり、これまでやっていたことの時間を新しい技術獲得のために費やせば、すでに体得した技術は衰えていくのが道理だ。現状を維持するだけでもエネルギィを使っている、時間を使っている。その分のエネルギィと時間をほかに費やすのだから、衰えて当然だ。いわゆるトレードオフなのだろう。等価交換だ。得たものを手放すことで、新しいものを得る。だが若いときほどこのトレードオフの原理が働かない。学んだ分だけ吸収し、衰えることなく、どんどん新しい技術を体得できる。それが、歳をとるにつれて、これまで蓄えてきたものを手放すことでしか、新しいものを得られないようになっていく。抽象的な話をしているのでむろんこれは絶対ではない。例外はいくらでもあるだろうし、単純な年齢にその要因を求めることはできないだろう。若くとも時間が有限であることは変わらない。トレードオフの原理はつきまとう。ただ、衰えるのにかかる時間と成長するのにかかる時間を比べると、年齢の若い者ほど、後者の成長にかかる時間のほうが短いように概観できる。つまり、何かが失われるあいだに、もっと多くの技術を体得している。成長とはつまるところこのことであり、ひるがえって、おとなになってしまうと成長ではなく、蓄えたものをまたべつの技術へと変換するだけの単なる変化となってしまう傾向にあるように思われる。いささか乱暴な考察になってしまったかもしれない。考えというよりも印象にちかい。繰りかえすが、例外はすくなくないだろう。年齢を重ねても単なる変化ではなく成長を繰りかえす人間はいるだろうし、もっと言えば単なる変化が成長を凌駕することだってあるだろう。成長すればいいというものではない。だがすくなくとも、かつて成長した分の技術を「糧」として、ひとは新たに変化し、そして新しい何かを創造していくのではないだろうか。それを、影響と言い換えてもよいかもしれない。ひとは、影響を生みだすために、あれこれと日々を生きている。本当か? それはいったい誰への影響で、いつ作用する影響であるだろう。結果を「いつ」から「どのくらいの範囲」に及ぼすか。影響一つとっても、一口には語れない。考えだしたらキリがない。こればかりはトレードオフの原理とは縁遠いと呼べそうだ。


2132:【サビつき】
久々にストレッチをした。ひごろから運動不足なので、節々や筋が悲鳴をあげた。というよりも、悲鳴をあげていたことに気づいた、と言ったほうが正確かもしれない。主に背骨をサンドウィッチしている筋肉と、肩、それから股関節と、右の太もも、加えて、右足のふくらはぎのちょうど脛の骨との繋ぎ目が、とくにサビついているのが痛いほどというか、痛いからというべきか、感じられた。怠け者のいくひしさんはスポーツ全般が苦手であるので、ストレッチも率先して行ったりはしない。おそらく「ストレッチをしよう」と意識して行ったのは数年ぶりではないだろうか。すくなくとも記憶にあるのは2016年であるので、おおよそ三年ぶりといったところか(後日追記:2017年の「いくひ誌。748」にてストレッチをやめる、との記事を並べていた。繰り返し述べていますが、記憶力の乏しいいくひしさんの言うことを真に受けてはいけません)。サビつくわけである。以前の「いくひ誌。」でも並べたことであるが、ストレッチを日常的にこなしていると基礎代謝があがる。これは燃費のわるい身体をつくることを意味するので、何もせずともエネルギィを消費しやすく、痩せやすい体質になる。怠け者のいくひしさんはできるだけ燃費をあげたいので、ある時期からストレッチをしなくなった。それに伴い、身体の不調が六割方減ったので、結果としてやめてよかったと思っているが、これは単純にストレッチをしなくなった分、余計に動かなくなったので、身体に負荷がかからくなったために身体の不調がおさまった、と分析するのがより正確なところかもしれない。ほんじつ、久々に「ストレッチをしよう」と思い立ち、実践してみたところ、定期的にストレッチはしたほうがよいかもしれない、と思い直した。ひと月に一回くらいはそういう日をつくってみようと決意した。ちなみに、ストレッチのコツは、筋ではなく関節の可動域をひろげようと意識することだ。筋をむりくり伸ばしても、身体を痛めつけるだけなのでおすすめはしない。筋トレをしたいならべつだが、ストレッチは身体をやわらかくするというよりも、身体を自在に動かせるようにするための「関節の詰まり(サビ)」を落とす(ほぐす)ことを目的にしたほうが、より好ましい結果に結びつくような気がしている。とはいえ、運動が苦手ないくひしさんの言うことであるので、真に受けないでほしいところではあるのだが。やわらかさとしなやかさは必ずしも一致しない。どちらかと言えば、やわらかすぎれば、しなやかさを失う傾向にある。プリンや豆腐も、ある程度固いからこそカタチを保てるのであり、人形だってゆるゆるの関節では立った姿勢を保てない。タコのような身体を目指すのも一興かもしれないが、超人になりたいわけではないのなら、身体のサビを落とすだけで充分ではないだろうか。日常生活における身体の負担を軽減することが目的であるならば、過度な負荷をかけてまで身体をやわらかくする意味はないように思うしだいだ(同じ理由から、筋トレもまた、筋肉をつけることを目的にするのではなく、身体の負担を軽減することを目的にしたほうが好ましいように思われる。ひとことでまとめるならば、無理をしないように、となるだろう)。


2133:【体験それ自体に価値があるわけではない】
ひとはじぶんがなぜ泣いているのか解からなかったり、なぜこんなにまでも心が揺さぶられて、感動しているのかが解からなかったり、解からないのにそれを止めることができずに、抗えずに、どうしようもなくなると、あとはもう笑うしかなくなるのだ。笑いながら泣いて、笑いながら感動する。意識と切り離されたところで、胸を打たれる。生きてきたこれまでのあいだにそうした瞬間に出会ったことがなかったので、びっくりしてしまった。笑うしかないのだ。よい体験とは、宝物のような過去の積み重ねがあってはじめて成り立つのだ、と知った。しかも、その瞬間になるまで、それらが宝物だとつよく意識した覚えがなかったので――ありていに、そこにあって当然のものであったからだが――ますますびっくりしてしまった。体験とは、過去を圧縮し、宝石に焼きあげるためのきっかけであり、体験それそのものに価値があるわけではないのだ。よく生きよ、とは言ったものである。


2134:【他人事のほうがいい】
じぶんのことで何か得をしたり、利を得ても、感動したりはしないが、他人のことだとじぶんのこと以上に、じぶんのことのように、うれしかったり、心を乱されたり、琴線を揺るがされたりする。他人事のほうが自分事よりもはるかに噛みしめる価値がある。というよりも、他人事でなければ自分事にはできないらしい。他人なぞ好きでもなんでもないし、関わりたくもないが、だからこそ、それでも関わっていられる相手のことは、じぶん以上に、じぶんのことのように感じられるのかもしれない。他人事のほうがいい。他人事であれ。


2135:【我がつよい】
共感ができない。どう考えても他人は他人だし、じぶんはじぶんだ。人類であること以上の共通点を探すのはむつかしい。だからこそ、同じ素体でありながら未知をたんまりたくわえた他人の構成要素を探りたくなるのかもしれない。他人なぞじぶんではないのだから極論どうでもいいが、他人がなぜ他人であるのかを知るのは嫌いではないようだ。どれほどがんばっても、知り尽くせない点もまた宇宙のように神秘的で、魅力が高い。それでいて容易に知った気になれるのだから目を向けるなというほうが無理がある。共感ができない。孤独が好きだ。でもそれは人間などいなくなればいい、という拒絶とは違っている。覗かせてほしい。一方的に。貪らせてほしい。極上の虚構を。あなたをあなたに仕立てあげる底なしの――。


2136:【共感よりも違和感】
他人をじぶんのことのように感じる共感がだいじなように、じぶんを他人のように感じる違和感もまただいじな気がする。共通点をみつくろうことも、違いを見つけることも、両方、思考には欠かせないはずだ。でもいまは、共通点ばかりが重宝され、違いに関しては差別や排除の理由にされがちだ。違いこそ本来、目を向け、考えるべき深淵さを伴っている。対人関係にしてもそうだ。共通点がなければ相手を尊べない人が多い。共感できなければ関心を向けない人が多い。しかし、じぶんとは違っている人間のほうが、じぶんとちかしい人間よりも学ぶべき点は多いはずだ。違いを探そう。違いに思いを馳せよう。違っている神秘を噛みしめよう。違和感をたいせつに。(それはそれとして他人と直接関わりたくはない)


2137:【十年後を見据えておこう】
SNS上では「好きか嫌いか」が判断基準の大部分を占めており、正しいか否かはよこちょに置かれているふうに見受けられる。「好きか嫌いか」は瞬時に判断がつくが、「正しいか否か」の判断には時間がかかる。時間をかけても本当にそれが「正しいのか」は断定できないことのほうが多いだろう。ゆえに、SNSという瞬間瞬間の評価が重視されるシステムのうえでは、瞬間的に判断のつく基準が採用される傾向にある。とくに問題はないだろう。時間の経過に従い、そうした瞬間的な判断が根付き慎重さの失われたシステムは信用そのものを失っていく。信用を構築するためにはある程度の「正しさ」の担保が必要だからだ。もうすこし正確には、正しさを追求しようとする姿勢が求められる。いまは相互交流型のSNSが登場して日が浅いため、物珍しさと情報の流動性の高さから大衆に受け入れられているが、このさき、SNS上で評価されることの価値は、いまよりもずっと落ちていくことが想像できる。飽くまでSNSではないところで信用を築きあげ、その広報としてSNSを利用する流れに帰着していくだろう。SNSで話題です、は宣伝文句として機能しなくなる日が間もなくやってくる。すでにそうなりつつある、と言ってもいいかもしれない。以前にも述べたが、SNS上のフォロワー数やバズッたつぶやきなど、数値化された評価は、その後もアカウントやつぶやきそのものを削除しないかぎりネット上に残りつづける。しかしその数値の信用度は、それが付与された時期がもっとも高く、それ以降は下降の一途をたどる。一般にどんな事象であれ、評価されつづけなければ評価は下がるのだ。しかし見かけの数値はそのままなので、たとえば五年前からフォロワー数が10万で推移していないアカウントと、いま現在三日でフォロワーが3万人まで増えたアカウントでは、圧倒的に後者のほうが信用度やSNS上での価値が高いと言える。現に、フォロワーが何万人もいるのにすでに日々のつぶやきや投稿にほとんど反応を得られていないアカウントが散見されはじめている。ひとは飽きるのだ。そして、もし「好き嫌い」という判断基準にマイナスの要素があるとすれば、この「飽きる」という点にあるだろう。好きなものはいずれ飽きる日がくるが、「正しいこと」は、時間が経っても「正しさ」を保てる。正しさとはそもそも、より普遍的な評価を備えている状態を意味するからだ。むろん、完全な正しさなど、人類はまだ見つけられていないだろうから、時代によって「正しさ」そのものは変容していくだろう。それでも、「好き嫌い」よりかは時代の変遷への耐性を帯びていると呼べる。SNS上では個々人に「見かけの評価」がつきやすい。個人がバブルをいくらでも膨らませられる時代なのだ。反面、そうして膨れたバブルは一定期間割れることなく、しかし確実に空洞を広げながら、徐々に個人を蝕んでいくだろう。たとえばSNSの運営元がサービスを停止したら。規約を変更したら。課金制に移行したら。さまざまな外的因子によって、SNSで溜めた評価があっという間に気泡に帰す事態が考えられる。SNSがなくとも失われない価値を構築する姿勢を維持できるか否かが、2020年代を生きぬくにあたって有利に働く資質となっていくはずだ。それは、会社という組織に縛られ、適応することが社会で生き残る合理的手法だった時代が、2010年代に入って急速に色あせたのと似た原理を伴っている。打席に立ちつづけた者がヒットを打つ。たしかにそうかもしれないが、いったい何が打席であるのかは、じぶんで決められる時代なのだ。他人のつくった打席に入りつづける日々もそうわるくはないだろうが、自力でグランド(グラウンド)を整備し、打席どころか球場そのものをつくってしまうのも一興かもしれない。以前に比べれば、いまはそうした球場を誰でもつくりあげやすい時代なのだ。そして、そうした土壌は今後ますます発展していくだろう。インターネットはさらに深化していく。目のまえの土俵(フレーム)に囚われずに(まったく見向きもしないのもどうかとは思うが)、「好き嫌い」を越えた価値をじぶんのなかに溜めていこう。


2138:【くだらない】
素材からPCやスマホをイチからつくりあげるためには、いったいどれだけの知識と労力と時間がかかるだろう。一生を費やしても足りないのは明らかであり、ほとほと人類の集積してきた叡智の層には圧倒されるばかりである。世のなかの頭がよいと言われている人たちですら、一生かけても無理なのではないか。素材を採取する技術から加工する技術、或いは採取したり加工したりするための装置をつくるだけでも一生がかりだろう。いいや、どんな素材が必要で、それはどこに行けば採取できるのかを突き止めるだけでも一生がかりかもしれない。いっぽうでは、ソフトを開発するためにはそれを計算するための装置が必要であり、段階的に計算機をつくりあげていく必要がある。おそらく、これまで人類が辿ってきた来歴をほとんどそっくりそのまま辿るカタチになるはずだ。書籍やインターネットを使えるとしても(検索や索引できるだけで、パーツを分解したり、流用したりはできないとして)、誰の手も借りずに素材からPCやスマホをつくりあげるのは、やはりというべきか、一生かけてもむつかしいように思う。まず以って、電子の性質をつきとめるだけでも、百年はかかるだろう(たとえばパウリの排他律やフェルミエネルギィなど)。いったいどれだけの知識と技術と時間の集積があればこれだけのものがつくれるのか。歴史に名を遺さずに消えていった、けれどたしかにそこに存在し、人類の叡智の集積に貢献した者たちがいたのだ。そしてそれは現在進行形で蓄積されつづけている継承でもある。ざんねんながらいくひしさんはそこには加わることはできないが、益体なしの外野として存分に甘受させてもらうことにしよう。いつだって外野がもっとも無責任に楽しめる。プレイヤーにのみ許される至福を知ることはできないが、眺めているだけだからこそ味わえる愉悦もあるものだ。一生をかけてもつくりだすことのできない技術の結晶を使って、一生かかっても消費しきれない情報を貪りつづける。くだらない一生かもしれないが、くだらないことがつまらないと誰が決めた? たいがい穴に詰まっているものはくだらないものである。くだらないから詰まるのだ。ならば底なしの穴を埋めるのもきっと至極くだらないものであるはずだ。くだらない、くだらない。くだらないって、なんだろう。くだらないものが寄り集まって、たいしたものができるのだ。価値のあるものなんてたいがい、くだらないものからできている。真実、純粋にくだらなくないものなんて何かありますか? くだらないからつまらないのではないはずだ。くだらないものをくだらないままにしているからつまらない。くだらない、くだらない。たくさんのくだらないを組み合わせて、あなただけのたいしたものを編んでいきましょう。


2139:【WEB小説の未来】
これからさき、AIの翻訳機能の精度があがっていくにつれてWEB作家の小説は言語の垣根を越えていくことが予想されます。誰であってもボタンを押すだけで海外の小説を読めるようになるのです。同時に、じぶんでつむいだ小説を、海外のひとにも読んでもらえるようになります。どんな翻訳であれば読まれやすいかはビッグデータとして集積され、深層学習を通して、翻訳機能に反映されるでしょう。そうなれば、文体は最適化され、一人の文豪が無数の小説をつむいでいるかのようなある種、神の見えざる手から神作家(AI)が君臨するような未来が到来するでしょう。こうした兆候はあと十年もしないうちに可視化されるようになると思います。仮定の話ではありますが、そうなったときに問題となるのが、翻訳の翻訳の翻訳、といった具合に、自動翻訳を繰りかえされ、原作がどれかを辿れなくなるような弊害がでてくる点です。或いは、AIのほうで多種多様なWEB作品をかってに複合して一つの作品に練り直してしまうような世界になるかもしれません。集積された物語は抽象化され、パターン化され、いくつかの分岐にタグ付けされ、部品をカスタマイズするように組み換え可能となるでしょう。現在の小説家が、予測変換機能を使い、類義語や文章の類型を自動で候補にあげてもらい、指先一つで選んで小説をつむいでいるのと似たようなことが、物語の大筋においてもできるようになるのです。読者がそれを選んでもよいでしょうし、AIのほうで自動で見繕うことも可能でしょう。読者は読みたい小説のジャンルやパターンを選ぶだけで、好みの物語を、馴染みの文体で読むことができるようになるのです。そうなったとき、WEB作家はただただAIに餌を与えているだけの存在となってしまい兼ねません。もちろん小説投稿サイトのほうで自動翻訳を禁じるような機能を実装するでしょう。しかし、翻訳することで得られるメリットと、それを禁じることで生じる機会損失では、明らかに後者の損失のほうが大きくなることが予想されます。現在のWEB作家が無料で作品を公開することに抵抗がないのと同じように、翻訳AIがインターネット上に跋扈する未来では、誰もが世界中の読者を相手に自作を読んでもらうことに躍起になるでしょう。そうなると、企業のほうでも、そうしたメリットを優先し、自動翻訳を禁じるような真似はしないのではないか、と想像します。もちろん、神(AI)の手によってつむぎだされた極上の小説が無数に誕生しようと、それだけに読者が集中するわけではないでしょう。世界でどれほどハリーポッターが売れたとしても、それ以外の小説もまた読まれるのです。ただし、いまよりもオリジナルのWEB小説が読まれる機会は減るでしょう。神(AI)の手が機能するようになれば、そもそもが小説をつくることの意味が、物語の組み合わせパターンを考えることへとシフトしているかもしれません。一文字一文字、判子を捺すように文字を並べ、文章をつむぐことはもう、人間のする作業ではなくなるのです。文章のお手本は、小説でなくとも、インターネット上には無数に溢れています。素材はいくらでもあるのです。まったく新しい文体の、まったく新しい物語すら神(AI)の手はつむぎだせるようになるでしょう。著作権利上の問題はありますが、ほとんどグレーのうちに神(AI)が全世界の人間を魅了し、制限されることなく、身近な存在(サービス)となっていくのではないか、と妄想しています。インターネットがそうであるように、とびきり便利なサービスは、それが独占されないかぎり、世に受け入れられるのです。その影響で、これまでの文芸という文化が崩壊しようと、そんなことは大多数の者たちにとってはとるに足りないことなのです。小説そのものはいまよりもずっと独創性に溢れ、刺激に溢れ、時代を反映し、人々をとりこにするでしょう。小説家は絶滅することはないでしょう。ただ、それを示す意味はいまとはずいぶん異なるはずです。小説はマシンのつむぐものであり、小説家のすることは、パターンを模索することに終始するでしょう。また無数に溢れる作品のなかから、イマドキの作品を見つける「発掘家」としての側面も併せ持つでしょう。総合して言えば、現在の小説家はそう遠くない未来、絶滅することになるでしょう。ただそれでも自力で物語を編む物好きはいるでしょう。現在であっても手書きで小説をつむいでいる者があるように。未来においても、そうした物好きはいるはずです。ただし、そうした者が商業の舞台で活躍することはほぼないでしょう。たほうで、脚本家ともなればもうすこし高度なシステムを使うようになるかもしれません。人形遊びをするように登場人物を模したコマを動かし、じっさいに口にした会話を記録させることで、劇としての動きとセリフを同時に脚本に仕立て上げていくシステムが採用されていてもおかしくはありません。映画でもそうしてまずは物語の全体像をつくりあげてから、映像として仕上げていくのが効率がよいように思います。CGアニメであれば、こうしたシステムを利用することで、単独でも高度な映像作品をつくりあげられるようになるはずです。応用すれば、ARの映画もつくれるでしょう。まずはちいさな箱庭にて人形遊びをする。近い未来、物語の創作は飛躍的に発展しそうですね。おおざっぱな妄想を並べて本日の「いくひ誌。」とさせていただきましょう。(あんぽんたんの妄想ですので、真に受けないようにお願い申しあげます)


2140:【弱いのはいまにはじまったことではない】
じぶんが無力で非力な存在だということを受け入れてからでなければ成せないこともある。目のまえの誰かを救える者は幸運だ。ただし、大多数の者はそんな真似はできやしないのだ。それでいい、とは言えないが、すくなくとも誰かを救うことができずとも、誰かを「救わなければならない存在」へと突き落とすような真似はせずに済むはずだ。同時に、「救わなければならない存在」になりかけている人物に寄り添い、はげまし、共に耐えしのぶこともできないわけではないだろう。ヒーローや救世主のように、短時間で劇的な成果をあげるような派手な行いではないかもしれない。それでも地道に、日々、己の弱さを見詰め、内なる悪と向き合い、一歩一歩、足取り重く生きることもまた、それはそれで尊ぶべき何かを伴っているように夢見てしまう。無力であり、非力だ。だからといって諦める必要がどこにあるだろう。ヒーローにはなれずとも、救世主になれずとも、誰からも感謝をされず、見向きもされず、存在そのものを認識されなくたって、それでもできることはあるはずだ。できることを敢えてしないようにする、という自制もまた、悪を飼い馴らすうえで有効だ。自制は、言葉にするだけなら簡単だが、実践するのはむつかしい。自制しつづけることはもっとむつかしい。自制は己を制御することだ。他者に強要すべきことではない。律するのではない。制御するのだ。基準に当てはめるのではない。基準をつねに模索しつづけるのだ。無力で非力な者にできることなど高が知れている。だが、弱者にしかできないこともある。自覚し、自制し、自然を感じ、人とは何かを考える。我々は生きている。無力で非力なこのいまを。それでも夢見るこのさきを。いっとき、いっとき、生きている。


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参照:いくひ誌。【741~750】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884057596

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