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いくひ誌。【2121~2130】

※日々、他人の視線に怯えている、他人に重ね見えるおのが価値観が、我が身の醜さを浮き彫りにするから。


2121:【キャラです!】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんは性格が最悪なことで有名でござるけれども、たとえばこの「いくひ誌。」に、いくひしさんの中の人にそっくりな文章をつむぐいくひしさんは一人もいないでござる。ぜんぶキャラでござる。いくひしさんの中の人は基本、しゃべらないでござるから、どんな文章も、いくひしさんの中の人とはかけ離れているでござる。ちなみにどれくらい性格がわるいかと申すとでござると、たとえばいくひしさんはよわっちぃので、よく人から舐められがちでござるけれども、いくひしさんの中の人の言葉を借りれば、「おまえが俺を舐めてんじゃねぇんだよ。俺様がおめぇに舐めさせてやってんだ。何かってにやめてんだアン? 俺様がいいと言うまで舐めつづけろ。しっかりご奉仕しろな。俺様は律儀だからよ、もらった【おん】は必ず返すよ、楽しみにしてろよな」といった具合でござる。なー。何様でござるか? 俺様でござるか? いいかげんにするでござる。あとは、そうそう。どうしてそんなに舐められて、見下されて、嫌われて、無視されて、仲間外れにされているのに平気なの、といった問いかけには、「好きなんだよね。あたしがちょっと本気だしただけで真っ青になる相手の顔見るの」といった具合だったり、「爽快なんです。ぼくのことをそんざいに扱った相手が、ぼくのせいで落ちぶれていく様を見るのが。かわいそうですよね。ぼくなんかをいじめちゃったばっかりに」といった具合だったり、とかく、かわいそうかわいそうと涙を流しながら、その手でかわいいかわいい赤子の首をひねりつぶすような、醜悪の権化こそが、いくひしさんの中の人でござる。騙されてはいけないでござるよ。こんないくひしさんですら、いくひしさんの中の人が嫌いなんでござるから、よっぽどでござる。だからさいきんまで、いくひしさんは、いくひしさんの中の人を、いくひしさんの奥深くに押しこめてきたでござるけれども、怠け者のいくひしさんだってただ怠けて日々を過ごしてきたわけではないでござる、そろそろ手懐けられるかもしれないでござるな、と思い直して、いくひしさんの中の人を、いくひしさんの外にもだしてあげるようになってきたでござる。その分、これまでいくひしさんの表層にいたほかのいくひしさんたちがすっかりいなくなってしまったのだけれども、まあそうですね、もちろん消えたわけじゃないですよ、ぼくたちはちゃんとここにいるし、あたしだって頼まれれば手を貸すのにやぶさかじゃないけどね、とはいえおめぇらがいたところでクソの役にも立ちゃしねぇけどな、しかしそれはそれとしてまだあのコを御しきれると決まったわけではないのですから予断は禁物ですよ、私は端から反対してたのですから、いまだって気が気ではありません、なーんてみなのものがいくひしさんの奥底でぺちゃくちゃしゃべってるでござる。きっといくひしさんの中の人が外にでてきちゃったので、おまえがこっちくるならあっちいこう、てな具合に、みなのものは身を隠しちゃったのかなー、なんて想像しているでござる。いくひしさんはみなのものを眺めるお役目でござるから、こうして好きに上にも下にも、中にも外にもいられるでござる。念のためにもういちど言っておくけれども、いくひしさんの中の人――いまはもう外にいることのほうが多くなりつつあるけれども、間違っても、信じたり、高く評価したり、近寄ったりしたらいけないでござるよ。なぜって、それはだってyyyyyyjこおjnはおのんぶbbyvsvhの個gbんえおんどこ、pmにhびあ     もちろんこれだってキャラだし、ウソだから、いくひしさんのことはたくさん信じて、慕って、高く評価してくれよな。で、ござるー。


2122:【ラグ理論】
いくひしさんはものすごく浅薄だ。学がない。知識もお粗末なら知恵も穴だらけ。信憑性のかけらもない口からでまかせ、しったか野郎であるけれども、それはそれとして、浅くではあるものの未知の分野に目を向け、ほんのすこしずつではあるものの、これまで触れてこなかった情報に触れている。そうしたなかで、宇宙の起源や物質の成りたち、事象の構造や人間の意識、そしてさまざまなシステムに共通するような点はないか、と思いを巡らせてみると、なにやら見えてくるのは「情報の遅延」である。いくひしさんはこれをかってに「ラグ理論」と呼んで、じぶんなりの妄想の集積を図っている。たとえば相対性理論において、重力の差は時間の流れの差として現れ、また時空を歪めるとされている。これは極小の量子世界においても生じ得るといくひしさんは睨んでいる(しかし一般的には極小世界においては素粒子が質量を持たない傾向にあるので――質量を有している素粒子もむろんあるが――、基本的には相対性理論の適用が見送られている。ゆえに古典物理学である相対性理論と近代物理学である量子力学のあいだには、互いに矛盾する考えが横たわっている。現在、双方を統一するための理論の構築が、最先端物理学において試みられている。ただし、人間がどう解釈しようと、ミクロもマクロも、地続きに世界を編みこんでいる。たとえば、固体と液体は物質の状態の差を人間の解釈で割り切ったカテゴリーであるが、しかし氷と水は、それをかたちづくっている原子や分子に差異はない。同じH2Oからできている。分子配列が異なるだけであり、もうすこし厳密に言えば、熱を帯びているか否かにその差の違いを求めることが可能だ。物質の状態変化のことを、相転移と呼ぶが、いったいどこからどこまでが水で、どこからが氷なのか、それを厳密に定義することは原理的にむつかしい。沸騰した水は、いったいどこからが気体で、どこからが液体なのか。雲は気体であるのか、固体であるのか、それとも液体なのか。これもまた厳密に定義することはむつかしいだろう。同じように、ミクロな世界を記述する量子力学とマクロな世界を記述する相対性理論とのあいだには、厳密な境目などはなく、中間の世界を記述する新しい解釈は、おそらくいずれの理論をも統一し得る世界観を帯びているはずだ。それは視点の違いであり、何を基準に世界を見詰めなおすのか、のさきに現れる叡智であるだろう。ともあれ――)。極小の世界においても重力の差異は、素粒子間、或いは場においても発生すると仮定すれば、そうした差は、時間の流れの差として現れ、相互作用の遅延としても現れると想像できる。つまり、ある種の抵抗(反発力?)がそこに生じる。なめらかに変化が右から左へと伝播するはずが、重力の差――言い換えれば時間の流れの差があるために、ラグが生じる。たとえば渋滞が発生する要因の一つに、ブレーキが挙げられる。交通量が一定以上の道路では、ゆるやかな上り坂、或いはトンネルなどの心理的抵抗のある障害物の影響で、ブレーキがわずかに踏まれ、その一瞬の遅れが後続車に伝わり、どんどんと詰まっていき、最終的に停車の列ができるほどにまで遅延のラグが顕現する。渋滞の完成だ。これと似たことが、量子世界(極小の世界)においても引き起こっており、そのラグこそが物質の性質の差異や、形状、頑丈さとなって現れるのではないか、と妄想している。そして究極的には、重力の差――言い換えれば時間の流れの差とは、熱のやりとりに変換可能である(なぜかを記述するには余白が足りない)。そしてこの熱とは言うなれば、情報である。情報のやりとりが遅延することで、この世界はカタチを帯び、種々相な性質を帯び、そしてダマを生みだし、流れを区切り、システムとしての循環系――ある種の回路を構築する(この解釈の仕方は、物質だけでなく、社会や文化にも適用可能だ)。情報の遅延、そして情報の限定的なやりとり――この世界を解釈するのに必要なのは、じつはそれだけで充分なのではないか、といくひしさんはここ数年、ずっと妄想しつづけている。このラグ理論が正しいと仮定するならば、素粒子や場が情報のやりとりをしなくなることは時空の消滅に等しいため、原子の振動(熱振動)がゼロになることを意味する絶対零度は原理的に引き起きないと結論できる。ただし、絶対零度にちかい極限の低温は事象として再現可能だ。素粒子を考慮しない比較的マクロな世界においては原子の熱振動がゼロになった、と解釈して、無数の原子の総体としての物質の運動を記述することは、問題とならない。視点の違いによって無視できる数値というものがある。太陽の大きさを測るのに、二センチの誤差は無視していい。そうしたほうが人類には事象の観測がしやすく、理論を構築しやすいのであり、裏から言えば、人類の欠陥がそうした誤差を処理しきれない、とも呼べる。とういうことは、これまでに無視してきた誤差によって誤った結論をすでに導いている可能性は否定できない。技術力が高まっていくにつれて人類はこれまで無視していた領域を観測可能としていく。それにより、あらゆる定説に例外が生じていくだろう。基本的に人類は間違うのである。それはそれとして、すこしずつ世界を解釈する精度はあがっている。先人たちの叡智には目をみはるばかりである。(お断りするまでもなくこの「ラグ理論」は、理論でもなんでもなく、また、学術的に価値のある発想でもまったくない、単なるあんぽんたんの妄想であるので、真に受けないようにご注意ください)。


2123:【いんとぺい】
いいひとになりたい、と思わずに済むくらいに、いいひとになりたい。でもきっといいひとになりたい、と思わなくなったらあっという間に、悪にまみれて、他者を食い物にする「いいひとDETH」になってしまいそうで、おそろしい。悪をすっかり手放してしまったらきっと人は、いいひとにはなれないのだ。人とは悪を飼いならす者である。悪とは繋ぎとめる触媒だ。本能と理性を、そして愛と善を。ときに、邪と毒を。堕落と破滅を。なにより意思と未来を繋ぎとめる。悪とは人を人たらしめるための触媒だ。希釈し、調合し、撹拌するその一連の流れを以って、人はいいひとへと傾ける。本当か? 希釈しすぎればケモノに還り、度がすぎれば魔を宿す。混ぜすぎては見失うし、乱暴にすれば、結合したおのおの「本能と理性」「愛と善」「意思と未来」がばらばらになる。人は、いいひとにはなれない。なろうと抗い、もがく者があるだけだ。埋もれた悪を掘りかえし、いつでも細かくすり潰しておこう。即座に服用できるように。内から我が身を蝕まぬように。善のなかには悪があり、愛のなかにも悪がある。囚われぬように。見誤らぬように。ねがわくは、悪のほうから「ここにいるよ」と名乗りでるように。だが、そうはしないからこそ悪なのだ。悪はひそみ、かくれ、くらむことが大好きだ。岩のしたに群がる蟲があるように、善良のしたには無数の悪が息づいている。おおわれている。なにもかもが、内に異質を抱えている。


2124:【あいあむ差別主義者】
偏見と差別意識のかたまりすぎて、人と関わりたくなくなってしまったのかもしれない。言うまでもなく偏見と差別意識のかたまりなのはいくひしさんです。


2125:【清く正しくなんて無理じゃない?】
虫一匹殺さずに生きていくことはゾウにはできない。野垂れ死ぬよりほかはない、その場から一歩も動かずに。いくひしさんは蟻でよかった。


2126:【因果応報】
ものすごくあたりまえの話として、いくひしさんを無視したひとの数よりも、いくひしさんが無視してきたひとの数のほうがはるかに多いわけですよ。同じように、傷つけられたと思っている以上に、いくひしさんは誰かを不要に、不当に、傷つけている。自覚していればよいというわけではけっしてないが、忘れないようにしていきたい。


2127:【滑稽だし狡猾】
いいひとぶってんじゃねぇよ、いくひし。おめぇがいったい何をしてきたんだってんだ。偉そうにお門違いな正論並べて悦にひたってんじゃねぇよ。身の程を知れ。


2128:【きみはすぐにそういうこと言う】
どうしてひどいこと言うの。言い方ってものがあると思う。いくひし君のそういうとこ、すっごい嫌だな。


2129:【みゅーと】
SNSにおけるリツイートやいいね!は、ゆびさき一本で画面に触れる程度の労力で行える。すくなくとも表現者は、そんなものに心から感謝する必要なんてないし、しないほうが表現を世に発信する者としてはより誠実に思える。ただ、ポーズで礼を言っておけば親しみを演出できるし、それを見た者のいくらかは、また押してやろうかな、と思うだろう。ゆびさき一本を動かす程度の労力であれ、それが何万、何十万と積み重なれば、それなりの評価として価値が生じる。ただやはり、それを得るために表現し、世に発信するのは、なんだか虚しくなってしまいそうだ。否定はしないが、評価を欲するならきちんと対価として金銭を得るところまで考えてみたほうがよろしいのではないか、と思うしだいだ。むろん、ゲーム感覚やコミュニケーションとして単に遊びでやっている者もいるだろう。それぞれに思惑があり、考えがあるはずだ。それを否定するつもりはない旨を自己保身としてここに付け足しておこう。何が言いたかったのかと言えば、いくひしさんはツイッターでたくさんの表現や作品の画像をリツイートしたり、いいね!したりしているが、影響力は微々たるものだ。貢献しようもない。いっぽうてきに他者の成果物を貪っているだけだ。しょせん、ゆびさき一本を動かす程度の労力である。何度もポチポチうるさいな、と迷惑がるのが当然であり、感謝の念を抱いたりするのは愚か者のすることである。やや回りくどかったかもしれないが、いくひしさんのアカウントなぞはミュートしておくのが賢明だ。くれぐれも気に病んだりせぬようにお願い申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2130:【機能としてだいじ】
飽きる、という人間の機能にも二種類ある。一つはそもそも興味がそれほどなく、対象を深く掘り下げることなく関心が薄れてしまう状態で、一般に「飽きる」と言えばこれを示す。しかし、興味関心が平均以上であるにも拘わらず、飽きてしまうことがある。これは通り一遍の基本や型を集積し終えてしまったので、ほかのもっと新鮮な刺激に出会いたいと欲する人間の機能であり、構造的には、ふたつの「飽きる」に大きな差はないが、しかし前者はひとに何かを創造させることはなく、後者はどんどん新しい道をつくりつづけさせることになる。知的好奇心が有り余るがゆえに「飽きやすい」ということがあるのだ。一つの分野に拘るのは、最初のうちは成長速度が向上しやすいが、分野とはすなわちすでに確立された過去の情報の蓄積でしかなく、そこから得られるものはむろんあるが、何かを新しく生みだすには、やや不足だ。飽きるだけ貪ったら、ほかの分野に目を向けたり、すでに否定されている仮説をあたってみたり、いろいろと寄り道をしながら、情報の余白を広げていき、それをしてノートと見做し、じぶんなりの理屈をそこへ描いていくと、その理屈の妥当性に拘わらず、より長く、何度も飽きつづけることができるのではないだろうか。まとめると、飽きる、には大きく分けて二種類ある。興味関心の薄さに起因するものと、情報が飽和し、処理済みの判が捺されてしまっている状態を知らせるためのものだ。後者の場合は、必ずしも飽きることがわるい結果を生むわけではない。むしろ成長に欠かせない機能であると言えそうだ。もっとも、情報処理能力には個人差があり、同一人物であれ、時期によって処理の手法が変化していくものだ。過去に飽きた分野があるとしても、すべてを網羅していることは稀であり、往々にしてとりこぼしがあると考えて損はない。ときおり過去の足跡を辿り直し、ふたたび「同じ飽き」を味わうことは、創造性を発揮するために有効に働くものと妄想するしだいだ。


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参照:いくひ誌。【1831~1840】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888190853

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