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いくひ誌。【2111~2120】

※日々、単なる物質に回帰していく、剥がれ落ちゆく本当の私。


2111:【ばらんすは崩れているのがふつうでござる】
やあやあ、いくひしさんでござる。きのうぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、おもちろい本と立てつづけに出会えていて、ラッキーでござる。みなのものは本、読んでいるでござるか? べつに読まなくてもよいと思うでござる。読まずに済むならそっちのほうが好ましいでござる。偉人たちの本を読むよりも、偉人たちとじっさいに関わったほうが学びは多いと思うでござるし、虚構のキャラクターに共感するよりも、身近な友人や家族と触れあい、支え合ったほうがよっぽど有意義に思えるでござる。けれども、それが適わないような人間が、心の隙間を埋めたくて、寂しくて、依存してしまうのが本のような気がするでござる。たまーに読む分にはオクスリになるかもしれないでござるけれども、まいにち一冊読むようなら、それは依存過多な気がするでござる。でも依存して何がわるいでござるか? いくひしさんにはさっぱりちゅんちゅんでござる。よくないオクスリとちがって、本ならたくさん摂取しても死ぬことはないでござる。暗い情報ばかりに触れて自殺したくなっちゃったとしても、それはそれ、これはこれでござる。なにが? とにかくいくひしさんは本というか、虚構というか、実物よりも情報のほうが好きでござる。いくひしさんの身体がここにあるなら、実物はそれで充分でござる。満足でござる。むしろ、身体を情報にできたら言うことないでござる。夢と一体化したいでござる。虚構になりたいでござる。存在したくないでござる。存在しない存在になりたいでござる。こういうことはたぶん、表現者の端くれとして言っちゃいけないことなのだろうけれども、現実なんてたいしていいものではないでござるよ。よくないところに目をつむればかろうじてキラキラ見えるよね、みたいな感じでござる。みんなちゃんと見て! 世界はこんなにカオスで汚くて、残酷で、無情で、細菌やウイルスにまみれているのに、なんでみんな平気でござるか。まあ、平気でござるな。見えていようが、見えなかろうが、存在してようが、しなかろうが、主観の世界がだいじょうぶならみんなは平気の助でござる。あべこべに、どれだけ客観の世界がだいじょうぶでも、主観の世界がダメだったらもうダメだと思いこんでしまうでござる。そんなものでござるよ。そして虚構は、そんな主観の世界の濁りの濃さを調節することができるでござる。本は、情報は、オクスリにもなるし、毒にもなるでござる。まずはじぶんの主観の世界がどんなふうに濁っているのか、それを自覚しないことには、風邪をひいているのに抗がん剤を呑んじゃったりしてしまうでござる。糖尿病なのに砂糖の塊をがぶりしちゃうでござる。ただ、情報をとりすぎてもひとは死んだりしないでござるから(もちろん不摂生な生活がもとで体調を崩すことはあるでござるけれども)、いろいろと情報を試し呑みしながら、すこしずつ主観の世界の濁りを調節する術を磨いていくでござる。ずっと同じようにバランスをとりつづけることはできないでござる。誰もが何度もバランスを崩しては、ちょうどよいバランスを求めて、あーでもない、こーでもないってなるでござる。あなたのバランスはあなただけのものでござる。他人の真似をしてもしょうがないでござる。でも、じぶんひとりで呑める情報にはかぎりがあるでござるから、あのひとはあれを呑んでもだいじょうぶそうだから、きっとワタクシちゃんもだいじょうぶなはず、とずばり賢く頭脳を働かせて、効率よく試し呑みしていくがよいでござる。情報はなにも本だけではないでござる。たくさんの、いろいろな情報を摂取して、バランスを探っていこうでござる。いくひしさんはでも、偏食さんでござるから、好きな情報を好きなだけ貪って、情報過多で死ぬでござる。そういう生き方ができたら、いくひしさんのばらんすは保てるでござる。でもそうはならないから、いっつもグラグラ揺れているでござる。いくひしさんは崩れかけのヤジロベーでござる。誰にでもあっかんべーをする不届き者でござる。


2112:【極小のせかいに思いを馳せる】
素粒子には波の性質が備わっている。光(電磁波)がそうであるし、電子もそうだ。ただ、前々から疑問に思っているのだが、物質は波として存在していれば、必然的に粒子としての性質も帯びるのではないか。極小の世界、量子力学の範疇の世界では、物質は、明確なカタチを帯びてはおらず、素粒子や場の複合体として存在する。言い換えれば、それ単体で存在することはなく、なにかしら相互作用を帯びて、互いに干渉しあうことで存在の輪郭を保っている。これは勉強不足であるので不確かな「もしもの話」でしかないが、素粒子単体で時空にもどんな場にも内包されずに存在することは不可能なのではないか。だとすれば、そもそも素粒子というものは、時空を構成する場の複雑な波の干渉によって生じた、頂点なのではないか。場は振幅することで波紋を円形に、或いは球形に、ひょっとすれば多次元的に波形を広げていく。そこで、ほかの場や波に触れ、干渉しあうと、接点ができる。その接点こそが粒子なのではないか、という妄想が頭から離れない。いまのところどの書籍を読んでみても、この疑問は解消されないどころか、なぜこうした疑問が俎上に載っていないのかもふしぎに思っている(とりあげる必要のないほど破たんした考えだからだろう)。波形と波形、場と場の接点が素粒子としてふるまうとして、問題は、一つの場から無数の素粒子が生じ得る点だ。波は無限のエネルギィを備えていない。障害物がたくさんあるリアス式海岸のような場所に波がぶつかれば、波のエネルギィは障害物の多さに比例して分散される。しかし「場に生じる波」の場合は、互いにエネルギィを帯びているので、波紋がいくつも多重にぶつかりあえば、それだけ多くの接点ができ、かつエネルギィは接点に比例して減るようなことはない。そして、場と波は等価ではない。一つの水面に無数の波が生じ得るように、一つの場には無数の素粒子が生じ得る。では場を波打たせる外的エネルギィは何かと言えば、これはもう、宇宙誕生時に発生したインフレーションによる重力波に類する現象であるだろう。巨大な波は、複雑に干渉しあい、時空を形成し、素粒子を生み、物質を構成して、さらに細分化し、世界に奥行きと緻密さを与えている。基本的にだから、世界は波によって生まれ、粒子としてふるまうのであり、波と粒子の両方の性質を帯びているわけではない(そのように観測されるだけの)ように思うしだいだ。ただし、巨視的な波、いわゆる我々人類が観測可能な波と、量子世界での波には大きな差異があり、それは何かと言えば、量子世界における波は、接点を持つと、その接点に波の情報が収縮する点である。たとえばシャボン玉であればゆびでふれた途端、ゆびの接点から割れていき、真逆の円周上に向けて霧散するが、量子世界ではこれと真逆のことが起こる。波と波が触れあった点に向けて、エネルギィやその波の持つ情報が一瞬で集まるのだ。この考え方が便利なのは、これによって量子ゆらぎと量子もつれを同時に満たせる点だ。量子ゆらぎとは、おおまかに言えば、「素粒子は確率的にしか位置を断定できない」というふかしぎな状態を意味し、量子もつれとは、「対として存在する粒子同士は、どれだけ距離が離れていても、任意の情報を伝播しあう」というテレパシーじみた性質を意味する。そして波の接点が素粒子として顕現するならば、波紋の円周上のどこにでも素粒子は出現し得るし、その確率は、周囲の干渉可能な波紋の存在に依存するので、確率的に素粒子の存在が規定されると考えられる。また、波紋が素粒子として顕現するとき、波紋の円周上でまっさきにエネルギィと情報が失われるのは、波紋と波紋の接点とちょうど真逆に位置する点である。つまり、接点が素粒子として顕現するならば、必然、真逆に位置する消失点に、一瞬で素粒子と対となる情報とエネルギィの消失が認められる。素粒子が1なら消失点はマイナス1だ。素粒子が2なら消失点はマイナス2となる。波紋の直径がどれだけ長くとも、このやりとりは一瞬で行われる。量子もつれとはまさにこのことなのではないか、とまたしても妄想して本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、素人のあんぽんたんな妄想であるので、そんな方はいらっしゃらないとは思いますが、真に受けないようにお願い申しあげます)


2113:【超短編24『友死火(ともしび)よ、つぶやけ』】
2X世紀。人類は肉体から解き放たれ、活動の舞台を情報ネットワーク上に移した。従来の貨幣経済は失われ、代わりに個人信用価値が経済の円滑剤として台頭した。個人信用価値とはすなわち、「フォロワー数」と「高評価を意味する【iine】数――いわゆる【でんでんむし】」の多さによって規定される。のきなみそれらは、個々人の情報処理能力の多寡によって左右され、個人の優劣を査定せしめた。ひるがえって、フォロワー数とでんでんむし数の高さは、その者の情報処理能力の高さを示唆し、フォロワー数は戦闘力、そしてでんでんむし数は殺傷力の高さを意味した。そう、この時代にはもはや世界平和などという戯言は存在しない。日々、生きるか死ぬかのサバイバルデスマッチ。人々は、より強者をフォローし、自らの立ち位置を誇示することでその日を生き延び、あべこべに強者からフォロワーを奪おうと虎視眈々とその座を狙っている。「やべー、逃げろ。アキコがきた。アキコがきやがった」「アキコが?」私は呑んでいたジュールジュールを置き、振りかえる。「だってここは摩冬のコミュニティのはずだろ」「知らねぇで来てたのか。摩冬は先月、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890278959


2114:【ちっぽけは自由】
いくひしさんはちっぽけで、とるにたらない存在だ。あまりによわっちくて、誰かを傷つけるなんて真似はできないし、誰かの足をひっぱるなんてこともできない。それでもちっぽけな細菌やウイルスが人体を死に至らしめるように、或いは空気の酸素濃度がもっとちっぽけになった途端に人は意識すら保てなくなってしまうように、ちっぽけだからといって無害ではないのだ、という自覚は持っていたい。いくひしさんのちっぽけさに拘わらず、いくひしさんは周囲の環境に影響を与えているし、いくひしさんはもっと多大に影響を受けている。それを、恩恵と言い換えてもよい。ちっぽけな存在に甘えないで、誰かを傷つけるだけの能力なんてないのだから好きにふるまってもいいはず、なんて開き直らずに、きちんとじぶんの影響を、周囲への作用を見詰めて、目を逸らさず、本当に傷ついている人がいないのか、いくひしさんのせいで困り果てている人たちがいないのかを漏らさず、見逃さず、知らずにいたなんてことのないようにして生きていきたい。とはいえ、人は生きていれば、他者に迷惑をぜったいにかけてしまうものだ。だからそればかりは、できるだけ迷惑をかけないようにと、いちど失敗したことは繰りかえさないように対策をとっていきましょう、とするよりほかはなさそうだ。そうは言っても、やっぱりいくひしさんの影響力など高が知れているので、アイツはなんだか気にくわないな、と思ったら遠慮なく無視すればよろしい。いくひしさんは無視には慣れている。どちらかと言えば望むところだ。ちっぽけであればあるほどいくひしさんは好きにふるまえる。無視されればされるほど透明人間になれるのだから、ちっぽけな存在の特権と思って、ぞんぶんに満喫していこうと思うしだいだ。これからの時代は、いかによわっちいままでも生きていけるか。強さの基準ががらりと変わる予感がする、との所感を漏らして、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。できるだけ長く、死ぬそのときまで、ちっぽけなままでいられたらよいなぁ。


2115:【これぞ無様】
日に日にじぶんの至らなさ、未熟さ、知能の低さが自明となっていくので、ときどき、これ以上何も知りたくないなぁと、ほんのときどきだけれど思うことがある。とくに何かを知っているわけでもないのにそうやって自虐することで、じぶんの底を見詰めている気になって、まずはそれで何かを得た気になって、成長した気になって、至らなくて未熟で知能の低い不完全な己の免罪符にしている。自覚していればよいわけではないのに、ぼくちゃんはおばかちゃんなの、と口にしてみせることで、予防線を張っている。他人にそれを指摘される前に、そんなことは端から知っているのだと、気づいているのだ、気にしていないのだと、鎧を着こんで、背中を丸め、うずくまっている。そうして殻に閉じこもることなく、みずからが殻になり果てて、ぼくちゃんはおばかちゃんなの、は何者にもなることなく、空虚ながらんどうと化している。そうして底なしの夢想のなかに溶けこみ、逃げこみ、肥大化していくいっぽうの理想とおててをつないで戯れている。理想のほうはとっくに愛想を尽かして、呆れているのに、ぼくちゃんはおばかちゃんなの、はそんなことなどお構いなしで、もっと、もっと、とおねだりする。ぼくちゃんの理想はもっと大きい。もっともっと大きくなれるよ。そうやっておててを繋いだじぶんではない理想に代わりに育ってもらって、それをして何かをなした気になっている。こんなくだらない人間のつむいだ物語が他者の何かを揺るがすべくもない。こうしてまた自虐してみせることで、そうした現実からも身を守り、弱さのみを溜めていく。本当は誰よりつよくなりたいくせに。もっとも欲しいものすら、そんなものはいらない、と遠ざけて。無様。


2116:【感情を描いているのでは?】
百合の定義はおおまかに言えば、「女性同士の感情のゆらぎ」であるといくひしさんは思っていたのだけれど、百合好きの界隈ではあまりそういう認識はまかりとおらぬようだ。男がまじった時点でそれは百合ではない、と考える人が思っていたよりもずっと多いことに驚いた。女性同士のあいだに猫が入るのはよくて、男が入るのがダメな理由がよく解からないのだが、何がダメなのだろう? 触媒の混入によって女性同士の感情に揺らぎが生じたなら、それは百合なのでは? あくまで感情のベクトルが女→女へ向かっていたらそれは百合だと思っていました。とはいえ、いくひしさんはもう金輪際百合作品はつくらないので関係ないと言えば関係ないのですが(いまつくっているので最後という意味です。もちろん百合と標榜しないだけで、登場人物のおおむねが女性の物語はつくることもあるでしょう。以前から述べていますが、性別によってジャンルを分けるのは、今後、徐々に疑問視されていくことになるように思います。十年はかからないのでは、と妄想しています。もちろん、百合を標榜したり、つくったり、男性を排除し女性限定にしたりすることがダメだ、と言っているわけではないですよ。おのおの、好きに創作をし、楽しめばよろしいのではないでしょうか)。物語そのものではなく、ジャンルを愛しているひとはたいへんですね。皮肉ではないですよ。さまざまな分野で、「これは××ではない」と異物に敏感なひとを見かけます。総じて、線引きに必死で、純粋にそれそのものを楽しめていないようなので、やはりたいへんそうだなぁ、と心中お察しいたします(守りたいものがハッキリしているひとは幸運に思えます。いくひしさんはまだそこまでの境地には至っておりません)。きっと虚構を味わうのにも、アレルギーみたいなものがあるのだろうなぁ、と想像しています。アレルギー源のある虚構は味わえないひとがいるのです。気づいていないだけできっと、いくひしさんにもそういった免疫過剰反応を引き起こすような虚構作品があるはずです。出遭わずにいるのはラッキーですね。ありがたいことです。いまのところ、いくひしさんはおもしろければ何でもよいです。さいあく、物語でさえあれば文句を挟みようがありません。より好ましく思う虚構の方向性に偏りはあるにせよ。しかしそうした嗜好もまた時間の経過にしたがい変質していくものだろうとひとごとのように予感して、本日の「いくひ誌。」といたしましょう。


2117:【下請法】
この国の出版社は作家に対して、創作にとりかかる前に契約を結ぶことをしない。2019年の現時点においては、事前契約は稀であると言えよう。書籍として出版されたあとに書面での契約を結ぶのがこの国の慣例であるようだ。下請法の範疇外として取り扱われるのも理由の一つとなっている。つまり、作家の創作物は汎用性があり、一つの出版社で出版できずとも同じ作品をほかの出版社からだすことができる。よって下請法の適用外とされる向きがつよいが、これは裏から言えば、その出版社でなければ出版できない内容であれば、下請法の範疇内であると評価できる(素人の戯言ですので真に受けないようにお願い申しあげます)。それを証明するためには、創作時に出版社からの修正指示がどれほどあったのか、その割合が重要な指標となると言えよう。また、下請法が適用されずとも、著作権の全権利を著者が保有するような内容で契約を事前に結ぶことは可能だ。ビジネスとしてやっていくならば、いまからでも出版業界は、作家の労働に対する対価を保障する姿勢を示していくのがより健全な競争原理を追求でき、結果として出版業界の保全に繋がるのではないか、と指摘しておこう。また、編集者と作家間のトラブルを単なる個人間のミスやトラブルとして片づけようとする風習が、出版業界には根強く残っているように見受けられるが、そうした自己責任論こそが業界の陋習(悪習)であると見抜けないようでは、凋落していくいっぽうであるだろう。自浄作用のない組織はいずれ瓦解する。歴史に明るくないいくひしさんでも、そのくらいの抽象的な傾向は見てとれる。歴史に詳しい編集者たちがそこに気づかないわけはないと思いたいところだが、楽観視はできないのが現状かもしれない。改善を期待したいところである(大前提として作家は締め切りを守りましょう――守れるような日程を組んで、仕事を引き受けましょう。守れなかったら違約金を払う契約も結んでおくのがビジネスとして妥当な姿勢であるはずだ。以前から述べているが、印税は重版した分のみをもらうようにし、出版社は出版社で一定期間内で初版を売りきれなかったら一定額の違約金を払うように仕組みを変えていくのがよいのではないか、と考えているが、いかがだろう。出版社は初版を絶対にすべて売りきるように尽力すること。作家はまずは出版社に損をさせないように重版からの印税で合意すること。重版時の部数が百部単位でも、たくさん刷ってほとんど売れずに一定額をもらう現状の仕組みよりかは、より広い範囲の読者に自著を届けるという目的を達成できて、いまよりかは納得できるようになるのではないか。重版しなかった場合、言い換えれば初版がすべて売りきれなかった場合は、出版社から違約金が入るので、最低限の利益は確保できる。ただし、印税が振りこまれるまでに時間がかかる点がデメリットだ。しかし現状であっても、依頼から創作を経て出版までこぎつけるのに一年以上かかることも珍しくはない。どの道、重版されるか否かはひと月以内で判断される向きがつよいので、印税が振りこまれる時間がひと月ずれるくらいがいいとこではないか、と想像するものだ。また、下請法においては、商品納入時から60日以内に支払いを行うことと定められているので、おおよそひと月経った時点で初版が売りきれていなかった場合は出版社は作家に違約金を支払うようにすればよいのではないか。建前(前提)が変わるだけで、お金の流れそのものはいまと大きく変わらないはずだ。ただし、この建前(前提)がいまは、ずいぶん惰性で、なあなあになっているように思われるので、まずは各々、役目を再認識しましょう、それを書面に記し、契約を結んでから仕事に着手するようにしましょう、と仕組みを変えていくように意識していくのがよろしいような気がするが、ともあれ、こんなずぶの素人の妄言などとっくに議論し尽くされているだろうから、いくひしさんが考えること以上に目覚ましい仕組みの改善が進められていくだろうと期待して、本日二度目の「いくひ誌。」とさせていただこう)。


2118:【焦らずに、確実に】
ゆっくり、すこしずつ、じわじわとやっていこう。


2119:【追いつかれたら負け】
線虫が子孫に記憶を継承するようだ、といった研究報告がなされたようだ。DNAではなくRNAを利用して、親の記憶の一部を子に先天的に伝えることが可能であるそうだ。ただしDNAへの変異を伴うわけではないらしく、獲得形質の遺伝が引き起こる、とまでは言えそうにない。しかし、元々生物はDNAではなくRNAから発生したと考えるのが現在の主流な仮説であるから、RNAによって親の記憶――言い換えれば蓄積した情報――を子に伝えることが生物の仕組みとして備わっていてもふしぎではない(いくひしさんの考えでは、そもそも生命とはある種の情報蓄積装置ではないか、と考えているので、そうした見方をしてしまいがち)。断言はできないが、RNAを利用した記憶の継承は進化と無関係とは呼べず、獲得形質の遺伝との関連性はそう低くはないのではないか、と個人的には睨んでいる。とはいえ、この予想は希望的観測にすぎないので、より明瞭な因果関係の追求が期待される。ちなみに獲得形質の遺伝が生物進化の一因子であることを組みこんでつくった自作に「哀緒紅の述懐(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884801152)」がある。クローンや意識といった要素を舞台装置としてつかっている物語であり、iPS細胞の研究がノーベル賞を受賞する前の2011年につくった作品である。だからどうした、と問われれば、べつにどうもしませんよ、と答えるよりないのだが、ともあれ、「2020年代後半には獲得形質の遺伝が引き起こることは一部界隈では通説となっているだろうな」との予想をしていたので、驚きはしない。むしろ、予想通りに時代に追いつかれてきてしまったので、虚構創作家としてはまずいな、と焦りを覚えるほどだ。現実に追いつかれる物語などたいしたことはない。現実を置き去りにするくらいでないと、といまいちど世界に深くもぐる癖をつけておきたいものである。ちなみに、「攻殻機動隊アンソロジー(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9539610)」においても、獲得形質の遺伝がキーになっている作品を描いている。だからどうした、という声には、べつにどうもしませんよ、と応じておこう。(むろん言を俟つことなく、発表された研究結果が間違っていることもあり得るし、現時点では「獲得形質の遺伝」は引き起こらないのが通説であるので、ここでのいくひしさんの文章を鵜呑みにしないようにお願い申しあげます)


2120:【望んだとおりに生きている】
ゾウをまえに尻尾を巻いて逃げるトラよりもゾウに踏まれても平然としている蟻でありたい。みにくいアヒルの子は、みにくいアヒルの子のままで、うつくしく生まれ変わったりせずに、誰のことも見返すことなく、孤独に、自由に生きていればよかったのに。みにくいアヒルの子は、うつくしい白鳥になってしまったことで、本当の意味でみにくいアヒルの子になってしまったのかもしれない。こうして歪んだひがみを抱くいくひしさんはけれど、何者に生まれ変わることなく、ただただみにくく、腐って、落ちぶれている。やったね。


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参照:いくひ誌。【1331~1340】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885956517

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