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いくひ誌。【2101~2110】

※日々、能力の低さを痛感する。


2101:【情報は更新されつづけている】
前のほうの記事「いくひ誌。2040」で、スーパーコンピューターの消費電力はその大半が冷却機能に費やされる、といった内容のメモを残した。本に載っていたからだが、どうやら最新(2018年)の研究成果では、冷却にかかる消費電力を全体の3%に抑えることに成功していたらしい。東京工業大学の研究チームの開発したスーパーコンピューターがそれだ。よって、本の内容はいささか古かったと呼べる。情報とはおおむね、普遍ではない。変化するものだ。ことAIのような急速に発展している分野では、情報はつど更新されているので、何が正しいのかは断定できない。すくなくとも「いまはそういうことになっている」としか評価できない。世に発表された段階で、研究現場ではすでにもっとさきをいっている。ゲノム編集でも似たようなものかもしれない。ゲノム編集技術では一般に、DNAの塩基配列そのものを書き換えてしまうので、いちど編集したあとでは元に戻らない。しかし、エピゲノム編集と呼ばれる技術はちがう。DNAはタンパク質を合成するためにmRNAというものをつくり、そこに塩基配列を転写する。さらにそこからDNAが複製され、タンパク質がつくられる。この一連の流れを翻訳と呼ぶ。そしてこのとき、DNAはすべての塩基配列がそのまま写されるわけではない。肝臓の細胞なら肝臓、心臓なら心臓、手なら手と、それぞれの部位に必要な機能のみがそのまま転写され、そうでない不必要な情報はOFFの状態となって働かないように制限される。この制限されたゲノム(塩基配列)のことをエピゲノムと呼ぶ。そしてこのエピゲノムは、ゲノムが部位的にOFFになっているだけであり、ONにしなおせば、また基本形のゲノムとして回帰し得る性質がある。極端な話、失敗したらやり直すことができるのだ。しかしDNAのメカニズムは複雑だ。ヒトゲノムが解析された、と一時期話題になったが、それもタンパク質の合成に関わる塩基配列に限られる(解読はされたが、解析はされていない)。それ以外の98%の非コードDNA領域に到っては、解明が進んでいない。無駄だと思われていたその非コードDNA領域がじつはさまざまな人体機能に関係していることが判ってきている。双子ですらこの非コードDNA領域に差異があり、それが疾患や体質の差異に繋がっていることも徐々に明らかにされつつある。(曖昧な記憶を頼りに並べております。正確な情報ではありませんので、鵜呑みにしないようにお願いいたします)


2102:【自殺願望と希死念慮は根っこは同じ】
死にたいと思うとき、たいがい人は生きたいのだ。自由に、生きたいのだ。あなたは生きたいのだ。そこを履き違えてはいけない。ただ、どうしても自由に生きられない人もいるだろう。苦痛しか感じない生もあるだろう。そのときに死をどう捉えるかは、当人にしか決められない。「死んだらいけない」といった願望を他者が押しつけるのは、不自由に餌を与えているのと似たようなものだろう。生きたいから死にたい。生きたかったから、死にたいのだ。この感情は不自然でもなんでもない。他者がその感情にどう付き合い、社会がどう制度をつくり、向き合っていくか。これからますます必要性に迫られるだろう。


2103:【うりゃー!】
いくら知識をためこんだって、あほんだらは、あほんだらのままだし、いくひしさんはいくひしさんのままなのだ。知識がひとを成長させるんじゃない。では何があればひとは成長して、変われるの? 変わらずに変わりつづける軌跡の進路を決めるのは何? それは誰?


2104:【超短編21『ハンバーガーの片割れ』】
どうしたらSNSでフォロワーが増えますか。そう訊ねてくる子が本当に多くて、困るというよりもどこか微笑ましい。インスタをはじめた当初は同じように考えていたこともあったし、投稿した画像への反応が薄かったりすると、何がダメだったのか、とまくらを絞め殺しながら考えたものだ。最初は単純に、好きなものを好きなように投稿して、反応が返ってくるのが楽しかった。ただそれだけだったのに、いまではどうしたら反響を得られるのかを無意識で計算しているじぶんがいて、そこでも嫌だというよりもどこか微笑ましく思えてしまう。じぶんではないじぶん、違ったじぶんが垣間見える瞬間が好きなのかもしれない。本当のじぶんってなんだろう。「考えすぎると脳みそのシワが増えちゃうぞ」そんなふうにからかってくるのは昔馴染みのリョウコだ。リョウコとは小学生のころにはもう出会っていて、そのときはまだそれほど仲が良いというわけではなかった。こちらは男子と遊ぶほうが多かったし、じぶんの性別をよくよく考えてみたこともなかった。しょうじき言えば、男の子だと思っていたほどだ。小学校の高学年にあがるにつれて、なるほどじぶんは女の子だったのかと客観的な事実を受け入れられるようになり、そうなってからというもの、あべこべに男子との関わりがこわくなった。避けていたと言ってもいいだろう。そのときそばにいてくれたのがリョウコだった。女の子で初めての友達とも呼べ、しかしリョウコはリョウコで女の子といったふうではなく、一輪車に乗ってまわる同学年の子たちを遠巻きにしながら、カナヘビを捕まえたり、こちらにスケボーの乗り方を教えてくれたりした。リョウコとは中学校でいったん離れ離れになったが、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890214641


2105:【最新から知りたい】
人間の思考形態にはいくつかの型があると思っている。たとえば学校の授業などは、末端からブロックを積みあげていって全体像を掴むような考え方をする。歴史は過去から学んでいくし、数学も足し算や引き算から習う。理科や科学も、いきなり相対性理論から入ったりはしない。しかしいくひしさんはそうした学習方法が苦手である。どちらかと言えば、最初にもっとも大きなフレームを示されてからのほうがすんなり学習することができる。ラジオ体操でたとえるならば、歌の一節一節ごとに身体の動かし方を憶えていくのが学校型の学習方法であり、しかしいくひしさんは、まずは最初に全体を通してもらったほうが憶えやすい。プラモデルをつくるなら最初に完成形を見せてもらわないと、一つずつを丹念に指導されても、まったく手につかない。むしろなぜこんな面倒な組み方をするのか、といちいち疑問が湧いてきて、作業に集中できないほどである。だからいくひしさんは学習が苦手だ。過去形ではなく、未だにそれを克服できない。また、経験則でしかないが、何か未知の分野に飛びこむときは、初めに世界一レベルの技術や知識に触れておいたほうが好ましい。刷りこみではないが、最初の体験がフレームとして無意識のうちにインプットされてしまうので、できるだけ最初のお手本とすべき人物や学習は、世界一レベルにしておいたほうがあとあとの成長率が向上する傾向にある。本来なら、素人でもすぐに身につくように、難易度の低い技術から触れていったほうが一般的なのかもしれないが、すくなくともいくひしさんのような全体像を掴んでから学んでいく思考形態の人物にとっては、最初によりよい完成形から学んでいくほうが効率がよい。ただし、最初の体験が無意識のうちで基準となっているため、言い換えれば、最初に触れたフレームが限界としてインプットされがちなので、意識して常に、限界を広げていくように視野をそとに、そとに、向けていく習慣をつけておくとよいかもしれない。なかなか、これがたいへんだ。いったいどこを向いたらそとになり、どこからが内側なのか、それを見抜けるようになるためには、やはりというべきか、ある程度の基礎が身についていないと、外側のつもりで、内側に縮まってしまっていたといった失敗をしがちである。これを克服するには、全体像を見てから逆向きに分解していく手法ではなく、いまいちど末端に戻って、根っこから枝葉に向けて学習しなおしていくのが都合がよろしい。小説の読み方で言えば、まずはオチを読んでから、最初の1ページ目に戻り、読みはじめるようなもので、邪道もよいところだろう。そんな読み方の何が楽しいのか、と思われるかもしれないが、じつを言えば、いくひしさんは新書やマンガでもこうした読み方をしがちである。マンガに到っては、1巻から順々に読むことのほうが珍しいかもしれない。さすがに最終巻から読むことは滅多にないが、最終巻しかなければ躊躇なくそれを手に取り、目を走らせるだろう。とにかく、最終的にどうなるのか、どこに向かっているのか、が解かっていないと、寄り道や道草を食べてしまって、効率がよろしくない。ひるがえっては、ゴールが明確に決まっていない物事に対しては、じぶんで道筋をつくれるので、比較的、気持ちが楽である。誰に示されるでもなく頭のなかに漠然としたゴール、大きなフレームを描けるのだから、わざわざ最終巻から物語を読んだりしなくてもよい。順番に一つ一つの過程を、未知を、楽しめる。おそらく、いくひしさんのような違和感を抱いて義務教育時代を過ごしてきた方はすくなくないのではないか、と想像している。ややもすると、それって予習復習をしていれば済む話ではないですか、などと茶々を入れられそうであるが、いくひしさんが言っているのは極論、小学校で相対性理論や量子力学の概要くらいは習っておきたかったなぁ、ということであるから、的外れである。とはいえ、こんなことを並べているからといって、いくひしさんが相対性理論や量子力学の概要を理解しているとはかぎらないので、勘違いしないようにお願いを申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2106:【超短編22『姪は干されてなお、ふかふかと』】
姪っ子から連絡があり、久方ぶりに顔を合わせることになった。私の前職が多忙を極めていたため長年会う機会がなかったが、数年前に引退してからというもの、比較的おだやかな日々を過ごしている。記憶にある姪は、鼻水を足らし、ドレミの歌を延々くちずさみつづけていた活発な幼児だった。膝小僧をよく擦りむいていて、姪の母親、言い換えれば私の妹に、私はよく苦言を呈していた。傷になったら困るだろ、女の子だろ、と。よもや久方ぶりに会った姪っ子に開口一番、同じセリフを口にするとは思ってもみなかった。「おじさん、そういうのもう古いんだよ。女の子だから、なんて何の理由にもなってない」「あ、ああ。そうだね。そのとおりだ」とはいえ、その歳にもなってまだ膝をすりむいているとは思わなかった。聞けば、ストリートダンスを習いはじめたらしく、友人に止められたにもかかわらずアスファルトのうえで踊り、傷を負ったらしい。姪は、すっかり背が伸び、イマドキの若者らしい装いに身を包んでいた。というよりも、彼女の真似が流行っているだけのことなのだろう。街を見渡せばみな、食虫植物を逆さにかぶったような、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890225857


2107:【言葉選び】
小説などの物語に対する褒め言葉で、「いいひとしかでてこない(から好き)」や「嫌なひとがいない(から好き)」と述べる向きが物語受動者界隈で散見されるが(いくひしさんも言いがちである)、どちらかと言えば、「どんなキャラクターにもいい面が見えた」や「どのキャラクターも好きになる」のほうがより褒め言葉としてふさわしいように思われる。たとえるならば、「この小説にはウサギしかでてこなかった(からよかった)」や「嫌いなピーマンがでてこなかった(からよかった)」といった所感にどこかしら差別的なニュアンスが感じとれるのと似た理屈と言えよう。そのつもりがなくともそう聞こえてしまうひとがいるかもしれない。重箱の隅をつつくような指摘でしかないが、褒め言葉のつもりであってもそう捉えてくれないひとはどの方面でもいる点には留意しておいて損はないだろう。もちろん、感想は好きに発信すればよろしかろう。誰に何を言われようと、それを表現する自由は認められている。ただし、褒めた相手に苦い顔をされるようならば、褒め方にも工夫をしたほうがより好ましいように思うしだいだ。(ちなみにいくひしさんはどんな言い方でも褒められると、どうしていいか分からないくらいうれしくなってしまって、何も手がつかなくなるので褒められるのが苦手です。同じ理由から社交辞令やお世辞も苦手です)


2108:【対価を払い退化しても】
ひとは成長する前に、いちど衰退する。言い換えれば、下手にならなければつぎの段階へと昇り詰めることはできない。考えてみれば当然だ。これまでできていたこと、身についた技術や知識、そうしたものではない新しいことに挑戦するからこそ成長できる。ただ上手くなるだけなら、同じことをひたすら訓練していればよい。上達はするだろう。精度が高くなり、洗練されていく。しかしそれは成長ではない。百マス計算の計算速度が高くなったところで、二次関数ができるようになるわけではないのと同じだ。百メートル走のタイムが縮んだからといって、水泳のタイムがよくなるわけでもない。新しく何かができるようになるためには、これまでできていた何かが衰えることを覚悟しなければならない。両立は可能だろう。しかし、徹頭徹尾それが適うわけではない。挑戦しはじめはどちらかに傾倒しなければならない。集中しなければならない。とはいえ、いちど体得した技術であれば、短期間でまた最高潮まで磨きあげられる。身体が憶えているからだ。同時に、新しい刺激がよい触媒となって、より練度が増すかもしれない。むろんそこには相性がある。ボディビルの訓練をしたあとでは余計な筋肉がつき、持久走のタイムは落ちるだろう。だが重量挙げでは有利に働く。ケースバイケースであるが、何と何の組み合わせであればプラスに働くかは、ある程度想像しておいて損はないだろう。同時に、思いがけないかけあわせ効果が現れることもあり、またあべこべにマイナスに働くこともあるので楽観はできない。いずれにせよ、何かを新しくはじめれば、それまで得意だったものが衰える。すくなくとも、これまでのようには上達しつづけることはできなくなるだろう。しかしそれは一時的な停滞であり、衰退だ。新しい技術を身につければ、そのあとにはそれ以前には適わなかった飛躍が可能となる。得意だったものが衰えたままでも(新しい技術がマイナスに働いたままになってしまったとしても)そう肩を落とす必要はない。それは成長ではなかったかもしれないが、成長ではないがゆえに、進化となる可能性が高まっている。進化とは必ずしも進歩とイコールではない。退化もまた進化のうちの一つである。これまであった機能が失われ、そのおかげで新しい能力が特化する。その特化した能力が、いまある環境に最適であれば、ほかの者たちを圧倒することが充分に可能だ。新しい技術がプラスに働こうと、マイナスに働こうと、長期的には成長に、あるいは進化に繋がる。生きていればの話であるが、生きのびるために人は変わろうとあがくのだろう。どの道変わらざるを得ないのならば、新しい技術に触れられる環境が訪れた段階で飛びついておいて損はないはずだ。得をするから飛びつくのではない。そこに変化の兆しがあるから飛びつくのだ。間違っても、得をしますよ、儲かりますよ、なんて言葉に惑わされないように気をつけたいものである。見るべきは「目のまえの評価」や「既存の評価」ではない。これまでになかった技術か否かである。もうすこし大雑把にまとめれば、技術か否かであると言っても、大きな齟齬には繋がらない――ような気がするが、断言するにはやや不安が残る。言うまでもなく、何も身につかず徒労に終わることも、そう低くない確率であり得るだろう。じぶんを客観的に評価する視点を確保しつづけることが優先されるかもしれない。定かではない。分からない。考え、挑み、学んでいくしかない。


2109:【超短編23『あちき、なつみ!』】
なつみは思った。い、いけるかも。淡い期待が泡と消えないよう、緩んだ気を引き締め直す。まだこの世界で目覚めて三十分も経っていないのに、となつみは短い記憶を振りかえる。きのうはベッドに入ってそのまま寝たはずだ。空気の流れが身体をくすぐり、夢でも見ているのかな、と目をぱちくりしたときにはもう、目のまえに荒涼とした野原が広がっていた。なだらかな丘がデコボコと波打ち、一種、サハラ砂漠に似た印象がある。異様なのは、それを埋め尽くす野獣の群れだ。否、野獣は総じて二足歩行しており、頭からは角を生やしている。鬼というよりもそれはどちらかと言えば、ヤギの角じみている。目覚めたその瞬間からすでに囲まれていた。軍勢だ。うしろを向いても同じような風景が、恐怖を引き連れ、広がっている。野獣どもはただ静かに距離を詰めてくるばかりだ。唸り声の一つでもあげてくれれば、こちらも泣きだす準備はいくらでも整っているというのに、淡々と、それでいて歩行を揃えずに、ぞろぞろと土の色を野獣色に染めあげていく。刻一刻と近づく危機になつみは思わず、ふだんの癖で、ポケットからメディア端末を取りだし、構えている。レンズを向ける。「めっちゃバズるなこれ」試しに一枚撮ってみると、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890236436


2110:【せいかくわるくてごめんなさい】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。みなのものはご存じでおられようが、いくひしさんはたいへんにお口がわるくてお下品でござる。ひとさまを悪しざまに言い、揚げ足を取ってはお腹を抱えて転げまわり、かと思えば、たいへん上品なフリをして、げっぷを口笛だと言い張るでござる。しかしそこはいくひしさん。口笛を上品だと勘違いしているくらいには、もともとの性根がよろしくないでござるから、こうして何食わぬ顔をしてしれっと、口笛が上品ではないですよー、という刷りこみを行い、世に偏見をまき散らしては、せせらわらっているでござる。たいへんな悪党でござる。いつか成敗されるのではないかとびくびくしているので、こうして、いんたーねっつの片隅にて、ふんぞり返りながら、こそこそと、そこそこの大物ぶっては、わるぶっているでござる。へなちょこー。たとえばいくひしさんはこうしてまいにち「いくひ誌。」を二十分程度でさささっと並べているでござるけれども、まあなんというか、並べた文章をぜんぶ漏れなく載せているわけではないでござる。載せている「いくひ誌。」ですら、この書き手は性根くさってんな、と丸わかりでござるけれども、それはそれとして、大物ぶってわるぶっているいくひしさんでも、さすがにこれはなー、と思う文章は、ひそかに葬り去っているでござる。でもせっかくだし、もったいないので、いちおう保存はしているでござる。だから封印していると言ったほうが正確かもしれないでござるな。ともかくとして、いくひしさんは大胆不敵な臆病者でござるから、これちょっと読まれたら嫌われちゃうかもなー、誰にかは知らんけど、と思ったら、すぐに削除して、またべつの文章を並べるでござる。それでも滲みでるワイルドなおげれつ精神は隠せないもので、たくさんかっこうをつけてもこのとおり。書き手の底の浅さがあからさまに、王さま気取りで、おっぴろげでござるよ。いずれ「ボツいくひ誌集」として、いくひしさんが筆を折って、文芸から姿を消すときには、いんたーねっつに置きみやげとして、載せて去るでござる。たいしたことは描かれていないけれども、おおざっぱにまとめれば、「やーいやーい、ばーかばーか」みたいなしょうもないわるぐちが並んでいるでござる。固有の誰かにあてたりはしていないけれども、まあまあ、いくひしさんの性根の曲がり具合を再確認するには、そこそこ、なかなか、まあまあ、おもちろいのではないかなぁ、と思っているでござる。そうでもないでござるか? そうでもないでござるな。じゅげむじゅげむ。みなのものはぜひともいくひしさんを反面教師にして、ああはなるまい、と心につよく誓うでござる。いくひしさんとの約束でござるよ。きょうは2019年の7月4日でござる。朝から雨でござるけれども、雨だからこそ、そこはかとなく、びみょうに元気にしとしとやっていこうでござる。のろのろ生きていきたいでござるな。ではまたーで、ござるー。


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参照:いくひ誌。【1621~1630】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887155714

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