※日々、誰の手も借りずにいられたら、非力と無力と、さようなら。
2091:【もっちきもっちき】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、ぽてんぽてんのぬぷるすおぶりぷすでござって、ぬぱぬぱてんざからおぱおぱてんざまでよろどりみどりでござる。たとえば、ゆむゆむはむさんげは、こむこむらぱてんめと似ているでござるから、みなのものはにょめにょめわおむーと間違えないように「こてこてせせかかも」をじゅむりじゅむりするでござる。じゅむりじゅむりと言えばいくひしさんはきょう、もう何も並べることがなくなって、こうしてゆぐりゆぐりしているでござる。ときおりこうしてゆぐりゆぐりするでござるが、それでもなんとなーく、意味がもっちきもっちきするでござるよ。そうでござろう? 何を言っているのかは皆目見当もさっぱりーのでありながら、よっちきよっちき、むぐむぐぺーでござる。それはそれとして聞いてほしいでござる。いくひしさんはじつは、しゅぱぱーとなぱぱーが好きでござって、気が抜けるとすぐに、ろろぷるろろぷるみたいに、ふぐりどすゆぐりどすしてしまうでござる。いくひしさんがこうしてまいにち、もっちきもっちきしながら、ふぐりどすゆぐりどすしているのは、まさにみなのものが怠け者のいくひしさんに代わって、ばきゅーらぽんぽぽしてくれているおかげでござる。まことにゆむげるゆむげるでござる。いくひしさんはここでも「こてこてせせかかも」をじゅむりじゅむりしてしまうでござる。いくひしさんには友達はいないでござるがそれでもみなのものみたいなやべーのやべーのがいてくれて、本当にじゅりーぺじゅりーぺでござる。あざすあざす。もうホントにときどきこういう日がやってきてーすると、もじもじどこいったーとなって、いくひしさんはてんてこまいでござる。だからこうしてやーぷぷやーぷぷ、なんとか文字を並べるでござる。これを文章と言っていいのかは、さっぱーりのでござるけれども、ふだん並べている「いくひ誌。」もそれほど意味が通っているとは、るかしりょかしなので、これはこれで五十歩百歩と言っていいのかなーなんて思っているでござる。とにもかくにもいくひしさんは「こてこてせせかかも」をじゅむりじゅむりするのに明け暮れて、気づいたら、もっちきもっちきしながら、ふぐりどすゆぐりどすしている日々でござる。みなのものも気が向いたら、もっちきもっちきするでござるよ。よいぴぴぴを迎えるでござる。あわわーでござるー。
2092:【作為に気づこう】
優秀な詐欺師はウソを吐かない。より正確には、ウソで相手を欺いたりはしない。飽くまで、相手に閃かせるのだ。人間は他人から仕入れた情報はあとでそれが偽りだと判明すれば、情報を新しく憶えなすことができる。しかしじぶんで学び、閃いたことは、なかなか考えを改めない。そういった性質がある。詐欺師はじつにうまくそれを利用する。必要な情報を断片的に与えるだけで相手に任意の誤った現実を認識させる。錯誤を植えつける。断片的な情報は一つずつを取りだせばウソではない。それだけを見れば間違ってはいないのだ。しかし一つずつが正しくとも、すべてを並べると大きなウソをつくりだす。穴を編みだす。詐欺師はそこに相手を突き落す。というよりも、相手のほうでかってに落ちていく。つまるところ小説家のすることも似たようなものだ。マスメディアの情報操作も同じだろう。世に溢れている詭弁やイデオロギー、欺瞞もまた同様だ。勘違いした相手がわるい。バカなのがわるい。異なるパズルのピースなのに、ぴったりはまるからといって馬のひたいから角を生やしたりする。しかし手元にそのピースしかなかったのであれば、そうするのが当然だと勘違いしても致し方ない場合もあるだろう。それこそ、そう勘違いするようにお膳立てされていたら責任の矛先はおのずとずれていく。勘違いすると解かっていて、それを誘うような情報の伝え方をするのならば、やはり詐欺師と同じだと指弾されても致し方ないのではないか。さっこん俎上に載せられている忖度の問題も根っこは共通しているように見受けられる。暴力が法律で禁じられ、悪として一般化したいま、支配構造とマインドコントロールはじつによく馴染んでいる。ひとごとではない。ダブルバインドにしろダブルスタンダードにしろ二重思考にしろ、この手の作為はありふれている。むろん、いくひしさんもこの手の術を、意識的無意識的に拘わらず使っているはずだ。はめられないように気をつけましょう。
2093:【誠意とは規範ではない】
誠意とは何だろう。いくひしさんは生まれてこの方、誠意を持ったことがない気がする。ネットの辞書によれば、誠意とは「私利・私欲を離れて、正直に熱心に事にあたる心。まごころ」のことであるらしい。私欲を離れて、ということは、完全になくしてしまうことではないようだ。私欲から距離を置くこと。距離を置くためには、それがどこにあるかを知っておく必要がある。いくひしさんが「じぶんは誠意を持っていない」と考えるのは、どんなに相手に寄り添ったところでそこに私欲を感じてしまうからだ。しかし誠意が、私欲を失くすことではなく、距離を置いて、どちらかと言えば相手のため、と言えるか否かであるとすれば、なんとなく理解はできる気がするが、それでもいくひしさんは誠意を以って相手に接したことはない気がする。私欲の引力がつよすぎて、どうしても相手のためというよりもじぶんのためでしかない気がしてしまうのだ。現にじぶんのためだろう。めんどうを背負いたくない、楽をしたい、得をしたい。だからできるだけいくひしさんと関わる相手にはしあわせになってほしいのだ。それがもっとも安全で安心した環境を築ける確率が高いからだ。それこそが人類が社会を形成し、暴力を廃絶し、平等を重んじるように規範を練り直しつづけた動機付けであるはずだ。争うことは損だ。しかし現実には、損をしてでも避けねばならぬ隘路が立ちはだかることがある。そうしたときひとは、悪に染まってでも、隘路を打破すべく立ち上がるのだろう。否、悪を用いて隘路を打破するのだ。悪とは属性ではない。手段そのものだ。何かを排除し、何かを守り、何かを傷つけ、何かを得る行為こそ悪である。悪にはたくさんの名前がついている。正義。愛。是正。改革。正論。論破。何事も行き過ぎれば、悪果となって身の破滅へと導いていく。しかし微量のアルコールであれば身体の調子を整える方向に働くように、悪ですら、正常に機能する回路を構築するのに役にたつ。悪そのものは絶対悪ではない。誰もが悪に染まり、悪を手にし、日々を過ごしている。それがいきすぎた悪にならぬように、自身がどのような悪を手段に用いているのかには注視しておきたいものである。じぶんの悪に目を向けること。見詰めつづけること。暴走せぬように監視しておくこと。私欲は生きていくうえで欠かせない生への原動力である。と共に、それゆえに悪でもある。悪を手放さぬままに身を焼かずにすむ距離に置く術を磨くこと。自身の悪がどこに潜んでいるのかを見抜くこと。誠意とはその自覚にこそあるのではないだろうか。すくなくとも相手に誠意を要求する姿勢は、誠意からはかけ離れていると言えそうだ。
2094:【YOUTUBEの著作権侵害について】
いくひしさんはYOUTUBEに動画を載せている。撮った動画にミュージシャンの音楽を上乗せして編集し、それをYOUTUBE上に投稿している。通常、これは著作権侵害にあたるが、YOUTUBEでは各国の音楽配信レーベルと包括的業務提携(利用許諾契約)を結んでおり、許可された音源に関しては、その動画の収益をレーベル側へ譲る条件で、YOUTUBEへの投稿が許容されている。言い換えれば、著作権侵害をしている動画はいくら視聴されてもその投稿者は収益化できず、その分、著作を利用された側が収益を得る仕組みがとられている。いくひしさんでいえば、音源を無断で使用しているが、その動画がいくら視聴されても一円にもならない。むしろ視聴されればされるほど、音源の著作権を保持している者に利益が分配されるようになっている(もちろんYOUTUBE運営側にも入るだろう)。厳密にはだから、著作権侵害にはあたらない(楽曲の著作権とはべつに、それを演奏した者たちへの著作隣接権などがあるが、これもYOUTUBEのほうで著作権違反の判断をしてくれているようなので、ダメなものはそもそもアップロードができない仕組みになっている)。とはいえ、すべての音楽配信レーベルがYOUTUBEと契約を結んでいるわけではない。レーベルに入らず、個人で音楽を発信している音楽家たちは、おおいに著作権侵害を受ける懸念がある。じっさい、YOUTUBEの動画管理画面では、著作権侵害にあたるか否かの表示がされる。あなたは他人の作品を無断で使用しているので収益化はできないが、その収益は著作権保持者にいくような仕組みであるので、動画はそのまま載せておいてよいですよ、といった表示がされる。しかし、YOUTUBEと業務提携を交わしていない個人のアーティストの楽曲などは、著作権侵害の表示がでない。だからといってもちろん無断で使用してよいわけではない。著作権侵害は2018年から日本では非親告罪となった。著作権保持者でなくとも、告訴できるのだが、いくつか条件がある。そのうちのひとつに、原作そのままに複製することなどがある。つまり、ある程度編集されたものについては、非親告罪として扱えず、著作権保持者本人でなければ訴えることができない。これについては、法律で認められている「引用」との混合を防ぐことが目的と推測できる。出典と作者を明記していれば、引用が可能だ。また、二次創作としてかぎりなくグレーな著作権違反もある。著作権保持者の利益を損なうような二次創作にかぎっては許容できないが、そうでないものについては、個人で楽しむ分にはよしとしましょう、といった合意により暗黙のうちに見逃されているようだ。ひとまず言えることは、著作権は作者の利益をまもるためのものである、ということだろう。著作権を侵害したとしても、二次創作のように、それを楽しむ者が増えることで結果として著作権保持者の利益になるようなものは許容される傾向にあると言えそうだ。とはいえ、それは著作権保持者の懐の深さ、言い換えれば、一存によって支えられている自由でもあり、無断使用する者は、それがたとえ仕組みとして利用可能だったとしても、原作者へのリスペクトの精神は失わないでいたほうがよろしいのでは、と思うしだいだ。(法律のプロではないので、誤解している箇所があるかもわかりません。著作権に関しては、国によって扱いが異なったり、いつの間にか企業同士でのあいだで新たな契約が結ばれていたりするので、2019年6月25日げんざいのこれはいくひしさんの認識でしかない点にはぜひご留意しておいてほしいと思います)
2095:【寝るのが気持ちよいのは、起きていたから】
たとえば、仮に十年間、まいにち1000文字ずつ小説をつむぎつづけていれば、単純計算で365×10×1000=3650000文字分の小説ができているはずだ。10万字でおおよそ一冊になるので、36冊分の小説ができていることになる。これがもしいちにち3000文字ずつであれば、三倍の108冊の小説ができる。まいにち3000文字だったらなんとかなりそうな気がしないだろうか。削ったり、推敲したりするので、いちにち5000文字をノルマにしておくと効果的かもしれない。無理ならいちにち500文字でもよい。それだって十年で18冊分の小説がつくれるのだ。もちろん、たくさんつくればよいというわけではないだろう。一つ一つのクオリティや、新鮮な発見、工夫や、成長度合いなど、つくるごとに蓄積されていく「何か」のほうがだいじに思える。それを変化の軌跡と言い換えてもよい。理想に近づく方向に変化しつづけていられるか否か。しかし、理想そのものもまた、時間の経過にしたがい変化していく。理想の変化と、自身の変化がちょうどよい塩梅で追いかけっこをしつづけていられると、いま夢中になっていることに飽きずにいられるのかもしれない。そうしていると、あるとき、ふと、過去を振りかえったとき、じぶんは充実した日々をすごしていたのだなぁ、と気づける日が訪れるのではないだろうか。やらないよりかはどんなにちいさなことでもやりつづけていたほうが、のちのち、ああしていればいまごろはこれくらいの実を得ていただろうに、とあとの祭りを味わわずに済むはずだ。ひるがえって、いまやっていることが十年後、二十年後に、いったいどれほどの実を蓄えているのか、それをじっさいに計算してみて、なんだこんなものか、と思うようならば、いますこし日々の過ごし方を見詰め直したほうがよいかもしれない。ひとごとではない。いくひしさんほど、日々の過ごし方を見詰め直したほうがよい人間はそうそういないだろう。もっと誠実に、堅実に、実直に、生を活していきたいなぁ、と思ってばかりで、益体なし。いくひしさんはきょうもやる気をだして満足し、そのままベッドに吸いこまれて、夢へとダイブするのである。おふとん、きもちー。
2096:【理解と表現】
理解されないことに悩むひとが多い。これはいくひしさんも例外ではなく、どうして解かってもらえないのだろう、というもどかしさがあれば、どうやったら上手に伝えられるだろうといった困惑もあり、同時に、わざわざ解かってもらう必要があるのだろうか、といった葛藤も含まれる。いくひしさんが数十年という期間を生きてきてぼんやりと呑みこめるようになってきた事項があり、それがなにかといえば、この世のなかには、人間が理解できている事象などそう多くはないということだ(相対的な比較であるからむろんのこと、人間が編みだしつづけてきた知識の量は膨大だ。ただし、未知の領域はまだまだ多分に残されている。というよりも、知見を得れば得るほど、正比例して未知もまた増えていく)。加えて、その多くはないなかでも理解しあえる知識や思考はもっとずっと限定的だ。他者と共有できることのほうが圧倒的にすくないのだ。まず以ってこの事実ですら、なかなか理解してもらえない。理解できないことは端からなかったものとして、認知すらされない傾向にある。理解できていることのみで世界を解釈しようとする者が圧倒的多数なのだ。しかし実際には、この世は人間が理解していないことで溢れている。理解していると思っていることですら、ではいざ説明してみせてほしい、といくつか疑問を投げかけるだけで、人は即座に言葉に詰まるだろう。繰りかえすが、これはいくひしさんも例外ではない。理解できず、理解しあえないことのほうが基本形なのだ。それだけ理解しあえることが異常で、貴重で、尊ぶべきことなのだが、人類は社会を形成し、その過程で教育という名のプロパガンダを国家的に推し進めてきた。教育には利点があるが、むろん欠点もある。完璧ではない。ひと口に愛の尊さを説いてみせたところで、では愛とは何かを説明できる者はいないだろう。もし真実に愛が定義可能ならば、世にこれほど多くの文芸作品は生まれていないはずだ。そもそも定義などできず、夢のように掴みどころがなく、個々人が得手勝手に描きだすものこそ愛である。しかし夢とおなじく、そこにはある一定の共通認識が成立している。その「なんとなくこうかな」といった漠然とした輪郭を以って、ひとは理解しているつもりになれてしまう。理解しあえるとはおおむねこの、「なんとなくこうかな」の輪郭が似通っていると合意しあうことで、では真実にそれが寸分もなく合致しているのかといえば、そんな保障はどこにもなく、往々にしてそれほど似通ってすらいない。それでもふだんの生活で不自由しないのは、我々人間が、こと細かく世界を認識して過ごしていないからであり、前提を穿り返してみればそもそもが世界への認知そのものが漠然としており曖昧だ。「私」という主観ですら、その輪郭を明瞭に把握している者は限られるだろう。これについては、いないとすら断言していいように思われる。もし存在するのならばその者は、生まれてきたその瞬間からじぶんが何を考え、何を想像し、誰と関わり、どんな会話を交わしたかをすべて記憶している者であるはずだ。すくなくとも、公的な記録にそのような者の存在は記されていないだろう。話が逸れてきた。軌道を修正しよう。理解されないことを嘆くことはない。もし伝えたいことがあり、それを相手に伝えたいのならば、そこは時間をかけ、表現を変え、できるだけ相手に寄り添って、伝えつづけるよりほかはない。しかしもし、誰かに何かを伝えたいのではなく、じぶんの思考や想像や思想や妄想を、思いどおりに表現したいことが優先されるようならば、そこはもう理解されないことを覚悟しておくのが賢明と言えよう。むしろ、じぶんのなかに拡がる「何か」を正確に表現しようとすればするほど、他者からの理解からは遠ざかる。なぜなら、ぼんやりと共有されていた輪郭が、あなたの表現力が高まっていくにつれて、はっきりと浮きあがり、まったく似通っていないことをその表現を受動する者たちに突きつけるからだ。あなたが表現したその「何か」の輪郭が、あなたの内側に拡がる「何か」とどれだけちかいのかは、あなたにしか判らない。まったく同じものを出力することは現時点では不可能だろう。そうした技術力を人類はまだ備えてはいない。ゆえに、どこまでも突き詰めることができる。どれだけ労力と時間をかけても、じぶんのなかに拡がる「何か」を表現しきることなどできないのだ。「自己満足型の表現」はそれゆえに、「他者に伝えたいことを伝える表現」とは真逆の性質を有していると呼べる。底なしがゆえに、おもしろい。理解されないがゆえに、より自然だ。じぶんがいったいどちらの表現に重きを置いているのかは、ときおり確認しておくと余計な逡巡を挟まずに済むだろう。どちらの表現がより高尚で、いずれかが下等だ、といった基準はない。「誰かに何かを理解したつもりにさせる表現」も、「宇宙の外側のようにまったく理解できない、と匙を投げだされるような表現」も、どちらもおなじ表現であることに変わりはない。目的の違いがあるだけだ。矛盾はしていない。両立もまた不可能ではない。騙し絵は必ずしも現実に存在する絵ではないが、それでもひとはそれを「ふかしぎな景色」として認識する。他者が理解しやすい輪郭(フレーム)を用意しておき、そのなかでじぶんのうちに拡がる「何か」を自己満足的に表現する道もあるだろう。両立している分、時間と労力はかかるだろうが、それでも欲張ってはいけないなんてことはない。じぶんにとって何がもっともだいじなのか。譲れないのか。あべこべに、何であれば削ってしまっても構わないのか。そうした選択そのものが、あなたのなかに拡がる「何か」を変質させていくだろう。きょう捨てた赤はまたべつの日の青となって現れる。長くなった。きょうの「いくひ誌。」をまとめよう。理解されないのが自然である。ゆえに理解しあう努力が欠かせない。努力したところで理解しあえる保障もない。理解しあえないことはそれほどわるい状態ではない。どちらかと言えば、理解しあえていると錯誤しつづけている状態のほうが危ういと言えそうだ。
2097:【何も成したくなどはない】
何かを成したいときには、最悪の状況から逆算して考えを煮詰めていくのが好ましい。たとえば大きな組織の悪習を是正させたい場合には、さいあく、じぶんが社会的に抹消される可能性からつぶしていくのが最善だ。この場合、何も行動を起こさずにいるのがもっとも安全だと呼べる。また、何かを成すにしても公的な段取りをとったほうが、のちのちじぶんのためになるだろう。たとえば裁判を起こしたとして、じぶんの訴えが棄却されたとしても、それはそれでじぶんの判断が公的には正しくなかったことが判るので、義憤に駆られ、誤った行動をとらずに済む(誰かを傷つけずに済む)という意味で、得である。結果の勝敗に拘わらず、まずは公的な機関に相談するなり、判断を委ねたりするのが最善であると呼べる。しかしそれには時間と費用がかかる。それを用意できないようならば(または待っていられないようであるならば)、公的な機関を利用しない手で、行動を起こさなくてはならない(デモや署名運動などがこれにあたる)。むろん、「起こさなくてはならない」なんてことはないはずだ。不平や不満、鬱憤は呑みこんで、日々をおだやかに過ごしていくのがじぶんにとってはいちばんの選択であるはずだ。何もわざわざ歪んでみえる組織やコミュニティ相手に大立ち回りを演じる必要はない。ただ、飽くまでそれはじぶんがそうした組織やコミュニティから脱せられた場合にかぎられる。理不尽な何かかから逃れられないようであるならば、やはりどうにかせねばならぬだろう。また、親しい者がそうして理不尽な目に遭っているようならば、やはり手を貸したくなるのが人情だ。であるならば、行動を起こした際に、ある程度の損は覚悟せねばならぬだろう。どうあっても、大団円は迎えられない。それが、大きな流れを変えることの対価とも呼べる。大きな流れを変えるというのは、それにより利益を受けていた者たちに苦役をもたらすということだ。楽ができていた者たちに、楽をするな、と制限をかけることである。ある種の手段を禁じること、苦労を強いること、これが大きな流れを変えることの作用である。ズルをするな、と指弾するのは、言い換えれば、楽で効率的だった手段を使うな、と禁じているのに等しい。だが、その楽で効率的だった手段の背景には、理不尽に苛まれた者たちの忍耐が隠されている。代表的なのは奴隷制度だろう。奴隷制度を甘受していた者たちにとっては、奴隷はこれ以上ないほど楽で効率的な手段だった。しかし、それは人権を蔑ろにされ、理不尽であることにすら気づけないように存在を損なわれつづけた人々の忍耐のうえに成り立つ搾取であり、これは、より平等な社会からみれば、瑕疵のあるシステムと呼べる。人間はけっして、いま目のまえにある現実だけを凌げればそれでいいというわけではないはずだ。よりよい現実を過ごせるように、すこしでもよい未来を築けるようにと、「いま」を生きることこそが、人間とそれ以外の生き物とを分かつ大きな差異と呼べるのではないか。もしいくひしさんが何かの悪習を正そうとするならば、被害者を募り、共に訴訟を起こすだろう。だが、それにより損を被る側に、いくひしさんにとってたいせつな者たちが含まれるようならば、そうした手段は可能なかぎりとらないように立ち回るだろう。悪習を変えたいのであり、誰かを罰したいわけではないからだ。いくひしさんは、しずかに細々と暮らしたい。ただそれだけである。何も成したくなどはない。何もさせないでほしい。ただし、やるとしたらとことんやる。たとえこの身が滅びようとも。それだけの覚悟(或いは諦観)が固まったときのみ、いくひしさんは行動しはじめるだろう。他者の何かを変えようなどとはじつにおこがましい。悪そのものだと呼べる。だが、悪に染まらずには何かを成すことなどできはしないのだ。悪に染まらずに済む日々を祈って、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。
2098:【自制を忘れずに】
じぶんの探求や闘いに他人を巻きこもうとしていたら、すこし考えなおしたほうがよいかもしれない。それがどんなに理屈として正しいように思えても、まずは立ち止まったほうが身のためだ。自戒を籠めて記しておこう。
2099:【生きたらいいじゃない】
生きていてもひとの負担にしかならない。だからといって生きていたらダメだ、なんて思ったことはないけれど。
2100:【欠落】
人間の主観が物事を複雑にしている。人間という曖昧なフィルターを通して世界を眺めるから、足りない箇所を埋めるために、余計な処理をしなくてはならなくなる。単純であればあるほど、おそらく人間には複雑に視えるのだろう。
______
参照:いくひ誌。【131~140】