• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【2081~2090】

※日々、誰かの死に気づくことなく、苦しみも、悲しみも、血も涙も、見逃している、この世は途方もない無情によって成り立っている、だからこそ掴めもしない歓喜や希望ばかりを着飾って、虚像ばかりを貪れる、しあわせとはなんと無責任で一過性の、火花だろう、しかし日々誰かの死を見詰め、苦しみも、悲しみも、血も涙も、漏れなく手にする者よりかはいくぶん以上に、愛らしい。


2081:【寝るのに理由などいらぬ】
やあやあ、いくひしさんだ。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはいま、まさにこのしゅんかん、ものっそい眠たいでござる。もうね、こんなん並べてる場合じゃないでござる。つくりかけの小説たまりすぎてて、いったいいくひしさんはどこまで怠け者を極めたら満足するのか、底なしのだらしなさに脱帽でござる。いやはや、みなのものはいくひしさんを反面教師にするでござるよ。いくひしさんほど自己管理とは無縁のへっぽこぴーはいないでござる。がまんなどできぬでござる。食べたいものがあったら待てと言われても、はーいと元気よく掲げたその手でむしゃむしゃかぶりつくでござる。眠くなったら寝るでござる。そのせいでたいへんなミスをしでかしてしまったとしても、いくひしさんが眠くなる前に、休んでいいよー、って言わなかったひとがわるいでござる。三大欲求は人間の基本的人権でござる。責任転嫁はいくひしさんのオハコでござる。好きなときによこになって休むくらいの自由は欲しいでござる。体力がないでござる。すぐに疲れてしまうでござる。休むことすら、疲れてしまうでござるよ。ヘトヘトでござる。休むのがヘタないくひしさんはだからひとよりもたくさん休まなくちゃいけないでござる。真面目になまけているでござる。立派なのでござるよ。褒めてくれてもよいでござるよ。それとも、もっとなまけなさいとお尻を叩いてくれてもよいでござる。いくひしさんは怠け者の鑑でござる。超一流でござる。あっちでなまけて、こっちでなまけて、なまけながらなまけるでござる。お茶の子さいさいでござる。たとえばそうじゃなぁ、バナナを食べながらチョコレートをかじって、バナナパフェを食べたつもりになるくらいのことは、いくひしさんにかかれば造作もないでござるよ。怠け者を極めるのもたいへんでござる。いくひしさんなんかバナナの皮をむくのもめんどっちぃから、チョコレートだけかじって、バナナパフェを食べたつもりにすらなれるでござる。でもチョコレートだけだとなんかあれだから、いっそ食べないで寝ちゃうでござる。夢のなかなら食べ放題でござる。ありもしないものをそこにあるように思いこんで、満足するのは怠け者の基本にして奥義でござるよ。やったつもり、食べたつもり、たくさんどっかで寝たつもり、んー、ここまでくるとなんだかただの働き者になってしまうでござるから、寝るのだけは真面目にとりくむでござる。きょうもスヤスヤ真面目になまけるでござる。みなのものはいくひしさんを見習って、ちゃんと寝るでござるよ。いい夢をみるでござる。ぐっすりスースーでござる。そしてよい明日を迎えるでござる。さわやかに目覚めるでござる。おやすみーでござるー。


2082:【超短編20『引退は惜しまれるうちに』】
損な役回りだ。雲内(うんない)ヒトヨは院内会議で新たに任命された役職にうんざりした。暗雲たれこめる胸中で患者の診察を済ませ、帰宅する。夫は専業主夫だ。いいや、在宅ワーカーと呼んだほうが正確なのかもしれない。夫がどのような経済システムで小遣いを稼いでいるのかをヒトヨは知らないままでいる。「ヒトヨさんは興味ないだろうからね。患者さんのことだけ考えてたらいいよ」嫌味なくそのように言い切る夫とは、夫婦というよりも、共に生活の至らない箇所を埋めあう相棒のような繋がりを維持しつづけている。「きょうも疲れてるね」顔を合わせると開口一番に夫はいつもそう言う。だがきょうはそのあとで、「浮かない顔でもある」と付け加えたところを鑑みるに、じぶんで自覚している以上に重い責務を背負わされたのだと、ついたばかりの肩書きに、否応なく拒否反応がでる。「じつはきょう」ヒトヨは語った。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890042589


2083:【底なしの】
何かを得ても、何も変わらないのだと気づいたとき、人は何も得なかったころよりも大きな虚無を抱く。その虚無を打破するためには、何かを得て変わろうとするのではなく、じぶんそのものが変わりつづけることを望むよりほかはない。どのように変わるのかを縦横無尽に、自在に、操れる。導ける。手にできる。自己満足を下等な欲求だと見做す向きが世のなかにはあるが、自由とはつまるところ自己満足であろう。満たされぬことで満たされる唯一の救済である。


2084:【性別に囚われているのは誰だろう】
ジャンルとしての百合とBLにおいて、いくひしさんはとうぶんつくるのを控えようと思う。理由はいくつか挙げられるが、まず一つ目に、いくひしさんがつくらずともすでにいくひしさんのつくりたい方向の世界観に目を向けている作家が出現しつづけている点だ。言い換えれば、いくひしさんがわざわざ手をださずとも、かってに百合やBLのジャンルの枠組みは拡がりつづけていく。それが解かったので、もういいかな、と考えている(何様だ、との所感、まことに正鵠を射っていると評価します)。もう一つは、社会の変容具合が思っていた以上に速い点だ。あと五年はかかるかな、と思っていた価値観の変化が、SNS上という極々狭い範囲の観測であれ、顕著にみられるようになってきている。具体的には、性差に関する問題は、六年前(二〇一三年)とは比べものにならないほど活発に議論されるようになっている。水掛け論というか、同じような議論が繰り返されているようにも見受けられるが、誰もが議論の入口に立てている傍証でもあり、これはむしろ好意的に受け止めてよい兆候に思える。先人はより議論を煮詰めておいて、後発組が論理迷宮に迷いこまぬように、さりげなくつぎの段階へと導いていけるとより好ましく感じる。せっかく入口に立った者に対して、まだそんなところにいるの、みたいなマウンティングは是非ともとらずにいてほしいといまのうちに釘を刺しておこう。話が逸れた。いくひしさんがジャンルとしての百合やBLから撤退する理由だが、考えてもみてほしい。このまま性差に関する議論が煮詰まれば、そう遠くないうちに、男女という枠組みが、生物学的性差以外で、ほとんど取り払われていくことが予測できる(生物学的性差ですら、遺伝子工学の発展によって取り払われるのは時間の問題だ)。言い換えれば、これまであった「女らしさ(女性性)」や「男らしさ(男性性)」、といった固定観念が打ち砕かれ、女性性や男性性といったものが、「リンゴ風味」や「ソーダ風味」といった、ある種の「記号(マーク)」として風化していく。その日の気分で服をコーディネイトするように、どんな個人のなかにも、女性性や男性性があってあたりまえだとする価値観が一般化し、そもそもが、そうした区分けをする意味がなくなっていくことが予想できる。これは性自認にしろ、性的指向にしろ、そうした区分けをする必要性すらなくなっていく。なぜなら、個々人の多様性が尊重されていくにつれ、「人は人を愛するのだ」「人は人と関わっているのだ」という極々単純な理屈が、社会に波及していくからだ。人は性別を愛するのではないし、性別がじぶんという枠組みを決めるわけでもない(まったくの無関係ではないにしろ、そこに囚われる道理はない。しかし、これまでの人類社会におかれては、仕組みとして、性差によって人格が矯正されてきた背景がある)。もちろん、好きになるきっかけが相手の性別にあってもいいし、なくてもいい。足の長い見た目が女性性に寄っている人物が好きでもそれは当人の自由だ。胸板の厚い見た目が男性性に寄っている人物が好きでもご自由にどうぞ、である。すなわち、これまであたりまえとされてきた、異性愛や同性愛というくくりそのものが、単なるフェチの一つにまで、風化していく。好きになったあとに相手とのあいだで愛を育めるかどうかは、好きになったきっかけとはあまり関係がない。相手を対等な人間として認め、接し、尊重していかないことには、そもそも好意すら受け取ってもらえないだろう。そしてこうした考え方が一般化していけば当然、百合やBLというくくりそのものが、機能しなくなる。わざわざ女性同士だけ、男性同士だけ、というのはむしろ古い考え方になっていく(すこし乱暴な比喩になるが、まるで肌の色で登場人物を選別するような感覚だ。これはジャンルではなく、明確な差別だろう)。ただし、古典としてそうしたジャンルは残るはずだ(貴族だけの物語や奴隷だけの物語がいまもまだ残っているように)。しかし現在、ミステリーがエンタテイメントとほとんど同義であるように、百合もBLも、それぞれ単なる恋愛物語に収束し、或いは各ジャンルに収斂していくだろう。どんなジャンルにも登場人物が女性だけ、男性だけ、或いは主要人物のからみが、女性同士寄り、男性同士寄り、といった作品があるものだ。それをわざわざ百合やBLとして売りにだすのは、いまはそうしたほうが売れるから(注目されやすいから)であり、これからさき、十年以内には、そうした惹句や範疇そのものが意味(効果)を失くしていくだろう(性的指向がある種のフェチにまで風化すれば、それに特化した物語として、百合です、BLです、と謳う作品がでつづけることは否定しないが、そもそもフェチモノは需要がすくないから、フェチなのだ。むしろ、萌えがいまはどんな作品にも取り入れられているように、百合やBLもまた、そうした要素がどんな物語にも組み込まれて当然になっていくはずだ)。いくひしさんにはかように結末が見えてしまったので、興味が失せてしまったと言ってもいい。むろん、断るまでもなく、いくひしさんがかってにそう考えているだけであり、この考えを一般化するつもりはない。ジャンルとしての百合やBLを嗜好する者たちがいることは知っている。それを否定しているわけではないし、そうした愛好を無駄だと言っているわけでもない。それぞれがそれぞれに、好きなものを、好きなように、つくったり、味わったり、ときには他人にすすめたりして、楽しんでいけばよろしいのではないだろうか。ただ、いくひしさんはもう、わざわざ百合やBLと称して物語をつくることは控えようと思う。いま手掛けている三万字前後の短編を最後に、新作においては百合やBLを標榜することはしなくなるので、その旨をここに記しておく(登場人物の生物学的性差がどちらかいっぽうに偏ることはあるだろう)。なぜだろう、と疑問に思われる方がのちのち、いらっしゃるかもわからないので、とくに深い意味はないですよ、という断りを述べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2085:【そういうものがつくりたい】
いますぐ死にたいとは思わないが、人生を早送りして、一秒たりとも省略せずに、余すことなくの未来をトータル五秒に圧縮して、ああこういう人生だったのかと振り返りながら眠るように終わりたいとは、割とよく考える。結果が解かっているのにそれを待つ時間がもどかしい。いますぐ死にたいとは思わないが、さっさと死にたいとは思っているのかもしれない。読書も同じで、読後の所感だけ味わえたらそれでいい。それはもちろん、噛み砕き、咀嚼し、嚥下し、吸収したからこそ得られる味わいであるのだが、その過程をすっ飛ばすことなく、体感しながらに、その時間をできるだけ圧縮して感じたい。まるで出所した瞬間の開放感を何度も味わえる魔法のように。要するに、できるだけ多くの情報を得たいのだ。読書をしながら小説をつくり、身体を動かし、掃除をし、寝、食べ、シャワーを浴び、着替え、買い物をし、旅をできたら言うことがない。仕事はできるだけしたくない。


2086:【透明人間になりたくはないの?】
誰からも見向きもされない環境で創作をしつづけることがいくひしさんにとってものすごくたいせつだ。重要度が高いし、優先度も高い。人の目があるとすぐに影響されて、つまらないもの、見栄を張ったものをつくってしまう。不要なチカラが入ってしまうし、理想から程遠くなる。誰の目も気にせずにいられる環境、しずかな環境、じぶんと向き合える場所、じぶんの奥底へと潜っていける空間に身をおくことの重要性は、何度でもじぶんに言い聞かせていきたいところだ。それを一言で表すと、孤独、になるのかもしれない。欲を張れば、わざわざ一人にならずとも、雑踏のなかですら孤独になれると好ましい。いつでも無になれる。我執を切り離せる。成功なる世のなかの定めた枠を忘却し、確率の外側へと飛びだせるようになること。いくひしさんがそれをしなければ今後誰もそれに行きあたることのない、偶然の偶然を手にすべく、ただ孤独に無を掘りつづける。そういう日々を過ごしていきたい。まだまだぜんぜん程遠いが。


2087:【唯一無二の価値】
いまこの瞬間、この世に存在し得ない組み合わせを見つけだすことがいくひしさんにとって割かし重要だ、といった文章をときおりいくひしさんはこの「いくひ誌。」で並べてきた。誤解されそうなので注釈を挿しておくと、何もそれは「すでにあるもの」や「既存の組み合わせ」を価値の低いものと見做しているわけではない、という点だ。たとえば何事も基礎はだいじだ。なぜだいじかというと、どういう方向で掘り進めてもいずれそこに行きあたるもの――方法論としてほかの筋道であっても共通する成分――である確率が高いからだ。言い方を変えれば、水脈や鉱脈こそ、基礎であると呼べる。ただ、もっと深いところ、べつの場所にも同じような水脈や鉱脈があるかもしれない。すでに在り処の判明している水脈や鉱脈は、地図を辿れば誰でも辿りつける。すくなくとも、時間と労力をかければ可能だ。真似ができる。学ぶことができる。誰でも一定のレベルへと昇華し得る「成長の種」こそ基礎なのだ。同時に、そうした「基礎」や「既存の組み合わせ」は、真似ができ、学べるがゆえに、時間の経過にしたがい、有り触れた卑近へと変貌していく。まるでファーストフード店のようなものだ。ファーストフード店の食事は美味しい。間違いない。基礎を踏襲しているからだ。同時に、それだけだと飽きてしまう。物足りない。ほかの料理も食べてみたい。そうした欲求に衝き動かされる。基礎を真似たり、学んだりしながらでも、そうした探究はできる。ほかのここにはない何か、いくひしさんが見つけなければあとはもう誰にも見つけることはできないだろう何かを探すことはできるのだ。創作とは、本来そういった、ここにはない何か、じぶんが編みださなければ誰も観ることのできない何かをほかの人々にも共有し得るカタチで表現することではなかったか。それがまるで、すでにある「基礎」にどれだけちかいか、どれだけ「既存の組み合わせ」をきれいに再現できるか、の競技と化してしまっているようにいくひしさんには見受けられる。基礎は真似ていい。成分として取り入れていい。ただ、あまりにその割合が、創作物に対して大きすぎるのではないか、といくひしさんは首をひねっている。唯一無二でなくともいい。ただ、唯一無二を求めない創作に、おもしろさはいまひとつ感じない。話を脱線させるが、物語は時代によってその構造を変化させつづけている。むかし受け入れられた物語の骨格がいまの時代にそのまま通用すると考えるのは、いささか怪しいと構えておいたほうがよさそうに思えるが、あなたはどうお考えになられるだろう。映画で言えば「クラウドアトラス」や「アベンジャーズ/インフィニティウォー」がいまの時代に合致する物語の構造を備えていると指摘しておこう(単にいくひしさんが好きなだけとも言う)。ピクサーやディズニー作品もおおむね、その方向に舵をとっている。海外ドラマはさにあらん。各々、基礎を学びながら、そのさきを掘り進め、掴みたいものを掴んでいきましょう。


2088:【蟻と蜘蛛がすき】
雨の日の花壇に目が留まる。ツツジだろう。花はまだ咲いていない。緑色の羊じみて、道路脇に並んでいる。雨が降ると、その表面に、白い膜が浮かぶ。まさしく水玉模様だ。近づくまでもなく正体はわかっている。蜘蛛の巣だ。密集するツツジの葉のうえに蜘蛛の巣が、いくつも張られており、それが雨露を受け、白く浮き上がって見えている。こうしてツツジの表面に蜘蛛の巣が浮かびあがると気づいたのは、ここ数年のことのように思うのだ。小学生のころに見た記憶はない。中学生、高校、と気づいていれば思いだせるはずだ。しかしいちばん古い記憶でも、震災後のことであるから、おそらくは八年は経っていない。そのときに見かけた蜘蛛の巣は、一つ一つが小ぶりだった。ふしぎなのは、示し合せたようにすべての蜘蛛の巣の大きさが一様である点だ。きょう見かけた蜘蛛の巣もそうだった。大きさは、記憶にあったものよりも一回り大きいが、すべての蜘蛛の巣が示し合せたように同じ輪郭をかたどっている。相似ではなく、合同にちかい。蜘蛛の種類が違うのか、それとも同じ母蜘蛛から孵った蜘蛛の集団で、成長する速度がいっしょなのかもしれない。そう考えれば、以前に見かけたときに一回り小さかったのも頷ける。見かけた時期が、いまよりすこし早かったのだろう。幼い蜘蛛の集団の住み着いたツツジを見かけたから、きょう目撃した蜘蛛の巣の水玉模様よりも小ぶりだったのだ。それはそうと、あれはなんの蜘蛛なのだろう。調べればネットに載っているだろうけれども、いまはまだ知らないままでいよう。解決済みの判を捺さずに、しばらく「日常の引っ掛かり」として脳内のどこかに、蜘蛛の巣がごとく張りつけておく。こうした何気ない「無知」が、いずれ何かの物語に活きてくる。知識ばかりが有用なのではない。知らないこともまた、充分に価値のある情報と呼べる。絵画は余白によって浮きあがり、文章は行間によって奥行きを得、そして世界観は無知なる空白によってその枠組みを広げていく。共通するのはいずれも、想像力が躍るための舞台となることだ。たるみ、ゆるみ、あそび、ゆらぎ。ぎちぎちではゆび一本動かせない。金型ではなく衣服のようなやわらかさを、鎧ではなく外骨格のようなプラスアルファを。


2089:【準備体操】
1000作つくってからが本番なので、それまでは準備体操です。焦りようがないのです。まずは1000作。話はそれからです。


2090:【ボツ作集】
郁菱万のボツ作集を更新しはじめました。きょうは2019年6月23日です。だいたい200作くらいあると思うので(もっとあるかも)、まいにちすこしずつ更新していこうと思います。2009年ごろに処女作をつくりがてら、毎日つむいでいた作品となります。ひとさまに読ませられるクオリティではないのでお蔵入りしていたのを、載せていきます。いついくひしさんが死んでしまうか分かりませんからね。人の目に触れる場所に載せておけるうちに、載せておこうと思います。前半が3000字程度の短いので埋めていき、中盤はすこし多めのものを載せていって、後半は小説とも詩ともつかないものを、最後は詩なんかを載せていこうと思います。いくひしさんは詩から入っていって、しだいに、掌編、短編、中編、連作長編、長編へとしぜんに移ろっていった経緯があります。生物の進化みたいですね。短いのでは描ききれない物語を思いついたら、しぜんと長編にしていくしかなくなったわけです。そしていまは、その長編でないと描けない物語をなんとか短く、コンパクトにできないかと、あーだこーだ、試行錯誤しているところです。ひとまず、ご報告まで。(https://kakuyomu.jp/works/1177354054890100731


_____
参照:いくひ誌。【581~590】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883414153

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する