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いくひ誌。【2071~2080】

※日々、悪態をつき、人を遠ざけ、ほっとする。


2071:【知恵をつけよう】
誰だって身内にはいい顔をする。身内以外の人間、もっと言えば、敵に対してどのように接するのかが、文明人かそうでないか、の違いに現れるのではないか。人間を害獣扱いする者を果たして文化的と呼べるのか。疑問である。


2072:【表現型の可塑性】
生物学用語で「表現型可塑性」と呼ばれるものがある。これは環境の変化に適応して身体を変化させる生物の形質を意味する。たとえば寒い土地にいけば人間は脂肪を蓄えようとするし、日差しのつよい土地にいけば日焼けをする。こうした環境に適応した身体の変化は、遺伝子が変質せずとも引き起こり、ゆえに子孫に引き継がれることはなく、その個体に完結した変異として認められる。言い換えるならば、表現型可塑性は獲得形質の一部であり、子孫には引き継がれない。ここから分かることは、表現型可塑性が高い種は、時間の経過に従い、個体差が均一化し、進化の速度がゆるやかになる点だ。環境へ適応しやすい種のほうが、進化速度が遅くなる(どんな個体も環境に適応するということは、自然淘汰の原理が働きにくくなるため、進化速度が遅くなる)。反して、環境に適応しにくい種のほうは、進化速度が高いことが予想できる。視点を変えれば、表現型可塑性が高いとほかの環境に移る必要もなく、またほかの性質を有する種と交配する必然性がないため遺伝的多様性が損なわれる傾向にある。いっぽうで表現型可塑性が低いと、環境に適応できない分、過ごしやすい環境を求めて移動する習性が求められ、場所を移動すれば、ほかの種と交配する確率も高くなると考えられる。一言でまとめれば、表現型可塑性が低いほうが多様性が担保されやすいと言えそうだ(局所的には、淘汰が進むことで進化が促されるわけであるから、表現型可塑性が低いことが多様性を高めることに直結するわけではないし、必ずしも多様性が進化を促すとも呼べないが、多様性のある環境のなかでこそ自然淘汰の原理は有効に機能するので、俯瞰的には多様性が進化を促すと言っても間違ってはいない。そして進化は新たな種を生むことでもあり、これは多様性を増すイチ因子となり得る――すくなくとも遺伝的多様性は増すので、現存する種の数を単純に比較するだけでは、多様性と進化の関連は語れないはずだ)。話は逸れるが、「時代に適応せよ」「環境に適応せよ」と謳うのは一見すると正しいように映るが、進化の側面からするといちがいに正しいとは呼べなさそうである。もっとも、生き残らないことには進化も適応も何もあったものではない。生き残ることを優先するのは、進化することを目的にするのならば正しいのかもしれない。しかし、生物としての正しさと人間としての正しさにはどこか隔たりがあるように思われてならず、いまのところこの矛盾を紐解いた文芸作品とは出会えていない。進化することは善か。生き残ることは善であるのか。生物としての悪とは何か。人間としての悪とは何か。善とは。悪とは。やはりというべきか、いくひしにとって物語の醍醐味とは、この謎解きに収斂するのかもしれない。(曖昧な知識を組み立てて、憶測を語っております。真に受けないようにお願いします)


2073:【超短編19『布団のうえで寝たいんだ』】
通知表の時期は地獄だ。朝起きると、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889959150


2074:【主語がでかいことが問題ではない】
SNSでは「主語がでかい」という言葉が揶揄する意味で使われている。たとえば、「男は~だから」や「女はこうだから」みたいな意見において、それはおおざっぱにくくりすぎでしょ、という反論を籠めて、「主語がでかい」と言い表すようだ。詭弁における「過度な一般化」とほとんど同じ意味であろう。ただ、集合全体の二割程度の事例であれ、看過できない問題というのもあり、その問題が放置されているのならばそれは集合全体の問題だと言って支障のないこともあるのもたしかである。単純な割合の比較で、「過度な一般化だ」と決めつけるのは、それこそいただけないのではないか、と思うしだいだ。もっと言えば、「主語がでかい言説」を禁じるとなると、傾向や性質を語ることはまずできなくなる。何事にも例外はつきものだ。掘り下げて言えば、「主語がでかい」ことがいけないとするならばあとはもう、「わたしとあなただけ構文」で話すしかなくなる。しかし、「主語がでかい」と批判する者も、けっきょくどこかで何かの集合をひとくくりにして扱い、批判したり、賛同したりしている。その自家撞着くらいには自覚的であってほしいものだ。たとえば、現在社会問題として俎上に載っている貧富の差は、果たして個人の問題に還元してしまってよいのだろうか。「主語がでかい」を批判に使いすぎると、結局なにごとも自己責任だ、とする極論に偏ってしまう気がするのだが、あなたはどう思われるだろう。主語がでかいことが問題なのではない。何が問題なのかが明確に指摘できていないのがいけないのだ。なぜその集合にそのような傾向が現れてしまっているのかを突き詰めて考えることこそが、より合理的な解決策を編みだすための足がかりとなるのではないだろうか。井戸水を飲んだら死人がでた。井戸水は危うい。たしかにそのような傾向があるかもしれないが、なぜ井戸水が毒と化してしまったか、のほうがより本質的な問いであると呼べる。目のまえに提示されたデータだけに目を留めず、ほかの要素と関連づけて考える癖をつけるのも、そうわるくはないはずだ。むろん、妄想や不確かな情報と関連づけるのは利口とは呼べないが。


2075:【とうにょうびょう】
二十個くらい前の記事で、糖尿病は人類が寒冷地帯に暮らしていたときの名残りで、本来は血液が凍りにくくするための自己防衛機能だったとする説を並べた。仮説でしかなく、真偽のほどは定かではないとも述べたはずだが、もう一つ、糖尿病の起源めいた話を目にしたので、メモしておく。社会が発展し、人類が衣食住に困らなくなりはじめたのはほんの二百年前前後のできごとであり、それ以前は、現代とは比べものにならないほど頻繁に飢餓に苦しんでいたはずだ。そしてなるべく血中のエネルギィ源が薄くならないように、血糖値を高める方向に人類は進化した。その名残りが、飽食の現代社会において生活習慣病として表出してしまったのではないか、とする説があるようだ。これもまた真偽のほどをいくひしさんは知らないので、そういう説もあるのかといった程度に流しておくのが好ましい。こんなところに正しい情報など落ちてやしない。本当だろうか、と疑問する癖をつけておこう。疑問の例を一つ並べておこう。たとえば、凍傷予防説において、本当に血中糖度が高まると血液が凍りにくくなるのか、正常な血糖値の血液とどの程度の差が生じるのか、くらいは研究データとして知っておきたいところだ。また飢餓耐性説においては、糖尿病に1型と2型がある理由が説明できない。常時飢餓状態では人間は生きていけないのだから、当然、飢餓への耐性は一時的なものであったはずだ。つまりいちど血糖値があがりやすくなったあとで、食事ができるようになり栄養状態がよくなったら、こんどは正常な状態に戻る必要がある(これがもし凍傷への予防のためであったなら、恒常的にずっと血糖値が高くないといけないため、「膵臓の機能が壊れる1型」と「遺伝的にインシュリンが分泌されにくくなる2型」があっても矛盾しない。とにかく血糖値が高くなればよいからだ)。しかし飢餓への耐性のために血糖値を高くするだけなら、わざわざ膵臓の機能が壊れる必要はない。過剰な糖分の摂取や生活習慣の乱れが要因であるだけなら、わざわざ人類の祖先が飢餓に苦しんでいた、なんて理由を引っ張ってこずとも、単なる病気として扱えばよい話だ。とはいえ、1型と2型がべつべつの起源を有していてもおかしくはなく、ひょっとしたら凍傷予防説と飢餓耐性説の両方が糖尿病の起源になっている可能性も否定できない。繰り返すが、いくひしさんは糖尿病がなぜ発症するのか、そのメカニズムも、起源も知らない。いずれにせよ、現代人にとって糖尿病は病気であり、困った身体の反応として、マイナスに働いていることだけは確かだと言ってよいだろう。甘い物の食べすぎと間食にはすこしばかり気を配って過ごしていきたいものだ。


2076:【思考の飛躍の一例】
報労金というものをご存じだろうか。落し物を拾ったら、持ち主からその落し物総額の5~20%をもらい受ける権利が発生する。これが報労金だ。ただ、たとえば財布を拾ったとして、さいきんでは電子マネーやプリペイドカードなど、財布そのものの総額がいったいどこまでの価値を保有しているのかが極めて曖昧だと呼べる。単純な現金の合計なのか、それとも財布それ自体を含めた、総合した損失額のことなのか。そう考えてみると、キャッシュカードの場合は、たとえ失くしたとしても再発行できるので、損失がないため、これは総額に含まれないと考えてよさそうだ。だがプリペイドカードはべつだ。電子マネーも、スイカなど、カード自体に価値が付属している場合には、総額として計上してもよろしいように感じる。おおむね、こうした落し物の総額については、民事の管轄なので、おそらくは請求した段階でおとなしく払ってもらえる場合もあれば、金額によっては弁護士を介しての交渉の場が持たれる可能性もある。落し物を拾ったときには、交番に届けると、拾得物件預り書が発行され、そのひかえをもらうことになる。そこには落し物の種類と中身、財布であれば現金の金額が記載されており、拾い主であるあなたの名前や住所、連絡先なども、調書のうえ、打ちこまれる。以前は拾い主自身がペンで書き込む形式だったが、いまはデジタルで交番のほうで印字してくれる。そのとき、落とし主にじぶんの連絡先を伝えるか否かや、報労金(落し物総額の5~20%をもらい受ける権利)や、一定期間内に落とし主が現れなかったときに生じる「所有権」を行使するか否かなどを選択できる。話は逸れるが、もしスマホを拾って届け出た場合、スマホの総額はいったいいくらとして勘定されるだろう。今後は仮想通貨やオンライン決算サービスなどが一般化し、現金を持ち歩く必要がなくなることが予想される。そうなったとき、スマホの総額が果たしていくらとして勘定されるのか、が未知数だ。個人情報の塊でもあり、いくらクラウドでデータがほかの端末に共有され、アクセス可能だからといって、損失がゼロとはいかないだろう。むしろ、さまざまなオンラインサービスの暗証番号やらなにやら、そういったデータをメモ代わりに保存していたりするのではないか。極論、スマホを失くしただけで、一文無しになってしまう、なんて事例もでてくるのではないだろうか。こうしたスマホを失くしたときの保険(報労金の支払いや、データが流出したことで生じる損益の保障、といった意味を含めての保険)は、今後二十年で需要が高まる気がするが、すでにそうしたサービスは存在しているのだろうか。端末代はせいぜい十万円くらいだろうが、これからさき、技術が発展し、よりネットに依存した社会になっていくにつれ、仮想世界との窓口であるスマホ(メディア端末)は、その潜在価値を高めていくはずだ。ひょっとしたら火災保険や生命保険に入るように、「ネットと切り離された生活に対する保険」に誰もが加入する社会が到来するかもしれない。そういう意味では、価値が損なわれにくい「金(ゴールド)」や「資源」は、ますます重宝されていくのではないか、と考えられる。言い換えるならば、経済はデータで回り、物それ自体が流通することは減少していくだろう。仮にそのとおりの社会になったとしたならば、現物(実体)として価値のあるものほど、収集され、保管され、埋蔵されていくので、社会は急激に「金(ゴールド)や資源」を独占した者が支配する世のなかに偏っていくのではないだろうか。つまり、科学技術の発展に伴い、社会の仕組みは原始的な構造に回帰していく、と妄想できる(そして現に、そうなりつつある世のなかであるように感じられるが、じっさいのところはどうなのだろう)。


2077:【関係しあっている】
スポーツでも文芸でも何でも、「それを行うことで他者と関わろうとする者」と「単純にそれがしたくてしている者」との二極に分断されやすい傾向にあるように見受けられる。どちらがよいわるいの話ではなく、どちらが上達しやすいかも、これは一般化できる話ではない。いっぽうでは、どちらが注目されやすいかは決まっていて、それは集団のなかに身を置く者のほうが注目されやすい。単純な確率の問題でもあるし、集団に馴染まない者を排除しようとする人間の社会習性的側面によるものでもある。ただ、「単純にそれがしたくてしている者」は注目されることを苦手と感じる傾向にあるように思えるので、おそらく当人にとってはそれを期待して集団に馴染まないでいると見做して、大きな齟齬は生じないように思われる(そうでない者ももちろんいるだろうが)。とはいえ、注目されることが善で、されないことが悪であるとする共通認識が集団に属すると発生しやすく、そうなると注目されにくい性質を帯びている「単純にそれがしたくてしている者」が悪として評価され、結果的に害が及ぶ確率が高くなる。一昔前であれば、集団に属さない、というだけのことが悪そのものとして扱われた時代もあったようだ。しかし現代であっても完全になくなったわけではなく、こうした誤った前提はまだまだ人々の意識のなかに染みこんでいるように概観できる。成果主義もその一つであり、いったい何が成果であるのか、が明確でなく、だいたいにおいては、集団にとって直接の利益をもたらしたもの、という認識なのではないだろうか。しかし人はただそこに存在し、生を営んでいるだけでも、何かしらの影響を周囲に与え、社会に与えている。極論、寝たきりの病人であっても、そのひとを看病し、生きていける環境を整える契機を社会に与えている。寝たきりの病人を弱者として表現するのは気が進まないが、一般的には弱者として扱われるので、ここでは弱者と記述するが、そうした弱者がいるおかげで、どんな人間であっても生きていける社会の基盤が整うのではないだろうか。社会における安全とは、どんな状態になっても最低限の生活を継続していける仕組みのことであるはずだ。だとすれば、社会に内在する多くの「健常者」ほど、弱者の存在に関心を持ち、感謝の念を抱くことのほうが、「弱者を優遇するのは社会的に損だと非難したくなる心情」よりも、理屈のうえではより妥当であるはずだ。そしてこの理屈は、あらゆる文化や分野の発展に不可欠な視点であると思われる。多くの者にとって取るに足りない、どうでもいいことを真面目に、根気強く、突き詰めていける者の存在は、現在進行形で注目されやすい「集団に直接の利益をもたらしているコトやモノ」をさらに深化させ、ときに凌駕する可能性を有している。何が評価されるのかは時の運であり、いま現在の観測者にとって価値があるように見えている、というだけのことでしかない。表層に浮かんだ薄膜にばかり気をとられず、その下に蓄積している豊富な養分に目を留めないことには、真(未来)に価値のあるモノやコトを見逃してしまう確率を高めるだけなのではないだろうか。教養とは、そうした目に見えない、データにはまだ現れていないコトやモノに目を留め、その存在に関心を持ち、感謝するに値する背景に思いを馳せる想像力のことなのではないだろうか。いくら本を読み、歴史を憶え、科学反応式を書けるようになったところで、視ようとしない者には視えないモノやコトはある。そして、そうした視ようとしなければ視えないコトやモノを知覚するには、己の至らなさを知るよりほかはない。人間は万能でもなければ全能でもない。弱者が果たして本当に弱者なのかすら、誰にも断定することはできないのだ。あなたがバカにし、くだらない、と一蹴したものが果たして本当に、バカでくだらないのか、はすくなくともあなた自身には証明できない。どんな事象にも認知不可能な背景があり、深さがある。殺人一つとっても、多くのデータが存在し、膨大な量の文芸作品が殺人を題材にしている。具体的な一つの殺人を突き詰めて考えるだけで、一生を棒に振るだけの因果関係を掘りだし、辿り、頭を悩ませることになるだろう。人は関係しあって生きている。これは集団に望んで組みこまれる者も、そうでない者も、集団から敢えて距離をおく者とて例外ではない。無人島で生活する人間ですら、地球温暖化という名の社会の影響を受けるハメになる。関係しあって生きている。このことを抜きに、文芸を、小説を、つくることはおろか、扱うこともできないだろう。しかしこのことに自覚的な者は、驚くほどすくないように思われる。すくなくともいくひしさんには、そのように映っている。それがわるいことだとは思わないが、いささか割合として多すぎるのではないか、と懸念を抱く、きょうこのごろである。集団を尊び、組織のメリットを強調する者ほど、自己完結し、認識下にない多くの他者と関係しあっていることに無頓着なのは、皮肉と呼ぶにはできすぎている。(むろん、いくひしさんも例外ではない)


2078:【アナリティクス解析について】
いくひしさんはツイッターやユーチューブに動画を載せている。ツイッターは去年からで、ユーチューブは2014年ごろから利用している。なかでもデータ解析としてアナリティクスの存在はありがたい。世のなかには実際にやってみなければ分からないことというのがあり、もちろんツイッターやユーチューブを利用したからこそ分かったこともある。たとえば、ユーザーのアクションが無条件に数字に反映されるわけではない、ということだ。インプレッションやアクセス数、再生回数などをアナリティクス解析として見られるわけだが、数字に反映されない数というものが思っていた以上に多いことを知った。例として、ツイッターに載せた動画が挙げられる。ツイッターに直接動画を載せた場合、ツイッターにログインしない状態で閲覧すると、その再生数が動画に反映されない。また、ユーチューブの動画をツイッターに載せる場合は、ログインの有無に拘わらず、再生数が(ユーチューブ先で)反映されなくなる。もうすこし詳しく述べてみよう。リンクを貼るだけでも、ツイッターはユーチューブの動画画面をツイート上に表示する。しかし、ツイッター上から直接ユーチューブに飛ばずに、ツイート上の画面で動画を再生しても、ユーチューブ先では再生数としては反映されないのだ。これはたとえツイッターにログインしていたとしても、動画を再生したことは、そのリンク先へ飛ばないことには再生数として計算されないようだ。ちなみにいくひしさんは主にPCを利用しているので、ひょっとしたらスマホであれば、ログインの有無に拘わらず、どんなアクションもアナリティクスに反映されるのかもしれない。とりあえず言えるのは、データとして表れるのは、極一部のユーザーの、さらに一部のアクションだということだ。データ至上主義はけっこうなことだが、拾いあげられていないデータがあることを前提にしておかないことには、思わぬ落とし穴にはまるかもしれない。用心するに越したことはない。(いくひしさんが勘違いをしている可能性もありますし、いつシステムが改善されるかも分かりません。不確かな情報ですので、真に受けないでください)


2079:【確率は個体と総体で異なる】
0.0001%の確率でしか発症しない病気があったとする。これは100万人に一人がかかるかどうかといった確率だ。ほとんど一般人には関係がなく、日常的に意識する必要のない、「安全性が担保されている状態」であると評価できる。しかし、人類の人口は70億人を超している。とすれば単純な計算として、7千人がその「0.0001%の確率でしか発症しない病気」にり患している、と考えられる。つまり、個別に確率が低くとも、全体でみたら無視できない規模で発生している事象というものがある。これは放射線物質でも同様だ。不安を煽るつもりはないが、ほとんど健康に害のない放射線量であろうと、がん発症率が0.1%でもあがれば、全体では無視できない規模でその放射線物質が要因でがんを発症している者はいるとみて、とくに異論は返ってこないだろう。ただし、がん細胞が増加したところで、直結して末期がんにまで成長するとは考えにくい。微量な放射線であるならば、ほくろが増えた、くらいの感覚がせいぜいであると想像するものだ。がん細胞は誰の肉体のなかにも存在している。DNA複製時のコピーのし損ないで生じることもあれば、宇宙線や太陽から届く放射線などを受けDNAが傷つき、できることもある。たいがいは、肉体に備わっている免疫機構によってそうしたがん細胞は日夜、駆逐されている。だから少々、体内でがん細胞の増える割合が高くなったところで、死を意識しなければならないほど重大な規模での増殖に直結するわけではない。ただし、がん細胞にならずとも、損傷を受けたDNAが変質したままで定着する確率は、微弱な放射線であれ、僅かに増えると考えられる。そうした変異が生殖細胞に生じれば、変異したDNAが子孫に引き継がれる可能性が高くなる(たいがいの変異は非コードDNA領域で生じるので、肉体の変異として現れることは極めて稀であると推測できる)。そして植物や細菌、ウイルスは人類以上に地上に存在し、絶えずDNA変異(バグ)と淘汰を繰り返している。自然界に存在し得ない量の放射線物質の影響は、そうした淘汰圧の高い種において、たとえ僅かなDNA変異確率の上昇だったとしても、全体では無視できない規模で、思いがけない進化をその種におよぼすのではないか、と疑問するものである。進化は偶発的なDNAのバグによって引き起こる。偶然生じたバグが、さらに偶然そのときの環境に適応し、ほかの個体よりも生存しやすくなるため、子孫をより多く残すようになる。結果としてバグのあるDNAを有する個体が増殖し、種全体の遺伝的形質を塗り替えてしまう。進化とはこうした偶然の連鎖がシステマチックに働くことで促されていく。ならば、その偶然であるDNA変異の確率が僅かにでも上昇すれば、種全体の進化速度は高まるのが道理であると考えて、大きな矛盾はないように思われる。とはいえ、生態系には、ある種の弾性が認められる。同じ環境(均衡)を保とうとするチカラが働く傾向にあるので、極々僅かな極めてゼロにちかい影響であれば、そうしたチカラによってかき消され、単純な確率の足し算にはならないとも考えられる。要するに、容易には予測できないため、安易に楽観視するには早計だが、不必要に不安に思う必要もないということだ。ただし、放射線と生態系の選択的進化への影響を観測するのには長期的で継続的なデータ分析が欠かせない。現時点で、それが充分に行われているかについては、疑問を投げかけておいて損はないだろう。以上の疑問点を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。ちなみにこうしたテキストは、中身のない文章の典型である。何かを言っているようで、何も言っていないに等しい。騙されないように注意しましょう。(まったくの思いつきであり、科学的根拠のない妄想ですので、真に受けないでください)


2080:【知識も語彙も飾りにすぎない】
いくひしさんは「いくひ誌。」で並べるようなことを小説では並べない。なぜなら物語を描きたいのであって、知識を書き写したいわけではないからだ。訴えたいこともないし、伝えたいメッセージもない。知識を得たいなら論文でも読めばよろしいのでは、と思ってしまうほどである。


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参照:いくひ誌。【1391~1400】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886277035

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