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いくひ誌。【2011~2020】

※日々、甘ったれている。


2011:【覚めるのを待っている】
いま、ものすごく自意識が暴走しているので、冷めるのを待っているところです。しばしお待ちください。


2012:【憧れ、殺意、ぞんび】
嫉妬を抱く暇もなく、ぶっころされて生きている。いくどもいくどもぶっころされては、ゾンビみたいにさまよっている。誰かの何かを終わらせたくて。あなたの何かを圧倒したくて、私はきょうも有象無象にぶっころされて生きていく。


2013:【素直で正直な文章?】
じぶんに正直な文章がよい文章だ、みたいな主張を目にした。そういう一面もあるとは思う。思ってもないことを並べたところで、どこかで空々しいというか、白々しいというか、心に響かない感覚が解からないではない。ただ、そうしたじぶんに正直でいられるのは、それこそ人間として踏み外していない個人の特権であって、素直にとか、正直になってはいけない人間もいるところにはいるのだとすこしは頭の隅に置いておいたほうが、いろいろと厄介な輩を呼びこまずに済むような気がする。言ってしまえば、ある種の素直な者、正直な者たちが、この世のなかにおいてテロを起こしたり、大量虐殺を起こしたりするのではないかと思うのだ。素直になってはいけない人間はいるし、正直になって生きてはいけない人間もいる。というか、そういう人間のほうがじつは多いのではないか、といくひしさんは疑っている。これは物書きでも同じだ。たとえばへっぽこぴーの誰かさんなどは、基本的に心の真ん中のほうにあるのは、「ぶっころす」の塊だから、何を見ても、ぶっころすだし、何を聞いても、ぶっころすだ。じぶんに対してもぶっころすだし、たいせつにしたいなと思っても、ぶっころす。否、たいせつだからこそ余計にぶっころしたくなる欲求は、案外に卑近な感情ではないかとすら思っている。他人に優しくするのはぶっころすためだし、仲良くするのもぶっころすからだ。ただし、ぶっころし方にもいろいろあって、飽きない程度には、試行錯誤を繰り返しながら、さまざまな人間のさまざまな側面をぶっころして生きている。そのへっぽこぴーな誰かさんは、もちろんあなたの何かもぶっころしたくてうずうずしている。蹂躙したいし、圧倒したい。ぶちのめしたいし、やっぱりどうしても、ぶっころしたい。なぜと問われたらもう、その誰かさんはこう言うことに決めている。愛しているからだよ。愛したいんだよ。愛しあいたいんだよ。ぼくのものになってよ。ぼくをあなたの特別にしてよ。あなたの最期をぼくにください。あなたの生があなたのものであるかぎり、ぼくはあなたから死を奪い、刻み、ぼくの存在を以って、あなたの人生を飾りたいんだ。ぶっころす。ぶっころすよ。せいいっぱい抗ってみせて。たくさん、たくさん苦しんでみせて。ぼくはそれでもおまえら全員ぶっころすからさ。


2014:【確信に近づく】
いくひしさんがここ数年、だいたい2016年くらいから定期的に言いつづけてきたことであるけれど、さいきんになってほぼ確信に近づいてきたな、と思うことがある。ずばりそれが何かと言えば、「バズったら負け」である。SNSではバズらないほうが長期的にはお得である。なぜなら、SNSの特性上、飽きられやすいものがバズりやすいからだ。つまり、バズっているのは、そう遠くないうちに飽きられてしまうもの、ということになる。もちろん、バズるバズらないに拘わらず、たいがいのものは飽きられる定めにある。例外はない。飽きられるまでの期間に長短があるだけだ。ただそれを考慮に入れても、バズったコンテンツは飽きられやすい。すくなくとも、バズったから大ヒット作になる、ということは九割九分ないと言っていい気がしている。逆はあるのだ。大ヒットしたコンテンツがSNS上でもバズるのは卑近な現象としてなじみ深い。しかし、バズッたからキラーコンテンツにまで成長する、といった事例はほとんど見当たらないのではないか。リンゴとボールペンの一発芸で世界的に人気を博した芸人も、いまではもう話題にのぼらない。飽きられてしまっているからだ。現代では、流通がネットへと移行しつつある。中間の卸売が淘汰され、今後は、生産者と消費者が直接繋がる社会になっていく。それにつれて、これまで培われてきた消費者の感性も大きく変質していくことが予想される。どういうことかというと、これまでは卸売りの中間業者の意向が、社会に流通する商品の質に大きく作用してきた。そこには広告代理店との癒着があり、ある種の流れを恣意的につくることが可能だった。これこれこういう流行りをつくりたいから、こういう商品を世に多く流してくれ、流れに逆らうような品はどうせ売れなくなるから流さなくていいよ。こういった横やりのようなものが、漠然とであるにせよ、業界内に抗いがたい流れとして漂っていたのがこれまでの社会である。しかしSNSが普及した現代では、個人がいくらでもこうした流れをネットのなかにつくりだせるようになった。需要者もまた、数多あるコンテンツから好みの品を独自にピックアップできる。そうすると従来のつくり方では、画一的な、誰にでも受け入れられるヒット作がつくりにくくなるのが道理である(なぜなら多様性が増すので)。そして現に、これまでのような作風で大ヒット作は生まれていないように観察されるがいかがだろう。一方では、大ヒット作がなくともビジネスとして成立しやすい土壌が築かれつつあるとも評価できる。瞬間的な流行りのほうが爆発的に伝染しやすい。そしてぱっと売って、ぱっと撤退すれば、在庫を抱えずに済むし、利益だけを回収できる。長期的な計画で、じっくり社会に浸透させるような計画はコストがかかり、失敗したときのリスクが高くなる。そうなると企業のほうでも、卸売を介した長期的な計画は敬遠し、単発での流行りを追うようになっていく。バズったコンテンツを片っ端から収穫していくいまのコンテンツビジネスもこのはしりとして分類できる。ただし、さきにも述べたように、こうした流行りは瞬間的であり、短命だ。たとえば紙媒体の本にして売るにしても最短で三か月はかかるだろう。その間に流行りが衰えてしまうリスクはけっして低くはない。熱しやすいものは冷めやすいのである。だからといって、この短命な流行りを主眼に置いた戦略は、ビジネスを成功させるうえでは避けては通れないので、蔑ろにもできないのが実情だ。短期的な利益を確実に回収しながら、長期的な視野での計画も練っていく。近年の大成功の例としては、アベンジャーズシリーズがあげられる。巨大な一本の物語をつくりあげるために、いくつもの異なる主人公の物語をさらにシリーズとしてつくりつづけてきた。その枝葉である物語ですら、大きな物語としての枠組みを有しており、一発一発が、超規格外だと評価できる。単発であるようで、単発ではない。多層な構造を有した物語を、異なる視点で描きだし、世に放っていく手法は、これからますます増えていくことが予想される。そして、こうした手法は、成功するまではバズることがない。なぜなら、バズるからつくるわけではないからだ。たとえバズらなくとも、巨大な物語を編むためのピースとして必要ならば、コストをかけてつくりだす。なくてはならないからつくるのであって、バズるからつくるのではないのだ。ひとむかし前の、卸売りと広告代理店がとっていた戦略のように、大きな流れを構築するために、世に流通する商品を調整する。こうした戦略を、むかしとは異なりいまは生産者みずからとることが可能となった。現代のSNS時代において、生き残っていくために有利な指針とは、まさにこの、多層構造を意識した戦略であると予見できる。そしてこれは、フラクタルな性質を有しており、単発のピースである物語もまた多層構造をなしている。アベンジャーズシリーズの作品を眺めてみれば瞭然だ。従来の、一つの核を中心に物語を肉付けしていく手法ではなく、異なるテーマ、異なる視点、異なる世界観を巧みに編みこみながら描いているのは、近年のヒット作に共通する点であると分析できる(もちろん、多額の製作費や広告費をかけてこそ世界的大ヒットを記録した背景は見逃せないのだが)。いくひしはこの構造を、海外ドラマの脚本に関連付けて、三本リボン構造と呼んでいる。フラクタル、三本リボン構造は、これからの時代において外せない創作論と化していくだろう。起承転結や三幕構成はもう古い。というよりも、「売れる作品は一文で要約できる」といった言説と似たようなある種の幻想であったと指摘したい。おもしろい物語はフラクタルな性質を有しているため、いくらでも分割できるし、どのような視点でもまとめることができる。三本リボン構造のように、三つのストーリーラインを備えているため、これも視点によって各々、一文にまとめることが可能だ。しかし、それはけっして唯一解ではない。見る者の視点によって切り取られる枠組みが変質していく。どの角度から眺めても破たんせずに、異なる世界観を嗜好する需要者たちを魅了する物語。それこそがこれからの時代に求められている物語の指針である。否、かねてよりこうした物語こそが名作として残ってきたのではなかったか。名作はそれ自体がSNSでバズることはない。なぜならSNSに載せられるスケールをはるかに凌駕しているためだ。断片を切りだすにしても、その断片ですらSNSに載せきれないほどの情報量を誇っている。コンパクトにまとめられた情報が重宝されがちなSNSにおかれては、そうした超特大容量の物語が初見でバズることはないのである。逆から言えば、SNSでバズるような作品は、フラクタルではないし、三本リボン構造を備えてもいない。もちろん、バズッた作品はダメだ、と言っているわけではない。それはそれで大勢に認められた作品であることは確かである。短命であろうと他者をよろこばせ、感動させた事実は覆ることはない。ただし、本当にそこを目指しているのですか、とときおり自身に問うてみるのもそうわるくはないはずだ。バズる、バズらないは、その物語のポテンシャルを測る指針にはならない。SNSは宣伝や広報の手段として活かす方向に徹底したほうが好ましいだろう。物語づくりの指針にするには危うすぎる。これだけは頭の片隅に置いておいて損はないのではないだろうか。


2015:【現状は戦場、先導を洗脳】
読者としてのいくひしは、紙の本が好きだし、書店さんが好きだし、おもしろい物語を発掘して、世に発信してくれる出版社が好きだけれども、それはそれとして、客観的に世のなかの動向を眺めて見ればいずれも、紙の本は石版と存在価値が変わらない代物になっていくだろうし、書店さんも目玉商品は本ではなくなっていくだろうし、出版社も広義の「証券会社」になっていくようにしか思えないのだ。もちろん、いくひしがどう見做そうが、現実はかってに進んでいって、未来を結び、つぎつぎにあらゆる「いま」を過去としていく。いくひしの予想に反した結果が現実としてやってきてもふしぎではないし、いくひしはまったく困らない。どころか、基本的にいくひしはじぶんの予想が外れたほうが好ましい、と常々思っている。ただ、いくひしさんに想像できることはたいがい現実になってもおかしくないことで、要するにいくひしさんには想像力がないだけのことなのだけれども、何が言いたいかと言うと、きちんと今後どうするかを考えておきましょうよ、という願望だ。もうすでにどうなっていくかは、当事者たちには実感できているはずだ。身を切り裂かれそうになっている人間はみな口を揃えてこう言う。「いまここが正念場、いま目のまえのことに集中しないことには輝かしい未来は切り拓けない」と。でも、もうそういう時期はとうに終わっていて、目のまえのことを着実にこなしていくことは前提であって、いずれそう遠くないうちにやってくる結末――新しい時代において、どういう方向性で生き抜いていくかを、いま追われている仕事以上に思考を割いて、考え抜いていかなければならない時期のはずだ。紙の本も、書店さんも、出版社も、すでに終わっている、なんて言うつもりはないし、そんなことはあり得ない。ただ、すくなくともこのままではもういられない。それだけは確実な未来として、否、現実としてとっくに目のまえに現れている。示さねばならないのだ。誰より先頭を走り、苦難を切り抜け、立ちふさがる隘路を打開せんと闘っている者たちは、後続する者たちに、そっちじゃない、こっちだ、と辿るべき方向性を示さねばならない。無理強いではない。道はおのおの自由に進めばよい。ただ、どの方角へ向かうか、くらいは示しておかねば、いずれ小川は干上がり、海へと辿り着くことなく、消えていく。大河は、同じ場所をめざし流れる小川の群れなのだ。途中、湖に辿り着く者もあってよい。だがいずれ、その湖も、沼ですら、どこかでほかの水脈と繋がっている。示さねばならない。しかし果たしてそれを示している者があるだろうか。考えることも、行うことも、何かを成すためには欠かせない。そして、そのさきへと突き進むためには、示さねばならない。先導するのではない。洗脳するのでもない。示すのだ。私はそこへ向かっているのだと。向かうのだと。私の命を捧げてなお届かぬそのさきへ、しかし命を捧げる価値のある何かがそのさきにあるのだと私に確信させた未来がこの道のさきにはあるのだと。偽るのでもなく、欺くのでもなく、つぎの時代へとつづく地図を、示さねばならない。地図はけっして正解ではない。しかし、旅の道中、景色を楽しむ余裕を育んでくれる。示さねばならない。示し合せるのでもなく、示されるのを待つのでもなく、こっちにもいけるよと、こっちはだいじょうぶなのだよと、示さねばならない。


2016:【自意識、冷めてきた】
ねばならない、なんてことはどんなことでもないんじゃないかなって。あとどうでもいいけど、アメコミを編みこみ、ってフレーズを思いついたので、ここにメモしておきます。


2017:【反面教師】
いくひしさんのような人間モドキを好いたり、崇めたり、憧れたり、真似したり、同情を寄せたり、感謝したり、恩を感じたり、憎んだり、執着したり、とかく何か人生の一部に取り入れようとする姿勢は感心しない。あんなやついつでもひねりつぶせるよ。ただかわいそうだから、そっとしといてやってんだ。そう思うくらいでちょうどいい。無視するくらいがちょうどいい。遠くから眺めるくらいで充分すぎる干渉である。百歩譲って観賞である。すこし嫌いだな、くらいに思っているのが妥当な所感と呼べそうだ。


2018:【知恵の無】
知れば知るほど、じぶんが無知だと身に染みて痛感するわけだけれど同じように、自由を求めれば求めるほど、じぶんがいかに不自由で、不器用で、自由ではないのだと突きつけられる心地がする。自由を求めずに、不自由を不自由だと感じぬままに日々を過ごすことのほうがよほど自由な気がしてくるほどで、自由という枷を外すためには、自由を忘れることに努めたほうが手っ取り早いのかもしれない。或いは、自由など端から存在しないと諦めるのも一つだ。自由がないのだから不自由もないのが道理である。では、極めるとはなんだろう? 思いどおりに動けるようになることでもあり、一つの型に隙間なく、揺るぎなく、所作を押しこめることでもある。より自由に、より不自由に。極めるとはつまり、存在しない自由や不自由を矛盾なくその手中にすることかもしれない。そしておそらく、そのつぎの段階に、手にしたそれを手放す「空」がかすかにその片鱗を匂わせるようにも感じられる。「空」は「無」ではない。その違いとは何か。段階を経ているか。何を得ているか。つまり、手放した「それ」の価値に依存すると呼べるかも分からない。なんにせよ、求めないことにははじまらない。掴まずにはいられない。なにより、手放す契機を見逃さぬことである。


2019:【本はよいものでござる】
やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりでござるなぁ。さいきんのいくひしさんはぜんぜん本を読めていなくてな、ちびりちびりとめくってはいるのだけれども、常時百冊くらいを回し読みしてるので(自慢でもなんでもなくて、単に数年単位で読了できていない本が積み重なっているだけの話なのだけれど)、ぜんぜん進まないでござる。もうもう、創作もおんなじで、つくりたいのありすぎてもうだめでござる。いくひしさんはだめだめでござる。しってたでござる。いくひしさんはだめだめなんでござるよ。でも、だめだめでもぜんぜん生きていけるし、やりたいことばっかりで、あと寿命千年くらいほしいでござる。千年あってもたぶんやりたいことぜんぶはできないでござるな。いくひしさんは欲張りでござるよ。さいきんは、どんな本を読んでも、すごいなー、すごいなー、ってなってしまって、書いてある内容がどうこうよりも、その本ができるまでの背景に思いを馳せては、ものすごい偶然の巡り合わせと、たくさんのひとの日々の生活のおかげで、いまこうしていくひしさんの手元にあるんだなぁ、と想像しては、すごいなー、すごいなー、ってなってしまうごでざる。ありがたいでござる。うれしいでござる。本だけでないでござるよ。いくひしさんはよく、おそとを出歩くときに、すれ違うひとたちや、車のなかのひとたちの人生を想像しては、この一瞬でたくさんの人生が重なり合い、すれ違い、またどこかで出会っていくのかと想像するだけで、ぽわわわーん、となってしまうでござるよ。一瞬で濃厚な物語を読んだ心地になって、楽しいのだけれども同時に、ものすごく疲れてしまうでござる。だからいくひしさんはあんまりおそとにでたくないでござる。ひきこもりでござる。でもいくひしさんがだめだめなのは、ひきこもりだからではないでござるよ。生来のものでござる。そして将来にわたってこれは変わらない性質なのでござるよ。いくひしさんと書いて、だめだめと読むでござる。でも、ふと思うでござる。いくひしさんはだめだめだけれども、そんないくひしさんにも何かしらの意味があるとしたらきっと、だめだめなことにも意味があって、それはきっとだめだめではないのでござるよ。だめだめなのに、だめだめではないでござる。と、いうよりも。だめだめなことが、だめだめじゃなくなっていくことだってきっとあると思うでござる。それはたとえば、自由なつもりで、そのうち不自由になってしまうのと同じように、不自由なことが本当はとても自由なことであったりするのと似ているでござる。いくひしさんはだめだめでけっこうでござる。いくひしさんがだめだめを極めて、だめだめだけれどもだめだめではないんだよー、と示せたら、それはそれで意味のあるだめだめでござる。いくひしさん自体はなにも変わっていないけれども、だめだめに対する周りのみんなの考え方が、見方が、解釈が、変わっていくでござる。いくひしさんは本当はそういう、あるときはこうで、でもまたあるときはこう、みたいな曖昧でいいかげんな解釈は好きではないでござるけれども、いいかげんな解釈や判断をしていたのだなぁ、と誰にともなくナニカシラに示せるきっかけになるのなら、それもまたよしとするでござる。きょうもきょうとて、だめだめなくせにえらそうでござる。でもしかたがないでござる。いくひしさんはだめだめなのでござるよ。許してほしいでござる。もちろん、許さなくてもよいでござる。楽しく生きたいでござる。誰の負担にもなりたくないでござる。誰の役にもたちたくないのと同じくらい、迷惑をかけたくないでござる。傷つけたくないでござる。じぶんの世界に引きこもっていたいでござる。どうしたらいいか分からないでござる。分からないままで、分からないことを楽しんでいきたいでござる。でもときおりなんか分かった気にもなりたいでござる。欲張りでござる~。


2020:【小説のつよみ】
小説のつよみは時代の変遷につよいことだ。何十年と読み継がれる作品が、ほかの媒体に比べて、登場しやすい。そして電子書籍という新しいレールができたいま、とりあえずだしておく、というのは戦略として有効であり、おそらくこれからさき、生存戦略として欠かせない一手となっていく。すこしでもいいものは、とりあえず電子書籍でだしておく。これは十年、二十年経ったあとに、紙媒体で売れるモノしかださなかった業界と比べて、大きな差がでてくることは明白である。しかし、大きな組織ほど、ブランドを気にして尻込みする傾向にあるので、選り好みせずに果敢に攻めていく組織と懇意にしておくと、のちのち得をするようになるだろう。もちろん、得をしなくてはならない、なんてことはないので、好きかってにやれる未来と天秤にかけながら、道を一つに絞らずに、種を撒いていく感覚で、いろいろと試行錯誤をしていきたいものである。


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参照:いくひ誌。【551~560】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883319808

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