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いくひ誌。【2001~2010】

※日々、私はクズです、と卑下することで他者の価値をさげていく、あなたはクズ以下なのですよ、と悟らせたいがために努めてクズでいつづける、誰よりじぶんを打ちつづけ、時空に開いた穴ぼこのように。


2001:【超短編11『ミカコさんと小石』】
ミカコさんはぼくのとなりの部屋に住む隣人で、幽霊だ。四年前にこの部屋へ引っ越してきたとき、夜な夜な女性の咽び泣く声が聞こえていた。当時、隣の部屋には若い男女が暮らしていて、DVか何かをされているのではないか、と勘繰っていた。しかしどうやら泣き声はぼくの部屋から聞こえているのだと気づいたとき、ぼくはぼくの部屋にうずくまり泣いているミカコさんの姿を発見したのだった。「まさか意思疎通できるとは思わなくてびっくりしましたよ」当時のことを思いだし、ぼくは言った。「ミカコさん、だって幽霊っていうよりも雨に濡れた子犬みたいだったし、怖いってよりも、ただただ可哀そうで」きみはわたしを怖がらないよね、というミカコさんのつぶやきを受けてはじまった会話だったが、ミカコさんは終始どことなく不満そうだ。「まさか泣いてた理由が、夜な夜なじぶんの部屋の恋人たちが愛の行為にふけっていて、うらやましくての悔し涙だとは思わなかったけど」からかいたくなってそんなことをぼくは言った。ミカコさんは唇を尖がらせる。いっしゅん姿をかすめたかと思うと、ぼくの頭上にふわりと現れ、そのままぼくの膝元に、すとんとおさまった。おばぁさんのひざのうえで丸くなる猫みたいで顔がほころぶ。「ミカコさんはさびしんぼさんだなぁ」ぼくは彼女のあたまに触れようとするけれど、霧のようにすり抜ける。ミカコさんからぼくに触れることはできても、その逆はできないのだ。「ぼく、来月でもう卒業です。就職先も決まりました。この部屋ともお別れしなくちゃいけません」散々この話はしてきたからミカコさんだって重々承知しているはずだ。「ミカコさんはここから動けないんですよね」いわゆる呪縛霊だからだ。呪縛しているのが、ミカコさん以外の何かなのか、それとも(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889351256


2002:【超短編12『こちら、悪意でございます』】
「俺はおめぇを殺さなきゃなんねぇ。なぜって、そんなことに理由が必要か? 強いて言うならおまえがいまこれを読んでいて、その前には読んでいなかったってことが理由だよ。死ぬには申し分ねぇだろ? おまえはもうすぐ死んじゃうんだけど、だって俺がおまえを殺すわけだから、そうそう、おまえのことは知ってっからな。逃げんなよ。おまえがどこの誰で、どこに住んでんのか、おまえが誰の子どもで、誰の後輩なのか、おまえが無邪気にネットにばら撒いてる情報から簡単に突き止められんだ、そんくらいの想像力も湧かなかったかよ殺したいくらいお茶目でちゅねぇ。俺はこれからおまえを殺す。ぶっころすよ。だがその前にまずは、おまえがここ半年でもっとも愛情振りまいてやってる人間を拉致らなきゃなんねぇ。ネットは便利だよな、さいきん俺ぁ、業務用ミキサーを買ったばっかでな。空き缶から段ボールから、いらねぇ椅子から箪笥まで、なんでもゴリゴリまたたく間に砕けやがんの。クズになって、溜まってく。試してみたいねぇ。人間がどんな音をまき散らして、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889353757


2003:【違国日記4巻】
ヤマシタトモコさんの違国日記4巻を読んで、悶えて、ジタバタして、やっぱり悶えて、じったんばったん裏返って、はぁ~よい~~ってなって死んでたのが今朝のハイライトです。ヤッバ。まじヤッバ。いくひしは全力でまじマッパ。服と脱いじゃうでしょ、興奮しちゃうっしょ、はぁ~まじヤッバ。


2004:【超短編13『水溜りの底はどこ』】
コンビニからの帰りのことだ。雨上がりの道路を歩いていたら、ひときわ真ん丸い水溜りを見つけた。街灯の光を受けて輝いて見え、遠目からだとマンホールが発光しているようでもあった。近づいてみると、その水溜りは微妙にそらに向かって膨らんでいた。中華鍋を引っくり返した具合に緩やかなお椀型になっているのだが、表面張力にしては周りに何もなさすぎるし、水溜りの大きさも、跨ぐのが厳しいくらいに幅があった。もしこの大きさの水溜りが表面張力で膨らむとすれば、水銀でもむつかしいかもしれない。つまりこれは水溜りに見せかけた固体で、液体ではないということになる。それともトリックアートの類かもしれない、なるほどきっとそうだ。思い、近づき覗きこんでみると、それはきちんと立体の構造で膨らんでおり、微妙に表面をふるふると波打たせている。一種、ゼリーのようではあるものの、そこまで固体然としておらず、強いて言うなら無重力空間に浮かぶ液体じみていた。膨らみのなかにふと動くものを目にする。エビだ。エビが泳いでいる。半透明のエビで、さらに向こうのほう、より深い位置に見えるのはクラゲかもしれない。ふしぎなのは、エビはこちら側に腹を見せ、無数の脚を蠢かせているし、クラゲも底のほうに頭を向けている。まるでサカサマだ。目と鼻のさきにいるエビには見憶えがあった。どこで見たっけか。しばらく海馬を見えないゆびでかき混ぜるようにしていると、そうだ、そうだと思いだす。以前、足を運んだことのある水族館にこのようなエビやクラゲが展示されていた。特殊な水槽で、内部の水圧は一トンちかくになる。つまりそれらは深海にいるような生き物なのだ。でもなんでこんなところに? 疑問に思いながら、水溜りの膨らみ、その表面へとゆびを伸ばす。おっかなびっくり触れてみると、思いのほかやわらかな感触がゆびの腹に伝わった。さらにチカラを加えると、こんどはぶよぶよと反発して押しかえされる。分厚いゴムに似た感触だ。液体ではないのかもしれないし、単なる膜であるのかも分からない。あわよくばエビを捕まえようとしたのだが、企みは不発に終わった。しかし何事も諦めないのがおまえのよいところだと、むかし読んだマンガの主人公がその父親から言われていた。べつにこちらが言われたわけではないし、ほかの誰かに言われたこともない。ただ、諦めないのはよいことかもしれないな、となんとなしに思ったので、周りを見渡し、手ごろな木の棒を拾ってきては、その先端を、水溜りの表面に突き刺すようにした。木の先端がぶよぶよの膜じみた境界にめりこみ、水溜りの表面にシワが寄った。ほっぺたを箸でつつけばちょうど似たようなくぼみができる。さらに枝を押す手のチカラを強めると、間もなくして木の枝はぽっきりと折れてしまった。もうすこしだったのに、と意味もなく思い、いったい何がもうすこしなのか、と首を傾げながら、それでも諦めきれず、いったい何が諦められないのかが分からぬままに、こんどは懐から家の鍵を取りだし、その鋭利な先端で以って、ぐいぐいとやった。体重をかけるだけでなく、ねじってもみる。すると、さきほどまでグミのようだった水溜りの表面に、ピシッ。ヒビが走った。まるで授精したことで硬化する卵子のように、水溜りの膨らみは一面を白濁させ、こちらが差しこんだ鍵のところだけを黒くちいさくくぼませている。お腹の奥のほう、骨盤の中心からぞわぞわと悪寒が競りあがるのを感じた。急に夢から覚めたような、何かじぶんは取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、といった現実味が蟻の大群となって襲いかかる。全身を蝕むそのぞわぞわを拭いきれぬままに、水溜りの表層に走った無数のヒビからチョロチョロと滲みでる液体を目視する。鍵を突きつけたままのこちらの手にそれは伝い、そのあまりの冷たさに反射的に手を引き抜いている。液体はつぎからつぎに滲み、溢れ、あっという間に水溜りの周りは水びだしになった。足元のぜんぶが水溜りになったと言うべきこの状況を前に、しかし依然として丸みを帯びて膨らんだままのひび割れたそれがはっきりとカタチを帯びたままであることをふしぎと自然であるかのような心地で受け止めながら、徐々に勢いを増し、溢れる液体の滾々と湧きつづける様子に、この場から逃げだすこともできず、ただ呆然と立ち尽くす。やがて液体は女の子の赤ちゃんの小便のように噴きだしはじめ、徐々に男の子となり、間もなくすると水柱を高々と、それこそ熱水泉がごとく立ち昇らせるのだった。辺りは浸水しはじめており、純白のエビが漫画の吹き出しのように或いはポップコーンのように内臓を白く咲かせながら、足元を流れていく。


2005:【予定変更】
2019年の4月中に電子書籍化すると言っていた短編集「千物語(銅)」ですが、予定を変更することにしました。ショートショート100話のうち第67話「ポルカ、乗るか、反るか」が未完だったのを見落としており、どうしようかな、と迷った挙句、それを飛ばしてまずは64~77話までを電子書籍化しようかとも思ったのですが、いくひしの性質上そういうことをするといつまでもその物語を閉じずにいたり、あとあとほかの創作にも影響がでてきそうなので、ズルをせずに、一つずつこなしていくように方針を決めました。毎日更新するよーって言ってた超短編も、ぜんぜん超短編ではなくなってきてしまって、1万字超えのと5千字超えのがそれぞれ溜まっていて、やっつけている最中です。かかってこいやー! あとはホント、一年以上前から溜まりに溜まっているつくりかけのを順々に閉じていきたいのですが、閉じていきたいなぁ、と思ってばかりで、ぽこぽこ新作の種ができては、それにかかりきりで、あーもー、ってなってます。なってます? なってないかも。いくひしさんがいくひしさんの物語をつくろうがつくらなかろうが、世のなかにはなんの影響もないわけで、まいにちつくりたいものをつくりたいようにつくってます。ひとまず、つくってますよー、という報告と、これからこの「いくひ誌。」をどういうふうにしていこうかなー、とすこし迷っているところもあって、せっかくの連休中なので、いろいろ考えていこうと思います。ちなみに、定期的に言っていかないとあれなので、並べておくと、これはいくひしさんが人類が滅んだあとで誰もいない世界で、ひょっとしたらどっかに生き残ってる人間いるかもしんないじゃんって思って流しているラジオのようなものなので、なんというか、ほら、ね。ひょっとしたら数百年後に、いくひしさんの飛ばした電波をキャッチする異星人もいるかも分からんので、そういう感じで、つれづれと交信よろしく、更新していこうと思います。します。いつの日にか届いてくれたらうれしいです。とっても。これをあなたが読んでいるとき、いくひしはもう死んでいるかもしれないし、ここにはいないのかもしれない。でも、太古の遺跡のからくり仕掛けみたいに、あなたがそれを起動して、こうして読んでいる未来がいつかきっとやってくると想像すると、なんかこう、ね。それがこれをつむいだ三日後とかだったら微妙に気恥しいのですけれども、そういうのにわくわくしていく人生って、なんだか贅沢で、いいなぁ、と思います。思います? 思うよ! そういう感じのなんだかんだで、2019年4月30日のいくひしまんでした。


2006:【ツンドクよりもツンデレ】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはきのう、ブロック塀のごとく積みあがった未読の本を読み進めようと思ってたんまり時間を割いてみたら、ぜんぜん時間が足りんことに気づいて、うれしいのやら、かなしいのやら、ぴーひょろぴーひょろでござる。いくひしさんは割と、つまみ食いをしてそのままでいることが多いタイプでござって、すこし読んだけどそのままー、とか、半分まで読んだけどそのままー、とか、あと二十ページで終わりだよー、ってところでそのままー、とか、とかくいつまでも完食しない読み手なのでござるよ。もうね、もったいない。もったいないのよ。読み終っちゃうのがもったいない。で、なんかこうね。きょうはこの辺にしといてやるか、ふー。みたいなね。顔面紅潮して、ふしゅー、ふしゅー、いってますけど、興奮しっぱなしの瞳孔開きっぱなしでござるけれども、いいとこでやめとく、みたいな楽しみ方って、寸止めみたいで、というか、まんま寸止めなんですけれども、寸止めってべつにエッチな意味じゃなくても使いますよね、でござるか? げふんげふん。いくひしさんはただでさえ万年むっつりちゅけべの疑惑でござるから、あんまり疑惑に拍車をかけるようなことは並べたくないでござるが、本を買ってはひとまずひと口食べてみて、おいちーおいちーってなったところでよこちょに積んどく。世間ではこれ、積読くなんてうまいこと言い表しちゃう言葉もあったりして、いくひしさんたらまさにそれなのでござるよ。でもツンドクって、ツンツンに加えてドクドクしくて、なんかこう、おまえどっちも辛辣やなー、みたいな所感を覚えるのでござるが、いくひしだけでござるか? せめてツンツンしたならデレてほしいでござる。たぶんでござるけど、積んどいたままなのがお気に召さないんでござるよ。だからちゃんとときおり時間をかけて、積んだ本は読んでいくのがよろしいのではないかなぁ、と思うでござる。ツンドクならぬ、ツンヨムでござる。ツンツンしたあとはヨムヨムするでござる。なんかかわいい~。とぅき~。かわいこぶって好感度をあげようとたくらむ本日のいくひしまんでした。で、ござるー。


2007:【ビジョンや信念を持つ利点】
いくひしは確固たる自我みたいなものを持っていないので、もちろん確固たるビジョンや信念なんてものも持ち合わせていない。ただ、それらを持っていたほうが得をする場面があることは承知している。たとえば、いまぱっと考えて思いつくのは、じぶんよりはるかに優秀で明晰な思考形態や回路を有している人物と相対したとき、確固たるビジョンや信念を持っていると、自己の内側を見透かされてもマイナスイメージを持たれにくい、といった点だ。邪心や利己的な考えに衝き動かされていると見透かされることほど、相手との関係性を維持しにくくなることはない。あべこべに、相手と一線を引いておきたいときには、敢えて敵意をみせることも有効となる。いずれにせよ、確固たるビジョンや信念を持つことの利点とはその程度のものだと評価できる。じぶんよりスバ抜けて優れた人物に会ったときに失望されにくくなる。ただそれしきのことである。べつだん、確固たるビジョンや信念を持ち合わさずとも、目的を遂行するだけなら充分可能だ。ときにはビジョンや信念が足枷となって、目的から遠ざかってしまうこともあるだろう。むろん、ビジョンを持つな、信念などくだらない、と言っているわけではない。ただし、確固たるそれ、である必要はないのではないか、と思うことはたびたびある。関係性とは相対的なものであるから、あなたが変化せずとも周囲の環境が変質すれば、おのずとあなたの確固たるなにかしらもまた変質するのが道理である。本質的に確固たる何かを築きたければ、不動の何かを抱え込まずにいたほうが有利である。優先すべきは、周囲の変化に敏感になること、よく観察し、根気強く変化を捉えようと気を配り、ときに遠くに目をやることであろう。じぶんが抱えている何かなど、万物の変遷に比べれば微々たるものだ。だからこそ、その微細な何かをだいじにしたくなる気持ちも理解できる。だが、それに囚われ、せっかく磨きあげたあなただけの宝物を曇らせてしまうのは、それはそれでもったいなく思うしだいだ。もちろん、曇らせてわるい、なんてことはまったくないのだが。ときには雲らせ、ゆびでいたずら書きをしてみるのも一興かもしれない。それはそれで、新しい磨き方への布石となるかもしれないのだから。まずはさておき、曇っていることには自覚的でありたいものである。


2009:【がんばらなくていい?】
2019年げんざい、SNS上では、がんばらなくていい、むしろがんばるな、みたいな論調が台頭してきているように見受けられる。努力をせずに済むように工夫をしていきましょう、という意味あいであるのなら、そのとおりですね、と何の批判も湧かない。ただ、あまりに一辺倒に、がんばらなくていい、がんばるな、みたいな言葉ばかりを一部の人々が合言葉みたいに唱えているのを眺めていると、なんだかまるで、じぶんより下の人間に追いつかれまいと蹴落とすための方便を唱えているように錯覚してしまう。穿った見方であることは承知のうえで並べておくが、大した成果もあげていない人間の言う「がんばらなくていい」は、テスト前に「ぜんぜん勉強してないわぁ」と言っている人間と大差ないように感じる。「俺(私)は勉強してないから、もちろんおまえも勉強しないでテストに挑むよな」といった暗黙の了解を他人に強いているように見受けられるのだが、疑心暗鬼にすぎるだろうか(しかも言った本人はじつは勉強をしている。すなわち、相手を出し抜くためのブラフである)。すでに成果の土台が築かれていて、大量のインプットやアウトプットをせずに済む人間であるのなら、がんばらずにいてもよいだろうし、努力せずに済むだろう。なぜなら彼ら彼女らはすでにがんばっていて、努力し終わっているからだ。成果をあげていない人間や、何かをはじめたばかりの人間は、がんばらなくてはならないし、努力を避けては目的を達成することは困難だろう。あたりまえの話であるが、こんなあたりまえの話も、いまでは注釈を挿すようにときおり発信していかなければならない時代なのかもしれない。もちろん言うまでもなく、がんばったからといって望んだ成果があがるとは限らないし、効率のよい努力とそうでない努力があるのも確かである。だからといってそれは、何もせずにいてよい理由にはならない。何かを成したければ、がんばらなければならないし、努力を避けてはいられない。ただし、自己評価として、それを努力だと見做さずにいる人間がいることは確かだ。けっきょく、じぶんの行動をどう解釈するか、の話に帰着していく。そして、がんばる必要性は、自分以外に説く道理はない。他人に「がんばれ」と言うのは、これは鼓舞や激励の意味あいであるならばまだ挨拶のようなものだと理解できるが、そうでなく、何かしらの成果をあげさせるために「がんばれ」「努力しろ」と指示するのは、的外れと言うほかない。がんばることや努力は、術ではない。何かしらの術や策を実行したあとで、自身を振りかえり、「あー、あのときじぶんはがんばっていたのだな」「あれがいわゆる努力だったのだな」と実感する「過去」のようなものである。過去とは、「いま」が過ぎ去り、振りかえったときに視えるまやかしである。過去は存在しない。がんばりや、努力が存在しないのと同じように。しかし、たしかにそれは、「現実(いま)」として、或いは「行動」として、この瞬間にもあなたの周囲に漂っている。いわば、影のようなものなのだ。そして、振りかえったときに視えるその影が、道のように感じられたとき、あなたはそれを「努力」と呼ぶようになるのだろう。つまり、がんばることや努力の価値とは、自身の辿ってきた時間を振りかえったときに、それが無駄ではなかったのだ、と実感できるようになる点にある。そして、それはいますぐに判断できることではないのだ。だからこそ、がんばることや努力することを目的にするのではなく、どうしたら目的を達成できるか、どうしたらいま費やしている時間を無駄だと思わずに済むかを考え、ときには敢えて無駄なことをするという選択肢も考慮に入れたうえで、言い換えれば急がば回れを視野に入れたうえで、一つ一つ、何を選び、選ばないのかを、繰り返し、進んでいくよりないのである。がんばるとは、この取捨選択の日々に馴染み、踏ん張ることであり、努力とは、取捨選択の基準をより精度高くするための学びであると言えるかもしれない。がんばるな、とは、言い換えれば、がんばることを目的にするな、と同義である。がんばらずに成果があがるならそれがいちばんよいですよね、というなんとも幼稚な所感にすぎず、何もしなくてよいと謳っているわけではないのである。人間、何もせずに楽をすることはできないのだ。何かをしている人間が以前よりも苦労せずに報酬を得る。それが楽をするの意味だ。がんばらない、楽をするとは、けっきょくのところ、苦労を知った者しか味わえない、いっときの休息のようなものであり、延々と楽をしつづける、なんてことはあり得ないのである。もちろん、いまあり得ないだけであるから、それを目指してはいけない、なんてことはないのだが。


2010:【どの口が言う】
そんなん言うてますけど、いくひしさん、あなたほど怠け者で、努力をしないちゃらんぽらんをぼかぁ、知りませんけどね。ぼくからすれば、いくひしさんのその発言はまるで、他人に鞭打ち、自爆するように仕向けているようにしか見えませんけども、これもいくひしさんからすると穿った考え方ってことになるんでしょうかね。何にせよ、いくひしさんはがんばったほうがよいと思いますよ。ホント。あなたはすこしは努力を知りましょう。努力がなんたるかを知ってから、そういう偉そうな口を叩いたらよいのではないでしょうか、とぼくなぞは思ってしまいますけれどもね。要するに、いまのままでは目的から遠ざかるばかりですよってことです。聞いてますか、いくひしさん。あなたに言ってるんですよ。ほかの誰でもなく、あなたに。いくひしまんなる、へっぽこ目、作家もどき科、減らず口属の益体なしにですよ、わかってるんですかねぇ。ぼかぁ、心配ですよホント。


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参照:いくひ誌。【1011~1020】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884715947

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