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いくひ誌。【1701~1710】

※日々、理想と現実の差異に目をつむる。


1701:【予定が狂うのはいつも通り】
朝にきょうは6000文字つむいで、ショートショートふたつ閉じるよーって並べたんですけど、けっきょくまだひと文字もつむいでないっていうね。よくある、よくあるー。さいきん、また動画を撮り溜めてまして、ちょっと意識がそっちにいっちゃってる感じがありますが、言いわけですか? 言いわけです。いくひしさん、偉そうなこと言ってばっかで、実力が伴ってないので、ホント言うこと真に受けちゃダメですよ。眼高手低とはいくひしさんのためにある言葉だと言っても言い過ぎではないのだ(すでに言いすぎていて、信用のない文章の典型)。でも思うんですよね。眼高手低ってそんなにわるくなくない?って(話をそれとなくそらすのが上手な典型)。けっきょく、目が肥えていて、それに技術が追いついてないって、目標がよく見えてるってことじゃないですか。で。なんで眼高手低がよくないかって言うと、自分が下手だってよく解かってしまうから、ではなくて、その結果に、成果物を仕上げなくなってしまうからだと思うわけですよ。つまりですね、ちゃんと理想と現実のギャップを見詰めて、手を止めなければ、歩みを止めなければ、眼高手低ってまたとない長所だと思うわけですよ。きっと多くの人は、自分の理想と現実の差異がぴろーんってなってるって判かっちゃうと、耐えきれずにやめちゃうんでしょうね。やめなきゃよくない? やめなきゃ、眼高手低って要するに、上達するための道が誰よりしっかり見えてるってことじゃない? いいことじゃん! なんて思いながら、じぶんの実力のなさを誤魔化すのがたいへんお上手ないくひしまんでした。


1702:【どろん葉】
帰り道に写真屋さんのネオン板(宣伝文や映像を映す画面)に目が留まった。ドローン空撮承ります、とあったからだ。なるほどいまはそういう時代なのだな、と想像の幅が広がった。というのも、こじんまりとした写真屋さんでありながら、外観からするともうずいぶんむかしからそこで店を営みつづけているように見受けられたからだ。周辺の小中学校や高校にて、学校行事の撮影隊として依頼が入ることは想像にかたくなかった。とはいえ、いまはもう個人情報保護の名目でアルバム自体が廃れてきているのではないか。写真もデジタルで、わざわざ現像したりプリントアウトすることを主な収入源にはできないはずだ。撮ることに特化しないことには写真屋としては成り立たない時代なのではないか、とふしぎに思っていた。結婚写真やお見合い写真など、記念品としての写真を撮るにしても、いまはもう各家庭のデジカメやメディア端末のカメラで済ましてしまうのではないか。言い換えれば、記念品といっても、身内で楽しむ以外に用途はなくなってきているのではないかとの見立てが成り立ちそうだ。そこへきて、ドローンによる空撮という手法はなるほど、これは需要がありそうだ。学校行事であっても、空撮であれば校舎と共に全校生徒を撮ることも可能だ。人文字を撮りたいという希求は、学校だけでなく会社からも多いのではないか。地域のイベントにしてもそうだ。祭りやマラソン大会、野外ライブやコンサートでもドローンによる空撮は、なかなか素人では手が出せない。いちど撮れば、次回からはそれをフライヤーとして宣伝に活かせる。また、空撮のついでに地上での一般的な撮影も任せてもらえるだろう。やはりせっかく依頼したのだから、プロの撮影技術がどのようなものか気になるところだ。空撮をサービスの目玉とすることで、現場へ呼んでもらいやすくなる。現場に呼ばれることが仕事の受注増加に直結するわけではないだろう。ドローンの空撮だけでは、収入源としては心もとない。しかし、仕事の受注を増やすよりもまずは現場に呼ばれるようになることが、写真屋にとっては今後、ますます欠かせない事項となっていくのではないか。と、ここまで想像の翼を広げたところで、信号機が青になった。赤信号のあいだに考えたこうしたどうでもよい妄想が、その後、ときおり、ほかの記憶と繋がって、虚構の養分となっていく。きょうはほかにも、雨に濡れた落ち葉は風で飛び散らないために、道路一面を覆うようになり、反面、渇いているときは、路肩に溜まり、人の歩く場所や車道は、そこだけ消しゴムをかけたようにきれいになっているのだとの気づきがあった。だからといってこんな洞察はなんの役にも立たない。が、やはりこうしたどうでもよいことが積もりに積もって、のちのちになんらかの表現や発想として昇華されるのではないか、と期待するものだが、期待した時点で、それはもう使い物にならない。いちど忘却し、腐らせる、という過程が、アイディアの土壌には必要な過程であるらしい。使えると思って、特別なフォルダに仕舞い、いつでも引き出せるようにしているものほど、使い勝手がわるいのは皮肉である。そこは落葉と同じなのかもしれない。落ち葉はいちど腐り、土とならないことには、つぎなる命を芽吹かせることはできないのだ。衰え、腐ることは、消えることとイコールではない。気長に待つ度量を築いていきたいものである。或いは、土壌をこそ。


1703:【同じ土俵にあがる必要はない】
相手に舐められているとき、不当に評価されているとき、雑に扱われているとき、そうしたときに相手を見返そうとして、相手よりも優れていることを証明しようと躍起になるのは割と見受けられる人間の性質だ。べつにわるいことではない。能力の差をはっきりと示し、優劣を明らかにするのは秩序を形成するうえでは優位に働く。しかしだからといって、相手を蹴落とせる地位にのぼり、優位な立場を誇示することに終始しては、ただ相手と立場を入れ替わっただけであり、そもそもの問題は解決されていないどころか、そうした迫害や弾圧の流れに拍車をかけるだけではないのか、と思うのだが、いかがだろう。差別を根絶したいと言いながら、ただただじぶんが差別をする側に回りたいとの欲求を直視できていない者は現代であってもそう少なくはないように感じられる。能力があってもなくとも、とどのつまりは同じ人なのだ。視点を広げれば、世に万能な人間などはいない。ある分野で秀でていても、ほかの分野では素人同然、或いはまったく素養がないなんてことも有り触れている。たった一つの分野で能力が高いからといって、その者それ自体が優れているわけではないのだ。言い換えれば、誰もが何らかの能力を有し、誰かにとってのお手本となる。人はただそれだけで尊ぶに値する(或いは、誰もが同様に無価値だ、とも呼べる)。偏見によって相手を下に見たり、蔑視したりするのと同じレベルで、局所的な能力の多寡で相手との優劣を決めようとする姿勢もまた、差別の根幹をなしていると思うのだが、そうは言っても、世のなかには歴然とした事実として、称賛されやすい能力とそうでない能力がある。世の人々からより称賛される能力であればあるほど、そして他人をより出し抜ける能力を有している者ほど、現代社会では優れた人間としての評価を受ける傾向にある。だからこそ、そうした注目を集める高い能力を有している者ほど、他人を蹂躙できる立場にあったとしてもその権力を行使しない自制心が必要となっていくのではないだろうか。つまり、能力がある者ほど、他人を能力の多寡で計ろうとはしない考え方にもとづいて行動していくほうが、差別のすくない世の中になっていくのではないかと考えられる。能ある鷹は爪を隠すと言うが、真実に能がある鷹はきっと、誰より目がよく、虫一匹にも全力で狩りをする。どれほどちいさな生き物でも、鷹にとっては自身の生命を脅かす敵であり、同時に自身の命を構成する糧そのものなのだ。どんな相手からでも学べることは多くある。敵と定め、糧としていこう。(物騒な結論になってしまった)


1704:【仮眠】
あー、なんもしたくなーい。きょうはもうサボるー。って思ってから仮眠をとると、一日寝たくらいに気分がリセットされる。たった五分でもそうだけども、寝過ごしてうひゃーってなっちゃうこともあるから気をつけなくちゃだ。


1705:【欲の塊】
いくひしはたいへんにスケベぇなのだけれども、スケベぇではない、みたいに見られるのは何? そりゃーえぇ、スケベぇですとも。年齢イコールなんじゃらほいでござるけれども。えぇ。


1706:【仮初の仮初】
経験上、味方から学べることよりも敵から学べることのほうが有意義である可能性が高い。味方から学ぶのは、師匠から学ぶことと方向性は同じだ。しかし、師匠を越えたければ、師匠からのみ学んでいてはアキレスと亀ではないが、一生追い抜くことは適わない(例外はあるだろう。たとえば師匠が突然亡くなるなど)。いっぽう、敵の場合は、基本的に相手はじぶんにはないものばかりを持っているから、学べるもので溢れている。とり放題だと言っていい。敵とはすなわち、自身にとっての脅威となるものだ。セキュリティ部門でも、その分野の発展にクラッカー(いわゆるハッカー)の存在は不可欠だ。生物の免疫系にしてもそうだ。ウイルスなどの外敵への抗体をつくるごとに、生物はより柔軟なセキュリティ機構を構築していく。言い換えれば、進化とは環境への適応であり、脅威への対応だと言ってもそうそう的を外してはいないだろう。じぶんの長所は生きつづけていればかってに磨かれていく。長所を磨くことばかりでなく、可能であるならば、じぶんにないものをより多く取り込もうとする姿勢が、より確固とした自我を育んでいくのではないだろうか。もっとも、こんなことを言っている張本人のいくひしさんは、好き嫌いの激しい性格の持ち主である。だからこそこんなに日々、あやふやな人格になってしまっているのだろう。確固とした自我がない。何者でもない者、それがいくひしという仮初の仮初なのである。


1707:【ぷぷ】
確固とした自我がないとかゆうてますけどあんさん、キャラの書き分け三つくらいしかないんとちゃいます。


1708:【かんきゅう】
ゆっくりやる期間をつくって慣れてきたら、こんどは速くする期間をつくる。でもずっと速いのばかりやっていると段々雑になっていくから、新しいことをしはじめたらまたゆっくりの期間に戻るのがよい。で、このゆっくりと速くの切り替えに慣れてくると、一日のなかでもそういう切り替えができるようになってくる。徐々に、自在に切り替えられるようになってきたら、それがきっと上達して結果に現れるのだと思う。緩急を体得するには、まずはゆっくりだけ、速くだけ、をできるようになるのが遠回りなようで、いちばん堅実な近道な気がする。


1709:【起伏】
小説をつくるときに意識していることの一つにリズム感がある。これは言葉の響きもそうだけれども、どちらかというと情報量の濃淡のほうをつよく意識している。一つの文章の持つ情報密度を、ゆるめたり、詰めたりして、言葉の陰影にリズムをつける。小説は緩急というよりもこの陰影、起伏のほうが、読み進めやすさにつながっている気がする。


1710:【重複】
抽象化にもいくつか種類がある。なかでもいくひしが重宝しているのは、抽象の重ねあわせだ。色をいくつか混ぜ合わせることで色相を整えるように、光を複数重ねあわせることで色味を変えるように、一つの抽象表現だけでは漠然としすぎていてわからないときには、またべつの抽象表現を重ねて、表現したい対象をしぼると伝わりやすくなる。それは目が二つあることで立体感を生むのと似た原理だ(このように比喩を付け加えると解かりやすくなるのも、一つの抽象表現の重ねあわせ効果である)。言い換えれば、具体的にこれです、と示さずとも、抽象表現を重ねあわせることで具体的な叙述にちかづけることができる。ある意味で、具体性と抽象性は、原子と物質の関係に似ている。たったひとつの粒をみせ、これです、と言えば具体的だが、それら似たような粒がより集まったものをみせ、これです、と言えば抽象的になる。だが、それら抽象的な物質もまた、それを一つの単位として、鉄や椅子や人間といった具体的なものへと昇華される。視点の繰りこみとも呼べるこの性質は、具体的なものであるほど変化がなく、抽象的なものほど具体化されていくという性質がある。あなたの座る赤い椅子は具体的だ。そこに、去年買った、と付け加えても具体性が増すだけで、抽象化へ転移することはない。いっぽうで、猫は丸い、といった抽象表現は、眠る猫は丸い、とすることで具体的な表現へとちかづく(眠る、もどちらかと言えば抽象表現だろう。或いは、眠るとちぢむ、といった一見意味不明な抽象表現を付け加えても、猫は丸い、という文章の具体性はあがる)。ある意味で、具体と抽象は同じものだ。ただ、どの視点で見ているかの違いがあるだけで、距離の異なる抽象表現を組み合わせることで、焦点を結んだレンズのように、より微細な具体表現へとちかづけることができる。さながら顕微鏡のように。あべこべに、具体的な表現をまったく関係のない対象へ結びつけることで抽象化することもできる。比喩などはその典型だ。これはさながら天体望遠鏡と言えそうだ。地上の雑多な固有名詞を、宇宙の彼方の星々に関連付け、星座だ、銀河だと認識の幅を広げる。抽象化されたそうした星座や銀河もまた、べつの視点では一つの具体的な像として扱われるようになる。そういう意味では、抽象はつねに未来にしかなく、具体とは形骸化した未来――現実だと呼べそうだ。


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参照:いくひ誌。【701~710】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883963362

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