※日々きょうは死ななかったと思いながら眠りにつく。
701:【上下品】
上品と下品のちがいってなんだろう。ぱっと思いつくのは環境説と本能説だ。上品さを基準にして考えると、上品とは、その枠組みや規律を築いてきた一派が「これは上品なのだ」とする風潮を生みだしたからそうなったと考えられる。もしそれら一派が「食後は盛大なげっぷをするのが上品なのである」と唱えたならば、きっとそれが上品な作法になっただろう。ではこんどは下品さを基準にして考えてみよう。何が下品かと言えば、それを他人に見られたときに顔をしかめられそうなものはたいがい下品だと言っていいように思う(その他人はおおむねじぶんより目上の者だろう、すなわち上品とは何かを決める側の人々だ)。もうすこし突っ込んで言えば、他人からすると控えてほしい行為だが、じぶんではそれをついついやってしまうものと考えられる。下品には何かしら快楽がつきまとうようだ。言い方を変えれば、禁止することでかえって快感が増す傾向にあるように感じられる。これらは本能に共通する性質である。あべこべに上品とするものは禁止したところで、あーそうですか、とみなさほどの抵抗を覚えることなくしなくなるもののように感じる。上品さは環境によって決定され、下品さは本能から生じている。ほかにもちがいはあるだろう。考えてみよう。
702:【暴力】
暴力は悪か否か。二元論で語るにはいささか偏った議題かもしれない。しかしそれでもいくひしは、暴力は悪だ、と言いたい。もちろん時と場合によっては暴力を駆使して何かを守らねばならない局面も訪れるだろう。それでも暴力そのものを肯定してはいけないと思う。すくなくとも平和を善とするならば、そういう考え方にならざるを得ない。暴力を振るうのはよくなかったね、でも暴力を振るわねばならない環境のほうがもっとどうにかしなくてはならないよね。仕方がない、とは言いたくはないし、それは間違った方法論だと認めなければならないけれど、それでもそうした方法をとらなくてはならなかった背景のほうが、暴力の行使そのものよりも根深い「悪」があるのは知ってるよ。でもやっぱり暴力はないほうがいいから、それ以外での解決策がないかをいっしょに考えていきましょう。そういうスタンスでないと、平和はいつまで経っても暴力によって支えられる幻影でありつづけてしまうように感じる。どんな事情であれ、殴る蹴るはけっきょくのところ暴力である。肯定してはならない。平和を望む者であるならば。(平和を望まないならばべつに暴力を肯定してもいいと思う。また、肯定せずとも許容することは可能だ)
703:【もっとも】
いくひしさんはときどきしか平和を望んだりしない気分屋さんですから、そりゃー、目のまえにいくひしのことをハチャメチャにしようとするヘチャムクレがあらわれたら、そんときゃーもう、手加減なしですよ、手心なんて皆無ですし、情け容赦なくポコポコですよ、返り討ちのコテンパンですよ、そりゃーもう、いくひしが。
704:【暴力のない世界】
おそらく世界から暴力がなくなったとしても、暴力の代わりとなる「相手を効果的に傷つける方法」が台頭するので、暴力を根絶するだけでは理想的な平和は実現できないだろう。だがすくなくとも暴力は、それがどんなにちいさなものであっても、構造的に戦争と同じ原理を伴っている事実は認めざるを得ない。相手に傷をつけ、怖がらせ、損をさせることで、じぶんの利を得る。結果的にそれがのちのちその相手のためになることだとしても、暴力によってそれを実現することは、平和とは呼べない。平和とは現在の一点で考えるべき事柄ではなく、過去から未来へと繋がるその過程そのものが平和でなければならないからである(そうでないと、いずれまた暴力の行使が繰り返されてしまう)。ただし、理想的な平和が必ずしもすばらしいものとはかぎらない。争いごとのない世界だからといって苦痛でない保障はない。争う余地のないほど平和の徹底された世界はむしろ窮屈なのではないかと想像するしだいである。マゾには息苦しい世界であることは間違いない。
705:【ディビ先生】
成人向け漫画家さんのディビさんの描く世界観は上品でありながら対極の本能をこれでもかと暴くように描いているところがスゴイと思います。セリフ力の高さは言うに及ばず、絵柄の魅力もさることながら、上品さと下品さをぶつけて、毎度毎度上品さが打ち勝ってしまうところに、ディビさんのすさまじさが凝縮して感じられるのです。ぶつける下品さは並大抵のものではないのにもかかわらず、です。手塚治虫さんの女性キャラクターから匂いたつ色気にも似ていますね。アートです。
706:【願望と実情】
2017:7/21に自作を電子書籍化しました。ひと月ちょっと経過したので、売上データをまとめます。まず販売実数ですが、一部(一冊)です。「息の根にうるおいを。」をご購入いただけたので、323円がいくひしの利益になります。また、KDPセレクトに加入しているので読まれたページ分が収益になります(初めて読まれたページのみ既読ページ数としてカウントされます)。7月分を含めず、8月分だけで換算しますとだいたい8500ページ読まれたことになります。1ページ約0.5円です。日本以外の国からも読まれていますから、そちらの金額は日本円より安いので、おおよそ3800円がいくひしの口座に振り込まれる計算になります。ちなみに日本、ブラジル、UK、フランスの順で読まれています。無料配布キャンペーンを実施しての数値です(一日20部配布できてキンドル無料ランキングが150~300位のあいだを上下します。一日で100部配布可能ならば、無料ランキングでは上位に食いこめるでしょう)。おそらく九月、十月はこれより収益が落ち込むことが予想できます(無料配布は一作品につき五日間までとなっています。90日経過するとふたたびキャンペーンを実施できるようになります。郁菱万の場合、キャンペーンの終了した作品は10月21日からまた無料で配布できるようになります)。ちなみに当初の見立てでは、各作品ごとに月一部ずつ売れると考えていました。蓋を開けてみれば三十分の一の売り上げです。楽観視していたようです。予測を下方修正し、読まれている作品の傾向から、新作のつくる順番を変えていこうと思います。もっとも多く読まれた作品は「ぼくの内部をじかになぞって。」ですが、レビューで評価1がついてからはぱったりと読まれなくなりました。つぎに読まれているのは、「息の根にうるおいを。」ですが、これは単純にページ数の多い作品なので、読者数としてはほかの作品とほぼ同じだと見込んでおります。最後まで読んでくださった読者さんの平均は(既読のついた作品で割れば)二人になります(正確な人数は不明ですが、既読ページ数と作品の総ページ数から算出するとそのように推測されます)。三分の一の作品は未だに既読ページ数ゼロです。とはいえ、読者が一作品に集中しないところを鑑みますと、リピーターの方がほかの作品に目を通してくださっているのかな、と想像します。ありがとうございます。毎月、なにかしらこうしたまとめを報告がてら残していこうと思います。おそらくあと半年はこの八月分が最高売上になるでしょう。以前の記事でも述べましたが、どの作品も全文無料で公開しております。無理をしてご購入される必要はございません。読んでいただけるだけでうれしいです。もちろん対価をいただけることもまたうれしいです。重ね重ね、ありがとうございます。
707:【!?】
前に「低評価が心地いい」という記事を書いた。いくひ誌「671」である。ただし、やはりというべきか、高評価だって心地よく、うれしいものである。やったー、てなるし、わーい、ってなる。その相手が誰であっても心が躍るけれども、その相手がじぶんのほうで一方的に知っていて、しかも才能あるなー、すごいなー、って思っていた相手ならば、その踊りようときたらもう、片手でクルクル回って地球にめりこむくらいのものである。外部の評価に一喜一憂している余裕のないいくひしでも、電子書籍化して最初の褒め言葉くらいは、わーいってしたい。だからする。わーい。やったー。うれしー。
708:【虫の調べ】
死のうと思って手首を切った。手に加わった感触はどこか、幼いころにランドセルをナイフで切り刻んだ記憶をよみがえらせる。血が噴きだすかと身構えていたのに、なぜか手首にはぽっかりと穴が開くだけだ。とりたてて痛くもない。傷口をゆびで押し広げるようにすると、闇の奥に色とりどりのお花畑が目についた。甘い香りがそよかぜとなって生暖かく漏れている。ゆびを差しこむようにすると、どこまでも埋もれた。傷口の向こうに、見知らぬお花畑がひろがっている。空が見えないのは、角度的な問題だろうか。ちょうど、頭の高さから地面を見下ろしている具合で、私が移動しても、傷口から覗く景色は変わらない。腕を振っても、景色は絵画のようにはぴったりと傷口について回る。異次元や異世界を連想する。どうやら私の傷口は、どこかべつの空間と繋がってしまったようだ。死ねなかったことよりも、この傷口をどうすべきかに思考の大半を費やした。その日のうちに裁縫セットを取り出し、針と糸で傷口を縫いつけようとした。肌に針を突きたてるのはなぜか痛く、断念する。しばらく傷口を絆創膏で覆って過ごした。寝相がわるいのか、朝起きるたびにそれは剥がれている。新しい絆創膏に貼り替えながら私は、私の身体がどうにかなってしまった可能性を考える。数日経っても、私はこれまでどおりお腹が減り、物を食べ、そして排泄した。いっそ傷口を増やしてみてはどうか。考えるだけで行動には移さなかった。部屋を片付けるためにと取っていた有給休暇が終わり、私はまた元の生活に戻った。どうせ死ぬのだからと仕事を辞めずにいた。戦力でない私であっても、急にいなくなられたら数日くらいはアタフタするのではないかと期待していたのに、いざ職場に戻ってみると、休みをとる前よりも仕事は減っており、私がいないほうが会社は回るのだという事実をむざむざと見せつけられた心地がした。頭のなかの鉛が増すようだ。やはり死んでおけばよかったのだ。帰宅すると見慣れぬ虫が飛んでいた。蝶や蛾のように二枚の羽をパタパタとしながら、ときおり、鳥のようにまったく羽ばたかぬままで滑空する。見慣れぬ動きに、それが新種の虫であることは瞭然だった。捕まえ、コンビニの袋に入れた。なぜかそとに逃がす考えはなかった。寝ようと思い、明かりを消すと、部屋は仄かに明るいままだ。光源を探るまでもなく、コンビニの袋が提灯よろしく淡い光を放っている。私は袋の口をゆるめ、なかの虫を宙に放つ。虫はヒラヒラと、ときにスーっと光の筋をせわしなく描きつづける。きれいだな。私はひざを抱え、日が昇るまでそれを眺めた。その日から私は不眠症になった。夜はずっと暗闇のなかで、淡く発光する虫の軌跡を目で追った。なんだかすべてのモヤモヤから解放されるようだった。朝になると職場へと出かけ、そして家に戻り、虫を見つめる。暗がりに浮かぶ光の線は、曖昧になっていく私の意識と連動して、増えたり減ったりを繰りかえす。気づくと虫は二匹に増え、そして三匹に増えている。そういう生態なのかもしれないと気にも留めていなかったが、虫との同棲をはじめてからひと月後、初めて家のそとで虫を見た。それはヒラヒラと、ときにスーっと、独特な動きで、職場のフロアを舞っている。なんで。私は戸惑った。戸締りをし忘れたか? それとも元から外にもいる虫なのか? 身体が震えている。私だけの世界が崩れ去るのにも似た恐怖があった。それはどこか怒りにも似ており、失恋の痛みにも似ていた。黄色い声があがり、駆けつけた男性社員により虫は呆気なくつぶされた。コピー用紙にくるまれ、ゴミ箱へと投げ込まれるのを、私は私を眺めるようにただ見届けた。その日から私は会社へ行くのをやめた。部屋にこもっているうちに、虫はその数を増していく。日に日に部屋は虫の楽園と化していく。夜は明かりをつけずとも、ひと際つよい明かりが部屋を満たし、その明かりがそとへ漏れるのすらもったいなく感じ、私は閉じきった部屋のなかで、光に埋もれた。大量の光の群れとなった虫を見ていると、目を開けているのか、閉じているのか、その境も曖昧になっていく。虫に羽音はなく、ただしずかなことにこのとき気づいた。虫たちは音もなく、私の手首に開いた傷口からわらわらと湧き出てくる。もっとおいで。私は手首の穴を拡げていく。死ぬために購入した包丁を使って。ペットボトルを分断するように、ぐるっと手首に切れ込みを入れていく。蚊取り線香の煙に触れた蚊のように手首は、ぼとりと床に落ちる。血の代わりに大量の虫たちが溢れだしてくる。もっと、もっと。窓ガラスが虫たちに押され、キシキシと鳴っている。手首のなくなった腕に切っ先を突きたて、私は腕を縦に切り裂いていく。もっと、もっと。私の中には、美しいお花畑が広がっている。そこは初夏の日差しに晒されており、ときおり花々のうえを、帯状の影が走り抜ける。虫たちが群れとなって舞っている。影が光に打ち消され、その後、虫たちが押し寄せる。もっと、もっと。肩まで到達した切っ先を、鎖骨へと走らせ、胸へと向ける。首元から臍へとひと息に下ろすと、チャックを開いた具合に、お花畑の全貌が裡に広がる。股から、腿へ、それから足へ。逆の足も切り開き、残るは利き手と頭部だけとなる。いっそのこと私が向こうに行けたなら。望むあいだに、虫たちが私の裡へと消えていく。元の世界へとなだれこむ。おいてかないで。私は私の外皮を引っくり返し、靴下を裏返すみたいに裏返る。トイレットペーパーの芯を縦に割って裏返し、繋ぎ合わせるようにするのと同じく、私は私の身体を裏返す。切り口同士が繋がって、裏の世界が現れる。首と利き手がお花畑に浮いている。私の部屋に、私の身体のカタチに、お花畑が開いている。そういう穴が掘られたみたいに、お花畑へと通じる私の内部が畳のうえに浮いている。それを眺める私の首と、刃物を握る利き手だけが畳のうえに残される。部屋にはもう、虫は一匹も飛んではいない。みなあちらの世界に帰っていった。私が私の手で、私の身体を切り開き、そこに広がるお花畑へ帰してあげた。裏返った私の内部へと虫たちを連れ帰ったはずの私はこうして一人、身動きをとれずに、いずこよりやってくる喉の渇きと腹の虫のうごめく音を耳にしている。
709:【平等と多様性】
多様性を許容せよ、という主張は、けっきょくのところ、排除される側の立場からの「私を排除しないで」「私を容認して」という叫びである。真に多様性を実現したそのさきには、「私を排除しようとする勢力をも私は許容する」という一種の自己矛盾した現実が待ち構えている。多様性を叫ぶ者は、真に多様性を求めるならば、「多様性を求めよ」と叫ぶことを自重しなくてはならない。それはたとえば、暴力を許すなという主張にも当てはまる。非暴力の徹底という主張の根底には自らの命を優先して守りたいという欲求があり、そして真実に暴力の行使を許容しない場合、自らの命が危険にさらせてもその脅威に対して、暴力によって防衛できない矛盾が生じる。自己防衛のための主張が、いざというときの自己防衛を認めないという皮肉な展開を見せることになるわけだが、理屈で言うならば、暴力を許容しない社会において暴力の脅威にさらされたならば、暴力以外の手段で以って立ち向かうほかなく、それは拳銃にシャボン玉で挑むような滑稽さを演じなくてはならないことと同義である。ときには襲いくる脅威からただ一方的に蹂躙される場合もでてくるだろう。しかし理屈としてはそれが正しく、暴力を許容しない世界を求めるならば致し方ないと呼べる。ただし、そうした一方的に蹂躙され得る世界を他者にまで強要しようとした場合、それは一番の目的であるはずの平和からもっとも遠い手段に成り下がる懸念は押さえておいたほうがよい。すなわち、徹底的な思想の強要は、一種の暴力なのである。暴力を許容するな、という主張を他者に強要することは暴力なのだから、「暴力を許容するなと主張することそのもの」が自己言及的に、禁じられてしまう。むろん現代社会には思想の自由や言動の自由が憲法によって保障されている(保障されていない国もあるが)。他者へ強要しないかぎりは、それを唱えることはなんの問題もない。しかし理屈としては、多様性や自由、そして非暴力の徹底を謳う主張は、それを唱えた時点で、真逆の性質を宿し、その効力を失うのである。じつにむつかしい問題である。いくひしの場合にかぎる話になるが、「多様性を認めよ」といくひしが言うとき、それは暗に「私を認めなさいよ」以上の意味合いはない。またそのときもっとも多様性を許容できていないのは十中八九いくひしなのである。多様性を求めるためには、多様性を排除しようとする勢力をも許容せねばならない。平和や自由もまた然りである。理想論ではあるが、理屈とはそもそも理想のうえに築かれるものである。
710:【けっきょくのところ】
ちょうどいい塩梅を探そうぜ、としか言いようがない。妥協と譲歩がいっしゅんの平和(幻影)をその都度都度で繋いでいくのである。(五分前まで股間をきもちよくマッサージしていた者の言葉である。今からうどんを食べるのである)
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参照:いくひ誌。【181~190】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881845415