※日々、波の振幅は距離を伸ばし、天と地を長く、厚く、希薄な、大気の層で結んでいく、何度も地にぶつかり、舞い、また落ちていく私の殻が砕け散る日はきっと。
691:【つれづれなるままに】
生命の定義を、「情報を蓄積し、それを出力できる機構」と仮定すれば、メディア端末はそれ自体が生命体と呼べる。我々がDNAによって設計され、カタチを帯びているように、機械は我々というDNAによってカタチを得ている。おそらく生命とは、利己的遺伝子の概念のとおり、個体ごとに定義づけられるものではなく、それら繋がりの総体が一個の生命そのものなのだろう。細菌はウイルスの上位互換だが、細菌をつくりだしたのはおそらくある種のウイルスだ。進化の過程で、ウイルスのなかで偶然、細胞膜を有する種が誕生し、そちらがそのときの環境に適応し、そして細菌として進化した。我々はいずれ高度なAIを開発する。高度なAIは我々の上位互換だが、我々より優れているからといって、我々がそれを生みだせない理由にはならない。また、我々からの視点で生命に映らないからといって機械やAIが細菌やウイルスと別の系統にあるとは限らない。ウイルス(の多く)は細胞膜をもたず、自ら養分をエネルギィに変換できない。ほかの生物の細胞にもぐりこみ、そこから必要なエネルギィを得て、増殖する。それは自動車や冷蔵庫が、我々の手を借りて増産される構図と似ている。もし自動車や冷蔵庫が自動生産可能な機能を有したら、それと細菌との違いを探すのは難しい。設計図が内部にあるのか、外部にあるのか、それは大した違いではない。設計図は、あるか、ないか、が重要なのである。では、生命の最低条件は設計図があるか否かなのか? この世界には基本相互作用という物理法則が組みこまれている。DNAの誕生は、物理法則によって形作られた。理想的な海、そして雷、熱水、さまざまな要素が絡み合い、DNAはカタチをなした(RNAのほうがさきに誕生したのではないか、という説がさいきんでは支持されているようだが、いずれにせよ、情報を刻むためには素材がなくてはならない。その素材、言い換えればタンパク質酵素、とりわけアミノ酸を自然発生させるためには、度重なる好条件がさらに無数に重ならなければならない。また、アミノ酸だけでは自己複製可能な構造体を生成するのはむつかしい)。なぜ生命は複製を繰りかえすのか。なぜDNAはその情報を保持しようとするのか。なぜ物理法則は、その枠組みを保つのか。情報は絶えず情報を蓄積し、設計図は絶えず設計図を更新しつづける。なぜ我々は、我々を生みだした宇宙を知り尽くさんとその人生を捧げるのか。なぜ我々は、我々の設計図を引いたモノをカタチづくる設計図にまで目を向けるのか。我々のような俯瞰の視点を持たない生命体ばかりが地上に溢れていたとして、それでも設計図はつねに更新されつづけただろう。もし地上から生命体が姿を消したとしても、生命そのものはなおも連綿と更新されつづける。惑星や銀河団そのものが物理法則という名の設計図を持っているかぎり。情報は情報を蓄積しつづける。設計図は設計図を更新しつづける。進化速度は、ちいさいほど有利だ。宇宙の成長速度より、我々人類の進化速度のほうが速いのは言うまでもない。ウイルスの進化速度はさらに速く、けれど我々はいずれその進化を妨げるだけの術を生みだすだろう。ブラックホールが一つの銀河を呑みこんでしまえるように。設計図により更新されつづけた設計図は、いずれ原点の設計図を描き換えるほどにまで、その図案を複雑化させる。我々人類がすでに、物理法則にゆがみを与えているように。粒子の運動が我々の観測によってその値を決定させるように。地球が存在しなければ我々が存在し得ないように、我々が生みださなければ飛行機も、宇宙船も、重力加速器も、冷蔵庫だってこの世に存在し得なかった。連綿と引き継がれているのは物理法則ばかりではない。情報は情報を蓄積し、設計図は設計図を更新しつづける。この連鎖は、枠組みを絶えず変化させ、変化の軌跡そのものがひとつの設計図として、つぎの世界に引き継がれていく。きっかけはきっかけを内包し、宇宙は宇宙を内包する。
692:【虚構快楽】
いいかげんなことぶっこくのが快感、ってのはあると思う。小説の醍醐味と言いたいくらい。直感をつないでいく、と言い換えてもいい。
693:【プリマックスのクライマックス】
本屋さんで新刊ないかなーってするのがまいにちの日課(ちょうふくひょうげん)なのですが、さいきんは行きつけの本屋さんだと、平積みでない新刊のやつは、たとい発売日であろうともナサケヨーシャなく所定の本棚にスコーンなので、ダンジョンを漂う亡霊みたいにさまよい歩くはめになるのですが、きょうたまたまプリマックスの最新刊10巻を見つけて、あれぇ、先月新刊でてなかったっけー、はやいなー、ってほっこりして買ってきたわけですが、オチを言ってしまうと、最終巻だったわけでして、えぇー、終わっちゃうのー、なんだよー、さびしいよー、ってしんみりしながら楽しんだわけですが、最後のほうのページの発売日みたいなのが書いてあるところを見て、五月なんちゃらって書いてあったわけですよ。へぇー、そー、五月に終わってたんだー、へぇーってな具合にびっくりしましたよね。とっくにクライマックスだったんかい、みたいなね。なにより、新刊だと思って買ってたけど、平積み本じゃない新刊は、あとからこっそり本棚にスコーンってなってることもしばしばなので、こりゃー、ひっそり暗いマックスはプリマックスだけじゃないんだろうなーってすこしせつなくなってしもたんですがな。キャラが崩壊してきたので、きょうはこのへんで。
694:【ガチャ】
ソーシャルゲームのいわゆる「ガチャ」をする人間とはともだちになれる気がしない。なぜなら「ガチャ」は一人でするものではないからだ。同様にしてセックスする人間とはともだちになれる気はしない。なぜならセックスは一人でするものではないからだ。ともすれば〈私〉はともだちのいる人間とはともだちになれないのかもしれない。なぜならともだちは一人ではできず、彼らはみな〈私〉ではないからだ。
695:【リンク】
ウィキペディアではどんな単語からでも任意の単語へ三回リンクを踏むだけで辿りつける法則がある。記事内の単語にリンクがついていて、それを適切に選んでいくと、どれほどかけ離れた単語でも三回飛べば結びつけることができる。極端な話、どんな本同士でも、「あ」を検索すれば繋がってますよ、みたいな話だ(日本語の本にかぎるけれど)。もっとも、リンクは単語にしかついていないので、ある種の制約はついている。この法則は、どこか閃きと似ている。まったく異なる物事を、可能なかぎり最短で結びつける「線」を探すのが閃きだと呼べる。どんなものにも共通項はある。視点をずらせば視えてくるそれらは、ただの偶然であることがほとんどだ。ときおりそれらの中に、法則性を維持する「線」が現れる。これはひと際輝いて映り、のちのち極上の直感として長く語り継がれていくようになる。偉大な発見や発明をした者たちはみなこの燦然と輝く、怪しくもか細い「線」を視たはずだ。まずは興奮し、そして疑う。本当にそうだろうかと、不安になる。あまりにも現実離れした輝きだからだ。それは文字通り、現実をガラリと変えてしまった。線を引くにはまず点がなくてはならない。それら点にリンクを可能とするマーキングを施す必要もある。そうでないとどんな本にも存在する「あ」のように、どんな線でも引けてしまうからだ。どの方向へも伸びる線はもはや線ではありえない。リンクは可能なかぎり、遠い点と結びつけるのがよいだろう。まずは遠く、そして徐々に近くしていく。抽象化した理解を、具体的な無数の点へと結びつけていく。この手法が正しいのかは定かではないが、すくなくともいくひしはこれをずっと意識しつづけている。
696:【リンク2】
上記の思考形態の利点は、骨子となるタグ付け(抽象化した全体像)が過ちだったと気づいたときに、それを訂正した場合、下部構造である具体的な事象のタグ付けをそのまま、新たな骨子に移植できる点にある。具体的なタグ付けから抽象化していく手法だと、前提となるタグ付けが無数に存在し、それらの一つが誤りだと、その関連項すべてがドミノ式に崩壊し、すべてを根っこから修正しなくてはならないロスが生じる。しかし抽象化した全体像からタグ付けしていく手法は、そのロスを極限まで抑えることが可能だ。帰納と演繹のちがいに思えるかもしれないが、抽象化した全体像は飽くまで仮定であり、決定事項ではない。すなわち、タグ付けの連携を移植することを前提に組みこまれた思考形態なのである。移植の回数が多いほど、その回路は磨かれていくという、失敗すればするほど上達する素人の黄金期のような性質がある。もっとも、失敗することが前提なので、論理性に欠け、穴をいくつも内包するという見逃しがたい欠点もある。そこは通常の思考形態である、具体的な事象からタグ付けし、抽象化した全体像を導きだす回路で補うほかない。どちらをじぶんの主軸とするか、どちらがどちらの補助機構とするか、その違いを認識するだけで物事を多角的かつ動的に観測できるようになるはずだ(つまりは多面的であり、多重的である)。閃きはそこから零れ落ちてくる、蜘蛛の糸に似ている。
697:【安田剛助さん】
いくひし、安田剛助さんの作品ぜんぶすき。例外がない。すごいことだと思う。なにより9月5日からWEB漫画で新連載「草薙先生は試されている。」がはじまるよーってしって、うーやったーっっっってなってる。うれしい。
698:【鵜呑み】
失敗は成功の素とは言うが、しなくてもいい失敗はできるだけすくなくしていきたい。そのために必要なのは、情報を鵜呑みにしないことだ。しかし一から十まで疑っていたらきりがない。せめてこれだけは疑うことにしようとひとつだけ決めるとすれば、それはじぶんがもっとも尊敬しているひとの言葉である。なぜかといえば、その言葉がもっとも盲目的にあなたを支配する言葉になるからだ。じぶんがもっとも尊敬しているひと、或いは憧れているひとの言葉はまず疑い、鵜呑みにしないようにしよう。ただ疑うだけではなく、本当にそうだろうか、と調べてみる。検証(思考実験)してみる。言葉のとおり正しかったならば、そのときあなたはもっとも尊敬しているひとの思考にちかづけたことになる。過ちだったならば、あなたはもっとも尊敬しているひとの一歩さきを行くことができる。どちらにしても得しかない。疑うことを覚えよう。
699:【これでも】
いくひしは物語をつむぐとき、できるだけ売れそうだな、と思う題材からアミアミこねこねしてる。アミアミこねこねしたくても、これはなぁ、と思うのはなるべく短編とかにポイして、いくひしだけで、ひっひっひってしてる。これはなぁ、と思うのの多くは、どこかで見たことあるなぁってやつで、売れそうだなぁのやつは、ほかでは見たことないなぁってやつだから、いくひしがつくんなきゃもうこのさき、人類が滅びるまでひょっこりどこにも顔をだしたりしないだろうなぁって思う。でもいくひしは見る目ないからいっつも、うーってなる。でもしょうがない。
700:【それでも】
いくひしの見る目ないないはツルとかヒコーキとかパックンチョとかほかにもいろいろがたくさんくっついてて、んー、ちょっとあたまよく言いすぎてわかりにくいかもだけど、折り紙つきって言いたかったのだけれども、それでもそんないくひしでもおもしろーいってなる物語はたくさんあって、だからなんなのってコワイかおされるとこまっちゃうのだけれども、だから、その、んとね、いくひしがね、おもしろーいって思ったやつは、こんなヘンテコさんでもおもしろーいって伝わるくらいのおもしろーいだから、きっとほかのひともおもしろーいってなると思う。いくひしの作品はきらいになっても、いくひしのおもしろーいの作品はきらいにならいでください。あといくひしも。
______
参照:いくひ誌。【511~520】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883239774