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いくひ誌。【1651~1660】

※日々衰えを自覚する、衰えるだけの蓄えがあったのかと驚きながら、まだ底ではなかったか、と目からうろこを落としつつ。


1651:【涙もろい】
さいきん涙もろくなった。あー、そうじゃないのかも。泣いてしまう文章や、物語に触れる機会が増えたのだ。と、いうよりも、人が死んだりする悲しさで泣くことはもうずいぶんなくなったのだけれども、人の優しさだとか、成長だとか、思いが通じあった瞬間だとか、がんばっている姿だとか、そういうのを見せつけられると心が動かされてしまう。汚れたものが目につきやすくなった分だけ、きれいなものへの感度があがっているのかもなぁ、とこれまた汚い考えを浮かべてしまう。そういう相対的な評価ではなく、絶対的なうつくしさがあるのだと信じたいし、そういうものに触れたときにきっと心が大きく揺さぶられるのだ。うつくしいものはうつくしいと感じられるじぶんでありたい。それはそれとして、醜さから滲む、ニュートリノの発する微弱な光のようなうつくしさも見逃さずにいたいとも思う。相も変わらず欲張りだなぁ。


1652:【真似】
いくひしさんの泣き真似しまーす。「うっ、うっ、ひぎ、ひぐ、ずびび、あばー、ずびびずー」


1653:【自信】
いくひしは自信を失くしたことがない。そもそも持ってないからね。持たないものは失くせない。みなさんはどこで自信を手に入れましたか?


1654:【自分なんて信じるに値しない】
自分の感覚や考えが麻痺していたり、歪んでいたりしているかもしれない、と疑えない程度の知性には、何も期待しないほうがいい。もちろんこの意見自体も歪んでいるし、正しくはない。何かを規制したり、反対したり、或いはそうした声そのものに反発したりするのは、それぞれの立場にあった損得があるので、一概にどれが正解とは言えない(或いはどれも正解だと呼べる)。とはいえ、せめて自分の利益のみを追求した声には、もう少し慎重になって接したほうがよいのではないか、と思うしだいだ。これはべつに、自分のことしか考えていない主張は取り合わないほうがいい、という意味ではないし、また、何かを主張するときは、あなたのためだから、と付け加えればよい、という意味でもない。相手がなぜそれを主張しているのか、相手にとってなぜそれが理不尽に映っているのかについて、聞く耳くらいは持ったほうがよろしいのではないですか、という意味だ。だって相手が聞く耳を持ってくれないんだもん、と不満に思うこともあるだろうが、わざわざあなたが下位互換に落ちる必要はない。もちろん、上位互換が必ずしも、下位互換より勝っているわけではないので、そこは互いに意見のすり合わせが必要になってくるのだが。一面的な正論を掲げて相手の主張をやりこめた気になっているようでは、視野が狭くなっていく一方なのではないですか、とこれまた歪んだ見解を述べておく。視野だけならまだしも、身動きまで取れなくなってしまっては元も子もない。あまり自分を信じないほうがよい。自分の可能性であれば少しは信じるに値するかもしれないが。


1655:【吐息】
息を吐くと白くなる季節になりました。家のなかが寒く、ガタガタ震えています。ダウンジャケットを羽織って、ひざにはもふもふの猫みたいなひざ掛けをしています。もう十度ないのかなぁ、と室温計を見たら、十九度もありました。暑いじゃん! これは例年なら風邪を疑ってもよいくらいなのですが、ことしは異常な猛暑でしたから(これからはこれが標準になっていくと予想するものですが)、身体がそういう気候に慣れてしまって、十九度あっても凍えてしまう体質になってしまったのかもしれません。なんてこった! それはそれとして、動いても汗をかかないのはよいですね。自転車でほぼ毎日往復十六キロをキコキコ走っているのですが、汗がにじむだけで済むようになりました。雨が降ってもじめっとしないのがよいですね。すごしやすい気候だと思います。さいきんは脚気ぎみなので、今朝はダイコンを細切りにして、みそとマヨネーズをつけて齧りました。自己暗示かもしれませんが体調がよくなったように感じます。文芸以外のお遊びがちょいちょいサボり気味になってきているので、出力をあげていこうと思います。ぽんぽこりーん! 以上です。


1656:【理解できなくて当然】
デジタルが離散的で断続的であるのに対し、アナログは蓄積的で連続的だ。となると、ニュートン力学に代表される古典物理学はアナログだが、量子力学はデジタルであると呼べそうだ。しかし、デジタルがアナログの変換様式の一つであると仮定すると、離散的で断続的に観測される粒子の挙動も、じつは、未だ観測されていない何かのアナログな現象が、我々にはデジタルとでしか観測できないということになるのではないか。つまり、局所的にしか見られていない、だから、非連続した現象としてしか観測できないのではないか、という妄想である。場が波であることは知られているが、その場はアナログだと言える。しかし、そこに顕現する粒子はデジタルなのだ。デジタルは、アナログから何かをこそぎ落とし、濾過した情報であると呼べる。処理され、こそぎ落とされたアナログの情報は、いったいどこへ消えたのだろう? 場の理論ではまだ何かが足りないように感じるが、こんなずぶの素人の妄想でもそれなりに、知識のない相手を翻弄するには充分なのかもしれない。科学チックな物言いには充分注意されたし。


1657:【眠いときは眠いなりに】
文芸じゃないほうの遊びの出力をあげたら即効で身体が死んだ。本気なんてだすもんじゃない。文芸のほうも毎日3000字のじぶんルールを破ってしまっているので、なんとかしなきゃなぁ、とウンウン言っている。毎日更新ショートショート(https://note.mu/ikubisiman)は100話まで残り30話なので、11月のいまごろに一区切りつく予定だ。それまではツイッターのほうは、不定期になりそうだ。いっぱいいっぱいになってるときほど、ツイッター(https://twitter.com/ant_stand)が癒しになるので、ついつい多めに眺めてしまう。ステキな絵(マンガ)をいつもありがとうございます。毎日更新ショートショートが100話溜まると、おそらく31万字くらいの分量が溜まるので(71話目の現時点で24万字なので、もうすこし多くなるかもしれないが)、三冊に分けて電子書籍化してしまいたい。11月1日にアマゾン電子書籍で無料キャンペーンをやる予定なので、それまでに二冊をさきに新作として電子書籍にしようと考えているものの、めんどくさいなー、と腰が重い。推敲したくないなー。つくりかけの中編や長編が、溜まっているので、ほんといい加減に閉じましょうよ、とうちなるいくひしさんがカンカンというか、堪忍袋の緒がダルダルというか、ちょっと油断すると中身が噴きこぼれてアッチッチみたいになるので、ショートショート100話つくったら、ちょっとだけ本気をだして、サクサクっと閉じてしまおうと思う。思うだけならタダなので。というか、本当に、本当に、ショートショートに飽きてしまっていて、長編つくりたい欲求がパンパンだ。破裂寸前というやつだ。ショートショートの一話一話の分量がだんだんと増えてきているのは、その影響かもしれない。文体もあんまり変化しなくなってきて、読むほうもこりゃ飽きるわなぁ、と申しわけなく思っております。ちなみにショートショートは、曜日によってジャンルが変わる、日替わりで行っているので、100話ということは、ジャンルごとにそれぞれ14話ずつつくることになる。SFならSFで14話、百合なら百合で14話。こう考えるとあんまり多く感じない。ジャンルは、SF、百合、ファンタジィ、BL、ホラー、コメディ、ミステリィの七つだ。SFやミステリィは、長編のネタというか、構造が浮かんでしまうので、文章に変換する以前に、脳内でボツにする数が多く、回を増すごとに手こずるようになってきている。さいていでも1万字くらいないとむつかしい。あとコメディ。めっちゃ苦手。百合とBLは、登場人物二人の関係性をどうするかですこし悩むけれども、思いつけば、あとはかってにキャラクターが動いてくれるので、比較的ラク。おもしろくできているかは別問題であるが。SFとファンタジィはいつもオチに悩む。悩むので、とりあえず方向性だけ決めて、つくっちゃう。オチの候補をつど、何個も考えながら、最適な道を探していく。あみだくじみたいな感じだ。じぶんで横線を引きながら進んでいくので、進めば進むほど辿り着く場所がランダムに変わっていくのが、ふつうのあみだくじとは異なる点だ。とはいえ、最初に引いた縦線から逸脱することは滅多にない。最初に規定したいくつかの縦線のさきには高確率で辿り着くように設計されている。ときおり、紙面の裏や、三次元方向に突き抜けたりするので予断は禁物だ。ホラーはよく解からん。ホラーになってる? なってない? たぶんいちばんいくひしと相性よくないジャンルな気がする。ホラーはむつい。死と血と苦痛の三つを使わずに編めたら、ホラーとして質がよくなる気がする。認知の歪みというか、猫の交尾だと思ってたらじっさいは赤ちゃんが泣いていた(この二つ、声が似てますよね)、みたいな。気づいたときにはときすでに遅し、追い払うために熱湯をかけてしまっていた、みたいな。死と苦痛があるからこれは失敗。飽くまでじぶんルールなので、客観的な評価の指標になるわけではない。疲れたり、眠かったりすると、こうして文章が長くなってしまう。さきを見通すちからが衰えるからだ。オチが見えないので、行きあたるまで掘りつづけてしまう。こういうときは無理矢理オチをつくるにかぎる。冒頭一行目の文章を持ってきて、抽象的に関連した内容を付け足し、二行目の文章で終わる。よし、これでいこう。オチがないので掘りつづけてしまうのもよいが、掘れば掘るほど、腕は疲れる。出力をあげれば即効で身体が死ぬ。衰えているからだ。適度に休むことも修行のうちだ。そうでないと、こんな無駄な、読むに堪えない文章をウダウダと並べるはめになる。穴を掘れば、その分、土が山をつくる。それとも、穴が深ければ、掘った土をそとに運びだせず、いつまでも同じ場所を掘りつづけるはめになるかもしれない。熱中している人間はそのことにすら気づかず、尻尾を追いかけまわす犬じみて、同じ土を掘り返しつづける。周りを見渡し、じぶんの姿を想像できるくらいの余裕があったほうがよい。本気をだしたらその余裕はなくなる。本気なんてだすもんじゃない。


1658:【張り合いがない】
いくひしはじぶんのことが好きじゃないし、どちらかと言えば嫌いだけれども、じぶんがもう一人いればなぁ、とはたまに思うよ。あそこに行きたい、とゆび差してみても、それが視えるひとは限られるのだ。いくひしは、いくひしに視えない先を見据えてるひとが好き。いくひしの見据えてる先が視えてるひとがいたら、そのひととはきっと仲良くできないだろうけれども、一生張り合っていられる気がする。そういう相手のいるひとがうらやましい。でも、たくさんいたらそれはそれでうるさそうだから、一人か二人いるくらいがちょうどよい気もする。いなければいないで、でっちあげていくしかない。孤独な世界にあって張り合いがなければ、じぶんと綱引きをするより術はないのだ。


1659:【井戸の底】
張り合いがないのは、誰もいない場所に立っているからだ。それは高みにいるという意味ではない。井戸の底で独りきりのカエルはきっと張り合いのない日々を過ごしていることだろう。とはいえ、ピンと張った糸がそうであるように、張り合っているあいだは、なかなか思い通りの方向に動けないものだ。張り詰めていない糸のほうが自由に動き回れる。無闇に張り合ったり、意図しないカタチで張り詰めた日々を過ごすくらいなら、張り合いのないほうがよいのかもしれない。


1660:【たいして差はない】
同業者とじぶんを比べるくらいなら、ほかのまったくべつの業界の一流たちと比べたほうが参考になる。業界の内側からそのコミュニティを眺めていると、まるでじぶんとほかの同業者たちのあいだに圧倒的な差があるように感じられるかもしれないが、じっさいは、あなたが思うほどには明瞭とした差はない。どんぐりの背ぇ比べだと言ってしまっても、あながち間違いとは言えない。じぶんにとっては素養のない、ほかの業界を眺めてみればいい。たしかにどの分野の一流も、ひと目ですごいと解かるだろう。しかし、二流、三流との差は判然としないはずだ。と、いうよりも、その二流や三流が、のちに一流となっていくのだ。判別できなくて当然だ。下手をすれば、その成長過程につきまとう、ある種の勢いが、あなたの目には一流よりも魅力的な輝きに映ることもあるかも分からない。素人だからこそ判る魅力はある。そして、その魅力はたいがい、同じコミュニティに内包されている者たちには、欠点に映る傾向にある。評価されないことを嘆くことはない。誰もが全人類から評価されているわけではないのだ。いま評価されている者たちは、たまたま、ごく短期間で、少数の支持者を得ているにすぎない。多くともたかが百万人規模だ。全世界の人口を八十億とすれば、0.0125パーセントに満たない。ひょっとしたら全世界の人々からの評価を平均すれば、あなたの成果物のほうが高く評価されるかもしれないのだ。属性のばらつきやすいSNSという舞台で、評価が高い低い、多い少ない、と気にすることのバカさ加減にそろそろ気づきはじめてもよいころだ。むろん、ビジネスで利用する分にはメリットがある。宣伝に使えるならば使ったほうがよい。ただ、飽くまで広報手段の一つにすぎないはずのそれを、評価の絶対的な指標だと錯覚するのは、せっかく培ってきた自身の可能性をつぶすことになるのではないか、と不安に思うくらいはしてもよいのではないか。あなたには才能がある。無い人間などはいない。おいそれと他人に見抜かれるようなものは才能ではない。あなたにしか見えていないその道のさきに行けるのは、才能という名の切符を持ったあなただけなのだ。道中、足元を照らすのは、けっして赤の他人からの称賛の声ではない。あなたが、あなたの積みあげてきたものを振りかえったときに湧き立つ一縷の喜びだ。どうか、無名であることに惑わされないでほしい。何者でもないことを嘆くことはない。人は誰しも、何者でもない。他者からあのひとはああいうひとだ、と型をつよく当てはめられることを何者かになると呼ぶのであれば、むしろそれは人形であると呼べるだろう。あなたは人形になりたかったのだろうか? 何者かになることの価値はそれほど高くはないように感じる。むろん、否定しているわけではない。なりたいものがあるのならばなればいい。こういうふうにみなから思われたい、という像があるならば、それを目指すのもよい。ただ、どういうふうに見られるかはけっきょくのところ、他者の視点に委ねられる。そんなあやふやな評価を自我の拠り所にするよりかは、じぶんで制御可能な、じぶんがじぶんをどう思うか、のほうを歩むべき道の指針にするほうが、より足取りが確かとなるのではないだろうか。他者から評価されることはわるいことではない。されないよりかは、されるほうが都合がよい。ただし、じぶんの歩みたい道が視えなくなるほどにそれを求めるようになってしまっては意味がないのではないか、とときおり、じぶんに問いかけてみるのもまた、そうわるくはないはずだ。譬えとしては乱暴だが、アブラムシのたくさんたかっている花のほうがよりきれいですよね、と問われて、あなたは素直にうなずくだろうか? 花のうつくしさは、それにまとわりつく昆虫とは関係なく、独立して存在する(より精確には、花とあなたの関係性によって生じるいっときの閃光だ)。たほうで、蝶が舞っていれば、うつくしさが際立つこともあるだろう。ただし、蝶がなくとも花は花として凜と咲いている。花の比喩でしっくりこないのならば、海や山でも構わない。たくさん人の群がる山も素晴らしいが、誰も登ることのできない険しい山だってうつくしい。どちらかが優れているわけではない。人を寄せ付けないうつくしさもあるのだと知っておいて損はない。ほかの山を見渡すのは、それはそれでおもしろい。しかし、そこに群がる人の数を比較しても山のうつくしさを感じたことにはならないだろう。展望することで拓ける景色はある。そのとき見える光景は、そこに群がる人々とは切り離された、あなたの目に映る独立したうつくしさであるはずだ。じぶんのなかにあるうつくしさセンサーを育もう(一つという決まりはない。ときには新たにつくってもいい)。ところで、花が蜜を分泌するのは、虫をおびき寄せ、受粉の道具にするためである(生きるための手段ですらない)。そもそも花はそれほどうつくしくはないのかもしれない。或いは、だからこそよりうつくしいのかも分からない。


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参照:いくひ誌。【251~260】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882226727

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