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いくひ誌。【1641~1650】

※日々、価値がゼロでありつづける。


1641:【うがー】
余裕がなくなってくると、まとめるちからがなくなっていくー。


1642:【そこからして】
まとめる力が普段はあると思っているところがまんちゃんのかわいいところよね。


1643:【棚に上げる】
じぶんのことは棚上げして言うけど、せっかくエッセイというか、自分のことを書くとおもしろいのに、小説になるとふつうになってしまうひとは、小説を書こうとせずに、エッセイを書くつもりで、自分のことを書くつもりで、物語の登場人物に語らせたらいいのでは、と思うのだけど、伝えたいひとに伝える術が(あるけど使いたく)ないし、伝えても余計なお世話になると思うから(だいたいにおいて、言われてハイヨとできたら苦労しないだろうし)、ここに並べて、供養する。みんな文章じょうず。おもしろい。たのしい。もういちどだけ言っておくと、小説を書こうとなんてしなくていいんだよ。どの口が言うのだ、と怒られそうだけど。でもいくひしは、ほら、じぶんのこと書いたら余計につまらなくなるひとだから。エッセイ上手なひとがうらやましい。小説はどうだろ、(うらやましいのか)よぉわからん。


1644:【憑依型】
物語の登場人物になりきる創作方法というのがあります。いくひしは基本それにあたります。憑依型といったらそれっぽいですね。憑依型は、自分を捨てるところからまずはじめなくてはなりません。慣れないとなかなかむつかしいのではないかな、と思います(いくひしはいまでも、余裕がなくなると自我が滲んできてしまい、物語の語り口が変質してしまう欠点を克服できていません。たとえば、子どものキャラクターなのにむつかしい言い回しを使ったり、などです。言い換えれば、そのキャラクターが持っていないはずの知識や経験を使ってしまうと、キャラ造形として失敗しやすいです。逆に、一般にそのキャラの属性なら持っていないはずの知識や経験を付与することで(もしくは引き算することで)、キャラを立てることもできます)。自分のことを語ることに秀でたひとほど、この憑依型の創作方法がむつかしくなっていくように感じます。また、自分のことを語るのが上手なひとほど、この憑依型で物語をつくろうとする傾向にある気もします(根拠はないですが)。自分のことを語るのが上手なひとは、自分を捨てるのが上手でないので、だからうまく(視点を活かして)物語が編めないのかな、といますこし考えて思いました。ですから、まずは物語の舞台に自分が立ったとして、自分だったらどうするだろう、と考えながら物語を編んでいくのが、あんがい創作方法として合うのではないかな、となんとなく思います。キャラクターを動かすのではなく、動いているキャラクターたちを、世界を眺めるようにして、あなたの目で追っていく。あなたが世界を眺めて何を見て、何を思い、何をするのかをただ文章に落としこんでいけばいいわけです。慣れてきたら、自分とはかけ離れた人物の視点から見た世界も描けるようになっていくのではないかな、と思います(ですから、最初は登場人物はすくないほうがよい気がします)。自分を捨てる、というのは、要するに、日ごろから自分を殺し、他者の考えや世界観に寄り添うことで成し遂げられる幽体離脱のようなものです。他者の人生への憑依であり、継続しつづける自殺であるのかも分かりません。もっとも、憑依する以上は、自分という魂は消えることなく残留しつづけるものなのでしょう。他者の視点から世界を垣間見たところで、それを見ているのはどこまでいっても、「私」なのです。「私」を形作ってきた金型を意識し、それを一つ一つ外していくことで(ときにはずるっとひと息に脱ぎ去ることで)、「私」は自我という枠組みを外れ、他者の輪郭、金型、人生に同調することが可能になるのではないでしょうか。もちろん、そう錯覚できる、という意味合い以上には自分を捨て去ることはできないのでしょうけれど。(ただし、この憑依型の創作方法では、客観的に物語を見る視点が欠けやすい、という難点があります。克服するには、同時にいくつかの視点を維持しなければなりません。物語が自動で流れてくれるくらいにまで、その物語の舞台に馴染む訓練は、別途に必要になってくるように思います。何も考えずとも、矛盾のない物語が構築できるように、日ごろから、神の視点で妄想する癖をつけておくとよいかもしれませんね)


1645:【NOTゴッホ】
たとえばフィンセント・ファン・ゴッホの死ぬ直前になって、あなたの絵をすべて百億ドルで買い取らせてください、と言ってきたひとがいたとして、果たしてゴッホは絵を売っただろうか? もし死ぬ直前になって急に多くの人々からこの絵は素晴らしい、と称賛されたとして、ゴッホは安らかな眠りにつけただろうか。それはじっさいにそうなったときのゴッホに訊いてみるよりないし、よしんば聞けたとしても、ゴッホ自身、自分の感情を言語化できたとは思えないのだが、いずれにせよ、ゴッホが耳を切った時点で、ゴッホにとっては他人からの称賛は「いまさら」でしかなかったのではないか、とそんな気がするきょうこのごろである。とくに意味もなく、そんなことを考えた。とくに意味はないんだよ! けっきょくのところ、他人からの評価を求めるから、評価されないことが苦しく感じるのだ。またいっぽうでは、他人から称賛されて当然という境地に立ったとしても、雨のように降りそそぐ称揚はただただ虚しいだけだろう。なくても、ありすぎても、それを求めているかぎり、あまり身のためにはならないのではないか、ととくに意味もなく思うきょうこのごろである。とくに意味はないんだよ!!! べつにいくひしさんが、みんなからたくさん、すごーい、まんちゃんかっこいいー、って言われないからってヘソを曲げ曲げ、ウジウジしているわけではございません。ホントだよ! ウソじゃないからね! まあね。言うてもね。ゴッホはいいですよ。死んでから評価されたわけですから。それに引き換え、いくひしさんはどう? や、とくに意味はないんですけど。にしても、絵描きさんってそういうひと多くない? そうでもない? 小説家だといくひしが知ってるのは、宮沢賢治ちゃんと伊藤計劃しゃんしか知らないのだけれども、そこに将来、郁菱万が加わる可能性は、いかほど? ない? ぜろ? まじで? 1パーもない? そっか。   なんでだーーーーー!!!! あるでしょ、そこはウソでもあるって言うとこでしょ、言えよばかーーー!!!! ってな感じできょうも変わらずの憤然とWhy not?(フィンセント・ファン・ごっこ?)、いくひしまんでした。


1646:【恥ずかしいことを言う】
いくひしは、いくひしが関わったことのあるひとたちには漏れなくしあわせになってほしいと思っているのだ。いくひしと関わったせいで不幸になったり、傷ついてほしくはないのだ。でも、それはべつに、嫌われたくないということではないのだ。いくひしは嫌われてもよいのだ。本当はよくないのだけれども、いくひしを嫌う自由は誰にでもあるのだ。それはそれとして、あいつのせいでダメになったと思われてもよいから、せめてそのあとでしあわせになってほしいのだ。つまずいたのは、うまくいかないのは、かなしいのは、くるしいのは、ぜんぶぜんぶアイツのせいだって思ってよいから、その代わりしあわせになってほしいのだ。いくひし以外にそんな感情を向けてほしくないのだ。こういう考えを誰かに伝えても、うまく伝わらないし、ふーんって感じだし、べつに不幸にもしあわせにもならないよ、だっていてもいなくても同じじゃん、みたいに思われていそうで、被害妄想かもしれないけれども、それはそれで安心はするのだけれど、ほっとするのだけれど、いくひしの気持ちはうまく伝わってないのだなぁ、と弾かれた心地になるのだ。いくひしはあなたにしあわせになってほしいのだ。やりたいことをして、目標を達成して、それをまたべつのカタチで更新しつづけてほしいのだ。でも、いくひしがどう思っていようと、あなたのしあわせはあなただけのものだから、けっきょく、いくひしが誰かをしあわせにすることも、不幸にすることもできないのだ。あなたと関わりあうこともできないのだ。哀しいようでほっとするのだ。いくひしは、そういうものになりたいのかもしれないのだ。願うばかりで役立たず。いてもいなくとも影響ない。ただただ、あなたの何かのはけ口になれれば、ほんのりとうれしく思うのだ。存在しない存在になりたい。あなただけに感じられる風のような何かに。ひなたのような何かに。影のような冷たさと静けさを宿し、星々のまたたきのようなかすかさを、この身に。


1647:【道は歩くもの、しかし、つくるものでも】
多くの人々にまずは見られるのが先決、そうでないと勝負の舞台にものぼれない、みたいな風潮が分厚く層をなしてきた現代社会であるが、そうした流れによい面もある反面、多くの者たちと繋がり、存在を認められなければ価値が生じない、という流れはなんだかひどく色褪せたものに感じられる(かつてはここに、「多くの人々」だけでなく「権力者からの認知」が加わっていた。いまでもその傾向は残っているが)。そうじゃない流れだってありますよ、との一例を示したい。或いは、示している人を見つけたい。科学の分野にはそういう人達がすくなくないように思えるものの、価値があると認められるには、やはりというべきか、多くの人々の役に立つ研究や発見がなければならない、そういった結果論が大きな流れを構築しているように見受けられる。役に立たないし、なければなくとも構わないけど、みたいなことで、なんとか証明できないかなぁ、と考えているけれど、考えているばかりではどうにもならないのだなぁ。眠ろ。


1648:【手段の一つ】
多くの人々に存在を知ってもらう、というのは目的を達成させるための手段の一つであって、目的そのものではないはずだ。なぜ大勢からの認知が必要かと言えば、本当に必要としているあなたに「それ」を届けたいからだ。「それ」の中身は人によって変わってくるが、ともかくとして、世界に散在する人々のなかから任意のあなたを見つけだす手段がないがゆえに、大勢に広めることで、あなたへと届く確率をすこしでもあげようとするのである。お金を集めたい、賛同者を集めたい、神として崇められたい、そうした動機であっても基本的には同じだ。いくら大勢に存在を知られても、お金をださないひとはださないし、賛同しないひとはしないし、いくら崇められても唯一神にはなれない。ひるがえっては、大勢に存在を知られることでかえって、本当に「それ」を必要としているひとに届かないこともあり得る。手段を優先するがあまり、目的から遠ざかることはあるのだ。たほうで、本当に「それ」を必要としている者は、案外「それ」が何かに気づいていない傾向にある(気づいていればすでに手に入れているか、もしくは手に入れようとしているはずだ。わざわざこちらから届けずとも構わない。親切のつもりで、余計なお世話となるだろう)。同じコミュニティに向けて発信してばかりいては、その気づいていない者に「それ」を届けることはできない。何かを人に届けるというのは、本来交わることのない人と人とを繋げる作業だと呼べる。何かを誰かに届けるためには、橋を渡らねばならない。繋がりのない人へと何かを届けようとするのならば、まずは自分が架け橋にならなくてはならないのだ。届けることの本質とは、橋を渡るひとにあるのではなく、その橋そのものにこそある。多くの人々に存在を知られようとするがあまり、かえってその架け橋を崩してしまい兼ねない懸念については、ときおり考えを煮詰めておくほうが、より好ましい成果に結びつくのではないか。むろん、多くの人々に存在を知ってもらうことそのものが目的ならばこの限りではないのだが。


1649:【利益をあげたいのなら】
キンドルアンリミテッド(アマゾンの電子書籍読み放題サービス)でお金を稼ぎたいひとは、電子書籍化する書籍の目次を最後のページに載せ、表紙のつぎのページ(1ページ目)にはそのリンクを貼っておくといいかもしれない。アンミリでは現状、読まれたページというよりも、開かれたページで換算されるので、たとえじっさいに読まれておらずとも最後のページが開かれれば、読了したものとして利益が配分される(違ってたらすみません)。だから目次を最後のページに載せておけば、読者が1ページ目のリンクを踏めさえすれば、たとえ本文を一文字も読まれずとも、読了されたのと同じだけの利益が手に入る。さらに言えば、目次を読みたくないひとは最初から本文が読めるし、かえってスッキリする。読者側に負担はない。ウィンウィンの関係性が成立する。いくひしはビジネスを目的としていないので実装しないが、出版社や、ビジネスとしてやっている人たちは、目次を最後のページ、1ページ目にはそのリンクを貼る労力を割いてみてはいかがでしょう。(もしくは、「はじめに」としてリンクを貼り、まえがきを最後のページに載せてもいいかもしれませんね)


1650:【売れたら】
もしいくひしがたくさんの人から注目されて、たくさんいくひしのつむいだ虚構が読まれるようになったら、郁菱万としての活動はすぐにでも辞めてしまうと思う。だから、売れたいなー、と思いつつも、売れたくないなー、と願いつつ、しずかにひっそり、好きなときに好きなだけ好きなものをつくっていたいなぁ、と望んでいる。なんて贅沢な自家撞着だろう。これだからかくれんぼはやめられない。オニなんてどこにもいないのにね。


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参照:いくひ誌。【641~650】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883601693

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