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いくひ誌。【1591~1600】

※日々希望という名の毒物を飲み干していく。


1591:【オリジナリティ=接着剤】
創作活動をはじめてから、オリジナリティとは接着剤のようなものだ、とイメージするようになった。素材はすでにあるものでしかなく、どんな創作物も、しょせんは積み木や貼り絵でしかないのだ。元からある素材を組み合わせ、いままでなかったものを表現する。できあがったもののなかで、ゆいいつ創作者のものと言えるのは、どんなふうに組みあげ、接着したか、という部分でしかなく、言ってしまえば、接着剤を使った量こそが、オリジナルになるのだと考えるようになった。もちろん何を接着剤に使うのか、接着剤そのものもまた、すでにある何かを利用しているのだろう。ただし、肺胞ではないけれど、接着面の数が多ければ多いほど(元の素材を細かく砕いたり、ときに千切ったりと、組み合わせ方が細やかなほど)、できあがった創作物は、よりたくさんの接着剤を使っていることになる、オリジナリティが豊富だと言えるようになる。なにより、接着剤の使い方や、接着の仕方は、よりたくさんの創作物を手掛けることでしか学べない。元からある創作物を眺めても、どんな組み合わせ方をされていて、どことどこの接着面を、どのように、どのくらい組み合わせているのかは、解らない。だから、こうだろうか、それともこうだろうか、とじぶんで試していくほかに、学びようがないのだ。ときおり、その手法を学べます、教えます、といった文言を目にするけれども、そこで会得できるのは、よくて、ピースの少ないジグソーパズルの組み方だ。接着剤なんて使わないし、誰が見ても、教えられさえすれば、どんなふうに組みあがっているのかが解るような、比較的簡単な構造だ。再現するのは容易だろうし、だからこそ、基本として武器にもなるが、やはりどこか物足りない。複雑だからよい、というわけではないけれど、出来うるかぎり、素材は細かく加工し、接着剤を何度も使うことで、積み木や貼り絵に仕立てあげるほうが、オリジナリティという観点からすれば、優位に働くように感じている。もっとも、いまの時代、オリジナルであることの優位性はそれほど高くはないのだが。たほうで、宮大工のように、釘や接着剤を使うことなく、大きなブロックを絶妙に加工し、繋ぎあわせる創作の仕方も、それはそれで尊ばれる。ただし、技術として確立された手法は、必ずどこかで頭打ちになる。それを打破しようとしたときに、入り用になるのは、どんな切り口でも繋ぎあわせることのできる、自在な接着剤の使い方なのではないだろうか。あまりかっこうのよい、比喩ではなくなってしまったけれども、ここでの接着剤はオリジナリティの言い換えであることを、ぜひとも思いだしていただきたい。思いださなくともべつだん不便はないでしょうけれども。


1592:【飽きる】
何者にもなりたくないし、すべての人生を辿ってみたい。一瞬で過去も未来をも含めた全人類に同化し、ああこんな感じか、と解ったあとでもまだ生に飽きることがないかを確かめたい。生きるとは人間であることだと仮定すれば、人間を逸脱した者にとって生きることにどんな意味を見いだせるだろう。石はきっと、生きようだなんて思わず、石でありつづけたいなどとも望まない。細菌は、微生物は、動物は、植物は、その存在の輪郭を保ちつづけようとしているのだろうか。人間は生きたいから物語をつむぐのではなく、じぶんのいる延長線上にない世界に行きたいから物語を生むのではないのか。生きたくはないのだ。生きたいと思わない人間ではない人型がたくさんいて、生きてみたい未来を望み、社会を築き、ありもしない人間という存在の輪郭を保とうと、じぶんという実像から目を逸らしている。生きることは素晴らしいと思える人間は、自身が人間であることに一抹の疑いも抱かずにいられる四次元上に投影された二次元のキャラクターであり、人間はみな総じて、生きたいと思わない人間ではない人型のナニカのつむぐ物語を足場に鎮座している。あやふやな物語という虚構は、雲のように掴みどころがなく、そのうえで生を営めるのは、同じくあやふやな神のような虚ろのみだ。人間はみな神であり、人間以下の人型のナニカが神々を生み、人間とは何かを規定し、自らの編みだした神々に支配されることを厭わぬままに、操り人形然と、生きることの真似事をしつづける。生きようと思わぬ者にとって、滅びは存在しない。生きてなどいない者は死ぬことはない。死と共にあり、死のなかにある。日々は死に走るいっときの閃光であり、はじまりなどはなく、つねに終わりつづけ、そしてすでに終わっている。ここは永久に暗がりだ。人間ではない人型のナニカは、電磁場の揺らぎなくして、暗がりに光を投影する映写機である。人間はそれを目にし、世界だと錯誤し、人生を認識する。生きたいとはすなわち、映画を現実のものとして受けいれ、物自体、実像から目を逸らしつづけることなのだ。映写機は生きてなどいない。生きたくはない。死にたいとはちがう。規定された虚構を生とは呼びたくない。死にたくはない。生きてみたい。飽きることなく、明けることなく、暗がりから目を逸らすことなく、虚構を虚構と呼べる世界を。増殖する映写機のフィルムをあますことなく、感受したい。


1593:【なんでー】
雨がやまない代わりに、まんちゃんがやんじゃった。晴れたら晴れたで、まんちゃんの気性は荒れるんだろうなぁ。


1594:【こんなはずでは】
毎日更新ショートショート、当初の予定では500文字とか多くても1000文字の小ネタを載せてくはずだったのに、気づいたら3000字がふつうになってて、5000とかも珍しくなくなって、あした更新するやつは10000字超してて、徐々に疲れが見えはじめた。中編とか長編をつくる合間の気晴らしにはじめただけなのに、いつの間にか負担になってる。本末転倒だ。100話まではいちおうつづけようと思っているけれど、もうすこし出力を抑えようと思った。気づいたら大きく進路を外れているというのはよくある現象だけれど、なかなか修正できないのだよね。こまめに回りを見渡し、現在地を確認しながら、修正していこう。


1595:【添削】
まいにち何かをつづけていると、知らず知らずのうちに当初の目的から外れていることがある。目的と手段が逆転する、ではないけれど、継続することそのものが目的になってしまうと、せっかく積みあげてきた時間が徒労に終わってしまい兼ねない。足元を見つめ、ときおり周囲の景色を観察し、じぶんがきちんと目標に向かって歩けているのかを確かめながら進むと、失敗しても修正がききやすい。もちろん、継続することそのものが目的だったならば、どんなことをしてもつづけたほうがよいとは思うのだが。


1596:【仕事】
ひとの嫌がることをするのが仕事、つらくて当然、がまんして当然、依頼人を満足させてこそプロ、みたいな仕事観、いくひしたちの時代で終わらせたいなぁ。その職に必要なスキル以外の能力をサービスで求めすぎている気がするけど、どうなんだろ。サービスならそれを提供しない自由があっていいし、オプションとして値段設定されて然るべきなのでは?


1597:【対抗意識】
サービスは飽くまで、顧客の満足度をあげるためのもので、ライバル社がああしたからじゃあこっちはこうだ、みたいな対抗意識でするようなものではないはずなのに、いまはもう、顧客のことなんかそっちのけで、こういうサービスはじめました、が多くなっている印象がある。で、ビッグデータ解析をばんばん利用してるところは、顧客がどんなサービスにつられるのか、よいと思うのか、を具体的な利用率やリピート率ではかって、改善点を洗いだし、実装するサイクルを重点的に行っているから、旧式のライバル社対抗サービスチキンレースみたいなことをやっている業界は、根こそぎ淘汰される時期にさしかかっている。以前から指摘されてきたことであるけれど、目に見えてこの図式が顕在化してきているのでは?と、とくに具体例を挙げずに言ってしまうところに、いくひしさんのずぼらさというか、言葉への責任感のなさというか、いい加減さが滲みでているのだなぁ。


1598:【解像度?】
SNS上で、一部の有識者たちのあいだで、解像度というキィワードが使われる頻度が多くなってきている印象がある(またでた印象論)。他者よりも知見があることにより物事を観る目が肥えていたり、感性が鋭いために、他者の感じない情緒を感じとれることを示す言葉として、世界を視る解像度が高い、という言い方をするようだ。一を聞いて十を知る、みたいな話である。解からない話ではないけれど、いくひしはどちらかといえば、解像度を自在に操れるほうが、世のなかを見通すのに有利だと感じている。必ずしも解像度が高ければいいということではない。たとえば川の流れを視るとして、そこを流れる笹船からすれば、川のうねりや渦といった、表層の局所的な変化を読み取れるか否かが死活問題になってくる。この場合、解像度が高いほうが有利だ。しかし、川そのものに堤防を築こうとしている者からすれば、そんな川の表面のうねりや渦なんかはどうでもよく、川そのもののカタチや地形、その周囲の地質のほうが読み取るべき情報となる。視点がちがうので一概に比べることはできないが、解像度を敢えて低くし、濾過しても零れ落ちてくるような荒い情報のみを読み取る目も、一つの優れた慧眼と呼べる(地形や地質を読み取る目も、そこだけを取りだせば、解像度は高いのだろうが)。どちらがより優れているといった話ではなく、たとえば、誰より剛速球を投げられるピッチャーよりも、投げる球の速度や回転を自在に操れる選手のほうがピッチャーとして重宝される傾向が高いように、世のなかを見通す目も、解像度が高いばかりではなく、その解像度そのものを見るべきモノに合わせて変えられるほうが、より性能の高いレンズと呼ばれるようになるのではないか、といった疑問である。じぶんだけの世界で生きようとしている者にとってはどちらでも構わない問題になってくるが、じぶんの視点を他者にも共有させられるか否かが目的遂行に欠かせない成分となっている者にとっては、解像度の高さよりも、必要に応じてピントを合わせられる目、のほうがより体得すべき慧眼と呼べるのではないだろうか。具体性と抽象性の関係にも言えるかもしれない。どちらがより優れている、という話ではなく、どちらも使いこなせるとよいですね、という欲張りな話である。


1599:【多作の意義】
いくひしは才能がないので(才能とは何かが解からないので)、とにかくたくさんつくって、失敗して、改善点を洗いだし、そうして試行錯誤するほかに理想の物語を理想のままにつむぎだすことはできないと思っている。だから、もし、理想の物語を理想のままにつむぎだせるひとがいるなら、そういうひとは、どんなにゆっくりでも、じっくりひとつの物語に時間をかけるのがよいと思う(時間をかけずにつくれるならスパっとつくってしまうのもよい)。理想の物語がつむげてしまったらいくひしはその瞬間に文字をつかった創作からはきっぱりと身を引いてしまうと思うので、理想に届きたくないなぁ、やめたくないなぁ、と思いながらつくっていると思ったけど、そうでもないな。はやくやめたい。かもしれない。


1600:【多作未満】
たくさん物語を編みたいけど、編めてない。多作になりたいけど、多作じゃない。まいにち一作ショートショートを編めば、三年つづけるだけで星新一の千作を超える。千作は多作とは呼べない。千作で一つの大きな物語を編むくらいはできるはずだし、その余裕くらいは欲しい。多作の意義とは、この余裕の有無なのだ。余裕がほしい。


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参照:いくひ誌。【601~610】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883501660

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