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いくひ誌。【1601~1610】

※日々かっこうをつけてばかりでクソださい、ホントはこんなにも無様なのに。


1601:【劇団いくひし】
にゃーにゃー、いくひしでござる。久しぶりでござるか? ござるな。さいきんのいくひしさんは、小説に関してはダメダメでござって、まったく身が入っておらんでござる。いまはへたっぴ期間で、物語に潜りこめずにアタフタしておるぞ。かなり焦ってきているが、まあ、のんびりやっていこうと思うのだ。すこし前につくったじぶんの中編をちらっと読んで、なにこれ?となってへこんでいるのは内緒だぞ。こういうマイナスなことを言うのは読者に失礼だとわんさか説教が飛び交っておる世のなかでござるが、まあ、いくひしには関係のないことでござる。いくひしの読者さまは、それはそれは慈悲ぶかく、神さまですらひれふすようなすばらしい人格者でござるから、こんなことでは失礼だなんて思わないのだよ。そうだろい? ところで話題は変わるのだが、ここ半年で読んだマンガの話をしてもいいかい? さいきんは演劇系のマンガがきている気がするのだが、みなのものはどう思う? 「アクタージュ」や「マチネとソワレ」や「ガラスの仮面」や「累」が話題になっている気がするのだが、いくひしだけかもしれないので、あまりつよくは言えぬでござる。「月刊少女野崎くん」にも演劇要素があるでござるな。そう言えば、いくひしの百合の伝道師は、志村貴子さんの「青い花」だったのだが、これも演劇部が舞台でござるぞ。ねむようこさんの「トラップホール」も劇団が舞台だし、いくえみ綾さんの「トーチング・エコロジー」も売れない俳優が主人公だったりと、なんだかんだ、演劇を扱った漫画には名作が多い気になるけれども、あべこべに、まったく話題にならずに消えていった数多くの演劇漫画があるのだろうなぁ、と思うと、なかなかつよくは言えないでござる。いくひしはしゃべるのが苦手というか、声をだすのがじょうずでないので、すなわち音痴でもあるので、演劇だけでなく、カラオケも、ミュージカルもダメでござる。はずかしいでござるよ。観る専門でござる。声をださない俳優を目指すならできるかもしれないな、とチャップリンの見よう見まねをしながら、あんなにかわいい動きはできないなぁ、とじぶんのスタイルのよさに見惚れてしまうでござる。怒った? いいかげんなことばかり並べてこれだからまんちゃんは、と不平の一つでも聞こえてきそうな気がするだけで、そんなことを言ってくれるひとは誰もいない。きょうも寸劇、いくひし劇団、ひとりきりでも演じます、ゆびきりげんまん、いくびしまん(IKUBISIMAN)、ローマ字にして逆から読んだら、なみしぶき(NAMISIBUKI)、舞台に舞います、はなふぶき、前口上からはじまるマジカル、ラジカル、ミュージカル、幕開き、ピエロが舞いあがる、なんもないのにパントマイムを、披露し、疲労し、拾う石、輝き、みるみる脚本を、書き換え、添削、リロードし、再演、開演、満席の、席の数は一つきり、客はあなたが一人きり、作者と読者のマンツーマンが孤独を宇宙へと拡張し、練ってこねて組みあげる、世界を舞台に、またにかけ、演じる劇はいくせんまんの、いくひし劇団、団長こと、いくひしまんが我が名でござる。せっかくだから憶えていってちょ!


1602:【世界レベル】
世界レベルの人間は、スキャン能力が異常だ。ひと目見ただけ、いちど教えてもらっただけで、彼ら彼女らは、他人の必殺技を軽々こなす。もちろん、熟練の技とは呼べないが、カタチにはなっている。あまりに造作もなく他人の真似ができるために、一流の人間にとっては会得することが報酬にならない。あくまで、できるところがスタートなのだ。立っている土台が違うというよりも、情報処理の閾値が何段階かうえに設定されているようだ。その点が、一流とその他大勢の大きな違いと言えるだろう。これはべつの言い方をすれば、できることと、体得することを明確に分けて実践しているとも言える。ただこなせるだけでは満足しないのだ。一流は、呼吸することと同じレベルで、反射的にそれがでてしまうくらいの自然体にまで、技や型を馴染ませるところを目指している。そのためには鍛練が必要であり、コストがかかる。だからこそ、何を体得するかを、常に考え、シミュレーションし、まいにちの生活のなかで取捨選択した「フルコース」を、定期的に選び直している。選ぶ素材のレパートリーは、他人から模倣した技から、自力で編みだした技まで、幅広く取り揃えてある。たいがいは、模倣と独自を融合させ、さらに洗練させた素材を、いくつも取り揃えている。食物連鎖のピラミッドのように、素材は多岐にわたりながらも、純度別にタグ付けされているのだ。そうして石油の分留さながらに、選りすぐりの素材だけを濾しとっているのかと思いきや、せっかく選抜したフルコースに、三流以下の素材を添えたりする。一流を目指す者ならまず選ばないだろう、そうした粗末な素材を添える遊び心は、あくまで元々のフルコースの質の高さがあってこそ、蛇足とならずに済む、揺るがぬ土台に添えられた花なのだ。台無しになるどころか、見栄えが衰えない、むしろ足りなかったものが補われるような画竜点睛がごとく新鮮さが加わる。一流とその他有象無象のあいだに横たわるこの深い谷を越えるのは、至難だ。遊んでばかりいては技術は磨かれず、技術ばかりを磨いていては、いざというときに大胆になれず、遊びきれずに終わってしまう。手堅く、お堅い印象を残したままに、一流にある奔放さ、自由さ、新鮮さが失われる。遊んでいながらにして技術が指数関数的に蓄積されるような一握りの人間のみが、一流と呼ばれるトップパフォーマーとなるのだろう。世界には、そうしたトップパフォーマーが、有名無名にかかわらず、ごろごろしている。本物をまえにすれば、知名度や実績などなんの役にも立たないのだと痛感する。一流とは競っても無駄だ。張りあったところで、蓄積した経験値ごと吸いとられて終わる。仮に一流と勝負をしなければならないとなったときに選ぶべき戦略は、二つしかない。負ける前に勝負を下りることが一つ。そしてもう一つは、一流が真似したいと思わないような道を極めることである。


1603:【きょうの妄言】
知的財産は、物的財産とは異なり、消費されても総量が減らない。そのため共有しても消費し尽くされることがない、という考えは、一見すれば正しく映るが、実態はそうではない。情報は劣化する。また、広く共有された情報は、あるときを境に価値が落ちる傾向にある。共有されればされるほど価値が高まっていくが、みながそれを知っていたり、飽きたりしたとたんに、急激に価値が減ってしまう。バブルような性質がつきまとう。価値の減らないように、情報の流通を制御するためには、物的財産と同様に、情報の所有者が権利を主張し、流通の度合いを制限する必要性が生じる。また、知的財産と物的財産は切り離して語ることができない。別個に扱うのではなく、相互に関係して、価値を生産している背景を鑑みて論じなくてはならない。情報の価値とは、物的財産の生産性を高めることだと規定できる。情報が無償で共有され、その結果、社会全体の財産が高まれば、それは生産性の高い選択だと評価できる。あべこべに、情報を共有した結果、物理経済が滞る方向に働くのならば、情報の共有になんらかの制限を設ける必要性がでてくる。カタチがないからといって、なんでもかでも情報は無償で共有すべき、という問題ではないし、また必ずしも、情報の所有権を尊重し、個人や組織が情報を独占できるようにすればいいという問題でもない。制限なく無償で共有することで社会全体の利益が底上げされる情報もあれば、制限しなければ経済が無法化し、円滑に回らなくなる情報もある。物的財産にもさまざまな性質のものがあるように、情報もまた、どういった価値を生むのかによって、さまざまな性質の情報に分けられる。同一の情報であっても、使用者によっては何も生まないこともあり、いっぽうではとんでもない付加価値をつけることもある。知的財産と物的財産のあいだに明確な差異などはなく、固体と気体の違いのようなものであり、どちらも人間社会を構成する欠かせない成分なのである。別個の事象として扱えはすれど、本質的にはどちらも同じものだと考える視点が、これからの成熟した情報社会では一般化されていくだろう。それにより、情報の価値が上がるのか、それとも物の価値が下がるのかは定かではないのだが。


1604:【すごい言語センス】
「暫(しばら)くおはようできねえぞ。安眠タイムだ」の言語センスは異常。ツイッター上でホージゲンマイさんが載せていた一枚絵漫画にあったセリフだ(https://pbs.twimg.com/media/Dn7sHIzVAAIrPPC.jpg)。おはようができない、というセンテンスはふつう日常で使わないし、安眠タイムだ、はそれだけ抜きだしたら、うれしい言葉だ。なのに、意訳すると、「ぶちのめす!」となるのが、すばらしい。「暫く」とつくことで、永眠させるわけじゃなく、ふたたびの目覚めが示唆されており、半殺しにしといてやるよ、みたいな慈悲がにじみでている。そこはかとないそのやさしさは、ある意味で、理性の制御下におかれた怒りであり、いっときの気の迷いではなく、明確な意思で以って「怒り」を実行しようとしている感じが伝わってくる。語感もよく、なんどでも頭のなかで繰り返したくなってしまう。――暫くおはようできねえぞ。安眠タイムだ。いくひしもこんなセリフをすらすら思いつけるようになりたい。すばらしい。


1605:【うがー!】
ものすごく! いま、ものすごくおばかな物語を摂取したい! 中身がすっかすかな、くっだらないオブくっだらなキングの物語が読みたーい!!!


1606:【ふーん】
おばかな物語? 読みたいの? 読めば? まんちゃんだったらほら、じぶんの過去作どれでも選びたい放題じゃん。中身なくてスカスカ。くっだらないオブくっだらなキングの物語ばっかでしょ。ちがう?


1607:【あのねぇ】
相手がじぶんだからってなに言っても許されると思うなよ。いくひし、おまえに言うとんねんぞ。


1608:【そっぽを向きながら】
あい!


1609:【孤独耐性】
いくひしは人並みはずれて、さびしがり屋だ。孤独耐性はそんなにつよくない。どちらかと言えば、つねに依存する何かがないと、さびしくて圧しつぶされてしまうほうだ。ただ、その依存する何かが、物理的な他者である必要がないから、客観的には、孤独が好きなんだねー、一人でいてもさびしくないんだねー、と思われるようだ。一人でいたらさびしいに決まってる。ただ、さびしいのがそんなに苦じゃないし、苦じゃないから圧しつぶされそうになる寸前まで、孤独にどっぷり浸かってしまう。気づいたときにはなんとかしないとマズい状況になっていることもあるから、そうしたときは、なんとか自力で、さびしさを誤魔化すようにする。虚構に身を投じたり、好きなことに没頭したり、さびしいというじぶんを騙したり、忘れたりすることで達成されるそれは、現実逃避ならぬ、孤独逃避だ。みんながワイワイ盛りあがっているなかで、一人だけその輪に入れないのはさびしいし、孤独だと感じる。孤独のなかでも、孤立はやっぱり慣れることはない。つよがったりはするけれど、でもできることならいくひしだって、みんなと仲良くしてみたい。ただ、みんなみたいに仲良くはできないし、努力した時点でそれはもう、孤独なのだ。ひょっとしたら仲良くしあっているみんなだって努力しているのかもしれない。いや、しているのだ。でも、その努力を孤独だとは感じないのだろう。やっぱりいくひしは、人並みはずれてさびしがり屋なのだ。努力して(孤独になって)まで他者と仲良くしたいとは思わない。


1610:【だから】
相対的に孤独のほうが好きなだけで、世界でじぶん一人きりしかいなくなったらやっぱり、ヤッホーやったぜー、とはならないし、ひと肌恋しいよー、となると思う。さびしいのだ。でも、だからといって何十億人の発する余熱のひしめく現代社会のなかで、好きこのんでみずから他者と関わろうとは思わない。だったらまだ、余熱だけを感じられる距離で、すこしだけ孤独になれる空間に身を寄せているほうが楽だ。べつの言い方をすれば、現代社会から恩恵を受けている状態で、完全な孤独になんてなれっこないのである。孤独だと言っている人間は、本当の意味での孤独ではない。本を読んでいたら孤独じゃないし、インターネットを使っていたら孤独じゃない。企業のサービスを、他者の製品を、服を、食べ物を、住居を、道路を、公共機関を使っていたら、孤独だなんてあり得ないのだ。人は、たくさんの余熱を浴びて生きている。それだけでも充分なんだけどなぁ、と思う人間がここに一人いるだけの話なのだ。さびしいから好きなことに没頭するし、さびしいから他者のつづった物語をむさぼっている。さびしくなかったらそんなことはしない。ほかに楽しいことがあったらそんなことをしないのと同じように。人は楽しければさびしくはない。楽しくないからさびしいのだ。でもときおり、楽しいさびしさもあるから、むつかしい。楽しいさびしさを味わうために、灼熱ではなく余熱だけの届く距離から、社会と関係していたいのかもしれない。灼熱は、さびしさを奪い、ときに、自ら選んだ孤独よりも深く、険しい、孤独を与えたりする。身体は真っ黒に焦げ、まるで暗がりそのものになるかのようだ。灼熱に焼かれずに、灼熱のなかに浸かっているためには、みずからも熱を発しなければならない。輝かなければならない。みなと同じように、燃えなければならないのだ。燃えたくない。されど、焦げたくもない。だから距離を置く。そういう人間がいてもよいではないか。そうじゃろ?


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参照:いくひ誌。【521~530】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883247213

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