• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【1411~1420】

※日々あなたを探し、求め、さまよう、かなたを名指し、乙女、雨乞う奇異な穴のなかに、灯せ、語ろう。


1411:【電子書籍とは?】
電子書籍とWEB小説のちがいを考える。何がどう違うのだろう? WEB小説は小説だが、電子書籍には多種多様なテキストがある。それはそうだ。しかしそういうことではない。ほかに差異はあるだろうか。どちらも紙ではなく、電子端末を用いて読む。専用のプラットホームから販売されていれば電子書籍で、WEBサイトに掲載されていればWEB小説なのだろうか? しかしながら、WEBサイト形式でも、課金型のサービスはある。プラットホームこそ違えど、サービス形態として差別化を図るのはむつかしい。一方は売買で、もう一方は課金という意味では、ビジネス上の区別はつけられる。だが、電子書籍であっても、中身のデータはいつでも書き換えができ、加筆も、改稿も可能だ。シリーズ作品を一冊にまとめたり、一冊だけ出版したあとで連載形式にすることもできる。逆に、WEB連載作品を一冊にまとめて電子書籍化するのは、もはやスタンダードな流れだと呼べる。それらを総括して、電子書籍と呼んでも差し支えないのではないか。と、いうよりも、電子書籍とWEB小説を分けて考えることに、大きな意味合いはあるのだろうか? 電子書籍は日々需要を拡大している。とはいえ、その伸び率は比較的おだやかだ。期待されていたよりも普及していない、と評価できる。ともすれば、WEB上で読めるものを、わざわざ電子書籍としてプラットホームを変えて読む必然性はないのかもしれない。さいきんでは、課金型ブログサービスが盛んだ。購読型ビジネスと言い換えてもよい。2018年現在、インターネット上には無数のテキストが無料で溢れている。何を読めばいいのか、見極めるための指標を人々は求めている。売上や読者数は、コンテンツの信用を担保する指標としてうってつけである。そのため、無料のコンテンツよりも継続して人々に購読されるコンテンツのほうが新たな需要者を獲得しやすいと言える。仮に無料で需要者を獲得したとしても、ビジネスとして考えたとき、そこからいかにマネタイズできるかはなかなか困難なものがあるため、購読されている事実は、ビジネス展開を考えるうえでは、大きなプラス評価になる。考えてもみれば、タダゆえに集まった層が、果たして同様のコンテンツに金を払うだろうか。電子から紙に変わっただけで、商品としてそれを購入するだろうか。そうは思えない。一部の熱狂的な支持者は購入するだろう。だからといって、商品化したので無料公開はやめます、という選択は、もろ刃の剣のように思われる。なぜなら、タダであっても需要者を獲得できないコンテンツはいくらでもあるからだ。タダだから集まったのならば、それはそのまま広告塔として維持したほうが将来的に継続してコンテンツの鮮度を保つのに一役買う。目先の利益のために、本来得られたはずの未来の需要者を手放すのは利口ではない。しかし、前述したとおり、無料公開してあるコンテンツに対価を払う需要者はかぎられる。ならばどうやって収益化するのかが焦点となる。付加価値をつけるのが定石ではある。書籍化もある意味では、分かりやすい付加価値だ。データでしかなかったテキストを物理的なモノとして商品化する。そのとき人は、中身のデータではなく、本という物体に対価を払っている。しかし実態がどうであれ、そう捉える需要者は稀だ。じっさいには、中身のデータに魅力を感じ、対価を払っていると思いこんでいる。本にお金を払う動機を、本はデータではないから、という意味合い以上に求めることはむつかしい。需要者が求めているのはデータの安定化である。言い換えれば、消失せずに済む、という安心感を需要者は購入動機にしている。だがそれも、インターネット内のサービス向上に伴い、データのままでも本と同程度の安定性が保たれるようになる。それこそクラウドが普及し、データは多重にかつ階層的に保護されるようになる。どこかで失われても、どこかで復元できるのだ。もちろん現状は、まだそこまでの発展はみせていないが、遠からずそうした社会が到来する。そのとき、本であることの付加価値は、本であること、以外には失われる。アンティークのようなものである。本は、もはや読むものではなくなるのだ。話を戻そう。データとしてのテキストは、コンテンツとしてどのように商品化すべきか。付加価値をつける、それはそうである。付加価値をつくるには、大きく分けて三つある。一つは、共通の話題である。ブランド化の一種でもあるが、好きな話を誰かとできるというのは、それだけで現代では大きな価値を生みだす。流行ではない。好きだから好きなのだ。しかしその好きという感情にもいくつか種類がある。好奇心、崇拝、同調である。そしてビジネスを展開するうえでこれからもっとも重要度の高くなる「好き」の成分は、同調である。同調は自己愛の一種である。多くの者はそれを共感という言い方をするが、共感の場合、その主体は自分ではなく相手にある。反面、同調は自分ありきなのだ。己がうちに秘めたフェチズムや抑圧された欲求など、本来ひた隠しにされてきたものを、他者の創作物に反映させ、承認され得るものとして昇華されるからこそ、「好き」という感情を抱くのである。それはけっして、共感などではない。一種の権威主義とも言える。偉人の名言や、バズったツイートに、自身の言いたいことを代弁させるのは、同調の典型的な例と言えよう。コンテンツを好意的に認める賛同者が多いほど、同調は効果的に働く。そのため、売れるから売れる、といった相乗効果を生む。同調は、これからの時代、ますますコンテンツを売るために欠かせない成分となっていく。付加価値をつくるには、の二つ目である。土俵化だ。基本的にビジネスには競合相手がいる。同じような商品を出し合い、切磋琢磨し、市場を開拓していく。熟した市場ではヌシとも呼べる生え抜きの大御所が牛耳っていることもしばしばだ。新たに参入するには、市場そのものを掻きみだし、いちど初期化するくらいのことをしないとヌシと渡りあうのは至難だと言えよう。競合相手が多い市場をレッドオーシャンと表現することもある。その逆はブルーオーシャンで、これは競争相手がすくない市場を示す。ただし、なぜすくないのか、には大別して二つあり、収益がすくないか、もしくは参入するのに膨大なコストがかかるか、のいずれかである。或いはその両方とも考えられるが、傾向としてハイリスクである確率が高い。同時に、市場がすでにできあがっているのならば、ブルーオーシャンであっても競合相手はいるのだ。ほかの市場に比べ、すくないだけである。たとえすくなくとも、その競合相手が強大であれば、競えば競うだけ苦労するはめになる。ゆえに、付加価値をつくりたければ、端から競争相手のいない場を独自に築きあげるのが効果的だ。相手の土俵で勝負するから負けの判定をくだされ、ときに低く評価される。したがって価値がつかない。負のサイクルが生じる。だがもし、誰も自分の土俵にあがってこられない、或いはあがってきたとしても負けることのない何かを有しているのであれば、それは新たな土俵をつくるための礎となる。誰かと競争しつづけ、負けつづけているとき、人は無意識に相手に合わせようとしている。いっぽうで、相手に合わせることのできるあなたに、相手は合わせたりはしないのだ。一見不利に映るが、ここには互換性が見え隠れする。すなわち、あなたのほうが上位互換なのだ。あなたは相手の土俵に立てるが、相手はこちらの土俵に立ってはいない。立とうとすらしていないかもしれない。ならばあなたのすべきことは、相手の土俵で勝負することではなく、じぶんの土俵を築きあげることである。むろん、単に技術が未熟なだけな場合もある。相手の土俵でどうしても勝ちあがりたければ、そうした工夫を重ねていくほうが効果的だ。なにより、納得のいく生き方ができるだろう。だがもし、何か違和感を覚え、窮屈さを感じているのならば、いっそのこと他人がこぞってあがりたくなるような土俵をつくってしまうほうが、遠回りなようでいちばん近道であるかも分からない。そこはやってみなければ判断のつかないことである。ともあれ、自分だけの土俵が築けたのならば、それは大きな付加価値となる。コンテンツをつくるのではなく、市場そのものをつくりあげる。これは最終的な目標として、ビジネスの成功を目指す者ならばいつでも視野に入れておいて損はないと言える考え方である。誰より自分に優位な環境を築きあげた者を、人は勝者と呼ぶのである。勝ち星の多さではないのだ。最後に、付加価値をつくるため、の三つ目である。発現だ。これは一つ目と二つ目の、同調と土俵化の延長線上にあると言える。主流を根こそぎ、変えてしまうほどの何かを以って、コンテンツのウリとする考え方である。たとえば現在は評価経済が主流となりつつある。SNS上の評価や、アナリティクス上で解析できる数値が、ビジネスを推進させるうえで欠かせないデータとなっている。どのような層からどのように支持されているか、売れているか、がコンテンツを商品化するうえで大きな指標となっているのだ。だが、そうした数値に現れないヒット作もある。否、数値には現れるだろう。計測していなかったか、或いは着目していなかったか、の違いがあるだけだ。そうした無視されている数値の動き、時代の変化を見据え、主流ではないコンテンツを発掘し、世に放つ、その行為そのものが、大きな付加価値となる。つまり、どう売りにだすか、が要なのだ。評価経済が主流のいま、まったくノーマークだったコンテンツが、記録的なヒットを飛ばした、或いは一部の需要者に熱狂的に支持されたとしよう。そうすると、本来ターゲットではなかった層、それこそ、コンテンツを商品に加工する業界人たちの注目が集まる。ノウハウをウリにしているわけでもないのにも拘わらず、コンテンツの売れた過程が、そのまま大きな付加価値、ウリになるのだ。なぜ売れたのか、と疑問視されるような売り方ができれば、それだけで付加価値として申し分ない効果が期待できる。そしてじつは、同調や土俵化よりも、この発現がもっとも操作しやすい。仕掛けを施す余地がある、と言い換えてもいい。ピタゴラスイッチのようなものである。同調や土俵化は運の要素がつよい。ほとんど博打であり、なぜ売れたのかを分析してもあまり意味がない。ゆえに、発現の付加価値は増すのである。再現性があるからだ。炎上商法然り、無料ビジネス然り。世の中には、なぜそれで成功するのか、と目をみはるノウハウが溢れている。一般化しない理由はもちろんあるだろう。リスクが高い、コストがかかる、権力者の支援がなければ実地できない、など、理由はさまざまだ。そのなかでも、時代の変遷に伴い、かつては悪手だった手法が、最善手になることもある。逆張りという意味ではない。ぴったり隙間なく並べられた正方形も、一つのブロックが歪むだけで、隙間ができる。そこに棒を挿しこみ、テコの原理を働かせれば、堅牢な壁も打ち破ることができる。以前は棒の入りこむ余地がなかった鉄壁も、時代が進めば、打開できるようになるのだ。打開策を編みだすには、歪みに敏感であるとよい。時代の変化を見逃さぬように、日々、さまざまな事象を観測していることが、ビジネスを成功に導くうえで優位に働く。歪みの兆候は、成功よりも失敗に現れる。これまでであれば成功していたはずのプロジェクトが、なぜか今回はうまくいかなかった。要因を見出しても、運以外の要素を見出せない。そうしたとき、本質的な因子は、時代の変遷にあるのかもしれない。だとすればチャンスである。どうすれば、これまでのノウハウを打破できるのかと考えを巡らせ、仕掛けを施し、布石を打っては、導火線に火を点けるタイミングを見計らう。火がつき、発現するのは、新たな時代を築きあげる新しいコンテンツと、それに伴い膨張する付加価値である。話をまとめよう。付加価値をつくるには、同調、土俵化、発現を意識するとよい。そのために、まずは時代の変遷に目を配っておくと好ましい。目安として、電子書籍とWEB小説の区別がなくなる方向に時代がシフトするか否かが、見ておいて損はない基準の一つになるのではないだろうか。


1412:【ルーティン】
セブンのホットドッグがすき、いくひしまんです! やー、いくひし、新幹線に乗るときは「おっとっと」を買って、ぱりぽりするのがすきなんですけど、めったに新幹線には乗らないので、「おっとっと」を食べる機会がない、すきなのに。はい。みなさんもうお分かりですね。書くことない日です。なんもなーい。まじで。うっすい人生だなーおいって、おせんべえに言われても、ぐぬぬってなってしまう。いくひしの本質はツイッターのほうなのでね。ほんと、なんもしゃべんない。いるのかいないのかもわかんない。距離感つかめない。好きになったひとにほどきらわれる。なんでや! いくひし、こんなすきなのに!!! 愛が重いって言われる前に、距離を置かれるかなしきサガを背負ったいくひしさん、こよいはギター片手に歌います。ぽろろん、ぽろろん、と鳴らすだけで弾けるわけでもないけれど。恥ずかしいので、鼻歌に変更しつつ、そのまま口笛に移行してから、なにごともなかったようにギターを置きます。音痴です。カラオケとか行ったことない。はずかしい。聴いてるだけならいいかもだけど、だれも誘ってくれないので、行ったことがない。さびしい。くは、ない。さびしくはない。ぜんぜん。まったく。これっぽっちも。さびしくなんてないんだからな!!! うそじゃないから、ほんとだから!!! えーん。わけもなく泣きたくなる、そんな蒸し暑い夜は、薄めたコーヒーが喉の奥に染みいるようだ。つまり胃に流れこみ、小腸を通過し、大腸で吸収されるという意味だ。薄めたコーヒーと麦茶の区別をつけるのは至難でござる。目をつむったら判らない。難問でござい。ほんと書くことないけど、こんな幼稚園児の積み木コツコツみたいな判子遊びなら延々並べていられるけれども、さすがに読みたくはないだろう。たぶんに駄文な寡聞にして聞いたこともないしっちゃかめっちゃか、ぴんぽろ、ぱんぽろ、つんつるてん、メロディーラインもリズムもくそもない、ぶんぶくちゃがまのストーリーもあいまいなままに脳神経の焼かれたサイボーグのダベった文字列を並べるリスのブラインドタッチは目隠しをしたまま、みたいな文章を、いったい誰が読むだろう。やや。そこまでいくとかえって読んでみたくもなるふしぎに不気味に無意義さを、あむあむ、くちゃくちゃ、噛みしめつつ、ある程度の秩序を保ったテキストの、そこはかとなく漂う、偽物感が、いい具合に、荒んだ心を逆なでする。シャー! 猫パンチを食らいつつ、鬼のパンツはなぜいいパンツなのかを哲学し、眠る夜はやっぱり蒸し暑く、なかなか寝付けないこんなときには、目をつむり、まぶたのうらに浮かぶあれやこれやの幾何学模様を、つれづれと追いかけ、描き、つむがれる絵巻物に、そいやと夢の判を捺してしまえば、起きたままにして眠ったままに、生きる、うつつを、あすのじぶんに小さく説き、できあがる物をつらつらと語って聞かせてみせれば、あらぐうぜん、それがつぎの新作に駄作に与作は木を切り、ヘイヘイホー、読む者がいれば小説となるってぇスッポンよ。いちど噛んだら離さない。愛が重いと言われて距離を置かれる哀しきサーカスの道化でござる。日々はその繰りかえし。ルーティン。それは無と陰。在るものによってかたちづくられる虚像。視る者によって規定される幻のようなもの。ルーティン。それは有と因。消え、ついえ、滅びたあとの結果に現れる名称。概念。無数にありふれる、存在しない存在の一つである。なにが?


1413:【ムリして】
まんちゃ~ん、ムリしてかわいこぶらなくっていいよ~、かわいくないから~~。


1414:【ホントは】
カッコイイおとこキャラってどうやるの! いくひしもカッコつけたいんですけど!怒怒怒


1415:【イケメンの定義】
イケメンとはカッコいい人間を示す。性別は男性のほうが多いが、女性であってもイケメンはいる。キャラクターとしてイケメンを描く手法は、二通りある。イケメンではない人間をイケメンのように描くか、イケメンをイケメンとして描くかの違いだ。まず前提として、イケメンとは一人では成立しない概念である。関係性なのだ。相対的でもあるが、そういう意味ではない。他人からの称賛の声があって初めてイケメンはイケメンとなる。つまり、何をイケメンとするかは、周囲の反応によって確定されるのだ。まるで粒子のような性質を帯びている。周囲からイケメン扱いされていないキャラを、読者にだけイケメンであるかのように描ければ、じつはそれがいちばん魅力的なイケメンになる。言い換えれば、いくら作中内で彼はイケメンですよ、と書いたところで、読者はかんたんに騙されてはくれない。脳内で、これまで蓄積されてきたイケメンのイメージを重ねてはくれるが、それ以上の好感を生むことはできない。つまり、初恋のあの人を忘れられないの、の心理を打ち破らないことには、魅力的なキャラクターを描くことはできないのだ。新しく刻印づけるためには、イケメンでないキャラを読者に惚れさせるように工夫するのがよい。イケメンの定義を塗り替えるのである。同時に、ある程度はイケメンというイメージだけで、好感度をあげることは可能だという事実の裏返しでもある。そもそもを言えば、読者は作者が何も書かないうちから、キャラクターを美化して想像する傾向にある。読書のつよみはまさにそこにこそあると言ってもそこまで言いすぎではないだろう。多少はやや言い過ぎ感はあるにしても。冒頭の話に戻すが、イケメンはそれ単品でイケメンであるわけではない。周囲に、そのキャラクターを魅力的だと捉える人物がいてはじめてイケメンはイケメンたり得る。極端な話、イケメンはキャラを立てる必要がないのだ。しゃべらせる必要もない。むしろ、イケメンは、しゃべればしゃべるほど俗っぽくなり、イケメンの枠組みからはみだす性質を有している。謎めいているほうがよいのだ。すなわち、距離感が断絶しているほうがイケメン度は高くなる。話は逸れるが、人形の造形が人間にちかづくと、人形への好感度はあがっていくが、ある値以上に似てくるとこんどは一転して不気味に感じるという現象がある。不気味の谷と呼ばれるものだ。同様に、イケメンの場合も、人間味を持たせ、なんだアイツもふつうの人間か、と思わせることで一時的にイケメン度は下がっていくが、親近感がある一定の値よりも上回るとこんどは、単なるイケメンではなく、憧れの対象でもなく、恋い焦がれるあのひとへと昇華される。そして、これはスタート地点こそたがえど、誰もがその工程を得て、誰かの特別な人間になっていくことを示唆する。むしろ、イケメンのほうが工程が一段階多い分、対等な恋愛関係に発展させるのはむつかしいとも呼べる。あなたが恋愛下手なのはひょっとするとあなたがイケメンだからかもしれない。なんて、読者の都合のよい現実を演出するとすこしだけ本を読まれるようになるが、これは詐欺というよりもマインドコントロールにちかく、端的に刷りこみである。むろん作者にその意思はないかもしれないが、すくなくとも、あなたの感情を揺さぶろうとあの手この手で文章を組み合わせている。呪文のようなものである。イケメンと書かれていようが、あなたにとってイケメンではないのならば、それはイケメンではない。なんだこんなやつ、と思いながら、最終的に作者の手のひらのうえで踊り、翻弄され、イケメンでないキャラクターに惚れてしまえばよろしかろう。


1416:【老獪】
歳をとるほど狡猾になるのは、体力面では若い者に勝てないからである。これは技術力にも言えることで、体力のあるうちはガムシャラに勢いに任せたり、数打ちゃ当たる戦法が有効になるが、そうもいかなくなってくると、少ない回数で当たりを引く技術を持っていたほうが有利になる。すでにある正解を再利用するほうがラクなのは言うまでもない。なにより、これから引くことになる新しい正解よりも、すでにある正解のほうが数が多く、応用がきく。歳をとると頭が固くなる要因の一つでもあるが、負けないための正攻法とも呼べるため、一概にわるいことばかりではない。裏から言えば、そうした狡猾さを身に着けた者ほど、特定の業界や生業で長生きする傾向にあるため、概観すると、歳をとるほど人は頭が固く、老獪になると見做されやすくなるのだろう。生存バイアスと呼ばれるものだ。


1417:【体力オバケ】
文芸とは関係のない話だ。いくひしの周りにはがんばり屋さんが多い。体力おばけもいっぱいいる。いくひしなんか下の下の下のさらにしただ。何を比べても、尻から数えたほうが早い。すごいひとが多すぎる。ただそんななかでも、いくひしは細々とつづけている。いくひしよりずっとすごいひとがやめていくなかで、いくひしだけはつづけていたりする。環境のせいかもしれない。都心と比べればあまりよろしくない環境があるが、それでもいくひしはつづけている。長くつづければつづけるだけ、したのコたちが成長し、どんどん実力を抜かれていく。うえを見れば、いくひしよりすごいひとしか残っていない。いくひしの居場所はどん底にしかない。そういう状況がずっとつづいている。同じ業界でなくともそうだ。親族にしても、みんなすごい。いくひしよりすごくないひとが一人もいない。さすがに赤ちゃんよりはすごいでしょーと思われるかもしれない。でもその赤ちゃんのほうがすごいのだ。というよりも、赤ちゃんはのきなみ、おとなよりすごい。中学生ですら、いくひしよりすごい。人と比べるものではないが、それにしても自信を持つのがむつかしい人生である。かといってそれほど自信がほしいとは思わない。お手本がたくさんで、じつに贅沢な人生である。(すごいひとたちがどれくらいすごいかを言うといくひしまですごいのではないか、と思われそうなので、どのくらいすごいかは敢えて濁しました)


1418:【生存戦略】
目指すものによって、何を得るべきかをつど考えていかねばならない。目標を達成するために、敢えて目標を達成しない選択が有効になるときもある。負けないために、勝たないという選択だ。好きなことを好きなようにやった結果、すぐに力尽きてしまうこともある。そういう生き方もあっていいが、目標を達成したあとのことまで考えておかないと、そのあとにどのように日々を過ごすのか、生き方を見失うはめになる。すくなくとも、つぎの目標を探す手間はかかるだろう。手段と目的が入れ替わってしまうのはよくある話で、それはそれで問題であるが、目的達成を優先するがあまり、それ自体をつづけられなくなってしまっては意味がないのではないか。じぶんが本当にしたいことを、周期的に、自分自身に問い詰めてみると、不本意な引退をせずに済むかもしれない。再起不能になってまで成し遂げたいことがあるのならば話はべつであるが。


1419:【上から目線】
いくひしはよく上から目線で文章を並べる。俯瞰的な視野を保つと、しぜんと上から目線になる。なにもふしぎなことはない。ただし、飛んだところで鳥は鳥だし、ブタはブタだ。ブタが飛べば、トンでもないから、ブタではない、といった屁理屈は聞きたくない。夜に飛ぶのはコウモリではないか、といった野次も極めてバッドなので、ここではトリ扱わないでおく。


1420:【上昇】
上達の基本は、のぼることを諦めることである。くだらないことをしつづけないことには、のぼりつづけることはできない。図に乗ろうとするから堕落する。欲を張らず、くだらないようにするだけでじゅうぶんなのである。


______
参照:いくひ誌。【91~100】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881352770

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する