※日々人を人だと思えなくなる、動かすゆびの気持ちわるさよ、宿った器の馴染まなさよ。
1401:【敢えて外す】
理論化された表現に興味がない。方向性として、こうしたほうが受動者に伝わりやすいという技術はたしかにある。しかしそれを基準にしてしまうと表現としての魅力が根こそぎ枯れてしまう。たとえば宮崎駿はもののけ姫で、迫力を演出するために、遠近法を強いて崩す手法をとった。遠近法という技術を捨て、敢えて「あり得ない情景」を描いたのだ。もののけ姫ことサンがエボシと対峙するとき、彼女たちを取り巻く群衆を、じっさいよりも大きく描いた。見たままを描く、感じたままを描く。表現とは、人間というフィルターを通した情景であり、情景そのものではない。理論化された表現に興味がない。理論化しようと足掻きつつも、技術として途上であるくらいがちょうどよい。未熟であればいいという意味ではない。どこを目指しているのかの違いである。
1402:【はぁ~ん?】
違いである、じゃないっしょ。マンちゃんまたこじらせちゃったの? いいかげんにしてほしいわー。あんさー、あんたことし入ってから何本投げだしたままの小説あるって、数えてみー? さっさと閉じて、渾身の一作つくりなよ。ホントかっこつけるのだけはおじょうずね。いかにも作家っぽいわー。偉そうなこと並べるだけのステキなお仕事ね。
1403:【言ってやるなよ】
放っておいてやれよ、ギリギリなんだろ色々とよ。発作みてぇなもんだから、こういうときゃ、さすが、さすがって、オクスリ代わりに頭でも撫でときゃいいんだ。んな図星さすようなことばっか言ってっと、いじけてまた引きこもっちまうぞ。部屋にって意味じゃねぇからな、言葉交わせなくなって困るのは俺らだ、そろそろ扱い方くらい学ぼうや。なぁ。おめぇもそう思うだろ?
1404:【思いますけど】
放置するって意見には賛成ですけど、そうやって言わなくてもいいことをわざわざ聞こえよがしに言うのはいただけないというか、なんというか。心配なのはわかりますけど、言い方のほうは改善の余地があると思いますけどね。ただでさえいくひしさんは繊細と言いますか、めんどくさい性格をされていますから。あ、今のはみなさんの真似です。他意はありません。
1405:【なんなん】
うがーーー、なんもー、みんなして。いじめ反対! 正論ダメ、ぜったい!!! きずつくでしょ! っていうか、なんか一人増えてるんですけどー!!!
1406:【鼻につく】
自分の株をあげるために、他人のミスをつつく人間がこのごろ目につくようになった。出版関係者にももちろんいる。ヘイトやクソリプがどうこうと批判しながら、同じ口で、文面上奇妙に映るつぶやきを拾ってきては、誰に頼まれるでもなく、正論をかかげ、一刀両断する。相手から見えないようにすればまだしも、わざわざ訂正や謝罪の反応を欲する。さぞかし気持ちのよいことだろう。そうでなければ、する意味がわからない。こうしていくひしが俎上にあげているのも、気持ちがよいからである。一周回って気持ちわるい。醜悪であると呼べよう。ここ半年にわたって、SNS上では、気に食わない相手をブロックすることが推奨されはじめてきている。必要に迫られる場面もあるだろう。言葉の通じない相手には相応の対処が必要だ。しかしながら、なんでもかでも、遮断してしまえばいい、という問題ではない。個人にそういった価値観が根付けば、個人の集合体である社会にまでそうした価値判断が反映され、当然そうあるべき常識としてまかり通るようになる。相手を拒み、遮断し、拒絶することで解決する問題がどれほどあるだろう。見なければいい、蓋をすればいい、そういうことではないのだ、とみな周囲を見渡し、異を唱えていながらにして、自身にふりかかった嫌悪感には耐えられないようである。組織と個人の分別がつけられるのならば、それでいいだろう。だが歴史を省みれば、個人の悪習はそのまま組織の腐敗を招くと断じて、過言ではない。ともすればすでに、物理社会とネット上での振る舞いは分けられない段階にまで、インターネットは我々の社会に浸透しているのやもしれない。だとすれば、物理社会で行えない所作は、ネット上でも行うべきではない、行わないほうが損をしない社会が到来しつつあるのかも分からない。義憤を振りかざす者も、相手への礼儀をわきまえない者も、相手の存在をなき者として扱うことに抵抗がなくなりつつある社会もまた、一時の流行り病のようなものなのかもしれない。そうであることを祈りたいものである(祈ってどうなるものとも思えないが)。
1407:【癪に障る】
礼儀知らずが何か言ってら。一生引きこもって、鏡と仲良くダベってな。いくひし、おまえのことだぞ。
1408:【反省】
さいきんちょっとつよい言葉を使いすぎですよね。語気が荒いというか。ごめんなさい。
1409:【疲れた】
先週から体力がガクっと落ちて、なんだかなーという日々だ。かといって元気百倍いくひしまん!みたいになってても、なんだかなーという日々であるのに変わりはなく、なんだかんだ、なんだかなーという日々である。疲れた。何もせずとも生きるというのは疲れる。疲れを感じないでいられる方法もあるだろう。疲れを凌駕するほど、脳内の報酬系を活性化させればよいのだ。ドラッグに頼らずとも、好きなことをしたり、人に認められたり、望んだ成果があがったり、欲しかったものを手に入れたり、好いた相手と交流したり、子猫を撫でたり、赤子を抱いたり、気に入らない相手の人生を損なったり、弱者をいたぶったり、強者に絶望を植えつけたり、才能で同業者をぶん殴ったり、意のままに他者を操ったり、安全圏から他者の成果物を値踏みして悦に浸ったり、そういうことをしているだけで人間は疲れを感じずに日々を過ごせる。ひるがえっては、それらから距離を置くと、人は疲れる。注意したいのは、必ずしも逆説は成り立たない点である。どういう状況であれ、疲れるときは疲れる。極論、独裁者だって疲れるのだ。生きているかぎり人は疲れるようにできている。かといって疲れるために生きているわけではないだろう。人は食べたら排泄するように、生きれば疲れるのだ。排泄するために物を口にするわけではないのと同じように、疲れるために生きるわけではない。排泄物は水に流し、疲れたら休めばいい。むろん、休むために生きているわけでもないが、休みのない日々は、もはや人の生とは呼べないだろう。すくなくとも呼びたくはない。疲れたら休み、人の生と呼ぶにふさわしい日々にしていこうではないか。なんだかイイことを言ったような気がしてきたところで、2018年7月8日分の「いくひ誌。」を終えようと思う。ちなみにきのうは7月7日だった。ここで一句もどきのライムを詠み、ときどき、折を見て希望を持ち、人生にchillがいるのがアルタイル、とくに疲れたのは妻ベガさ、またの名を、織の姫、彦の星と申しそうらう。そうだろう、きのうは七夕、伊能は忠敬、天の川を越え、地図をえがき、名が残る歴史に、まさに棚ボタ、疲労を蓄積するのはただのバカ、まずは休まな、と叫ぶババァはベガの母方。夜のとばり、王よ永久に、眠れとささやく姫の横顔、まるで輝く稲の穂とハト。純白のつばさをひるがえし、飛び去る平と和を、ヘイトらの津波が荒らさぬようにと、願う短冊を裏返し、刻む名を探さねばと魔が差せば、気がつけば、望みはのきなみじぶんのことばかり、お黙り、とのたまく声はここに留まり、こまり、目をつむり、振り払う我執と邪念のワルツを、ヤメ!の合図もなく、見つめもせず、延々と、ただ眺めつづける陰々滅々まっただなかの夜をみなは七夕と呼ぶ。
1410:【一周年】
あと二週間ほどすると、自作小説を電子書籍化して一周年になります。7月21日ですね。一年のあいだで、いただいた評価が五段階評価で★一個というのは、なかなか痺れるものがあります。伝説の序章として申し分ない。けれどもいくひしは、ゴッホよりもピカソのような生き方を目指したいのだ。ゴッホはやだー。死んでから認められたって意味がなーい。死んだら評価されると思ってるところがいくひしまんちゃんの愛すべき傲慢さです。ただまあ、絵そのものだと、いくひしはピカソよりもゴッホのほうが好きです。サムネイルで見たとき、それこそ小さな画面で見ても、ゴッホの絵はすぐに、あゴッホだ、と判るのがすごい。凄みが薄れない。色合いがつぶれない。デザインとして優れていると思います。よくわかんないけど。あと、遠近法が伝来する以前の日本絵画が好きです。浮世絵というか、屏風絵みたいなやつです。これは私見ですが、あれってじっと一点から眺めるためのものではなく、歩きながら観るためのものなんじゃないか、と個人的には疑っています。歩きながら観ると、立体的に浮きあがって見えてくるんですよ、ウソみたいに。だまし絵っぽいと言えばそうなんですね。記憶があいまいですが、おそらく毛越寺宝物館で拝見した絵がそういったタイプの作品だったように思います。展示コーナーの入口に飾ってありました。ほかの展示品には目もくれず、ひたすらそれだけを眺めていました。みんなこれに気づいているのかなー、と気になって仕方がなかったのですが、けっきょく誰にも訊けずじまいでした。目にする機会があれば、ホントかよ、と疑り深ーい目で、あたたかく確かめてみてください。ただし、毛越寺宝物館である保証はありません。記憶力の乏しい、いくひしまんでした。
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参照:いくひ誌。【651~660】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883739704