ネット小説の〝需要〟って、なんだ?

 老若男女プロアマ問わず。
 ベテラン作家も執筆を始めたばかりの素人も、誰もが同じフィールドで殴り合うという蠱毒めいた戦場、小説投稿サイト。

 そんな厳しい世界で〝勝利〟――ある程度の評価・感想といった慎ましやかなものだとしても――を掴もうとすると、必然、こんな二択が思い浮かぶかもしれません。

 A:ウケそうなもの、需要のありそうなものを書く
 B:それでも自分の書きたいものを書く

 現実問題として、コンテストでの入賞や書籍化といった大きな目標どころか、多少なり目に見える評価が欲しいというささやかな願いですら、前者のスタイルでないと得られないように感じるかもしれません。
 好きに書いて評価されれば一番だけど、実際には難しい、と。

 ですが、改めて考えると謎じゃありませんか?

 そもそも、ネット小説における〝ウケそうなもの、需要〟ってなんなのでしょう?
 ただ流行りを追っていればいいのでしょうか?


 まずは結論から。

 私は、流行りやテンプレを意識しても、そこに〝需要(読者が求めるもの)〟があるとは感じていません。
 むしろ、〝考えてもあまり意味がないもの〟と捉えています。

 というのも、いまネット小説にあるのは、

・『読みやすさ(わかりやすさ)』
・『フック(話の引きの強さ)』

 この二点のバランスだけだと思うからです。

 これを突き詰め、最適化した結果として生まれるのが、流行りやテンプレ。
 〝需要〟があるから形ができたというより、最適化した結果、より多く読まれるようになるという認識ですね。

 どんなジャンルがいいか、どんな設定やキャラクターがウケるのか、といった要素もろもろも、結局はこの2点に集約されます。

 おそらく多くの方が感じているとおり、作品の質や面白さは、評価(ポイント)の度合いに必ずしも影響しません。
 いえ、語弊を恐れずはっきり言ってしまえば、作品の質は〝誤差〟程度の存在でしかない。

 ネット小説というのは、例えるならファストフードや駄菓子のようなものだと思います。
 求められるのは栄養ではなく、手軽さや食べ応え、コスパ。
 もちろん、より美味しく質が高いに越したことはありませんし、なかには本格的な料理――作品も含まれていますが、主流ではないはずです。

 現実にそうしたものを食べるとき、味(質)だけを真剣に吟味する、なんてまずないのと同じように。
 その場でいろいろ目移りしたり、気分によって変えたり。同じ価格帯ならば、土壇場で店やメニューを変える、なんてこともよくあると思います。

 ネット小説の〝需要〟も、その程度ではないかな、と。

 手軽でわかりやすく、なにかしらの引きがあれば、手に取るものがその場でころりと変わる不確かなもの。
 なぜそれにしたのか、選んだ本人ですらはっきりとはわからない、というケースも多いのではないでしょうか。

 だから考えても無駄、とまでは言いません。
 ただ、需要を気にしても〝正解〟は得られないと思うのです。ましてや、『ウケそうなものを書こう』と思ってる時点で、他者の後追いでしかないのですから。

 作者としての〝手応え〟をそこに求めてしまうのは危うい、と思っています。


 せっかくなので、もう少し深く考えてみましょう。

 そもそも、ネット小説におけるウケそうなもの、流行りやテンプレとはどんなものなのか?

 異世界もの? 主人公最強無双チートでハーレム? 成り上がりにざまぁ? 悪役令嬢もの? ゲームなどフィクション内への転生・転移? あるいはラブコメ、勘違いものやスローライフ?

 いずれも、ランキングで見ない日はありませんね。たしかな人気があるように思えます。

 とはいえ、押さえておきたい点があります。
 いま挙げたジャンルや要素はいずれも、最近になって急に生まれた新しい流行りではない、という点です。


 たとえば異世界ものです。

 いまや食傷ぎみという方も多そうな、流行りを超えて供給過剰な感すらある巨大ジャンルですが、突然湧いてきた新興ジャンルというわけではありません。
 むしろ、長い歴史を持つ、昔からの定番とも言えるでしょう。

 遡れば、洋服ダンスの向こうはべつの世界だった――という【ナルニア国物語/1950年】や、本のなかにべつの世界があった――という【はてしない物語/1979年】も立派な異世界ものです。

【はてしない物語】なんて、いまでいうゲーム内転生・転移の先駆けぽいですよね。
 本のなかにべつの世界があり、危機に陥ったそこから〝勇者〟として呼ばれ、飛び込んでみれば謎多き美少女から最強無双チートをもらい、仲間とともに冒険に出る……なんて、いかにもじゃないですか。

 もっとも、原作を読まれた方ならご存知の通り、そんな単純で浅い話だったとしたら名作とは呼ばれないでしょう。
 借り物の力でイキって好き放題していた主人公にやがて訪れる大きな代償、大事なものを見失ってしまったツケを自分自身で支払う終盤の悲壮さとそこからの再生は、いまだ色褪せない感動があります。

 そこまで遡らなくとも、80~90年代の日本のアニメや漫画などにも多数の異世界ものがあったのを、当時から現役であった三十代以降の〝オタク〟な方であればよくご存知かと思います。

 これは異世界ものに限りません。

 ざまぁ的な復讐譚なんて、もう神話の時代まで古く遡れちゃいますよね。
 日本の時代劇などでも、まだ白黒フィルムだったころからずっと定番の〝仇討ち〟も同種でしょうし。
【巌窟王(モンテ・クリスト伯)/1844年】なんて、今風に仕立て直すだけでもネット小説としてふつうにウケそうです。

 ともあれ、異世界ものだけでなく、主人公最強も無双もチートも成り上がりもざまぁもスローライフも、かなり前から(少なくとも90年代ごろにはひと通り)あったわけです。
 どれも一時的な流行り廃りではなく、あとに続く人たちがいたからこそ認知され、定着した。

 上で述べた通り、いま挙げたジャンルや要素というのは、どれも長い時間をかけて作り上げられたものではないでしょうか。


 テンプレ、という表現があります。

 このテンプレとはつまり、上記のような以前から人気のあるジャンルや要素を、ネット小説向けに最適化したもの、と捉えています。

 小説投稿サイトという場所で、いまできる限り読んでもらうためにどうすればいいか、試行錯誤と調整を重ねた結果、残った〝型〟。

 そりゃウケるに決まってますし、実際メリットも大きいのですよね。

 もし私が、テンプレのメリットはなにかと問われれば、まずこう答えます。

――『情報を圧縮できること』

 〝型〟とはつまり、前提や土台の共有です。

 たとえば、『勇者と魔王』。
 ほかにも『悪役令嬢』に『婚約破棄』、『NTR』や『ざまぁ』。
 もうこれだけで、立場や関係性、状況がほんのり見えてきますよね。それそのものについて長々と説明する必要がない。

 書き手の方なら身をもって体験されたかと思いますが、この〝説明〟というやつが難敵なんですよね。特に基本的な情報量の多い作品とか。
 不必要に長いのもよくないし、かといって説明しなさすぎてもマズい。

「むしろ説明描写書くのがすき!」という方もいるでしょうけど、「俺が書きたいのは説明じゃなくてストーリーなんだよ!」となる場合も多いかと思います。

 テンプレはそこを圧縮し、あらすじやキャッチコピーでわかりやすくアピールできる。
 まだ経験が浅く、小説そのものに不慣れな作者さんはもちろん、ベテラン作家さんでも恩恵はデカいでしょう。

 ネガティブな意味で使われることも多いテンプレですが、これがあるからこそ、テンプレ崩し――お約束を逆手に取ったカウンター的作品や、さまざまなバリエーションの派生といった個性豊かな作品も生まれるわけです。

 このテンプレをお題とした一種の大喜利、私は大好きです。
 これこそネット小説の醍醐味、ネット小説でしかなしえない魅力のひとつじゃないかと。


 さて、じゃあ異世界テンプレを書けばウケるかというと、さにあらず。

 実際に挑戦された方ならよくご存知の通り、人気ジャンルほど競争も激しく、思ったように読んでもらえないという方がほとんどでしょう。
 異世界テンプレに限らず、マイナージャンルよりかは流行りに乗ったほうが読まれるとか、エロは強いとかいう声も聞きますけども、それほど単純ではありませんよね。
(エロがあっても読まれないやつは読まれないよ!)

 実のところ。
 いま現在のネット小説投稿サイトは、上で述べてきた〝最適化〟が進みすぎて、異世界ものが人気みたいな、単純なジャンル人気すらも通り越している感があります。

 冒頭で挙げたこの二点、

・『読みやすさ(わかりやすさ)』
・『フック(話の引きの強さ)』

 これが、本来ならあるはずの〝需要(読者が求めるもの)〟や作品の質よりも、もっと重要で支配的なパラメーターになってしまっているのですよね。

 いやそれが面白いってことだろ、と思われるかもしれませんが、作品の質(面白さ)には他にもいろんな要素や種類があるはずなんですよ。
 なのに、上の二点だけが突出して、これがなければ同じスタート地点にすら立てないという前提条件と化してしまっているんです。

 面白いストーリーも、魅力的なキャラも、〝いま〟〝ネット小説投稿サイトという場所で〟、そう感じてもらえるように最適化しないと、ろくに読んですらもらえない。

 たとえば、テンプレとは言い難い個性ある内容でありながらランキング上位に来ている作品などは、内容そのものは画一的でなくとも、文体や構成などがネット小説向けに最適化されている場合がほとんどです。

 ほかにも、これはちょっと批判めいた表現になってしまいますけども、最初の引きだけ強くてあとは尻すぼみ、みたいな出オチ感漂う作品に高評価が入るのも、いまのネット小説ならではと言えるでしょう。

 私は、それが悪いこととは思いません。
 長文あらすじ系タイトルなども含め、投稿サイトという場所に最適化しようとすると、自然とそうなるよなあと納得できるからです。

 ただ、書き手にとって厳しい世界なのは間違いありません。



 とはいえ。

 最適化だけで語れるほど単純な世界でないのも事実です。

 安定してヒット作を連発する人気作家さんを見ていると、最適化の技術が高いのに加えて、もうひとつ重要な要素を持っているように見えます。

 それが、書き手としての個性――作風や性癖といった言葉に置き換えてもいいです。

 ネット小説では、作者ではなく作品にファンが付く、たとえ書籍化作家でもランキングに入らない作品では見向きもされない……みたいな話も聞きますが、最適化を突き詰めた先にあるのは、むしろ逆の現象だと思っています。

 最適化すればするほど、横並びになればなるほど、わずかな〝色〟の違いが目につく。
 ほんのちょっとの彩りが、際立って見える。

 私は、これこそ、ネット小説の作者としてもっとも重要な要素だと考えています。


 たとえば性癖。

 最近では本来と違った意味でも使われるこの言葉、〝性癖が歪む、歪んだ〟なんて表現で使われたりしますよね。

 でもこれ、本当に〝強い〟作品は、触れた人の性癖を歪めるどころじゃないんです。

〝性癖をぶち抜いてくる〟んですよ。

 それまで興味がなかったどころか、苦手意識すら持っていたジャンルや表現を、『これいいじゃん! すき!!!!』と、まるっと反転させてしまう力がある。

 というのは滅多にないにしても、濃厚な〝癖〟は、たとえ全体のたった1パーセント程度の微量でも、匂い立つような存在感があるんですよね。

 作者の立場でいえば、狙ってできるものではないと思います。作風にしても、すぐに確立できるようなものではないでしょう。

 ただ、『これが好きなんだ』という自信を持つことはできるはずです。

 自分の〝癖〟に、読者の〝癖〟を揺さぶる力がある、と信じること。
 自分自身や自分の作品は信じられなくても、込められた〝癖〟は信じること。

 このへん、書き方によっては自己啓発めいてアレな響きが出てしまいますけども、実際に大事なところじゃないかな、と。

 ウケそうなもの・需要を狙って書くのもいいでしょう。
 自分の書きたいものを書くのもいいでしょう。

 でもその前に。
 作品にこめた、こめようとしている〝(性)癖〟をどれだけ強く信じているか、一度自問してみるのもいいかもしれません。

 いち読者から見て、作者の〝最適化〟は信頼できない面があります。結果としてそうなった、という理詰めの行動だからです。

 でも、個性や(性)癖は信頼できる。

 この信頼は、書き手として得難い財産になるはずです(もちろん〝癖〟も変わりうるものですが、たとえ中身が変わっても狂い方が同じであれば、コアな読み手はきっとついてきてくれるはず)。
 なんて、言うほど簡単ではありませんが、個性や〝(性)癖〟というもうひとつの軸が軸足となったとき、創作投稿サイトという苛烈な戦場とどう向き合うのがよいのか、自分に合ったスタイルがおのずと見えてくるのではと思います。








 最後に。

 これまで触れなかった、もうひとつの選択肢。

 A:ウケそうなもの、需要のありそうなものを書く
 B:それでも自分の書きたいものを書く

 の、B。

 言葉を憚らずに言えば、これは大きな自己欺瞞ではないでしょうか。

 だって、本当に自分の書きたいものを書くだけなら、ネットで公開する必要なんてないのですから。

 自分ひとりで書いて、楽しんで、どうしても読み手が欲しいなら周りの人に見てもらう程度でもいいはずです。
 自分の書きたいものを、書きたいように書く。このシンプルな創作に、投稿サイトなんて戦場は必要ありません。

 でも、実際には多くの人が利用し、作者として活動している。
 そこには〝欲〟があるはずです。

 見てほしい、読んでほしい、評価してほしい、褒めてほしい。

 そうした欲求は人として自然なものですし、あって当たり前だと思います。

 同時に。
 ごく自然で当たり前だからこそ、〝書きたいものを書く〟という選択、思いが、自分の欲をごまかしたり薄めたりするための方便に使われるとしたら、あまり良いものとは思えません。

 自分の作品を気に入ってくれた人だけ読んでくれればいい?
 もしそうだとしたら、読者の数を気にしなくてもいいはずですし、投稿サイトじゃなくてもいいのでは?


 創作活動って、正気に戻ったら負けみたいなとこありますよね。
 一種の狂気とか幻覚とか衝動に身を任せてないとやってらんねーぜ! みたいな。

 自然とそうなれる、ある種の耐性を持った方ならいいんですよ。
 心配なのは、自覚や耐性がないまま創作沼に沈みつつある(ように見える)人です。

 たくさんの人に自作を見てもらえるって、うれしいですよね?
 褒めてもらったり、評価入れてもらうのって、飛び上がるぐらい喜んじゃいますよね?
 書籍化してもらえるかもって、夢がありますよね?

 こういった喜びや期待が深ければ深いほど、自分を縛る〝呪い〟も深くなるので。

 狂気でも正気でも自分を見失わない、べつの軸を持っておくって大事だよな、と最近は特に思うわけです。
 なんにしても、いま創作・表現に励まれている方々すべてに幸あれと願うばかりです。











 * * *












 とまあ、いまだに自作ひとつ公開せずぐだぐだ創作論めいた長文お気持ち的ななにかを近況ノートに書き殴るやつがいるらしいですよ?
 というか今回書き終わって文字数見たらクソ長くてわらう。もしここまで読んでくれた人いたらありがとう、そしてごめんなさい。

 いや、うん……実はふつうにいろいろ書いてるんだけど、いまだに書き溜めてる最中だったり、カクヨムさんには投稿できないやつだったりするので。文字数だけなら50万文字は書いてるのに現状ここで公開できるものがなにもないという。
 べつのとこで公開するやつがひと段落するまで、こっちはずっとこのまんまぽいかも。


 ついでなのでひとつ愚痴。

 なんか企画名だけで笑っちゃうようなキャンペーン始まりましたけど。
 サポーターズギフトは早く匿名で贈れるようにしてほしいなーと、そっちのほうが先だろって思っちゃうんですよね。

 だって、名前出るの嫌じゃないですか?

 推しに認知されたくない的なやつもありますけど、私みたいに読者でもあるけど作者でもある(ここにはまだなにもないけどネット上に自作を載っけてるという意味で!)という人の場合。
 サポーターになってギフトを贈るという行為が、〝お返し〟を期待してるように見えてしまうかもしれない、という懸念や不安が真っ先に出てくるんですよね。

 作者が実際にどう受け止めるかが問題じゃなくて、そう見えかねない、受け取られかねない、というのが大きなハードルなんです。

 名前なんて出なくていいんですよ。
 いち個人として認識されたくもないんです。

 このへん、いまのシステムは本当にわかってないというか、推すほうの心理もっと汲み取ってくれよ! と言いたくなるところですね。

 作者によってはカクヨム外で、ほかに投げ銭的なもの受け付けてる方もいるので、私なんかはそっちで投げたりしてます。
 完全匿名で推しに直接お金投げつけるの気持ちいいんだよなあほんと!

 とはいえ、カクヨムさんのサポーターズパスというサービスそのものはとても良いものだと思います。
 応援したいからこそ、そのへんも応えてくれたらなあと期待しています。

 まあもっと言うなら、ロイヤルティとかサポーターとかの前に、誤字報告機能と小説内の画像投稿機能がほしいですけどね!

2件のコメント

  • 衝撃の目覚め。
    ん?近況ノートにブクマやフォローはないのか…
  • 三寿木 春さま、ありがとうございます。

    もうひとつのコメントと合わせ、こんな壁打ち長文でも、ほんの少しであれ響くものがありましたら書き手冥利に尽きます。

    そういえば近況ノートにブクマ的なものはありませんね……いえ、まあ、本来そういった使い方をする場所じゃないということなのでしょうけども。
    作者としてはお気持ちフォローをいただけるだけでありがたく、大変恐縮です。
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